頂乗仏教とは…

路傍の如来は、何故?所属する宗派の教説や、その教えの内容が随分と近い上座部仏教でもなく、頂乗仏教を説くのかと偶に聞かれる事がある…

先ず繰り返しの話しではあるが、現存する多くの仏教経典の内、釈迦尊(ブッダ)の真実の教えを色濃く遺し.伝えてる経典類は.ブッダゴーザ師の尽力により散逸を免れた上座部が保持する経典類である事は紛れのない事実であるが、大乗にしろ上座部にしろ三蔵思想(経・律・論)により現実には仏教思想は大分に歪められているのである。

世の常ではあるが、傑出した人物の教えなり偉業なりを.伝え.継承してゆく時、多くの場合、その人物レベルは当然の如く劣化してゆくものであり、それは優れてはいるが傑出した人物でもない人達が.指導層を形成してゆき、傑出した人が継ぎ伝えて行く事は稀か皆無であり、それは.そうそう傑出した人物は現れないか.排除されて行くかのどちらかであり、深淵にまで到達できない所謂(いわゆる)優れた人達の見解.主観.経蔵(アビダルマ)という枷(蓋)が盲目的な人達の系譜を紡いでゆくからに他ならない。

それらを立証するのが.釈迦尊(ブッダ)の教えを浅薄に捉えると退廃的な虚無思想と化すという進退一如でもある性質により、上座部仏教圏は後進国に甘んじ、鈴木某というオタクが持ち込んだ上座部思想の伝播と.軌を一にする影響も関係するのか.しないのか?…日本も未曾有の退廃と没落を経験しているのである…
これは釈迦尊(ブッダ)の教えが現代社会を害するのではなく、寧ろ真の釈迦尊(ブッダ)の教え仏教は、毒され冒され苦しみに満ち溢れた現代社会には必須な神薬とも呼べる妙薬であり、盲目的な人達の系譜による不毛な観念.浅薄な理解が、人類を至高な存在へと導く崇高なる教えを.人類の進化と発展とを阻害する退廃的.虚無論的.刹那的な運気を下げてゆく信仰へと変質させている事に気付けないでいる…

頂乗仏教とは、釈迦尊(ブッダ)の真の教えを継ぎ.伝える純粋仏教であり、陰陽の両極で捉えるならば.陰極に座す沙門(僧侶.精神世界)により.陽極に座す民衆(現実世界)を安堵し、陰陽の両極により世界は発展し栄える陰陽一如の実現なのである。

深淵な仏の教えが栄える時、
国も人も栄え..
浅薄な仏の教えが栄える時、
国も人も衰退する…
陰極が陽極を欲する時、世界は渾沌とし
陽極に陰が指す時、世界は混乱を催す
光りと陰との狭間に色(現象)は生ずる…
是れ世の摂理なり

一切皆苦(全ての苦の本質を覚らぬ者皆)
諸法無我(全ては我(主観.観念)に依らず)
諸行無常(全ては常なく変化生滅してゆく)
涅槃寂静(正道に添えば能.平和.繁栄.静逸)
是諸仏道(是れぞ諸仏の教えなり

放逸と不放逸

★放逸とは…自分勝手で.気ままな事、
集中力を欠き.散漫で.気付けない事
★不放逸とは…集中と気付きがある事

法句経(ダンマパダ)より
人々よ、放逸に耽ることなかれ
愛欲と歓楽に勤しむことなかれ
遊興と娯楽に浪費することなかれ
怠ることなく思念をこらす者は、
大いなる悦楽を得る
賢者は不放逸により.放逸を乗り越えた時.智慧の高楼に登り、
憂いに沈んだ人々を憂いなく見おろし
苦悩に沈んだ人々を苦悩なく見おろし
不満に沈んだ人々を不満なく見おろす
山頂にたった人が地上に居る人々を眺めるように
賢者は.集中と気付きが実践できない愚かな人々を観察する…
頂乗仏教の実践
(心身への集中と気付きの実践)
❖だんだんと真理(真実.現実.実相)が観えてくる
❖存在の謎が解けてゆく
❖一切の疑念や妄迷が無くなってゆく
❖心の汚穢が清められ、煩悩に主導されていた心は解き放たれ.解放されてゆく
❖心を縛っていた悪.愚.無知の束縛から徐々に解き放たれ.解放されてゆく
❖自我の妄想から徐々に解き放たれ.解放されてゆく
❖自分の心の未熟が端正されてゆく
❖精神性が向上してゆく
❖日々の高いレベルの平安.静逸.悦楽.幸福感が得られてゆく
❖福徳に満たされてゆく
❖更には生死の流転である輪廻の流れから解き放たれ、成仏する
⭕今を生きる
即今実存を参照
https://ameblo.jp/bongteng/entry-12509703054.html

⭕智者は今を生きる
https://ameblo.jp/bongteng/entry-12502426234.html