人間の質・格・境地・器量

お釈迦様は目覚め覚醒された時(真理の覚醒)「自分の体現した真実は.見難く理解しがたく.賢者にしか把握できないだろう、それは世の潮流に逆らうものであり.高遠で深く微妙で難解なこの真理は、欲情に打ち負かされ闇に包まれた者達には見えないものである。」と考えられ、この真理を世間の人に説明しても無駄では無いかと躊躇われた理由ですが、それは世の中(俗世)の人間達の利己主義的な欲望により所有の次元へと向かう潮流に逆らうものである事を充分に認識されていたからに他ならず、その時に梵天に準えられた理解者の懇願もあり.お釈迦様は世間というものを蓮の池に譬えてみて「池には未だ水面下に留まっている蓮もあれば、ちょうど水面に顔を出した蓮もあり、水面高く抜きん出ている蓮もある。同様に世間にも色々なレベルの人達がいるのだから.中には真理を理解する人もいるだろう。」そう思い直されてお釈迦様は説法を決意なされたのでした。
この人間の質(クオリティ)格(レベル)境地(ステ-ジ)徳性(モラル・倫理性)器量や度量(ラージ)について俗世的価値観と出世的価値観という両極について垂直的と水平的とも言える二つの次元に於ける其々の基本的な三態について説こうと思います。
人は其々の本質的な精神レベルに応じて物事を判断・
理解しているのであり、その人の持つ精神性(無意識層)により外界の物事に対する見え方・感じ方・反応・識別・感覚・感情・主観・価値観、執着させるものなどが違って来るのです。(色メガネ.歪んだレンズ)

これは五結合要素(五蘊)の形成力の違いとも言え、感受(ヴェッダナ-)した感覚に対する想蘊と行蘊(サンニャ・サンカ-ラ)の要素である潜在域に蓄積された過去の記憶(記憶の残滓・汚穢)と衝動や感情により形成される業(カルマ)である本質的な精神性により識蘊(ビンニャ-ナ)において意識された概念を又候、過去の概念・知識・経験・記憶などと比べたり組み合わせたり混ぜあわせたりしながら新たな概念を積み上げているのです。そこには精神の質(クオリティ・人間性)・格(レベル・人格)・境地(ステ-ジ)・徳性(モラル・倫理性)などの階梯による錯誤された記憶の残滓であったり、捏造された記憶の残滓であったり、主観的な記憶の残滓であったり、感情的な記憶の残滓であったり、妄想的な記憶の残滓であったり、客観的な記憶の残滓であったりして、当然に作用と反作用及び感性により精神性も違ってゆくものなのです。

そしてこの人間の質(クオリティ)・格(レベル)・境地(ステ-ジ)・度量(ラージ)により其々のカルマ(業)とサンカ-ラ(記憶の残滓)という負荷を形成し、輪廻という流転(連鎖)へと繋がってゆくのです。
【幸福追求の精神性レベル】所有の次元の事物と存在の次元の事物
「所有せしものの輝きをにより、自ずからが輝いていると錯誤させる幻想」

「名声も地位も称号も持たず無一物なる痩躯なれど何も纏わずともその存在は輝けり」
■精神性により各次元に見い出す価値観が変わってゆく。

低次元に於ける階梯  渇望と存在欲に発する衝動による執着。  
①肉体的・物質的レベル  
このレベルの人は物質主義的であり物事の獲得に価値を見出し物質的肉体的な安逸が主体的であると錯誤し,本質的には宗教や哲学でさえも物質的所有として「使えるもの」という認識でしかなく、それ以上の価値観を持ち得ません。ですからこのレベルの人達の関心は信仰によるご利益であったり御守護であったり恩寵や恩恵でしかなく、宗教(宗となる教え)や哲学には実は興味が余り持てないのであり、物質的.肉体への価値判断が、精神的・存在的価値判断を上廻ってしまうのです。 
②感覚・感情レベル      
このレベルの人には繊細な人が多く、好き嫌い・快不快・美醜などという主観的な感覚によりものごとを判断します。これらの人達は感情による自我を満足させる物事に価値観を見出し、感覚的な欲望を満たす事こそが主体的であると見出し、善悪・浄不浄などという倫理感を上廻ったります。妄想的・神秘的な信仰に興味を持ちやすく、儀式のない宗教には魅力を感じない傾向があります。
③知識レベル          
このレベルの人は、知識欲が旺盛で知識や理論による理論武装で安心感を得ようとします。自分の主観や概念に執着し、客観的な理解・認識・判断を避ける傾向があります。所有の次元へと向かう感情に発する妄想が深まり易く、神秘的で迷信的な知識や思想に興味を示し、「第三の目」や「超能力」や「霊力」といった得体の知れない物事を求める傾向があり、読書や学習を通して知識は豊富ですが偏っていて余り活動的・実践的ではありません。

