ブッダの御心は日本に伝わらず

残念ながら釈迦尊(ブッダ)が説かれた真実の仏の御教え(仏教)は、日本では受け入れられず、後代になって伝来(最澄空海が持ち帰った)した釈迦尊の身教えとはとても言い難い得体の知れない神仏への信仰が日本中に根付いている。
では大乗仏教は仏教ではないのか?と言う疑問を当然に持たれると思いますが、その実、答えは釈迦尊(ブッダ)の御教えとはとても言い難いものであり、では何なのかと言えば、日本仏教の僧侶の一人として、仏教を真摯に学んできた者の一人として、誹謗でも中傷でもなく仏教徒の一人として切磋琢磨してゆく為に事実を語るならば釈迦尊(ブッダ)の教え仏教を部分的には取り入れては居ますが、真実は当時の迷信やバラモン教の類を乗り越えられず釈迦尊(ブッダ)の仏の教えを理解できず脱落していった者達(代表・馬鳴ミミョウ)を祖とする馬教が大乗仏教と名乗ったのであり凡そ宗(むね)となる仏の教え仏教ではなく、得体の知れない神や仏への信仰に他ならず、その論拠が、自らの実践が自らを助け導くという現実的な道理から、迷妄な得体の知れない神や仏という他力によって多くの人々を救い導くという大衆迎合的な観念を乗り越える事が出来なかった思想に基くのであり、それが中国に伝わって模倣化し色物化して日本に伝来してきたのであり、至高で純粋な釈迦尊(ブッダ)の仏の教えとは言えないのです。
しかし誤解しないで頂きたいのが、では上座部仏教(テーラワーダ)が正しいのかと問われれば差に非ず、上座部(テーラワーダ)も一つの部派仏教に過ぎず妄迷に留まってしまっている。部派仏教化して頑なではあるが上座部(テーラワーダ)の保存する経典が依り色濃く釈迦尊(ブッダ)の教えを正しく伝えている事は萬人が認める処であるが、ここで事実を再認識しなければならず、釈迦尊(ブッダ)の教えを文字として留めた経典は散逸してしまったのである。
それを後に上座部ブッダゴーサ師が、精力を傾け、探し周り再収集された果報により多くの釈迦尊(ブッダ)の教えが現代に伝わったのである。
しかしブッダゴーサ師が収集し散逸を免れた経典は既に各部派各集団の主張・見解・観念などに色付けられたものが多く全てを釈迦尊(ブッダ)の教えであると鵜呑みにしてはならず、釈迦尊(ブッダ)のその超越した人格は、同じく超越した人格を具する人にしか計れないように、釈迦尊(ブッダ)の真実の教えなのか、釈迦尊が真に承認された教えなのか、正しく選択されずに玉石混交のまま、各部派、各宗派へ分裂し続けて現代に至るのです〇先ず原始仏教と先進的仏教という対立概念は成立しない言葉である。
小乗仏教大乗仏教という対立概念は成立しない。(釈迦尊の説かれたのは、人として生まれ、人として価値ある生き方をする為に大切な宗ねとなる教えを説いたのであり、飽くまで個人の問題であり、一滴の水滴の集まりが大海であり、大海は人間の能力では差配できないが、水の一滴ずつが変わって行く事により、汚れて淀む大海もやがて清く美しい大海へと生まれ変える事が出来るという思想が仏教思想であり、それを大きな舟に乗せ大衆を一度に救おうという思想は得体の知れない信仰へと大衆を誘う反仏教思想に他ならない。
釈迦尊(ブッダ)の精神に相反する主張・見解・観念は、仏教(釈迦如来の教え)とは言えない(釈迦尊の名声と権威とを利用しようとする仏教を称する信仰集団に他ならない。反仏教)
●上記した三つのものは釈迦尊(ブッダ)が到達した完璧な真実(真理・摂理)を、主観的な意識、妄想的観念、形而上学的な倒錯、迷信的錯覚、作為的な意図などによる偏った否定、毀損、不遜、自惚れ、無明などによる反仏教思想であり、決して釈迦尊(ブッダ)が到達した仏の教え、如来による真実(真理・摂理)を説くものではない。
釈迦尊(ブッダ)と如来大慈悲心は、これら迷信的なもの、妄想的なもの、作為的なもの、人々を幻惑し無明を深めさせるものから、目覚め覚醒し、乗り越え超越し、解き放たれ解放され、
