乞食坊主と物乞いシッタールダ

仏教とは釈迦尊(ブッダ)の説かれた御教えを頼りに、自分と言う存在を冷徹に客観的に集中して眺め.観察し.分析し.気付き.思惟し.検証し.自分の中に発見する事実を理解し自覚して拠り処とする自燈明であり、誰もがその能力は具しているのである。そして経典に説かれる釈迦尊(ブッダ)が発見された真理(真実.現実.事実.実相)を頼りとして.外世界(大宇宙.天地自然.社会)を冷徹に客観的に眺め.観察し.分析し.思惟し.気付き.検証し.確証を得た物理法則・自然法則という真理(摂理)を拠り処とする法燈明であり、それらを頼りとした叡智の顕現により、無知(無明)の闇から目覚め(覚醒)、無明な渇望(渇愛)を乗り越え(超越)、無明な欲望を捨て去りて離れ(捨離)、無明なあらゆる束縛(軛ーくびき)から解き放たれ(解放・解脱)、真理(真実.事実.現実.実相)を拠り処(精神的支柱)とした安定して堅固なスカ(平安.円滑.安泰.歓び.悦楽.静逸.幸福)が得られるのであり、本質的な不安定性による一時的な安定を盲目的に欲する渇望に促されたドゥッカ(苦…)を本質とした生き方から.絶対的安定であるこよなき幸せ(涅槃.ニルヴァーナ)という.世間の所有の次元の事物や状態・環境・時間など条件(縁起)により生起したり消滅したりする性質を合わせ持つ短命な幸せや快楽や感覚的享楽などではなく、条件により生起するものではなく不変な真理を前提として体現する実存的な(幸せ・悦楽・平安など)を具現するものであり、自燈明・法燈明とは釈迦尊(ブッダ)ご自身が、弟子達の請願であった御教えを文字経典とする事が.文字化により教えが知識.情報として捉えられ全体性が分断され忘筌(枝葉に拘り、木を見て森を見ずが如し)となって行き、観念化.信仰化してゆくだろう未来を見通され遺された言葉なのではなかろうかと思っている。
よって仏道修行とは、釈迦尊(ブッダ)が歩まれた聖道跡を辿る道でもあり、釈迦尊(仏)が歩まれたように歩み、釈迦尊(仏)が成されたように成し、釈迦尊(仏)が考えられたように考え、釈迦尊(仏)が語られたように語り、釈迦尊(仏)が行われたように行い、釈迦尊(仏)が生きられたように生きる事であり、未熟な者には至極難儀な道ではあるが毎日少しでも釈迦尊(仏)に近ずけるように精進するだけである。
「自らの進歩向上の妨げとなる蓋いを取り除く事なく、忘筌に陥り理論に奔り、理解に努めない者は完成へ至ることはない。唯、他人の牛を数えているようなものである。」
■乞食坊主と物乞いシッタ―ルダ
「我らは、剃髪し粗衣を身につけ托鉢で暮らしている。
このような貧しい生活を送るのは、生活苦や他に当てがない訳からではなく我らの心身を蝕む苦悩や煩悩から解脱し、自由に為るためであり智慧による真理を覚り衆生に功徳を施さん為に此のような生活を送るのである。
とこしえの平安を得るために、とこしえの平安を伝えるために修行するのである。成功や名声のためでも、人の上に立つためでもなく、真理を覚り衆生に慈悲を施すために此のような生活が欠かせないのである。」
僧侶は比丘(ビクー)とも呼ばれるがこれは乞食の意味でもあり「忍耐と堪忍」とを養い「所有の次元への依存から存在の次元へと転換する」ための仏道には比丘修行は欠かせず、その実践が「托鉢」であり、釈迦尊の御教えの実践的修行法そのものなのである。今日では釈迦尊を神格化する余りに語られないのだが、釈迦尊ご自身が成道後も托鉢(門付け・連行・辻立ち・遊行など)なされ涅槃経に描かれるように遊行の途上で入滅されてもいるのだが、教団が繁栄してゆく過程においても弟子達に説話をなされるか瞑想(内観)をなされるか休息なされる(安居)以外は凡そ午前中は托鉢行をなされていた。(ジャイナ教の経典にある記録にも「仏教の精舎」に午前中、何時伺っても釈迦尊は不在であり舎利子(シャリプトラ)と摩訶迦葉マハーカッサパ)が尊師なのかと認識していたようである。) 釈迦尊もまた「托鉢行」の中に大乗により体系化された六波羅蜜の施与の功徳、自戒、忍辱、精進、禅定と智慧による「真理」「解脱」「大悟」へ至るための全てを皆具足した修行方法であることを見出されて聖道(正道)とされたのです。
