内観と内々観

「人の心のその中は仏も住むが鬼も住む」
人の心、そこには整合性もない無数の自己がすんでいる。
ダークサイドを含め.それら無数の自己をよく知り理解してゆく事で.心は自然に制御されてゆく。
自分の心とは自分を騙し誑かそうと走り逃げ回る.気まぐれで捉えどころのないもの。
それにより人は根拠なく自分を自惚れさせたり間違った見解を哲理の如く崇め手放す事が出来ず浄化と進化を阻害するもの。
「己の愚を知るが.真の賢者なり」
内観とは、禅定・瞑想・観照などと同義語であり、ヨ-ガ(瑜伽)を含めて世間に溢れている型に拘りすぎたり、神秘体験や超能力や第三の目などの獲得といった精神的倒錯した観念を持込んで真の目的を逸する事がないように敢えて内観と呼んでいるのである、まず緊張を解す為に息抜きと集中の観照で感覚と想念とに遊ぶ(現れる感覚と想念を眺める)内観と,止観から無念無想へと向かう禅那(サマタ)と,各部位へと集中して正念正智へと向かう観行(ヴィッパサナー)による内観とがあり、内観により禅定状態へ入る事を目的として自分、生きる、存在、各部位、世界、自他・・・・等について「思考に捕らわれず客観的に、不放逸に、冷静に、観察し、理解し啓発するために安定した姿勢で集中し外界へ捉われ易い意識を内へと向けサティ(気付き)による定の状態に向う事が目的であり、瞑想や内観により解脱が得られるのではなく、内観により気付いてゆくのである。云わば解脱とか涅槃とか覚りというものは得る(獲得する)事ではなく、気付くことにより捨ててゆく事なのであり、捨ててゆく事により顕現するものなので実存的なものと表現されるのである。何か高みの存在の憑依状態に陥る理由でも神秘的な特別な能力の獲得などを目的とした誤解され堕落した陳腐な儀式やテクニックに惑わされる事なく、聖道としての釈迦尊の開発された内観法から逸脱して行く事がないよう自ら克己してゆかねばならない。健康瑜伽などいくら行ったとてサティ(気付き)が得られる事などないように、明確な目的意識に基いてに(客観的に、不放逸に、冷静に、観察し、理解し、啓発する)ならば、立って居ようが、座って居ようが、歩いて居ようが、横臥して居ようが、放逸に陥らず怠け心を起こさず、眠気に負けず呼吸を制御し集中して内観してゆくならば、瑜伽・瞑想・禅定、観照において姿勢を正す事に心掛け無駄な力が入らぬよう注意して陳腐な型やテクニックに捉われる事なく精神的倒錯に陥る事なく真の目的に向かった内観が出来るのである、世の中では座禅やヴィッパサナーで完成すると誤解されているがマハシのいうラベリング(実況中継)にしてもゴエンカや道元がいう瞑想三昧にしても実に偏っていて自縛から解き放つ事を目的とするものであるにも関わらず兎角、型に嵌めたがるのが凡夫の倣いでもある。ゴエンカやワ-ルポラ・ラ-フラなど西洋人向けのデモンストレーション(喧伝)に熱心なのも「所有の次元」を彷徨っているとしか言えない。上座部の瞑想も正統な釈迦尊の瞑想を称えるが型に拘わりニミッタ「光の輪」が見えるだとか心臓の中にある意門(アナバナ似相)に運ぶとか、空海観照法で仏を見て仏と一体化させてゆくと言ったが先入観や暗示を与えて神秘的な妄想を生じさせる陳腐なテクニックの一つに過ぎず、宇宙空間に一人浮かんでいるような感覚に捉らわれてしまう錯覚を解き放たれた感性とか軽安から生じると誤解するが実はそういう状態を欲しているサンカ-ラを条件にして生起させているだけなのであり、妄想からの厭離を目的としながらその実は妄想を深めているのである。それらは到達し達成し完成へと至る為の内観とは成りえない事を承知して頂きたい。無理に変える必要もないが禅那や冥想の型に拘る必要などなく良い姿勢と呼吸に留意して内観へと向かい獲得してゆくのではなくあらゆる物事について気付いて捨ててゆくのであり(道元禅師は自分というものを捨ててゆく事こそ仏道であると世俗諦を得られた)、白圭更に磨きて内々観へと向かうのである。