「所有の次元を目覚めた心で眺めるならばれ、俗世の金財・名声・地位・権力などが塵あくたの如く映り、存在の次元において真に光り輝く」
理性的な客観的な理解・認識能力による、高次元への進化
④知的レベル(感性)        
このレベルの人達は主に理屈や物事を客観的に観察し、理解・認識し発見してゆく事に関心があり、研究や開発などに価値観を見出します。その価値を所有の次元に置く時、大いなる発見や成果を得られない事による苦や悩みを生じますが、存在の次元に於いては観察し理解し確証を得る事が主体であり、結果としての発見や成果とは付随物(付き随がうもの)客体でしかなく、自己完結的なものなのです。
⑤叡智を伴う精神性レベル
このレベルの人達はカルマ(業)やサンカ-ラ(記憶の残滓)の浄化と存在としての価値観の向上に努め励みます。        「寛大であるのも、慈悲深く施すのも、生きている今しか出来ない事。」
⑥超越精神性レベル
このレベルの人達はある意味で霊性を具えて来ます(※不滅の霊魂とかではない)それは煩悩(存在欲)から解き放たれ、渇望(渇愛)の完全な消滅を果たし、五集合要素(五蘊)を制御し、渇望(渇愛)の再生存と再生成という軛(連鎖運動)を断滅した無我なる生命エネルギ-から顕現するのです。  

「我れは我れにして我れにあらず、今ある仮の姿」

人が完全へと向かう為には、注意深く客観的に啓発してゆかなければならない二つの資質がある。一つは慈しみであり、一つは叡智である。慈しみとは慈愛、慈善、親切、寛容と言った情緒的な気高い資質であり、叡智とは人間の知的な心の資質である。もし情緒的側面だけを発達させて知的側面を無視すれば、心やさしい愚か者と成りかねず、逆に知的側面だけを発達させ情緒的側面を無視すれば他人を考慮しない無情な知識人と成りかねない。それ故に高い人の質(クオリティ)・格(レベル)・境地(ステ-ジ)・度量(ラージ)を磨いて行くためには、情緒的側面である感情と知的側面である理性という両者を発達させて両極の中道に安定点を見い出せなければ、前向きで歓喜に満ちた平安な仏教的な生き方など達成することが出来ないように、自らが向上してゆくためには叡智により自我を焼き尽くし無我な存在となる事と他者を慈しむ行為とは不可分に結びついた必須なものなのである。