●何故、粗衣を纏い、無一物な乞食行であるのか。
これはこよなき幸せの体現であり、所有物による短命な幸せに対する執着の空しさからの目覚めを促す行であり、簡単に言えば「幸せとは、何かを所有することにより得られるものではなく、何が有ろうが無かろうが、何が多かろうが少なかろうが、足るを識り、その状態(在るがまま)の中において見い出せるか、見い出せないか。なのであり、たとえ粗衣を纏い、無一物で、乞食同然としていても品格と存在による輝きを保ち、真理を理解し、無知(無明)の闇を晴らし、渇きの欲望を超越した者は、この上のない最上、最高な、こよなき幸せ(幸福・平逸・安定・悦楽・歓喜・満足)な存在であることの具現化という、実践的な無言の説法なのである。
所有による幸せとは、同時にやがては変化し劣化し減失し飽きるという怖れや心配や嫌悪や儚さや空しさを併せ持つが、捨て去ることによって得られる幸せにはそんな負の側面がないのである
喩えは悪いが、所有により幸福を得ようとしている人達とは本質的には、所有の次元の事物への執着の炎で熱せられた苦(ドゥッカ)という鉄板に焼き尽くされないように、熱せられた苦(ドゥッカ)という鉄板の上で絶えず飛び上がったり飛び跳ねたりしながら、飛び上がった時に得られる一時的な快楽や安堵を貪りながら、辛うじて生きている様なものであり、飛び上がる事を諦めたら、五欲の炎で熱せられた苦(ドゥッカ)に焼き尽くされて死んでしまうのだから必死に飛び上がった時に得られる短命で一時的な快楽や幸福感や安堵感を糧として、本質的な苦(不安定・渇き)に気付き、乗り越えて、解き放たれる術も解らず盲目的に無知(無明)の闇の中を生きて居るのであるが、執着の炎を吹き消し適度の温もりの鉄板の上であれば、そこは堅固で安定的な「こよなき幸せ」な処なのである。
叡智による絶対真理(摂理)を支えとする者は、苦(ドゥッカ)という熱された鉄板の上から遠ざかり、生きる一瞬一瞬の中に、一呼吸一呼吸の中に、歩く一歩一歩の中に、一挙手一投足の中に、幸福・悦楽・平逸・歓喜・満足・安定を見い出して、楽しく穏やかに生きられる。
★忍辱(にんにく)
忍辱に於いては釈迦尊ご自身も心無い者達から「物乞いシッタ-ルダ」などと嘲られたりしたそうです。そんな時「良い修行である。ありがとう。」と意にも返されなかったのでしょう。
もし聖道を行ずるに恥ずかしいと感じるは自我意識であり、真に自分に恥ずかしい行為を自分本位に行なうも自我意識である。
私という意識自体が自我意識であり錯覚なのであり、自分とは蘊まり(あつまり・五集合要素)であり、五つの要素の蘊まり(あつまり)が自分をいう意識を造り出しているのであり、ひとつの概念、ひとつの感覚、ひとつの意識でしかないのである。そう自覚する為の行でもある。
自分・他人という意識も、大海も水の一滴であるものを自我意識が分断しているのであり、この蘊まりとあの蘊まりに過ぎず、大海の水がこちらで蘊まり波となり、あちらで蘊まり波となり人波過ぎてもとの大海の一滴なのである。
★布施の功徳
釈迦尊は富める人々から托鉢で施与を得るのではなく、なるべく貧しい人々から施与を受けるように指導されました。
それは貨幣経済が未発達で食物こそが貴重とされた時代において、貧しい人々が何故貧しいのかと言えば、食物を自分の為だけにしか使うことが出来ず、他に分け与える精神性が欠けていたから貧しいのだと仰り、その業(カルマ)により来世も苦しみが輪廻してゆく事から貧しい人々が救われる為に、なるべく貧しい人々から施与を受けろと仰ったのです。
智慧・禅定
仏教の修養法は座ろうが立とうが内観であり、ヴィパサナーという集中と気付きによる高次な智慧や禅定の顕現なのである。
没我とか我入と言われるが、これは自分を冷徹に客観視してゆく事であり無我へ向かうのであり、自分に捉われ拘り縛られる、愚かで未熟で空しく儚く無知(無明)な我れを乗り越えて(超越)ゆく事なのである。
★自戒・精進
自戒も精進も、精神性の成長や啓発という自分自身の克己により成されるものであり、経典も儀式や儀礼仏道における自戒や精進とは無関係なものであり、八正道による思い遣り、状況判断、礼儀、信念などが必要なのである。

