継続の連鎖

継続し連鎖してゆくものを明確に理解出来ない者は魂(霊魂.霊体)という主宰的.実存的.永遠的な存在を錯覚したり輪廻を否定するのだが、魂(霊魂.霊体)という主宰的.実存的.永遠的な存在が無くとも生命(心的エネルギー)は別の何かにその形態を変えながら継続して行くのである。魂(霊魂.霊体)という主宰的.実存的.永遠的なものは無いので五つの要素の集まり(五蘊)に依って生起している感覚・記憶・思考はこの肉体の死に伴って消滅するものであり、生命(心的エネルギー)の性質(運動性)である形成力とも言われる業(カルマ)を宿して輪廻転生して行くのである。
☆魂(霊魂.霊体)などと言う自我意識の永遠性は否定し、それでも生命は流れゆく事を釈迦尊(ブッダ)は説かれた。
●梵因真如 
☆梵(ブラフマ)とは根源的エネルギー 
☆真如とは在るがままの絶対安定的性質.状態を言う           
☆我とはこの場合、不安定性を原因条件として安定化を目的として形成される全物質を指す (梵我一如)        
この宇宙とは絶対安定世界に発生する梵(根源エネルギー)の絶対安定性(真如)が局所的な揺らぎ(インフレーション)による不安定性の発生により安定状態へと戻ろうとする真如性(梵性)の途方もない膨張運動の途上にある閉ざされた空間に他ならず、膨張の途上に於いて物質的構成要素の形成により変化.成長.生滅の時間的概念が生じ、時空(宇宙)における生命とは途方もない膨張の途上の空間に於いて離合集散するエネルギーにより形成されるあらゆる物質的構成要素の形質的変化(進化)の次元を超越した生命構成要素として進化した存在であり、進化した生命体が絶対安定状態へと戻る事が成仏であり、一時的安定性及び不安定性により成り立つ宇宙という閉ざされた世界には存在することが出来ない存在であり絶対安定世界へと戻る生命エネルギーを成仏と呼ぶのであり、死ぬ事を成仏と捉え呼び習わす観念は宗となる教え(宗教)を歪めた信仰集団による作為的な思想の洗脳(染能)によって為されたのであり、例え改心することのなかった悪人でも、欲望の命ずるままに享楽的に生きようとも、自我の妄想に随って自分に拘り自分に囚われ自己中心的に他の生命への労りや配慮を欠き自分勝手に生きようとも、得体の知れない神仏や超越的な力に対して従順に信心し義務とされる事を果たせば成仏する事が出来、従順に信心せず義務を果たさない人間は業報を被り地獄に堕ちると言う非現実的な本質的には反仏教思想に由来するのであり、自らをの教説を稲米や石蜜に譬え、釈迦尊(ブッダ)の至上なる御教えを粟や稗の如き雑穀だと罵りながらも釈迦尊(ブッダ)の権威を拠り処としながら、権威主義的メンタリティ障害や思考停滞などの無明の闇に覆われた人々を惑わし、人々が目覚め乗り越えて、妄迷から解き放たれた自由な心で真理(真実)を顕現させ真理の光明に照らし出され真に幸せな存在となる道を阻んでいるのである           
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法句経(ダンマパタ)
「人々は多いが彼岸に達する人は少ない
他の多くの人々は彼方の岸の上(迷界)彷徨っているそして再び激しい流れ(輪廻)を繰り返す」                 
継続の輪(再生)という現実的である生命の自然循環法則(自然法)を、得体の知れないものへの信仰の広まりに伴って非現実的な観念として捉えられるようになってしまっているのだか、天国の門は狭くその門を通る人は少ないと耶蘇教でも説かれるように、仏教でも成仏を果たす人は少なく、多くの人々は輪廻と言う激しい流れを繰り返している事が説かれていて、安易に成仏を金財で売買するが如き中国仏教思想は金財搾取の為に編み出された邪説であると言わざるを得ず、継続の輪(輪廻と再生)とは真理法則である自然循環法であり、今という瞬間も、前の消滅瞬間の運動性を条件として次の生起を条件付けながら継続して生きているであり、二つの連続する瞬間を同一の状態で在り続ける固定的・実体的な存在はないのですが人間の持つ感知能力は実はそれらの微細な変化を捉える事が苦手であり、固定的・実体的な自分と言う存在が在ると錯覚して自我(ア-トマ・魂・霊魂・霊体)などを妄想する   魂・霊魂・霊体といった主宰的・実体的な物など存在せず、無我(アナッタ)な本質であり自分と言う五つの集合要素(五蘊)の運動性・形成力である業(カルマ)が継続してゆくとは、それは業(カルマ)によって形成される性質・運動性・意識(潜在概念)が継続されてゆく事に他ならないのです。
