真実の釈迦尊(ブッダ)の教えとは

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自分を高め 世界を変える純粋仏教
目覚め、乗り越え、解き放て!

●人間.仏陀について
世界中に汎ゆる宗教、汎ゆる信仰とされるものがあり、その開祖とされる人たちの中で目覚めた人.釈迦尊(ブッダ)とは、自分は神や仏やその分身や使徒など人間以外の力や啓示を受けた存在であるとか神や仏や精霊の生まれ変わりであるとか非現実的で倒錯的な主張をしなかった唯一の人であり、釈迦尊(ブッダ)が達成された涅槃(ニルバーナ)は自らが理解し到達され達成されたものである。
そして釈迦尊(ブッダ)は、自分は特別な存在ではなく、皆と同じ人間であり誰でもが決意と努力と智慧次第で目覚めた人ブッダとなれると主張なされたのであり、六道にいう地獄.餓鬼.畜生.修羅.人.そして天とは即ち生物層に於ける至高な存在である人間が崇高な存在となる事こそが天であり、真理(真実)を求め真理(真実)へと向かう人を菩薩(サットバー)と尊称し、真理(真実)を理解し叡智を顕現させ涅槃(ニルバーナ)の境地(即ち天)へと到達した人を如来とか十号で尊称したのである。
つまりは智慧の悟りとは有学による骨身に染みた気付きであり菩薩道であり、無学による深淵なる気付きこそ叡智の悟り(大悟)であり如来道なのである。
それは言い換えれば知識や情報や見解を集積させながら顕現するものが悟りの境地であり、知識や情報や見解を捨て去り離れながら顕現するものが大悟(涅槃.ニルバーナ)の境地なのである。