釈迦尊も弟子や信者が増えても、鉢を持ち市中へと托鉢されたようですが今日、主流の如く行われているような連行はなさらなかったようです。
遊行時には弟子の一人か二人を伴い遊行(行脚)されて居られ、涅槃経(マハパリ 二ルバーナスッタンダ)に語られるアーナンダを伴っての遊行の途上での入滅が托鉢行と遊行(旅)とが日常であった事を物語って居るのではないでしょうか。
現在、托鉢で生活する僧侶が減り「存在の次元」へと向かう僧侶が減りました。「所有の次元」で悠々自適に安易に暮らす道は僧侶の道ではありません。
托鉢で生活する者の中には偽者も確かに紛れ込んでいるのでしょうがその者達は聖なる道も覚らずに法喰を食むこともない哀れな者なのです。うしかし真に聖なる僧侶も乞食坊主の中に居るのです。大寺院を構え金襴な法衣を纏い奥の院で踏んぞ反り返って言行が一致しない能書きを垂れ空理空論を説いている者の中には聖者も高僧もいないのです。
釈迦尊の聖なる道の跡(聖道跡)を歩むことこそが真の修行者の仏道なのであり各派が行う1、2年間の研修は修行ではなく見習い修行にしか過ぎないのです。、僧侶とは修行の道に在るのが僧侶なのであり、在家社会の「所有の次元」を離れ出家者の「存在の次元」へと向かうのが僧侶なので聖道跡を歩まんとするは瞑想三昧も道ではなく、読経三昧も道ではなく、法要三昧も仏道ではないのです。三学の「戒律・禅定・智慧」もまた托鉢の中にあり、身をもっての説法も托鉢にあり、仏法が衆生の中にあるは托鉢に在るのではないでしょうか。
釈迦尊は仰った。
托鉢とは心を洗ってもらう為の水桶である
施与とは水を必要としない心の沐浴である
乏しき中から分かち与える者は、法を実践することになるだろう。
百千の供犠をなす者の百千の供犠も、そのような施与を為す者の功徳の百分の一にも値しない。
施与するものには功徳が増し、果報が在る。この世の富は捨離してゆく物施与したる善行という財を持ちてゆくもの。賢者は福業を行ぜよかし。
それは死後にも伴ないゆく財宝なりせば。
「戸外経」
我らは住戸の外に、又は街の四辻に立ち、或いは各自の家にゆきて戸口に立つ。
托鉢によって自分の得たものを軽んじてはならない。
施しを得たのはよかった、得なかったのもよかったと思いなさい。
例え得たものが少なくとも修行者が軽んじる事なければ、怠る事なく、清く生きる修行者を神仏も賞賛する。
媚びる事なく、世間話をする事なく、当然として、平然に施与を受けよ。
策して施与を求めるな、人々と親しく交わるな、荒々しい言葉を以って敵対的に応えるな。
自ら知って己を制し、自ら知って多くを語らず、これ聖者の行なり。
罵られたとしても、敬礼されたとしても平然とした態度で臨め。
仏道を皆具したる修行は托鉢行と内観なり
釈迦尊は仰った。
「俗世の利得を目指すのも一つの道、涅槃を目指すのも一つの道。
だが如来を師とする仏弟子たちよ、汝らは俗世の利得を貪ってはならぬ。貪欲のその道から遠去かれ。
寿命が永かろうと短かろうと我々は今この時を生きるしかないのだ
世界が如何に広大であろうと今、立っているこの場所に立つしかないのだ。
世の中に幾筋の道があろうと目の前に延びるこの道を行くしかないのだ。
過去、現在、未来を同時に生きる事も、此処と其処に同時に立つ事も出来ないのだから、ならば我々は一つしかない身体でどうして二つの道が歩めるだろう。ましてこの二つの道が向かう先は「正反対」なのだから。」
ひとつは「所有の次元への道」もうひとつは「存在の次元への道」
本質的には付随物(手段)でしかない所有の次元において決して得る事が出来ないものが、真の充足(満足)である。
金でも財でも物でも地位でも名誉でも権力でも愛でも、得られた時から更なる欲求が始まるだけで、踏み止まることが出来ないもの。
一番の大金持ちになっても、一番の権力者になっても、貪る欲求が止むことなどなく悔いや空しさ儚さを辞世の句に残すだけ。
存在の次元において自己の存在の意味を見出せば、自己は完結(完成)し、在るがままに味わうだけである。