先ず結論から述べれば、人は意識こそが自分だと錯覚している、その意識が錯覚する自分が、主宰的で本質的な魂とか霊魂・霊体を妄想させるのです。
だから継続(輪廻)する魂や霊体が有るのか無いのかという話になり信じるか信じないかと言う無明な次元に繋がり、又、浅薄な人達の手を経て電報ゲームの如く「この一度きりの人生」という真実が「一度きりの人生」と似て非なる無知な解釈に摩り替えられ、釈迦尊(ブッダ)の教えの根幹をなす継続の輪(輪廻)の否定へと繋げているが、継続の輪(輪廻)とは何かと言えば意識形成力の連鎖であり心的エネルギーの性質の連鎖であり、現代科学で言う処のエネルギー保存の法則に則ったエネルギーの連続運動なのである。
意識とは五集合要素(五蘊)による刺激の感受に対する感覚の形成から、感覚に対する記憶に基づいた感情(衝動)の形成から、感情(衝動)に基づいた意識(概念)の形成であり、肉体(色蘊)感受機能(受蘊)記憶機能(想蘊)は五集合要素の分解により失われるが、業(カルマ.行蘊)は次の何かと結びつき集合要素を形成する事により形成意識(識蘊)は連鎖して行くのである。
西洋的信仰宗教は、科学の進歩に随って否定され続けているが、真正な仏教は科学の進歩に随って却って証明され続けていて、無常しかり、無我しかり、ドゥッカ(苦.痛み.不安定など)という本質しかり、不増不減しかり、エネルギーによりこの世界は成り立っているという事実しかり、心的エネルギーが別の何かに成り続けてゆく継続運動性しかり、エネルギーのエントロピーによる劣化により連鎖する進化の流れを繰り返す継続の輪(輪廻)も証明されているにも関わらず、皆があの世へ行って成仏するなどという中国的・迷信的・信仰的・倒錯的な観念が無明からの目覚め(覚醒)を阻んでいる。
自分とは何かと言えば五集合要素(五蘊)に他なりませんが、継続してゆく自分とは何かと言えば、それは心的エネルギーの性質(カルマ・行蘊)であり継続する運動性に他なりません。
つまり意識こそ自分だと錯覚する人達から見れば、自分でもあり自分でもないエネルギーの継続運動が継続の輪(輪廻)なのです。
ではそれは今の自分とは別者なのかと言えば、今も感受した感覚と記憶などを条件として意識の形成力である心的エネルギー(カルマ・行蘊)の性質によって自分の意識を生じさせている意識形成の継続は明らかに次の貴方でもあり貴方でもないと言える。
人は三世(過去世・現世・来世)に亘る因果律(縁起)に遵った業(カルマ・精神形成の性質)を携え、無知(無明)を因縁(縁起)により条件付けられて生まれてきています。
未だ多くの人達は無明(無知)の闇の中で盲目的に、魂や霊魂・霊体など主宰的な存在を信じて疑わず、意識こそが実存を担保していると錯覚して無我の実相を理解することが出来ず、魂が継続し輪廻するものだと思っています。また魂や霊魂・霊体などを否定する人であっても、魂がないという事は継続して行くものがないのだからと、継続の輪(輪廻)も否定されると考えるのですが、生きている今も、毎々日々、瞬間々々私達は変化生滅しながら存在している事実は、見方を変えれば既に継続しているのであり輪廻の途上にあり、意識についても魂など無くても五つの要素の集合(五蘊)の機能により意識を結び想念を生じさせている。
この継続は五集合要素(五蘊)の結合を解かれた後も続き、因果律に遵って連鎖してゆくものだという事実を深い洞察力と神通力の働きにより如実に知見し見透す,勝儀諦の到達による六神通の三明(宿命通・天眼通・漏尽通)と輪廻転生の法力によるのです。
