真逆の道

あーだ、こーだ…
あーじゃない、こーじゃない…
と色んな人達が.色んな事を言うけれど、それらの殆どは.単なる観念.戯れ言.能書き.主観.空論.根拠の乏しい推測(プラパンチャ)に過ぎないのではないでしょうか…それらは実践や体現や実現を伴わない妄想にすぎないもの…そうした溢れ返った不毛な思想の荒野と紡がれた無明の系譜により、真の幸福への道が閉ざされてゆくのです…
如来達の到達された深淵なる涅槃(ニルヴァーナ)は.遥か彼方に仰ぐものでも.拝むものでも.語るものでもなく、自らが実現し.体現するものなのに…
その道は決して茨の道などではなく、悦楽の中に智慧の覚り(覚醒)を啓くだけなのです…


例え、ためになる事を多く語るにしても、それを実践しないならば、その人は怠惰な愚者に過ぎない…
牛飼いが他人の牛を幾ら数えても、自分の牛とはならないように、その人は修行者の部類にも入らない…
いくら修行を積んだ徳の高い僧侶と尊称され
徳の高い説法をしていても、そのように生活していないのならば、その説法は飯の種の詭弁に過ぎない…


俗世の人が喜びだと言うものを、如来は苦しみと観る…
俗世の人が苦しみだと観るものを、如来は喜びと観る…
俗世の道と出世の道.この二つの道が向かう先は真逆なのですから…
どちらの道も.充足を求めてゆく道なのですが[心の充足]と[欲望の充足]とは.実は真逆の道であり、しかも心の充足は無明の闇を晴らす心の育成で到達できる堅固な[実像]ですが、欲望の充足は永遠に到達できない[虚像]なのです…

ましてそれを[仏像]に託しても.妄想を深めるだけに過ぎません…
心と欲望とが.よく調い制御された[中道]に.こよなき幸せはあるのですから…


今あなたが懸命に向かっている方向に本当の幸せがあるのでしょうか…
いつになったら辿り着けるのでしょうか…
辿り着けずに継続してゆくのでしょうか…
苦あれば楽あり…と言われますが、別々にある訳ではなく糾える縄の如く一如なものであり、苦があるから楽があり、楽があるから苦があるとは…変化生滅してゆく現象の一面を切り取って捉えて一喜一憂しているだけなのですから.[楽]しかなかったら楽は楽でなくなり[苦]へと変化してゆく性質のものなのです…
幸せも双極的な不幸があるから、味わえるものなのですから…
■喉元過ぎても熱さ忘れず
[喉元過ぎれば熱さ忘れる]という我慢の句ではなく、[災い転じて福となす]というか苦や災いの経験をトラウマなどにせず、今の幸せ[福]の尺度として.苦を福に転じてゆく智慧が必要なのです[福が来るから喜ぶのではなく喜ぶから福がくる]のであり、楽は苦の種、苦は楽の種なのですから、あとは[好事魔多し]と言われるように気を付けて行けばいいのではないでしょうか、ですから昔、武士が[我れに艱難辛苦を与え給え]と神に願ったのも別にストイックな性格だからなのではなく、[苦労は買ってでもしろ]と言われるのも.自分を鍛える事とともに幸せになる為の種なのだからだと思います…
しかし勘違いして[苦行の道]を歩んではいけませんよ…苦行とは怒りによって成り立つものであり、仏道とは安らい.歓びと悦楽によって成り立つものなのですから…