基本は、五官に捕われて外界へと向かおうとする意識(五蘊)を内向きへとベクトルの方向性を変えて精神を集中させ雑念を排除してゆくことであるが内観法(ジャーナ)には大別すると「①正念正知するディヤーナや気付きの内観ヴィッパサナー」と「②無念無想へと向かうサマティー」とがあり、①と②とが禅と定であり「禅定」よばれ世俗諦を得て、内々観により想念の発生する源へと伝ってゆき超越友呼べる覚醒により勝義諦を得るのである。ここで内観より内々観へと深まるにつれ意識は現世へ戻って来れないのではないかという類の恐怖を感じだす、その恐怖とは死への恐怖と同質な恐怖感でもあり言うならば「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあり」という心境に辿りつき、その恐怖感を乗り越える事により光に満ちる真我域(阿羅邪識)へと辿りつき「想受滅定」へと入った生死の軛を同時に乗り越えた瞬間なのである。
禅定が現れた状態については既に解説済なのでこの項では省き「想受滅定」でもある内々観について解説する。
内観とは「外界」に対する「意識領域」に於ける内観なのであるが、内々観とは「表層意識領域」から「無意識領域」へと向う内観であり、更には想受滅定による「無意識領域」に対する「潜在基底層」へと向かう内観なのである。詳細はここでは省くが簡単に説明すると、光に満ちる真我域への到達と梵我一如による大宇宙(大梵天界・帝釈天界)との合一なのである。
「想念は表層意識に、湖底から浮かび上がる泡の如く発生する。それは表層意識に制御されない衝動的なものであり、その想念が表層意識の何処の場所から発生しているのかは、統一した心は容易に定めることが出来る。次にその泡の如く発生した想念を心の深処へ向かい辿ってゆくのである。その想念の泡は深処へ向かうに随ってだんだんと小さな泡塊の如くなってゆく。腑と気付く処は無意識層なのである。想念の発生場所であり潜在基底層が揺れ衝動を伝えて来る時には感情(不善処・善処)を造りだす概念思考領域である。
無意識の揺れが想念を生じさせているのである。
次には無意識層から光に向かって(光と感じる妄想ではなく生命エネルギ-の輝き)内へと進むが如く、より深処へと至れば、そこが阿耶邪識とも真我とも呼ばれる潜在基底層の入り口へと至る。釈迦尊の時代には大悟した幾多の弟子達でさえも訪れたという記録(経典)は残っているのだが今では何人も未到達の領域(境地)である。
世の中には理性の仮面を被った実は感情的な人が多くいて、和を以って尊しとばかり事なかれ主義に陥り、大人なのだからと大人しく波風が立つのを怖れてか無関心を装ってしまうような風潮が現代の偏った新興宗教やカルト団体の隆盛や、卑怯な論理をマカリ罷り通らせてしまっているのではなかろうか。孔子の言葉に「過ちては改むるに憚ることなかれ」とあるように、仏教においても他宗に対し誹謗中傷ではなく共に高めて発展してゆくためには「真理は真理、虚仮は虚仮」と言わねばならない事もあるだろうし、一部の作意ある者達は釈迦尊の直説や教説は存在しないというのが定説であるなどと宣い、だから釈迦尊の真の教説に反する教義であろうと疑経ではないと嘯いているが真の定説は第一、第二結集により編纂された経典の中にも釈迦尊の教説でないものが含まれているという意味であり釈迦尊の教説に反しない教説は釈迦尊ご自身が是認されていたからでもあるが、後代の作意ある者達は釈迦尊が仰ったと宣えば何でも通用するが如く乱造したのも後代に入ると既に釈迦尊が伝説上の人物であり実在の人物ではないかのように誤認されたからに他ならず、釈迦尊は実在の人物であり、仏教思想も一貫した至上の教えなのである。  
信教は各人の自由なものであり、最近では世界中で無宗教だと自認する人々が増えているようだが、暗夜行路を行くが如く手探りで生きている無明な存在であり本当はどんな宗教でも持ってないよりは持っている人間のほうが自戒や道理、徳目や倫理感.知性を育ててくれるだろう。しかし妄想された神や仏や得体の知れない力などへの信仰は自分という存在の意味や価値観を放棄して押し付けられた得体の知れない意味や価値観に従属して依り盲目的に生きてゆく事に他ならない。その為に多くの人達がが、貴重な時間や財産を失ってゆく被害者とも呼べる多くの人達を生み出してゆく社会を、自己責任だから他人の問題だと放っておいて果たして善いのだろうか。偏った大本営発表や収益優先のメディアに誘導され、権威や勢力に誑かされ、享楽主義化した社会の波に遅れまいと所有と感覚に儚い価値を見出している前に、我が身に置き換えてより良い社会の実現には積極的で在らねばならないと思うのである。何故ならば悟りの道とは、気付き啓発し目覚めてゆくものなのだから。