価値観

心の中を探してごらん…
仏も住めば、鬼も住む…
極楽浄土も.地獄の闇も.
心の中に啓くもの…


人それぞれに価値観があり.人それぞれに生き方があります…
民主社会である日本でも.男であれ女であれ.それは法治や公序良俗を侵さない範中において何を信じ.何を嫌い.何を求め.どんな生き方をしようが.自由なのです…
しかし自分が信じ.好み.価値観を見い出すもののみが優れたものであり.他は間違ったもの.劣ったものだと主張することは了見の狭い自我(エゴ)の捉われた浅薄.短絡.無明さに他なりません…
仏教思想の根幹も.こうしろ.ああしろという人様を型に嵌めるような物ではなく.まして他の宗教がもつ罪.科とか罰というものとも無縁であり.ただ善因善果.悪因悪果.自業自得.因果応報.因縁起果報という因果律(縁起)に従った原因と結果があることを説いているのです…
そして.この自由な価値観や生き方を保証された社会の中で.皆さん.幸せを求めて生きています…しかしそれで皆さん.本当に堅固で安定的な幸せを獲得することが出来たのでしょうか?
もし既に幸せならば.他人と争うことも.悩む事も.欲望に苦しむ事も.不満を懐き他人を憎むことも.他人の言動に苛立つことも.心の隙を狙われ新興宗教やカルト劇団に染脳(洗脳)され.散財と酔生夢死することも無い筈なのに.何故.世の中にはドゥッカ(不安定さ.苦悩.憂い恐怖.迷い.心痛.後悔.哀しみ.儚さ.不満.弱さ.脆さ.空しさ.惨めさ.実質のなさ.無明さ.無常さ.欲望….)が満ちているのでしょう?
それは幸せを探す方向が間違っているからなのではないでしょうか?
幸せとは自分の価値観が満たされる事であり.価値観と精神性(人格)とは車の両輪のようなものなのです…(最下部参照)

ですから欲望に魅入られて喜怒哀楽の中を翻弄されて幸せを追い求めながら却ってせっせとドゥッカ(苦)を造り出してゆくよりも.心を調えて行くほうが堅固で安定的な幸せを獲得できる事は.既に[幸せの三要素]などで説明していますように.心の一階部分にあたる自分の存在的価値観である精神性(人格)人柄.人質.器量.境地が育成されれてくれば.心の二階部分にあたる他人や他の生命との絆.関係性.距離感によってもたらされる価値観や.心の3階部分にあたる便宜的.付随的で無常な所有の次元の事物(金.財.地位.名誉.称号.権威.権力.勢力.評判.支持.承認.希望.夢.健康.寿命.…など)へ必要以上に執着させる価値観から解き放たれてゆくのです…

つまりは欲望と執着こそがドゥッカ(苦)の根源でもあるのです…
しかし執着しないゾ〜.執着しないゾ〜と思考で幾ら思ってみても.煩悩に主導されている心は無明な煩悩.欲望の炎に煽られて執着から解き放たれる事など出来ないのです…

その為に1階部分を育成し.智慧(叡智)と人格を高めて.無明な煩悩.欲望の炎に煽られた貪瞋痴思考(煩悩思考.三毒)から戒定慧思考(三学)へと高めて行かねばならないのです…
加えて言えば.そうさせている本当の原因は五集合要素(五蘊)であると言え.五つの要素が集まると実体的な[自分]という錯覚が生じて.その自分が存在欲(煩悩)の渇望により魂や霊魂などの実体的な存在を妄想し欲すると共に.貪瞋痴思考を始めるのです…
自分とは[引き寄せて結べば柴の庵かな…]
■方向転換
多くの人達は.感覚に刺激を送り続けることが.幸せだと勘違いしています…
出世の人は.感覚が刺激に取り込まれること無く.平安に在るがままに在るのが幸せだと知っているのです…
疑問を解消したい.知りたいと言う知的好奇心を武器として.依り快適に暮らしたいという欲求が.人類に文明をもたらし此処まで進歩させたのは間違いのない事実であるが.且つその欲望が諸悪の根源となる障害でもあるのではないでしょうか…
何故?という疑問がある限り.人は真には先へは進めないものであり.かと言って疑問に埋もれ思索に更けても居られず.その疑問には蓋をして思考停止状態で生きているのが大概なのです…
若い頃には.[自分は何故生きてゆくのだろう?][何をすればいいの?][何で働くの?]など身近な問題にwhy?しながら答えを見い出せないまま横に放置して.時が過ぎたある日[自分はこれで良かったのだろうか?]と愕然と気付いて.執着と後悔と未練を抱くから輪廻してゆくのです…
[後悔.先に立たず]と言われるように.今更どうしようもない処まで気付かずに生きるか.少しでも早く気付いて軌道修正を図ることによる真の幸福な人生の実現を説いているのが仏教なのですから…