外界の快楽(感覚)への執着こそが.苦悩(ドゥッカ)の原因なのです…
世界は.常なく変化生滅してゆく[無常]なものであり、短命な感覚的な快楽を手に入れても充足は得られず、更なる欲望が芽生え.際限なく翻弄され続けるだけでしかなく心の安まる時は少なく、苦しみ(ドゥッカ)は膨大なのです…
永遠に色褪せない悦楽は.心の充足からしか得られず、欲望が満たされる事など永遠に訪れないのだから…
欲望への執着…そこには.幸せ.快感.喜びの仮面をかぶった苦しみ(ドゥッカ)という悪魔が居るのです…
ですからその幸せ.快感.喜びは一時的で短命であり.遠からず色あせ.その正体(苦しみ)を現わして、決して満たされる事のない欲望世界へと引きずり込んでゆくのですから…
世俗的な利益を追い求めるのも一つの道…
また永遠の平安に向かうのも一つの道…
■方向転換
俗世の人達は.感覚に刺激を送り続けることが、幸せだと勘違いしています…
出世の人は、感覚が刺激に取り込まれること無く、平安に在るがままに在るのが幸せだと知っているのです…
疑問を解消したい.知りたいと言う知的好奇心を武器として、依り快適に暮らしたいという欲求が、人類に文明をもたらし此処まで進歩させたのは間違いのない事実であるが、且つその欲望が諸悪の根源となる障害でもあるのではないだろうか…
何故?という疑問がある限り、人は真には先へは進めないものであり、かと言って疑問に埋もれ思索に更けても居られず、その疑問には蓋をして思考停止状態で生きているのが大概なのである…
若い頃には、[自分は何故生きてゆくのだろう?][何をすればいいの?][何で働くの?]など身近な問題にwhy?しながら答えを見い出せないまま横に放置して、時が過ぎたある日[自分はこれで良かったのだろうか?]と愕然と気付いて後悔と未練を抱くから輪廻してゆくのですから…
[後悔.先に立たず]と言われるように、今更どうしようもない処まで気付かずに生きるか、少しでも早く気付いて軌道修正を図ることによる真の幸福な人生の実現を説いているのが仏教なのですから…
■輪廻転生(変化生滅の流れ)
輪廻転生には二つの意味があるのです…
生というものへの執着により.生死を繰り返し何かしらに成り続けてゆく連鎖.継続性とともに、今生においても一瞬一瞬.一日一日.造り続けている業(カルマ)という形成力による因果律に従った連鎖継続性(縁起)も輪廻転生しているのです…
生命とは蝋燭の炎のようなものであり、さっきの炎と今の炎は同じものでもなく、かといって違うものでもないのです…
つまりさっきの貴方と今の貴方はおなじものでも違うものでもなく、因果律に従って唯、連鎖継続しただけか.方向転換を図り違う道へ進路を切ったかだけなのです…
全てはエネルギーの連鎖運動なのです…
生死の区別も.さっきと今との区別も、昨日と今日の区別も、意識思考瞬間の違いだけであり、この生の[最後]の意識思考瞬間が、次の何かしらでの生の[最初]の意識思考瞬間を条件付けて連鎖してゆくように、今生においても前の意識思考瞬間を、次の意識思考瞬間へと連鎖継続させながら、ゴチャゴチャと考えたり、妄想したりしているのですから…


■呼吸と集中
呼吸に集中することは高度な精神状態を育成する為の最もシンプルで重要でやさしい訓練法なのです
安堵の呼吸.平安の呼吸.慈悲の呼吸…
呼吸法は同時に肉体的健康.リラクゼーション.精神安定.安眠.仕事の効率.落ち着き.休息.智慧.閃きなどにも.とても有効です…
つまらまい物事.下らない物事.どうでもいい物事に感覚的.感情的.主観的に捉われ、拘り.気をとられゴチャゴチャと考えてる暇に、意識を呼吸に集中して自分を高めていって下さることを祈願しています…
如来 沙門に問う

