権威と風格

日本人が[仏教]と聞いて先ず.思い起こすのが[死]であり、葬儀.法要.檀家などの葬式仏教ではなかろうか…しかし残念ながら.その何れも本地垂迹神仏習合による汚染と民間習俗の影響であり、決して仏教の教えでも儀礼でもなく、また由緒と歴史を誇り.静かなたたずまいを見せる古刹も.ご利益を謳い信者を集め.威圧されるような大伽藍を備える大寺院も.権威と風格の為に成された文化的なものに他ならず、決して仏教の教えによるものではないのです…
大乗にしろ日本仏教各宗派にしろ上座部派にしろ、お釈迦様が説かれた至高の教えを内包しながらも[我が宗派]という意識に蓋われる余り.保守的で内向きな集団となり.更には分裂を繰り返しながら、何の為に仏の教えがあり、何の為に集いし寺があり、何の為に僧侶が在るのかすら、見失なっているのではなかろうか…
しかしそれは宗派.寺.僧侶ばかりの責任とも言い切れず、これはお釈迦様が既に危惧されていた事でもあり、集い(サンガ)とは飽くまで同心する者達の向上の為の集い(学舎)であって教団でも宗教団体でもないのだと.はっきりと仰っているように、それは教団化したり宗教団体化するとは、裏返せば経営して行くという事であり、経営し.維持し.継続し.発展させてゆく事が主眼となり目的ともなり.真理を歪めてでも、大衆の嗜好するもの(言い換えれば大衆のニーズ)に合わせてゆかねばならない大衆迎合主義に陥る危険性を孕んでいる事を洞察されていたからに他なりません…
何故.大衆迎合主義が危険なのかと言えば、それは[仏教の本質][仏教の価値][仏教の目的]という仏教の存在価値の破壊へと繋がってゆくものだからなのです…
仏教の本質.価値.目的とは無明(無知)で.愚かで.苦しむ大衆を慈悲心を以って正しい方向へと教え.導き.救うものであって、無明ゆえに.愚かゆえに.苦しむ大衆の無明で愚かで苦しむ嗜好へ併せる事ではないのですから…
つまりは大衆迎合主義とは.言わばもし大衆が.災害が続くのは何かの祟りに違いないから、祟っている神仏を調伏して.救ってくれる神仏の加護を願えば、その無明さ.愚かさ.苦しみの因果を諭すのではなく、大衆の嗜好にそって加持祈祷や念仏や題目を唱えて大衆の心の慰めの為の信仰宗教と化してゆく事を意味するからであり、お釈迦様が説かれた真理(真実.事実.現実.実相)へと目覚め覚醒し.乗り越え超越し.解き放たれ解放され、堅固で安定的な幸せ.歓喜.安楽.平安.静逸へと向かわせる道から.逆行させ.遠退かせてしまうものなのですから…
お釈迦さまは最後の旅で仰っています…
[私は修行僧の仲間を導くであろうとか、或いは修行僧の仲間は私を頼っているとか思うことはない…その様に思う者こそ修行僧の集いに関して何事かを語るのであろう…
しかし向上に努めた人は修行僧を導く為にとか、修行僧の仲間は私を頼っているとか思う事なく、向上に努める人は修行僧の集いに関して何をかを語るであろうか…]
そして死期を悟られたお釈迦さまは故郷のルンビニへの最後の旅の途上のベーサリの地で最後の托鉢をなされ、感慨深くベーサリの地を振り返り、鉢を置かれたのです…
つまり.お釈迦さまは他の修行僧の仲間と集い教えを乞う者には教え諭しながら、自ら托鉢をなされ.教団経営などされてなかったのは、仏教は智慧であり、集いは学舎であり、教団経営とは俗世の経済行為に他ならず、向上を目指す者にとって.先ず捨て離れて捨離すべき事柄であるからなのです…
そして、お釈迦様の遺された有名な遺訓でもある[自らを灯火とし.自らを依り処とし、他のものを依り処とするなかれ…
法を灯火とし.法を依り処とし、他のものを依り処とせずにおれ…]という言葉に続くのです…


無上甚深 微妙法 百千万刧 難遭遇

無明甚深 身妙法 百千万刧 厄遭遇
我今見聞得受持  願解如来真実義
我今見聞得受持  願解如来真実理

我今見聞得受持  願解如来真実智

如来曰応 一切万象 因果応報
如来曰応 一切万法 自業自得