●仏教とは楽観主義でも悲観主義でもなく、禁欲的にも享楽的にも偏らず、厭世的でも刹那的でもなく、感覚的でも情緒的でも自虐的でも、妄想的でも倒錯的でも盲目的でもなく、真に平和と自由と平等と寛容とその実現を説き、物事を偏らずに在りのままに見る現実主義的な教えであり、こよなき幸せ・充足・平安・喜び・安定・悦楽・を実現するため八つの正しい徳目に沿った中道的な生き方の中に、精神的な幸せと物質的な幸せの安定的な地点、家族集団生活の幸せと弧の幸せの安定的な立脚点、感覚的な喜びと感覚を制御した喜びの安定的な立脚点、執着による安定と無執着による安定的な立脚点、所有による幸せと存在による幸せの安定的な立脚点など、色々な物事の幸せや喜びの本質を理解し釈迦尊(ブッダ)が発見された中道という安定的な立脚点で、日々の心の中に何を映し込んでゆくのかにより人の一生は織り成され一瞬の中に存在の永遠性を映し出し、無常法という劫火の中に在るがままの現実を映し出し、儚い存在の価値と意義を見出してゆく事により人は自らをこよなき幸せへと導いて行けるのである
釈迦尊(ブッダ)の教えこそ言わば真の「心の科学」であるとも言え、因果律に遵って条件付けられた無明(無知)な心が五蘊(五集合要素)という精神作用によって生成されている主人であると定義し、心を構成する各要素(各機能)を使用人と定義するならば、主人を智慧と真実(真理)の発見により成長させ.無明の闇を晴らし.目覚めさせてゆく事により、暴走しようとする使用人達(中でも御し難いのが衝動という業.カルマと煩悩という欲望である)を管理し制御(コントロール)し健全な主従関係を築き有意義に活動させ、真に価値ある安定した心へと導いてゆき、自由で前向きな平らかで静逸な歓びと悦楽に満ちた高い精神性の実現への道を説かれたのであり、釈迦尊(ブッダ)の御教えに基づく仏教とは、人間より高い位置の存在として妄想された得体の知れない神や仏を信じ込ませる事でも、我欲を叶える為に神秘的で倒錯的な第三の眼を開発する事でも、超越的な力からその行いに対し賞罰が下される事を説き無明(無知)な人々を惑わす事でもなく、又、世間で誤解されているような刹那的でも厭世的でも禁欲的でもなく、況して享楽的でも悲観的なものでもなく真実(真理)に基づいた現実主義を標榜する教えであり、所有の次元の事物(金財.物欲.地位.名誉.経歴.権力.勢力.承認.評価など)という一時の位や一時的には喜びや幸せや安定を齎すが、ドゥッカ(苦.心痛.悩み.迷い.悔い.儚さ.飽き. 空しさ. 哀しさ.惨めさ.怖さ.実質のなさ.愚かさ.無明.欲.不完全さ.不安定さ)へと戻ってしまう条件により生起しているだけに過ぎないものであり、やはり条件により消滅してゆく性質のものであり、決して生きる目的ではなく生きる為の手段(付随物)に過ぎないものに魅入られ翻弄され、生きる目的だと錯覚して依存してしまい、人間としての存在的価値を貶めてしまうのは、因果律に遵って誕生により条件付けられた無明の闇の中を盲目的に彷徨い生きているからであり、真実.現実.真理を依り処とし叡智を燈明とし無明の闇に光明を当てて生きる道(正道)を説いている。
その為の、集中力の養成(心の統制)→自分の真価への気付き(四念処)→偏らない中道的生活(八正道)→相互依存の関係性の理解(因果律・縁起)→自然法則の理解と覚醒(三法印)→ドゥッカ(苦悩・心痛)の理解と滅却(四聖諦)→因果律自然法則の理解による存在・非存在からの超越(輪廻と成仏)であり、それにより顕現する涅槃(ニルバーナ)の境地が到達(大悟)であり、この道程こそ菩薩道(ボディサットバー)であり阿羅漢(アラハーン)であり、到達者( ブッダ)を如来十号で尊称し信仰対象としたのです。
物事は心に基づき、心を主とし、心によってつくり出される…      もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人に付き随う。荷馬車を引く牛に車輪がついてゆく如く…             物事は心に基づき、心を主とし、心によってつくり出される…      もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人に付き随う影がその身体から離れない如く
●このようにダンマパタ(法句経典)の第一章で説かれるように心身の主人は心であり、全ての物事は心によって成され、その心によって成された作用(因縁)の反作用としての結果(果報)を受け取っている。
この因縁の生起による果報という因縁起果報の思想こそが全ての仏教に通じる根本的思想であり、全ての仏教思想はこの五字に包摂される。
そして心とは主宰的で固定的実体として独立的に存在する魂.霊魂.霊体と言った妄想的な類のものではなく、身体があらゆる物質的な要素と器官の集合要素(肉.熱.空間.液体.骨)で成り立っているように、心も心的エネルギーと物質的要素の五つの集合した要素(五蘊)により成り立ち結合した要素機能として心を生じさせているのですが、心とは表層思考域にあるのではなく潜在域に在り、表層の思考や意識とは潜在域に於いて心により生じさせた衝動や潜在概念(潜在意識)を表層域で言語化し思考を加えているだけでもあるとも言え、潜在域の心が表層へと伝えられ、表層思考や意識が潜在域に伝えられ蓄積して行くという循環作用により心(主人)が造られてゆくのです。
つまりは表層思考域に於いて良い思考や意識を潜在域に蓄積させて行けば自ずと心は清まって行き、また表層思考域に於いて悪い考えを繰り返し潜在域に送り蓄積して行けば自ずと心は汚れてゆくものであり、妄想癖の有る人が妄想を繰り返しながら自我意識が強まり自己中心的な欲深い人となってゆくのも循環作用によるのであり、それは五蘊作用による感覚→記憶→感情→主観→雑念→妄想という決して正確ではない現実認識に立脚した悪しき流れと、感覚→記憶→理性→客観→思考→想像という正確で現実的な自己認識へと向かおうとする良い流れとを識別される事もなく煩悩の欲望、執着に従って我がもの顔に振る舞う自我により成されているからに他ならず、正に使用人が好き勝手に振る舞って主人は蔑ろにされ主従関係逆転して、一使用人であった自我意識が我こそは主人であり、これこそが私の心であると錯覚し愚かさを深め主人であり心で有るべき仏性とも呼ばれる人間存在としての価値である理性.知性.精神性.徳性などを具えない愚か者(自業苦界・餓鬼界・畜生界・阿修羅界)の住人と化してゆき、それぞれの階層(分解層・生産層・一次消費層・ニ次消費層・雑食層)へと輪廻(サンサーラ)してゆくのであり、業(サンカーラ)を形成する意図的執着である貪り心の継続であり、業を形成させる意図的執着が消え、輪廻を継続させる力が無くなり再形成せず継続の輪(輪廻)から解き放たれるのが成仏(仏と成る)であり、絶対安定世界の安定エネルギー状態となる事なのです。
あらゆる心身活動ネットワークとは言わば主人である心に仕える現場担当の各使用人達だと言えるのですが、使用人達は暴走しやすく主人の目を偸んでは好き勝手に振舞おうとするのです。使用人に見くびられ舐められた主人は使用人に混乱させられ、使用人が主人を従わせようとさえして崩壊への道へと向かうのです。
つまり生存の素因である煩悩(欲であり本質的には存在欲である)も五集合要素(五蘊)による感受も記憶も感覚も感情も主観も一つの機能であり使用人であり、決して主人(心)ではなく、これら使用人達を統制し制御(コントロール)するには使用人に見くびられ舐められない精神性⇒人の質(クオリティ)・人格(レベル)・境地(ステージ)・度量(ラージ)という徳性により実現されるのであり、それが心的エネルギーの性質(運動性)の形成要素となり業(カルマ)として流れてゆく常ならざる無常な世界の自然法則が説かれているのであり、生存の素因である煩悩(本質的には存在欲)の欲は通常は意欲という生きるのに欠かせない従業員なのだが、暴走してゆくと本来の姿形にキンキラな金財欲という衣装を羽織ったり、名誉欲、承認欲という衣装を着たがったりして主人の忠告が耳に入らなくなり、主人の為にしているのだと錯覚しながら混乱とドゥッカ(苦悩.心痛)の種を撒き散らすのです。