私とは何かと尋ねられたら「私とは五つの要素のあつまり(五蘊)であり、仮の姿、仮体的存在である」と私は答えます。
そして意識とは、この相互に依存しあう五つの心的要素と身体的要素が集合して「五蘊」として機能する時、私という概念を錯覚し主宰的な実体としての魂・霊魂・霊体などを妄想してしまうのである
ひとつの機能に過ぎない意識とは外部刺激または内部刺激を条件として瞬間的に発生した泡みたいな物なのに捉われ拘り継続させるのは記憶と執着(渇望)による、故に刺激情報がない処には意識は生起しないのである。煩悩(渇望)の欲への執着により再生存・再生成の意図の形成力を生み、貪欲と結び付いて、継続の輪(輪廻)という激流を因果律(縁起)に遵って流れ続ける。
死によって意識や記憶は継続しない、それは五つの要素の集まり(五蘊)による機能として生じているものであり、死という集合(結合)が解かれれば各要素は機能しない。しかし煩悩(渇望)に条件付けられた存在への執着の意図(業・カルマ)は、死によって継続の輪(輪廻)から断ち切られない。
業(カルマ・精神形成の性質・意図、衝動要素)こそ心的エネルギー(心的要素)が内包する性質であり、生存している今も五集合要素として機能し心的要素の性質を条件として意識(潜在概念)を生じているように、死によって次に別の(微生物から人間までの進化の連鎖の因果律に遵った依存関係性による)何かとして新たな母胎に宿り再誕(再生存)しても業(カルマ・精神形成の性質・行蘊)を条件として結ぶ意識(潜在概念)は継続してゆくのである。
この大宇宙(現象世界)とはドゥッカ(不安定さによる苦)によって存在する世界であり、全ての存在が不安定を本質とする変化生滅している世界であって、実存的・実相的・絶対安定なものは存在出来ない世界なのである。
すべての存在は一時的な安定状態か不安定状態にあり、不安定性の安定性へと向かう運動によって成り立っている。
時空に於いて、宇宙が膨張を続けるのも、銀河や惑星や全ての物質を構成する原子や素粒子までもが核を中心として周っているのも、全ての物質及び時空の根元であるエネルギーの運動も不安定状態の安定化運動に他ならない。
心的エネルギーも同様であり、不安定な本質により業(カルマ)という精神形成の性質・意図の形成力を帯び、継続の輪(輪廻)を繰り返している。
この心的エネルギーの不安定性を堅固な絶対的安定へと浄化させたものが涅槃(ニルバーナ)であり、それは実存的であり、実相的であり、この大宇宙が揺らぎ(不安定さの発生)により生じる前の絶対安定世界への帰還を意味する。故にこの世界に於いて「再び母親の母胎に宿る事はない」のである。
仏教は輪廻転生という業報思想を説き、輪廻転生とは生物が死んだ後、つまり肉体が滅んだ後に於いても、その生物は別の生命形態に何度も何度も無限に近い時間を人間を含む生物へと生まれ替わり死に替わりを繰り返す事をいう。
また、輪廻転生をするその生物達(衆生)は天界・人間界・修羅界・畜生界・餓鬼界・地獄界の六つに区分された生命層の間を何度も何度も生まれ替わり死に替わりを繰り返す。これを六道輪廻と呼びます。
天界とは快楽、喜びに満ちた恵まれた境涯を表し、人間界とは人間の境涯、修羅界とは争いに明け暮れる境涯、畜生界とは家畜や動物の世界、餓鬼界とは常に餓えや乾きに苦しむ境涯、地獄界とは大きな試練と悩み苦しみ、激しい痛みに苦しむ境涯をいう。
仏教の経典、阿含経(あごんぎょう)パーリ仏典(増支部経典)において説かれるところによると生物は天界、人間界に生まれ変わることはごく稀であり、極めて少ないとも説かれ、地獄界、餓鬼界、畜生界に限りなく生まれ変わり人間界へと辿りつくのです。
また人間界以外の仏道修行が出来ない境涯や、快楽、悦楽に酔いしれて真理の探究を省みない天界よりも人間界に生まれる事の方が特別に貴重な果報であると説かれ釈迦尊も最終的には人間界にお生まれになり人間界において修行を完成しブッダ(如来)に成られました。