健全な身体と安定した心により、無知無明の闇に縛られず自由に、楽しく、充ち足りて、幸せに生きてほしいという願望なのですから。


【日本語の乱れと本来の意味】
●洗脳とは、固定観念とか思い込みなどで汚れ凝り固まった頭の中を洗うことの意味であり、世間で使われる正しいと称する偏った考え方に染められる事ではない。(染脳・洗脳)
●宗教と信仰とは、真逆な性質のものであるのに、世間の多くの人が宗教だと勘違いしているものは宗教ではなく信仰である。
宗教とは人間が向上してゆく為の必須な教えであり信仰とは人間の情緒面の投影的な信仰と、得体の知れない神仏への信仰とがある。
宗教は人を高め、情緒は人を清め、得体の知れない神仏への信仰は人を惑わす。
●苦行・荒行を禁じる仏教においては即身仏など無明な所行そのものである。仏教が説くのは即身成仏であり、死=成仏ではなく、死=亡者⇒その後に転生(微生物~人間)、涅槃(ニルバーナ)=成仏なのであり、生きてる今、涅槃(ニルバーナ)に到達し仏(大悟者)となり即身成仏する有余涅槃と、即身成仏した者が肉体の滅(死)により無余涅槃(輪廻転生から脱する事)へ至ることを言う。
●勤務の勤という言葉の意味は、本来は道徳の実践に励むことを言うが世間では生活の為にせっせと働く意味に受け取られている。 
●また倹約の倹という言葉の意味は、本来は金銭欲が薄いことを言うと聞くが世間ではこれを逆用して物惜しみする意味に受け取られている。        
●出家とは出世間とも出世俗とも言われるが、これも住家を出ずる事でも、物理的・地理的に世間(世俗)から離れる事でもなく、精神的に世間や世俗的な方向性や価値感や意義から離れて生きることを言うのであり、家を出たとて世間的・世俗的な所有の次元の価値感や意義の方に向かい執着している人を真の出家者とは言えず、存在の次元に気付き存在の次元の価値感や意義を高めて行く人を出家者というのである。
●英雄とは、その歩いた道筋に累々たる髑髏(しゃれこうべ)の山を築いた者の事を言う。
●世俗の成功者とは、儚い幻に過ぎない所有の次元の事物を他者を蹴落とし依り多く獲得した者の事を言い、その代償として人としての存在の価値であり財である、人としての質(人間性・クオリティ)、人としての格(人格・レベル)、人としての境地(ステージ)、徳性(モラル)などを磨き高め育成する事が出来ず,自我意識による盲目的な主観により無知(無明)で心が貧しい者に成り易い。
「☆所有の次元(付随物・手段としての事物) 金財・所有物・地位・名誉・名声・称号・賞賛・理解・勢力・権力・権威・権利・承認・・・」
「☆存在の次元(本質的価値感や意義・真の目的)家⇒雨露寒暖を凌ぐ場所・金⇒一定の必要物との交換を約束された紙や金属・財⇒一時的安心を約束する場所や物・人間⇒物や名前や地位など言葉で表現されるものを剥ぎ取った後に表れる、人間的価値(真価)・人間的な質(クオリティ)・人格(レベル)・人間的境地(ステージ)・能力など」
人が我が心身を正すための心得が、小人の私欲の口実にされているとは、誠に残念なことである。
剰え「情けは人のため成らず」という他人に情けを施すのは自分のためであるという奥深い言葉なども、人に情けを掛ける事はその人の為にならない。などという意味に受け取られてしまう事を情けない話である。  
「福、受け尽くさば 縁、必ず弧なり」と言われる如く、人は他人との関係性のなかに人生を織り成してゆくのであり、自分に拘り自分勝手に生きてゆけば、例え今は裕福で取り巻きがあろうとも、金の切れ目が縁の切れ目となりイザという時には何処からも助ける者など現れず苦悩することになるのであり、恵まれた環境や幸せや富などをいい気になって欲しいままにしていると幸福をもたらす縁の糸が切れてしまうものであり、福は独り占めにせずに周りに分け与えてゆく器量が具われば誰かが又、福を呼び込んでくれるものであり、福とは循環してこそ福になり大福となってゆくのである。
