仏道の階梯

仏道に於ける修養とは八正道の実践であり、八正道の実践を欠いた仏道などと主張するものは実は仏道ではないと言えるのである。
八正道の同時進行的な実践の上に、四聖諦・因果律(十二縁起)・五集合要素(五蘊)・業(カルマ)・再生(サンサーラ)・無我(アナート)・条件に依る生起と変化・消滅などを理解してゆくことにより、除々に感性は調い智慧が顕現してくる心の状態を十結や四向四果と七覚支により検証してゆくのである。
食物は食べる為にあり、音楽は聴く為にあり、経文は実践する為にあり、仏道は自らが気付く為にある、他人の牛を数えるが如く、知識や情報を幾ら積み上げても、自分のものとは成らず、唯、実践により理解できるもの。
★詳細は修養項目を参照・八正道の修養目的は最下部を参照
【精神統一と正念正智の階梯】
仏道の気付きや集中とは内観であり、通常は外界に向けている意識を内側へ向けて集中させてゆき、外部の音・物や色・匂い・味覚・触感などへ捉われる意識を制御してゆく修養である。
★第一階梯
先ず、集中された内部へと向いた心で、今の自分を沈着冷静にそして客観的に分析する。
そこには色々な自分が居ることに気付くでしょう。優しい神のような自分が居れば、非情な鬼のような自分、自分勝手で我が儘な悪魔のような自分も居るはずです。気付けば愚かで未熟で空しくて下らない物事に捉われたり、どうでもいい物事に拘ったり、つまらない物事に縛られる
自分が見つかっても自己嫌悪する事など有りません。それが普通なのですから、これを因果律で説明すると、人は継続への意志により誕生しています(生)、誕生により老いや死ぬことが条件付けられ、老い死ぬという定めを条件として無知(無明)が条件付けられていて、無知(無明)を条件として業(カルマ)という(行)が条件付けられているのです。この業(カルマ)とは無知(無明)に条件付けられた本質的な不安定であり、この無知(無明)に条件付けられた業(カルマ)による不安定状態を安定化させようとする本質的な意志である欲求の動機により、心理面においては自己防衛と自己保存への根深い渇望を生起させ自己防衛として子が親を頼るように自らの保護・安全・安心への安定化の依り処として神を心理投射し妄想してしまい、自己保存として強烈な煩悩(生存欲)と永遠なる魂・霊魂・霊体などを妄想しているのであり実体的な魂など存在しないのである。また人間は弱さ・怖れ・無知・欲望から自らを慰める(安定化)ためにこの二つを必要とし依り処とし、それに深くしがみ付こうとするのであり、無神論的な倫理感の喪失や道徳観の欠如に陥ることなく神という妄想的存在を乗り越えなければ真の平安を顕現することは出来ないのであり、釈迦尊ブッダ)の教えはこうした無知・弱さ・怖れ・欲望から妄想されたこれらを根本から取り除き乗り越えて(超越する)、破壊して目覚めさせる(覚醒する)ことを目指しているのであり、宗教であって信仰では決してないのである。 無知により生起している業(カルマ)によって生起している欲求の意志(名色)により、五集合要素(五蘊)を外界へ向けさせてゆき、渇き(渇愛)を生起させ、生存欲(煩悩)を生起させ執着させてゆき、何時までも本質的には愚かで未熟で無知で空しく、つまらない物事に捉われ、どうでもいい物事に拘り、下らない色々な物事に縛られた自分を作り出していっているのであり、それが全ての苦や悩みや不満や怒りや貪りや痴愚や自我意識を作り出しているのですから。(すべての物質的エネルギーには意識や思考はないが、生命エネルギーと同様に本質的な意志(欲求の動機)はあり、不安定状態を安定化するために、恒星は自転し、惑星は自転し恒星の周りを公転し引き合いながら、星系や銀河も宇宙も回転し引き合いながら安定化しているのであり、何れ軌道を外れようが、衛星と衝突しようが安定化が持続してゆくのは「在るがままに在る」からであり、生命エネルギーと物質エネルギーの集合体である生物も「在るがままに在る」ならば、条件による生起という変化し消滅する性質のものではない実存的な安定を得る(条件により生起している条件による安定とは依存的で相対的なもので条件が変われば変化し消滅してしまう性質(非実存的)のものである)のだが、その実存的な安定を阻むものが、無知(無明)を基点とする意識であり意識を成長させた思考が「在るがままに在る」ことを許さなず行蘊サンニャ・サンカーラ(記憶の残滓・汚穢)に縛られ、刺激に対して、言わば現実と理想とのギャップの負担量しだいで感覚的な喜び悲しみ、苦しみ楽しみ、不満、怖れ、怒り、快不快、良悪、好嫌・美醜・・・などなどの不安定な錯覚とも言える感覚に翻弄されているのである。(四聖諦により叡智が発達してくると生命の秘密や物事の在りのままの実相が観えてくる(観自在)秘密が発見され真理が顕現すると、幻覚と妄想により輪廻(サムサーラ)を継続させていた諸々の力は弱まり行(業・カルマ)の形成が出来なくなり、継続への渇き(渇望)が消滅するからである。