あらゆる生物のなかの最高の段階、世界を救済する仏陀としての段階に到達する可能性があるのは人間として生まれた時のみであるから、人間こそある意味ではあらゆる神々よりも尊いというのが仏教の思想のなかで重要なものである。仏陀に成るためには、神々でさえも天界から下って人間として生まれ変わらなければならず、人間の身でなければ最高の叡智を得て、最高の完成に至ることが出来ない。この意味において仏教では人間として生まれる事が何よりも尊く、貴重な財宝であるとされる。そして人間にとっては神々に生まれる事が良き道(善趣)と呼ばれるように、神々にとっては人間に生まれるのが良い(道)と呼ばれるのは興味深いことであり、これを読み解くには仏教とは妄想的な物事や観念を乗り越えた現実主義的な教えである事を忘れてはならず、仏教では神々の意味を読み解けば仏教に対し理解・支援・応援してくれる天界(豊かで恵まれた境遇)の人々を神々と呼ぶのであり、地獄とは妄想された世界ではなく地上や地底に現存しているのである。
また仏教では輪廻転生の本質は苦であると説きます。そして仏教の最終目標はその輪廻転生からの脱出、二度と輪廻転生しない事、その境地をニルヴァーナまたは涅槃(ねはん)に入るともいいます。阿含経に「梵行(ぼんぎょう)已(すで)に立ち、所作(しょさ)已(すで)に為し、自(みずか)ら後生(ごう)を受けざるを知る。」という経文がありますが輪廻転生を超越した境涯に至ったことを表す教説です。そのニルヴァーナの境地に至る為に仏道修行があります。その修行を完成した存在を仏陀ブッダ)とお呼び致します。
 修行を完成し仏陀に成られた釈迦尊仏陀としての最高の悟りを開く直前における非常に深い瞑想中において無量無数の生き物達がそれぞれの業、それぞれのカルマに応じて無限に近い膨大な時間、無量無数とも例えられる程の回数、生き替わり死に替わりを繰り返している情景をその超越的透視力で実際に透視した釈迦尊の体験が仏典(阿含経)に説かれ以下は釈迦尊自身の瞑想の体験談である。     
「このように 私(釈尊)は四神足(修行法、瞑想法)が修練され豊かにされたときに、、種々なる過去の生涯を想い起こした。すなわち一つの生涯、二つの生涯、三つの生涯、四つの生涯、五つの生涯、十の生涯、二十の生涯、三十の生涯、四十の生涯、五十の生涯、百の生涯、千の生涯、百千の生涯を、また幾多の宇宙成立期、幾多の宇宙破壊期、幾多の宇宙成立破壊期を。」「我はそこにおいて、これこれの名であり、これこれの姓であり、これこれのカースト(階級)であり、これこれの食を取り、これこれの苦楽を感受し、これこれの死にかたをした。そこで死んでから、かしこに生まれた。このように形や名称とともに種々なる過去の生涯を想い起こしたのである。」
「このように 私(釈尊)は四神足(修行法、瞑想法)が修練され豊かにされたときに、清浄で超越的な天眼をもって、もろもろの生存者が死に、また生まれるのを見た。すなわち卑賤なるものと高貴なるもの、美しいものと醜いもの、幸福なものと不幸なもの、そしてもろもろの生存者がそれぞれの業に従っているのを明らかに知った。実にこれらの生存者は身に悪行を行い、言葉に悪行を行い、心に悪行を行い、もろもろの聖者をそしり、誤った見解を抱き、誤った見解にもとずく行為を行う。かれらは身体が破壊して死んだ後に悪しき所、堕ちた所、地獄に生まれた。また他のこれらの生存者は、身に善行を行い、言葉に善行を行い、心に善行を行い、諸々の聖者をそしらず、正しい見解にもとずく行為を行う。かれらは身体が破壊して死んだ後、善い所、天の世界に生まれた。このように清浄で超人的な天眼をもって、もろもろの生存者が死に、また生まれるのを見た。すなわち卑賤なるものと高貴なるもの、美しいものと醜いもの、幸福なものと不幸なもの、そしてもろもろの生存者がそれぞれの業に従っているのを明らかに知った。」
また、インドの古代文献であるウパニシャッド(奥義書)には悟りを得たときには過去の生涯を明らかに思い起こすという思想がある。ジャイナ教においても修行者が悟りを開いたときには世界、神々、人間、悪魔のありさま、彼らがどこから出てきてどこへ行くか、という詳しい姿を見透したという。