偏った見解や観念や思想に染め込んで行くことを洗脳と呼称し、真逆な性質のものである宗教と信仰とを同じようなものと見做す世間は、何かしら誰かしらの作為的な誘引が働いているのではないかとさえ思える。
そして仏教において説かれる重要な教えである「知足は第一の富なり」(足るを知る)に付いても、世間では「今、持てるもの在るもので満足し欲さないこと」などと浅薄な意味に受け取られているが、これはそのような消極的な意味ではなく、「既に自分という存在の内には幸福になる為の全てのものが具わっている」「だから足りている」ことに気付きなさいという積極的な教えであり、人は自分という存在にとっての必要量さえ実は把握出来ては居ず、ただ煩悩の欲求に翻弄され「所有の次元」に所有欲が魅入られて執着させられてしまうのである。
喩えるならば全ての事物には「所有する誘惑」としての次元と「存在の価値」としての次元を内包している。
自動車でいえば所有の誘惑としての次元としては依り高級で高価で華麗で名前が通った虚栄心や見栄を充たしてくれて自らを輝かせてくれるものを欲するのであるが、存在の価値としての次元としては安全に快適に無駄なく自分の移動目的を果たしてくれるものであれば必要は充たされるのである。
寿司で喩えるなら、私など食べた事もなく恐縮だが銀座の名店「久兵衛」の寿司などは所有の次元としての価値感が大分を占めていてその価格の中には銀座という立地の場所代や厳選された種や職人の腕前とともに看板代が幅を利かせてステイタスを演出しているのではないかと考える、しかし存在の次元で言えば栄養価は場末の寿司屋と然程変わらないだろうし味でも一貫百円の回転寿司と30倍の価格差には見合わないだろう場末の鄙びた寿司屋の十倍も旨いわけではなかろうし、倍も旨いかも疑わしいのであり、それは存在としての寿司の価値を所有しているのではなく、それ以外の何かしらの輝きにお金を払っているのである。
お金でいえば、物々交換や自己生産という方法に拠らずにそれぞれの人間相互間の共通認識の範囲において必要な事物を所有することが出来る約束された手段であるが、お金というもの事体は金属か紙にすぎないが、それに発行人と特定されたものが取り決めに従った彫刻ないし印刷を施すことで人間の社会において価値を有する付随物であり手段的価値を有するものであり、決して目的としての価値を有していは居ないのである。
何故かといえば人間の存在の主目的は生きることであり、生き続けることであるが、お金は食べることも飲むことも栄養を補給することさえ出来ないのだから、お金があれば生きられる。生き続けることが出来る。と考えるのは錯覚だと言えるのである。(いささか乱暴ではあるがそうなのである。)
その価値は時と場所を限定された処において手段として発揮してるだけで例えば砂漠に迷い込んだ時、カバン一杯の札束であっても何の役にも立たず、コップ一杯の水の価値に遠く及ばないし、ワンちゃんニャンちゃんの前に一万円札と百円のおやつを並べたら一万円札におしっこを浴びせて
百円のおやつをおいしそうに食べる筈であり生きるうえにおいては価値を見出すことが出来ない一定の状況と環境下に於ける価値を約束された手段でしかないものを目的であるかのように執着する錯覚から目覚めれば自ずと執着から解放され自由で寛大な境地へ向かうのである。
「月 白く 風 清し」という言葉があるが、足るを知り、自らを磨いて自らを高めてゆく事を忘れ、金財・地位・名誉・主義・主張・見解など欲得に執着し捉われていては、自分自身で光り輝く月や、清らかな風のように生きては行けないのである。聖人ともなりたれば襤褸をまとい悠然と生き、心と精神に輝く宝玉を懐いている存在として在るものであり、本質的には虚無(空)なものでしかない所有の次元の事物や世の中の毀誉褒貶に振り回されず、存在としての真の価値である人としての質(クオリティ)格(レベル)境地(ステージ)を高めて更に磨く為には善・浄・慈の方向へ向かい一瞬一瞬(一息)を心おきなく味わう事を忘れていては、後悔や未練や生への執着の中に一生を終える恐怖や慟哭や哀しみを味わう事になるのです。