「悪いことをした人は、この世で 憂え来世でも憂え、二つのところでともに憂う。
彼は自分の行為が汚れているのを見て、憂え、悩む。」
「善いことをした人は、この世で喜び、来世でも喜び、二つの処でともに喜ぶ。  
彼は、自分の行為が清らかなのを見て、喜び、楽しむ。 」

「悪いことを成す者は、この世で 悔(く) いに悩み、来世でも悔いに悩み、二つのところで悔いに悩む。  「私は悪いことをしました」といって悔いに悩み、苦難のところ(地獄など)におもむいて(罪の報いを受けて)さらに悩む。」
「善いことをなす者は、この世で歓喜し、来世でも歓喜し、二つのところでともに歓喜する。  「私は善いことをしました」といって歓喜し、幸あるところ(天界など)におもむいて、さらに喜ぶ。」
 
「他人の過失を見るなかれ、他人のしたこと、しなかったことなど見る必要がない。  ただ自分がした事しなかった事だけを見よ。」

「私には子供がいる。私には財産があると、愚か者は悩み苦しむ。
 自分でさえ自分のものでないのに、ましてどうして子供が自分の
ものであろうか。 どうして財産が自分のものであろうか。」

「善を成すのを急げ。悪から心を退けよ。善をなすのにのろのろしたら、心は悪事を楽しむ。」

「人がもし悪いことをしたならば、それを繰り返すな。悪事を心がけるな。悪が積み重なるのは苦しみである。 」
「人がもし善いことをしたならば、それを繰り返せ。善いことを心がけよ。 善いことが積み重なるのは楽しみである。」

「まだ悪の 報いが熟しない間は、悪人でも幸運に 遇うことがある。  しかし、悪の報いが熟したときには、悪人は禍いに遇う。」
「まだ善の報いが熟しない間は、善人でも禍いに遇うことがある。  しかし、善の果報が熟したときには、善人は幸福に遇う。」  

「その報いは私には来ないだろう」と思って、悪を軽んずるな。水が一滴づつ滴りおちるならば、水瓶でも満たされるであろう。愚かなものは、水を少しずつでも集めるように悪を積むならば、やがて禍いに満たされる。
「その報いは私には来ないであろう」と思って、善を軽んずるな。水が一滴ずつ滴り落ちるならば、 水瓶でも満たされる。気をつけている人は、水を少しづつでも集めるように善を積むならば、 やがて福運に満たされる。
 