しかし、このような超人的な瞑想体験が出来る人間はほとんど皆無といっていいほど稀であるとされるが、釈迦尊はこの修行法だけで仏陀に成られたのではなく釈迦尊自身の過去世からの無量無数ともいうべき積徳の行為、功徳を積んだ行為より生じた福徳の力、福力により仏陀に成る事が出来たとされる。仏教では福力成仏という言葉があり、また舎利禮門という経典にも万徳円満、釈迦如来という言葉がある、つまり万(よろず)の徳全ての徳が完全に備わっている釈迦如来という意味であるが成道には大きな徳が必要とされ、単なる瞑想法や仏教の教理の勉強や理解だけではブッダになることが出来ないとされる。ある古代仏教の修行法の体系を仔細に検討してみると、悪行為を止め、善行為を行う、つまり倫理の実践、道徳の実践、徳を積む修行法の比重が非常に高い事に気づかされる。
さらにまた、ここで説かれる業報思想のことを表す。  業報思想とは業(カルマ)という生命エネルギーの形成力.性質.運動性により身体、言葉、心において行った行為に応じて未来、または死後においてその行為に応じた報い(形成力.性質.運動性)に則した処へと転生してゆくという思想。
自業自得という言葉があるが、つまり善い行いをする者は未来、または現世でなければ死後においてその善い行為に応じた善い報い、幸せな報いを自分自身が受ける。また悪しき行いをした者はその悪しき行いに応じた悪しき報い、不幸な報いを未来、または現世でなければ死後において自分自身が受けるという因果律であり、善因善果・悪因悪果の法則、因果の法則ともいう。
善い行為とは、例えば、殺される運命にある生き物の命を助ける、困っている生き物を助ける、苦しんでいる生き物を助ける、病人の世話をする、老いた両親の世話をする、人々に殺生や盗みなどの悪いことをさせないように教える、道徳的に生きる、慈悲の心をもつこと、思いやりの心をもつこと、また他の人にそのように教え導く。正しい仏教を多くの人々に広めることなどをいう。
悪い行為とは生き物を殺す、人の物を盗む、生き物を苦しめる、人を苦しめる。人に迷惑をかける、うそをつき人をだます行為、また他にそのように仕向ける行為、邪淫、間違った思想、世の中にとって有害な考え方を世の中に広めること,怒り、恨み、憎しみの心を持つこと、自惚れ、慢心の心を持つことなどをいう。
具体的かつ詳細な善悪の基準、判断は仏典を参照しなければならない。
仏典について言うとスッタニパータ(集経)はお釈迦様のお説きになられた言行録として最も古い経典のひとつであると学問的に認められており、また法句経(ダンマパダ)は世界的に有名な経説であり世界各国に翻訳もされている。
   
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【継続の輪の形成力】
身口意の三業(カルマ)
●身業=行ない ●口業=言葉 ●意業=考え
悪業 ]
身=殺傷・盗み・淫行
口=嘘・二枚舌・誹謗中傷・綺語(心にもないお世辞)・猥語(下品な言葉)
意=貪欲.瞋恚(激しい怒り).痴愚(無明.愚かな考え)・悪意図・不善処
 ※不善処
〇貪欲  (ローバ)  
煩悩(生存欲)による必要以上の欲得への貪り六処(眼耳鼻舌身意)により得た情報を肯定する貪り           
〇邪見(ディッティ)間違った考え方にしがみつき縛られる心               
〇 慢   (マーナ)     自我の概念を基準に他と比べたり計ったりする心  自惚れ  
〇瞋恚 (ドーサ)   煩悩(生存欲)による必要以上の欲得への激しい怒り 
六処(眼耳鼻舌身意)により得た情報を拒否する怒り心 
嫉妬(イッサー)   嫉み、自分に無いものが他人には有る事への怒り
〇 慳  (マッチャリヤ) 物惜しみ・吝嗇、自分に拘り、捉われ、自分のものを 
 他人へ分け与えるのは否やだという怒り・愛着 