人命いくばくの間にか在る…
応えていわく、数年の間なり…
如来いわく、汝いまだ道を知らず
如来 また他の沙門に問う

人命いくばくの間にか在る…
応えていわく、数日の間なり…
如来いわく、汝いまだ道を知らず
如来 また他の沙門に問う
人命いくばくの間にか在る…
応えていわく、飯食の間なり…
如来いわく、汝いまだ道を知らず
如来 また他の沙門に問う
人命いくばくの間にか在る…
応えていわく、呼吸の間なり…
如来いわく、汝、道を知れり…
■精神性により各次元に見い出す価値観が変わってゆく。
低次元に於ける階梯  渇望と存在欲に発する衝動による執着。  
①肉体的・物質的レベル  
このレベルの人は物質主義的であり物事の獲得に価値を見出し物質的肉体的な安逸が主体的であると錯誤し,本質的には宗教や哲学でさえも物質的所有として「使えるもの」という認識でしかなく、それ以上の価値観を持ち得ません。ですからこのレベルの人達の関心は信仰によるご利益であったり御守護であったり恩寵や恩恵でしかなく、宗教(宗となる教え)や哲学には実は興味が余り持てないのであり、物質的.肉体への価値判断が、精神的・存在的価値判断を上廻ってしまうのです。 
②感覚・感情レベル      
このレベルの人には繊細な人が多く、好き嫌い・快不快・美醜などという主観的な感覚によりものごとを判断します。これらの人達は感情による自我を満足させる物事に価値観を見出し、感覚的な欲望を満たす事こそが主体的であると見出し、善悪・浄不浄などという倫理感を上廻ったります。妄想的・神秘的な信仰に興味を持ちやすく、儀式のない宗教には魅力を感じない傾向があります。
③知識レベル          
このレベルの人は、知識欲が旺盛で知識や理論による理論武装で安心感を得ようとします。自分の主観や概念に執着し、客観的な理解・認識・判断を避ける傾向があります。所有の次元へと向かう感情に発する妄想が深まり易く、神秘的で迷信的な知識や思想に興味を示し、「第三の目」や「超能力」や「霊力」といった得体の知れない物事を求める傾向があり、読書や学習を通して知識は豊富ですが偏っていて余り活動的・実践的ではありません。
「所有の次元を目覚めた心で眺めるならばれ、俗世の金財・名声・地位・権力などが塵あくたの如く映り、存在の次元において真に光り輝く」
理性的な客観的な理解・認識能力による、高次元への進化
④知的レベル(感性)        
このレベルの人達は主に理屈や物事を客観的に観察し、理解・認識し発見してゆく事に関心があり、研究や開発などに価値観を見出します。その価値を所有の次元に置く時、大いなる発見や成果を得られない事による苦や悩みを生じますが、存在の次元に於いては観察し理解し確証を得る事が主体であり、結果としての発見や成果とは付随物(付き随がうもの)客体でしかなく、自己完結的なものなのです。
⑤叡智を伴う精神性レベル
このレベルの人達はカルマ(業)やサンカ-ラ(記憶の残滓)の浄化と存在としての価値観の向上に努め励みます。       「寛大であるのも、慈悲深く施すのも、生きている今しか出来ない事。」
⑥超越精神性レベル
このレベルの人達はある意味で霊性を具えて来ます(※不滅の霊魂とかではない)それは煩悩(存在欲)から解き放たれ、渇望(渇愛)の完全な消滅を果たし、五集合要素(五蘊)を制御し、渇望(渇愛)の再生存と再生成という軛(連鎖運動)を断滅した無我なる生命エネルギ-から顕現するのです。  

「我れは我れにして我れにあらず、今ある仮の姿」


人が完全へと向かう為には、注意深く客観的に啓発してゆかなければならない二つの資質がある。一つは慈しみであり、一つは叡智である。慈しみとは慈愛、慈善、親切、寛容と言った情緒的な気高い資質であり、叡智とは人間の知的な心の資質である。もし情緒的側面だけを発達させて知的側面を無視すれば、心やさしい愚か者と成りかねず、逆に知的側面だけを発達させ情緒的側面を無視すれば他人を考慮しない無情な知識人と成りかねない。それ故に高い人の質(クオリティ)・格(レベル)・境地(ステ-ジ)・度量(ラージ)を磨いて行くためには、情緒的側面である感情と知的側面である理性という両者を発達させて両極の中道に安定点を見い出せなければ、前向きで歓喜に満ちた平安な仏教的な生き方など達成することが出来ないように、自らが向上してゆくためには叡智により自我を焼き尽くし無我な存在となる事と他者を慈しむ行為とは不可分に結びついた必須なものなのである。
■幸せを招く慈悲の言葉

私、人々、生きとし生けるものが 、幸せでありますように…
私、人々、生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように…
私、人々、生きとし生けるものの願い事が叶えられますように…
私、人々、生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように…


私を嫌う人々も幸せでありますように…
私を嫌う人々の悩み苦しみがなくなりますように…
私を嫌う人々の願い事が叶えられますように…
私を嫌う人々にも悟りの光があらわれますように…