「怒らないことによって怒りに打ち勝て。善いことによって、悪に打ち勝て。分かち合うことによって物惜しみに打ち勝て。真実によって虚言の人に打ち勝て。 」

「他人の過失は見やすいけれども自分の過失は見がたい。
人は他人の過失を 籾殻のように吹き散らす。
しかし自分の過失は隠してしまう。
狡猾な 賭博師が不利な賽の目を隠してしまうように。 」
 
仏教とは、かび臭くて、説教じみて、厄介な作法とか戒律に縛られ、葬式をするものだ。みたいに考えられているが、釈迦尊(ブッダ)が説かれた真正な仏教は「苦や悩みの本質や実相を発見され、苦悩を取り除く方法を指し示し、真の生きる意味」を教えているのである。この発見された真理により尊く偉大なのである。世の中に溢れる宗教や教えの類は偶像礼拝や預言者や神や仏などを持ち出し、洗脳にも似た間違った観念や見解を植え付け誘導する信仰を中心とするものだったりカルト思想や神秘性で人を惑わすものも多い、真実の仏教とは真逆な性質もので、他の多くの信仰宗教が得体の知れない神仏や超越的な力などへの妄想的な偏った概念の所有を強いる(信じる)ものであるのに対し、真実の仏教とは自分の心の中の無明(無知)により積み上げ心を汚染させている苦悩の原因(汚穢)に気付き、取り除き、捨て去り(捨離)、自らに具わる理性的(判断・理解・認識)能力により、冷徹に客観的に自分の内面的な本質や実相を観察し検証し理解し確証を得ると同時に、人としての質(クオリティ)格(レベル)境地(ステージ)度量(ラージ)人徳(ヴァチュー)霊性(スピリチュアリティ)という精神性を高めてゆき、真に幸せな人生へと変える「心のメカニズム」を因果関係に遵って説いている故に「心の科学」「超心理学」なのです。

苦や悩みについての「こうであるから、」「こうなった。」という因果関係を、世の中では思考法とか考え方とか対処法などで変えようとか浅薄に語る者からの情報や溢れ返る本などからの偏った知識で却って苦や悩みを深めている。
その原因は思考部分だけにあるのではなく、潜在域(無意識域)の意識(概念思考)や潜在基底層の気質にあるからなのです。心とは表面意識の「意」と無意識の概念意識の「気」より成り立つものであり、この「意」と「気」を調えてゆくことこそが「超心理学」真聖な仏教なのです。  それ故に、ストレス・苦悩・不安・恐怖、心配などにより不幸に陥っている人々に真の幸福な道を指し示し、生き方さえも見失っている人々に真に価値ある正しい道を指し示し、真の人生の勝利者へと高め、真に幸福な人間として導く教えなのであり、自我(エゴ)ばかりが膨らみ、人としての質(クオリティ)が低下しつつあり事物が溢れ欲得に魅入られ翻弄されやすい現代社会が最も必要とする開明的な教えであり、無二なる師である釈迦尊が説かれた真聖な仏教なのです。
修行法の概要を紹介すると、僧侶は托鉢(皆具修行)と内観(瞑想)と有学(経学・律学)から成る。
〇全てに於いて四念処により自分というものを観察し検証し理解する。
〇十二因縁により現象の発生から消滅までを分析し検証し理解する。
〇八正道及び十無学法により苦の本質を見極め、涅槃へと向かう。
〇七覚支や四向四果により覚りの境地・深度を検証し理解する。
諸法ありますが主要な修行法は上記の四項目であり、これらにより目指す方向は「三宝印」の分析・観察・検証・理解なのです
全ての苦しみ・悩み・怒り・貪り・怖れ・迷い・不満・痴愚などが、煩悩(生存の素因である本能)により捏造された自我という幻影により生じていることを見破って抑制し制御し滅して自我による執着や偏見がなくなってゆけば心は自縛からも解き放たれて「真理」は依り明らかに見えてくる、「智慧」は自ずと啓かれる。
理性(客観的理解認識能力)と感情とのどちらが主体であるか客体であるかの認識により、すべては不安定な本能(生存の素因)の衝動(渇き)なのであり、存在への欲、承認への欲、所有への欲などへの執着が空虚なものに過ぎず陽炎を追うが如き性質のものであると確かに識れば、心は執着から離れ捨てて、平安を得て解脱する。
「所有の次元」から「存在の次元」への大転換は達成される。