因果律を理解し、因果律に随って自分を冷静にそして客観的に観察するならば自分、社会そして世界におけるドゥッカ(愚かさ苦しみ空しさ痛み)という諸悪の根源が理解でき、それが自我意識という妄想による執着を条件として生起している事が理解でき、自我が煩悩(生存欲)により生起している事が理解でき、煩悩(生存欲)が渇きにより生起している事が理解でき、渇きが五集合要素(五蘊)により生起している事が理解でき、五集合要素(五蘊)が行という想行蘊(サンニャサンカーラ)に蓄積された業(カルマ)の本質的な不安定による欲求の動機により生起している事が理解でき、業(カルマ)が無知(無明)により生起している事が理解でき、無知(無明)が老い死ぬという条件付けにより生起している事が理解でき、老い死ぬという条件付けが誕生により生起している事が理解できるだろう。つまりは執着が消滅すれば煩悩は消滅し、煩悩が消滅すれば渇きは消滅し、渇きが消滅すれば、五集合要素(五蘊)により生起する感覚への愛着が消滅し、五集合要素(五蘊)により生起する感覚への愛着が消滅すれば行(カルマ)により生起する本質的な不安定が消滅し、実存的な安定の生起により叡智は顕現し無知(無明)は消滅し、無知(無明)の消滅により条件付けられた老い死ぬ定めを乗り越えて(超越)老死は消滅し、老死の消滅により誕生(再生)は消滅する。故に執着の消滅により再生は消滅するのである。
〇喜び・幸せの内観    別途掲載
〇慈悲の内観         別途掲載
★第二階梯  禅(ジャーナ)  精神統一(無念無想)
戒 心に刺激が入りこみ、外界に気を取られないように感覚器官を見張る
定 戒により心が安定したら想念を一点に留め雑念を芽生えさせない。
慧 心は澄んだ水面のように一切を映す。
   命の実相を観、宇宙の法則を理解し全てを在るがままに受け容れる。
   自我への執着も錯覚も無くなれば真理は依り明らかに顕現し、智慧
   自ずと啓かれる。
初禅
思いが在り考えがあり欲を捨てて生じる。歓喜を体験し無欲の歓喜で満たされる。内心において物質的なものという想いの者は、外界をまた物質的なものと観ている欲界に在ることを理解する。   (欲界禅)
感覚的欲望、悪意、物憂さ、不安、掉挙t、猜疑心などの不健全な欲心が薄まって行き、心的活動に際して喜び幸せと快楽的な感覚が伴ってくる。
二禅
思いがなく考えがなく想を捨てて生じる。歓喜を体験し無想の歓喜で満たされる。内心において物質ならざるものという想いの者が、外界において物質的なものと観ていることを理解する。
全ての知的活動は制御され、平静と精神統一状態が持続できるようになり、喜び幸せと快楽的感覚を維持できてくる。
三禅
正念があり正智がある喜を捨てて生じる。大楽を体験し無喜の大楽で満たされる。
自分とは不浄な存在であり、世界は清らかであると感じる。(色界禅)
アクティブ(能動的)な感覚である喜びや快楽的な感覚は鎮まり、幸せの感覚に心の平静や安堵感をえる。
四禅
大楽がなく清浄がある楽を捨てて生じる。空性を体験し無楽の空性で満たされる。
物質的なものという想いを全く超越(乗り越える)して、自我意識や霊魂という主体的存在が妄想でしかないことを理解し、個々に存在する別の物という想いを捨離し、大宇宙を構成する心的エネルギーと物質的エネルギーの集まりであり仮体であると理解して、「物質的なもの」という想いを超越、し抵抗感を消滅 し「別のもの」という想いを起こさず、個々に存在するのではなく全て無辺なる虚空」であると観じ、空無辺処へと達してゆく。
幸不幸、快不快といった全ての感覚が鎮まり、ただ純粋な平静と自覚がだけが在る状態。
★第三階梯    定(サマディー) 正念正智  釈迦尊(ブッダ)の内観法
 如実知見  内観如実知見とは「有りのままに見て、ありのままに知る」 
①空無辺処定    心的創造域
全てが法と真理のもとにあると観じ、識無辺処に達する                      
②識無辺処定    心的創造域
全てが無辺なる識であり虚空を分断するのは無辺なる識であると観じ、
無所有処に達する。
③無所有処定    心的創造域
在るのはただ想いだけであり「想いが虚空と一体化した」と観じ、
非想非非想処に達する。
④非想非非想定  心的創造域
想いが在るでもなし無いでもない境地。その境を超越し「表象も感受も消滅する境地」
⑤想受滅