〇痴愚(モーハ)  根源的には生存欲、不平不満・無知迷妄、物事の真実面に気付けない現象の因果関係や無常を理解出来ない 
〇無慚(アヒリカ)  恥を知らない心
〇無愧(アノッタッパ)罪悪感欠如・畏怖を知らない心
〇掉挙(ウッダッチャ) 落ち着きのない心、混乱状態の心
〇悪作(クックチャー) 心を陰方向に導く消極的な心、後悔、後ろ向きな心  
怠け心、挫け心、悔やみ心、挫折心
昏沈(ティーナ) 心の活力を弱くするはたらき、無気力
〇  疑   (ヴィチキッチャ) 心の進歩を止めるような懐疑、無明な疑い
〇  渇           
心の渇き.決して満たされない欲望への執着
〇  愛         
無意識に自己中心に情報を選択する盲目的衝動
〇自我欲      
 諸欲への執着 自分の都合ばかりを優先するエゴ
[ 善業 ]
四無量心(慈悲喜捨)の考え、言葉、行ないの三結
●業(カルマ・精神形成の性質・衝動)を条件として結んでいる潜在概念(意識)までは、微生物からワンちゃん猫ちゃん・おサルさんまで同じように結んでいるいるのであり、人類は高度に進化し発達させた脳機能(新皮質の連合野)など表層思考域(知能思考域)で思考を加えてゴチャゴチャと言語化させているのであり、これら進化し発達させた能力を獲得するに随って、物事の全体性を分断させ固定化させる思考方法で認識し、在るがままの現実の認識と世界の在るがままの全体把握や、自然の在るがままの理解力を劣化させてしまったとも言えるのである。
これは外部刺激・内部刺激を条件として感受(感覚)し記憶や経験と業(精神形成の性質)を条件として感知(感情)し主観という概念意識(潜在域)を生じる、
表層思考域で知能(理性)による客観的に思考した場合、想像や空想へと洞察へと入ってゆくのだが、主観により感情的思考をしていると雑念的になり妄想(自我の感情で自分勝手な自分に都合よい幻想)へと陥ってゆくのである。
この継続の輪(輪廻)から遁れるも、善い処に生まれるも煩悩の執着からの解放度であり、エネルギーである心的要素の性質(業・カルマ・形成力)であり、人として生まれる為の第一の道とは、微生物から人類までの連鎖の継続を幾万回幾億回と捕食の関係性(縁起)の上に辿ってくるか、第二の道とは分解層→生産層→共存型消費層→消費層→雑食層→人類と言う階層の依り上位へと生まれる心的要素(エネルギー)の性質(業・カルマ・精神形成の性質)を浄化(高め清め磨き深め輝かす)してゆくか、自我の妄想によるエゴを乗り越え(超越)するか真実に目覚め(超越)し人間として善い母胎に宿るか、第三の道とは誕生により条件付けられた無明(無知)という盲目的な闇を晴らし光明により照らし出された真理・叡智により自ずからのあらゆる束縛(自縄自縛・妄縄自縛)から解き放たれ(解放)、解脱へと向かい善い母胎に宿り人として再誕するか、世俗諦(有学道・悟り)を達成し、勝儀諦(無学道・大悟)へ到達し、あらゆる神通力を顕現させ、この世界(現象世界)を遁れ、涅槃(絶対安定世界)に成仏する三種の道と涅槃への道があるのです。
●渇き・渇望・執着の深さによる結実。
●無知・無明の闇の深さによる結実。
・無明に慈悲あり洗脳や偏りに法施なし
・人の身として生まれ仏の法を聴聞する
縁を得られない無明は慈悲の法施あり
折角の結縁を邪見邪道に陥る業は深い
●自我の妄想(エゴ)の深さによる結実。
●相対的・依存関係性の理解、感謝、施し、充足の深さによる結実。
●真実(真理)を観るものは、凡そ、争う事も、闘う事も、苦しむ事も、悩む事も、憎む事も、怨む事も、分別する事も欲望を意図する事もないのです。
物事が本当には見えていないのに、見えていると錯覚してるだけでしかない、物事を理解したつもりでいる自惚れて無明な盲目的な者達や、その系譜に連なる者達は感覚器官で捉えた情報や、感覚・感情や主観や自我や妄想による概念や意識見解までも自分の考えだと固執して省みる事が出来ない、真実(真理)とは感覚器官や感情、記憶、主観等では捉え難い物である事が理解できずに、無知(無明)に暗闇の中を手探りでアアでもない、コウでもないと盲目的(感覚的)にゴチャゴチャと考え能書きを並べたてようとするがつまりは無明なままであり、物事が本当には見えていないからに他ならない。