<追項> 輪廻

古代インドに於いてア-トマンとは「大いなる根源・本質」として想定されそのア-トマンが西洋に伝播して物質の根源・本質と考えられていた原子(アトム)とされたのではないかと考えられます。そして釈迦尊が在世の時代にはバラモン教ではア-トマンを「不滅な魂・霊魂・霊体」として誤認されていて、釈迦尊は御自身の内観による観察・分析・発見から不滅な霊魂や霊体などというものは存在せず、存在するのは五集合要素(五蘊)であり、相対的な関係性よる相互依存という条件性によって条件付け、条件付けられ存在しているアナ-トマン(無我・非我)であると表現されたのですが、ではアナ-トマンとは何であるのかの定義が今の多くの仏教と称する宗派では欠落してしまっているのではないでしょうか。。
この世界(現象世界)の物質も心的なものも様々なエネルギ-の集まり(結び目)に過ぎず、死とは肉体という身体(物質的の集まり)が機能を停止し再生産されない事であり分子・原子へと戻ってゆく事であり、心的には心を形成する生命エネルギ-(ア-トマ)は解き放たれるのであるが、物質を構成する物質エネルギ-も、生命を生じさせる生命エネルギ-も、脳内で思考や概念を生じさせる電気エネルギ-も根源的には同じエネルギ-であり、本質的な意志(不安定からの安定化・存在への渇き)により存在を継続し増大しようとする渇望が全ての命、全ての存在、全宇宙を形成し動かしている途方も無く大きなエネルギ-の膨脹と収縮を伴った離合集散の流れであり、全てのエネルギ-はその性質(周期)と条件により刹那ごとに生起と消滅を繰り返しているのであり、そこにあるのは継続性・連続性という連鎖の輪であり固定的・普遍的なものは存在出来ない世界なのであり、二つの連続する瞬間を通じて、同一の存在として在り続けるものは何ひとつとして無く、全ては一瞬ごとに生起し一瞬ごとに消滅し流転を続けているのであり、消滅における最終想念が帯びる負荷であるカルマ(業)とサンカ-ラ(記憶の残滓や汚穢)が次の生起を条件付けているのである。、これを全体性として捉えてしまってはならない。人間の体(物質を集まり)としての存在をはじめ全ての物事が全体として同時に生起し、全体として同時に生滅している訳ではなく、一瞬一瞬とはマクロ的に捉えているのであり全体として同時に生滅を繰り返すならばこの物質世界や身体がネオンサインの如き点滅的存在であると言っているに等しいが、そうではなく仏教では時間的尺度をプランク時間(時間というものの最小単位)を一刹那とミクロ的に捉えるのであり、全ての物質は其々の周期・条件に従った刹那時間で生起と消滅という継続的な連鎖の流れを繰り返しているのであり、その集まりである物質は一瞬というマクロな時間的尺度で捉えるならば、一瞬ごとに生起し一瞬ごとに生滅していると言えるのである。そして心的エネルギ-とも言われる生命エネルギ-は一刹那ごとに生滅を繰り返していて、一刹那ごとに一刹那として同一の状態は存在し得ないのである。例えるならば最小の原子である水素はフェルミ粒子といわれる陽子と中性子で構成される原子核の周りを電子が廻っていると言われるが素粒子である電子は数刹那(一瞬の何十億分の一)に生滅を繰り返しながら連鎖的な流れを作っている(これを周っていると表現している)、フェルミ粒子である中性子は約十分毎に崩壊を繰り返していて、陽子は約十年毎に崩壊を繰り返すといわれているが、それらを構成している素粒子量子力学的粒子)は刹那における其々の周期・条件により、時間的尺度をマクロ的に捉えるならば一瞬(指をパチンと弾く間)ごとに生起と消滅を繰り返しながら流れ(連鎖の継続)を作っているのである。其々の生滅の周期・条件を持つフェルミ粒子・素粒子による集まり(結び目)として水素原子が存在しているのであり、身体で例えるならば分子が集まり細胞を構成し、細胞が集まり身体を構成しているのであるが、細胞は常に何処かが入れ替わりながら、この身体を存続させている集まりであるが身体の細胞が一時に同時に入れ替わる事はありえず、それでは集まりである身体自体が現れたり消えたりしてしまう事になってしまう。そうではなく因果律(エネルギ-とは生じては変化して消えてゆく)に従った其々の性質や周期・条件付けにより、ひとつのものが消滅し、それが次の生起を条件付けながら継続の連鎖を繰り返している。それは電荷を失った電子が滅し、電荷を帯びた電子が生じる継続性・連続性の連鎖によりあらゆる物質が存在しているように、生命の輪廻(サンサ-ラ)とは生命エネルギ-の本質と共に帯びる負荷(カルマ(業)・サンカ-ラ(記憶の残滓)によりこの世に結び付けられ引き継がれた因縁(継続性・連続性)による連鎖により生滅を繰り返し続ける流転であり連鎖なのである。それは因果律(物理法則・天地自然の法則・摂理)に随って、一つのものが消滅し、それが次のものの生紀を条件付けているのであり、消滅の時カルマ(業)とサンカ-ラ(記憶の残滓)の最終精神を引き継ぎ、其々の生命(奈落な生命・餓鬼な生命・畜生の生命・阿修羅な生命・人・人天)から流転する連鎖の輪の中を生起と消滅を繰り返してゆくのである。では輪廻により流れて運んでゆく主体とは何なのかと言えば生命エネルギ-の本質と負荷として帯びるカルマ(業)とサンカ-ラ(記憶の残滓・汚穢)により条件付けられた連続性・継続性こそが自分という主体そのものであり、故に自分とは五集合要素(五蘊)こそが自分であり主体であると言えるのであり、五集合要素により苦は
生起しているのであり、真正な仏教の大原則でもある「生起する性質のものは、消滅する性質のものである。」により、執着の五集合要素(五蘊)の制御により苦や悩み不満、生存し存在し再生成し増大し一層蓄積しようとする意志を断滅してゆけるのである。       そして誤解されているのが、成仏とか入滅とは涅槃(ニルバ-ナ)により身体の機能停止によりその軛から解き放たれた生命エネルギ-が消滅する時、次の生起を条件付けるカルマ(業)やサンカ-ラ(記憶の汚穢)に縛られることなく輪廻の連鎖という軛から外れ、消滅し無色界(仏界)に座して二度とこの世に生起すること(母体に入る事)がないのだが、パラノイア新興宗教の教祖などが自分はブッダ(釈迦尊)の生まれ変わりであるなどと嘯き主張したりしているが、それが実は反仏教的な行為であり釈迦尊を誹謗する行為でもある事さえ理解できないカルマ(業)とサンカ-ラ(記憶の残滓・汚穢)の因縁深い盲目的な無知であり、それは輪廻の連鎖の流れを生命の根源である微生物(奈落)から捕食の関係性の上に流転してゆく事を条件付けている事に気付く事も覚る事も出来ない慚愧に堪えない憐れな愚か者だと言えるのです。

(たとえ成仏を果たせず仏界に座せず事が叶わずとも、天界で休息し、せめて善い処に人間として生まれ変わりたいものですね。しかし実際には人として死んで人へと再生成するのは精々1パ-セント以下でして約74億人分の人間としての座席を勝ち取るために千兆個の千兆倍(無尽蔵)とも言える生命が後に控えているのですから、人間の質(クオリティ)格(レベル)境地(ステ-ジ)で存在の次元において修行の深まった者や来世の幸福の四因を積んできた人や高徳の人達位が人の身に再生成し、亡者は彼岸の淵を彷徨った後に、其々の質(クオリティ)格(レベル)境地(ステ-ジ)の縁ある処へと再生成し進化の過程(捕食の関係性)を輪廻という連鎖運動により人の身へと向かい何百万回、何千万回の流転を繰り返すのです。 <盲亀浮木>