(ダートゥヴィバンガ・スッタ    アーガマ 中部経典 140番)
人間は液体、固体、熱、運動、空間、意志の六要素から構成されている。       
それらを分析してみると、何一つとして「自分・自分のもの」「自己」ではないことが理解できる。
そして、どのようにして意識が現れ消えるか、どのようにして快適なもの、不快なもの、そのどちらでもないものが現れ消えるかが理解できる。
これらが理解できると心には囚われがなくなる。すると心の内には純粋な平静があり、それを高度な精神状態に到達するよう仕向ける事が出来ることを見出す。そしてこの純粋な平静が長く持続できることがわかる。
そして「もし、この純化され浄化された平静を無限の空間に集中し、それと一体化した心を発達させても、それは心的創造でしかない(空無辺処定)。もし、この純化され浄化された平静を無限の意識に集中し、それと一体化した心を発達させても、それは心的創造でしかない(識無辺処定)。もし、この純化され浄化された平静を無限の無所有に集中し、それと一体化した心を発達させても、それは心的創造でしかない(無所有処定)。もしこの純化され浄化された平静を無限の非認識に集中し、それと一体化した心を発達させても、それは心的創造でしかない(非想非非想定)。」そして生存・非生存、存在・非存在を心的に創造することを欲することもなくなる。生存・非生存、存在・非存在を心的に創造することを欲することもないので、世界の何物にも執着することがなくなる。執着しないので、不安もなくなる。不安がないので、内面的に完全な平穏である。誕生の因縁は終わり、純粋な生は生き終えられた。成されるべきことは成し終えられ、もはやすべき事は何も残っていない。」快適なもの、不快なもの、そのどちらでもないものを経験しても、それらは永続的で実存なものではなく、それらに囚われることなく、それらを欲情から経験しないことを知っている。どんな感覚を経験しようが、それに最早、囚われないことを知っている。全てのこうした感覚はオイルと芯がなくなるとランプの火が消えるように、肉体の分解と同時に消滅することを知っている。それ故に、そう理解できた者は絶対叡智を具えている。何故なら、全てのドゥッカの消滅の理解こそは、絶対的聖なる叡智だからであり、この真実に依拠した解放は不動である。条件により生起し成長し変化し消滅してゆく非実存的な物事は幻想であり錯覚であり空である。実存すなわち涅槃(ニルバーナ)は真理である。それ故にそう理解した者は、絶対真理を具えている。何故なら絶対的聖なる真理は涅槃(ニルバーナ)であり、涅槃(ニルバーナ)は実存である。
【八正道の実践】
八正道とは、八つの悟りへの正しい道(中道)により成り立つものであり、二つの極端な道を避けるが故に「中道」と説かれる。この二つの極端な道の一方は感覚的な快楽(享楽)を通じて幸福を追求してゆく道であり、所有の次元へ執着させる低俗で無益な凡愚な道である。もう一方は、様々な禁欲的行為や苦行など自らを苦しめる事により幸福を求める倒錯した道であり苦痛を伴い無価値で無益な道であるが、それらが共に無益なものである事を経験により理解した釈迦尊ブッダ)が見出したのが中道であり、中道は八つの正しい道(八正道)により成り立っているのである。
★倫理や道理徳目の育成 (③正語・④正行・⑤正命)
★心の規律の育成      (⑥正精進・⑦正念・⑧正定)
★叡智の育成         (①正見・②正思惟)
八正道には、四正断、四念処、四如意足が含まれているので、八正道を修行すると必然的に、四正断、四念処、四如意足も修行することになる。
八正道は意識して正しいと思われる行動を取る事から修行を始める。
八正道の修行は、正見(正しい見解を持つこと)から始まる。
 ① 正見(正しい見解)  サンマーディッティー
正しい見解を持つことは、悟りへの正しい道である。
修行の最初の段階での正しい見解から、他の八正道の項目(特に正念、正定)が進むと、さらに深い正しい見解を持てるようになる。その修行段階での正しい見解というものが存在する。
正しい見解が進んでくると、三毒を断じて越えることができる。
「生きる とはどういう事なのか。」「自分とは何なのか。」今の自分に気付く
▼生きるとはドゥッカであり、五集合要素(五蘊)はドゥッカである。
自分は一瞬たりとも固定して居ない。安定していない。
心の中には常に「まだ満たされていない。生きて行きたい。」という根深い煩悩(生存欲)の衝動が存在する。
怒りも憎しみも怠けも欲も恨みも嫉妬もだらしなさも善人ぶるのも自惚れるのも全て、渇愛により生起する煩悩(生存欲)によるのであり、全てが本質的には苦であり空しい存在であるのに、それでも生きて行きたいという盲目的な衝動に突き動かされている。