それらは知識と錯覚した情報・教育・思い込み・先入観・固定観念・既成概念・迷信・伝聞・通説・学説・世評・習俗・伝統・文化・洗脳(染脳)・偏り・立場などに縛られ囚われ惑わされて、凡そ物事に対して、信じる信じない、利益不利益、損得、得失、有る無い、好嫌、否定と肯定、善い悪い、条理と不条理、美醜、生と死、愛憎、長短、貧富、光陰、明暗、勝ち負け、運不運、表裏、優劣、禍福、賢愚、苦楽、聖俗、悟りと迷い・・と、現象や状態や状況を在るがままに映そうとはせず、全体性を分断し断片化させ固定化させ、物事の全てを対立した概念として捉えようとするのは、在るがままの世界を、自分の感覚と記憶と感情と意識とで対立的な概念に分断し断片化して自我(エゴ)により捉えようとしているからであり、これらの対立的で分別的な世界の断片を捉えて真実に向かっているという倒錯的な錯覚は、目覚め(覚醒)乗り越え(超越)して物事が見えた瞬間には、消滅し霧散する性質のものに過ぎないのである。
主観を離れ、欲や拘りを離れ、呪縛を捨て去り、物事を真に理解できれば、もうそこには信じるとか信じないとか、否定肯定、好き嫌いという無知(無明)闇によって盲目的に選択される両極のどちらかに偏ろうとする愚かさも存在せず、叡智と真実という光明に照らし出された真理を拠り処とし、分別・選別・断片化など他愛もない偏りを乗り越え超越するのである。
●汚れと愚かさの消滅は、物事を識り、物事が観える人にとってのみ可能な事であり、物事を識らず、物事の真実が見えない人には不可能であり、そして疑問が残るうちは先へは進む事も出来ないものであり、解らないものは解らない、知らないものは知らないという事実を明確に自覚することが出来てこそ冷静にそして集中して、観察し分析し探求し思惟し検証し理解し、成長して行けるのである。
「目が生まれ、智識が生まれ、叡智が生まれ、知性が生まれる。」
大切なのは智識と叡智を両輪にして物事を冷静に客観的に見て、観察し、分析し検証し確証を得て、理解する事であり、信心を通して信じる事でも、自分の意に沿わないからと否定する事でもないのである。
●宇宙の黄金律に遵って、分解層 約45%・生産層 約25%・消費層 約26%・人間に再誕 約4%・成仏0.1%以下
※この現実を理解出来ず受け入れられない者達が、信仰集団や信仰宗教などを創り出し無明な人々を依り一層に盲目的にさせてゆく。
●条件付けらた無明に生まれ、無明なままに逝く者達は善人であったとしても、自分に拘り自分の為にしか生きられず、生産層へと生まれ変わる。
【生存及び生存の継続】
○生存または自分とは五つの要素の集まり(蘊)による仮の姿である。
唯物論的な動物機械でもなければ、唯心論的な魂などの主宰的な精神による存在でも、アミニズム的な精神生命と対立する物質との二元的存在でもなく、全ては単一なエネルギーの集まりであり、物質的要素として集まり色蘊(物質・身体)を形成し機能として受蘊(五感官・眼耳鼻舌触)を形成し、記憶.巡回機能として想蘊(記憶域)を形成し、心的要素として結びついたエネルギーの性質(運動性)である業(カルマ)により識蘊(意識・概念)を形成する。
○生存の継続には四つの条件がある。
1.摂取 
肉体維持→水.空気.食物など
感覚器官→外的世界との接触(刺激情報)
2.意識
3.心的意図(意志・衝動)
不安定状態の安定化
生き、存在し、再存在し、継続し、増大しようとする意志
○心的意図による渇望(渇愛)
1.感覚的喜び(快感)に対する渇望
2.生存に対する渇望(煩悩)
3.非生存に対する渇望
これらの渇望により再生存.再生成を生み、貪欲と結びついて次から次へと新たな喜び(快感)を見出そうと欲し続ける。
しかしこれを絶対的主因であると見做してはならず全ては相互依存関係性(縁起)の上での自然法則(摂理)なのである。