◆精神性により各次元に見い出す価値観が変わってゆく…
低次元に於ける階梯  

渇望と存在欲に発する衝動による執着… 
①肉体的.物質的レベル  
このレベルの人は物質主義的であり物事の獲得に価値を見出し物質的肉体的な安逸が主体的であると錯誤し.本質的には宗教や哲学でさえも物質的所有として「使えるもの」という認識でしかなく.それ以上の価値観を持ち得ません…

ですからこのレベルの人達の関心は信仰によるご利益であったり御守護であったり恩寵や恩恵でしかなく.宗教(宗となる教え)や哲学には実は興味が余り持てなく.物質的.肉体への価値判断が.精神的.存在的価値判断を上廻ってしまうのです…
②感覚.感情レベル      
このレベルの人には繊細な人が多く.好き嫌い.快不快.美醜などという主観的な感覚によりものごとを判断します…

これらの人達は感情による自我を満足させる物事に価値観を見出し.感覚的な欲望を満たす事こそが主体的であると見出し.善悪.浄不浄などという倫理感を上廻ったります…

妄想的.神秘的な信仰に興味を持ちやすく.儀式のない宗教には魅力を感じない傾向があります…
③知識レベル          
このレベルの人は、知識欲が旺盛で知識や理論による理論武装で安心感を得ようとします。自分の主観や概念に執着し、客観的な理解・認識・判断を避ける傾向があります。所有の次元へと向かう感情に発する妄想が深まり易く、神秘的で迷信的な知識や思想に興味を示し、「第三の目」や「超能力」や「霊力」といった得体の知れない物事を求める傾向があり、読書や学習を通して知識は豊富ですが偏っていて余り活動的・実践的ではありません。
「所有の次元を目覚めた心で眺めるならばれ、俗世の金財・名声・地位・権力などが塵あくたの如く映り、存在の次元において真に光り輝く」
理性的な客観的な理解・認識能力による、高次元への進化
④知的レベル(感性)        
このレベルの人達は主に理屈や物事を客観的に観察し、理解・認識し発見してゆく事に関心があり、研究や開発などに価値観を見出します。その価値を所有の次元に置く時、大いなる発見や成果を得られない事による苦や悩みを生じますが、存在の次元に於いては観察し理解し確証を得る事が主体であり、結果としての発見や成果とは付随物(付き随がうもの)客体でしかなく、自己完結的なものなのです。
⑤叡智を伴う精神性レベル
このレベルの人達はカルマ(業)やサンカ-ラ(記憶の残滓)の浄化と存在としての価値観の向上に努め励みます。       「寛大であるのも、慈悲深く施すのも、生きている今しか出来ない事。」
⑥超越精神性レベル
このレベルの人達はある意味で霊性を具えて来ます(※不滅の霊魂とかではない)それは煩悩(存在欲)から解き放たれ、渇望(渇愛)の完全な消滅を果たし、五集合要素(五蘊)を制御し、渇望(渇愛)の再生存と再生成という軛(連鎖運動)を断滅した無我なる生命エネルギ-から顕現するのです。  

「我れは我れにして我れにあらず、今ある仮の姿」


人が完全へと向かう為には、注意深く客観的に啓発してゆかなければならない二つの資質がある。一つは慈しみであり、一つは叡智である。慈しみとは慈愛、慈善、親切、寛容と言った情緒的な気高い資質であり、叡智とは人間の知的な心の資質である。もし情緒的側面だけを発達させて知的側面を無視すれば、心やさしい愚か者と成りかねず、逆に知的側面だけを発達させ情緒的側面を無視すれば他人を考慮しない無情な知識人と成りかねない。それ故に高い人の質(クオリティ)・格(レベル)・境地(ステ-ジ)・度量(ラージ)を磨いて行くためには、情緒的側面である感情と知的側面である理性という両者を発達させて両極の中道に安定点を見い出せなければ、前向きで歓喜に満ちた平安な仏教的な生き方など達成することが出来ないように、自らが向上してゆくためには叡智により自我を焼き尽くし無我な存在となる事と他者を慈しむ行為とは不可分に結びついた必須なものなのです…