② 正思惟(正しい考え)  サンマーサンカッパ
正しい考えを持つことは、悟りへの正しい道である。
●欲への執着の妄想に気付いて避ける
●怒りの妄想に気付いて避ける 
●害意の妄想に気付いて避ける
○離欲の思考    欲心から離れたほうが楽であるという方向性
○無瞋恚の思考  皆が幸せになってほしいという方向性
○無害の思考    自分を害する相手を許し、逆に助けてあげる。
  ☆思考を管理する(妄想に気付き止める理性を育成)
③ 正語(正しく話す)   サンマーワッチャー
正しい言葉を発することは、悟りへの正しい道である。
嘘・誹謗中傷・陰口・無駄話・両舌・偽り、人を傷つけるようなことを話さず、真実のみを愛を持って述べる。
 ④ 正業(正しい行動)  サンマーカンマンタ  
正しい行為をなすことは、悟りへの正しい道である。
不殺生・不偸盗・不邪淫「他人に迷惑を掛けない生き方をする。」 
⑤ 正命(正しい生活)  サンマーアージーヴァ
正しい生活を行うことは、悟りへの正しい道である。
 他人の迷惑となる仕事を避け、皆の役に立つ仕事をする。
仕事とは、どの様に生きているかという意味。  生きる務めを果たす。
⑥ 正精進(正しい努力) サンマーワーヤーマ
四正断(断断、律儀断、随護断、修断)のことで、実践する行動は悟りへの正しい道である。
 「千万の偈を唱えても実践せず心が清らかになってゆかなければ意味がなく、例え一行の偈であっても実践するならば、それこそ真の精進である。
○した事のない悪い事はこれからもしない。
○今、自分にある悪い処は無くすようにする。
○今までやった事のない善い事をするようにする。
○今ある自分の善い処を増やすようにする。
⑦ 正念(正しい気付き)  サンマーサティー
四念処(身念処、受念処、心念処、法念処)のことで、自分の今の瞬間を観察し気付いてゆく事であり念処とは気付いて止まる事(一に止まる・正)
不放逸(集中)に客観的に今という瞬間の自分に気付いてゆく
○見念処  身体への気付き
○受念処  感受への気付き
○心念処  心の状態への気付き
○法念処  法(物理的法則)への気付き「ああだから物理的にこうなる」
⑧ 正定(正しい精神統一・集中)  サンマーサマーディ
四如意足(欲如意足、精進如意足、心如意足、観如意足)のことで、集中する瞑想は悟りへの正しい道である。
八正道では、正しい見解を持つことから始め、日常生活のすべてに対して、正しくあるように、意識的に行動する。
 サマーディは普通の五感官の認識レベルを超えた認識体験であり、五感官から入る刺激(情報)への欲から離れてゆく。
人は五感官からの刺激から得られる情報が生きて行く為には命にとって必須なものであると誤解し誤認し錯覚している。
五感官から得られる情報に強く執着していては、幾ら内観に務めても正定
(禅定)は得られない。(集中力の訓練)
●欲心から得られる喜びや快楽は心の統一性(サマーディ)から得られる喜悦感とは正反対なものであり、離欲が不可欠な条件といえる。
世俗な遊びやスマホなどへの集中は依存症に陥ってゆき、心の自由度がなくなってゆき強烈な束縛や不安定を生じさせてゆく。これらの欲や怒りや執着などが制御不能な処まで暴走して人を破滅的にさせる社会問題を起こしたり躁鬱症に陥ったり、破滅させる。
世俗的な物事に強く囚われ執着し未練がある限り、心は統一しない。
意識的に正しい(と思われる)ことを、日々の生活の中で行う、というのが八正道の考え方である。これはとても分りやすい考え方であり、八正道が多く説かれている理由もここにあると思われる。
ただし八正道においても意識的に正しいことを行うだけではなく、四正断、四念処、四如意足の修行にも取り組んでいくのである。
八正道では、正しい見解を持ち日常生活のすべてに対して正しくあるように意識的に行動することを目指す。ここで何が正しいか、どう考えることが正しいのか、どう行動することが正しいことなのか、ということが問題となる。正しいことは何かを考えるなら、目的である解脱ということを重視しなればならない。解脱という視点から考えると、解脱を助けるものが正しいことであり、解脱を妨げるものが正しくないことである。心を平安に保ち執着(煩悩、結)を減少させる事が正しいことであり、心を乱し執着(煩悩、結)を増大させる事が正しくないことといえる。正しい行動や考え方、正しい生活ができるようになるためには、戒を意識した生活をすることが必要になる。こういう視点(これが正しい見解となる)から、正しくあるように意識的に行動するのである。