自分を高め 世界を変える純粋仏教
目覚め、乗り越え、解き放て!
この世で一番惨めな人とは、
感謝すべきものに心から感謝が出来ない人
この世で一番哀しい人とは、
この世で一番哀しい人とは、
偏った観念に染められ自分らしさを失った人
この世で一番淋しい人とは、
この世で一番淋しい人とは、
愛すべきものを心から愛せない人
この世で一番苦しむ人とは変化生滅してゆく現実を心から受け容れる事が出来ない人
この世で一番惑う人とは無明の闇を晴らして世界を在りのままに眺めようとしない人
この世で一番空しい人とは自分に囚われ、拘り、心から他者を慈しむ事が出来ない人
この世で一番儚い人とは、感覚的.感情的.主観的に物事を捉えようとする人
この世で一番苦しむ人とは変化生滅してゆく現実を心から受け容れる事が出来ない人
この世で一番惑う人とは無明の闇を晴らして世界を在りのままに眺めようとしない人
この世で一番空しい人とは自分に囚われ、拘り、心から他者を慈しむ事が出来ない人
この世で一番儚い人とは、感覚的.感情的.主観的に物事を捉えようとする人
総括の時、金財を遺すは下の道であり、
凡そ執着離れ難し。
総括の時、業績を遺すは中の道であり、
総括の時、業績を遺すは中の道であり、
凡そ未達を悔い嘆く。
総括の時、教えを遺すは上の道であり、
総括の時、教えを遺すは上の道であり、
後に続く者に光明を齎す。
総括の時、道を遺さぬは最上の道であり、微塵も跡を残さず。無明こそ生きる他力なり...知らぬが仏かな。
総括の時、道を遺さぬは最上の道であり、微塵も跡を残さず。無明こそ生きる他力なり...知らぬが仏かな。
ダンマパタ
「百年の間、月々千回ずつ祭祀を営むより、自己を修養した人を一瞬間でも供養するならば、その供養のほうが百年祭祀を営むより勝れ功徳がある。」
「身の装いはどうあろうとも、行い静かで心が修まり身心調えて慎み深く行い正しく、生きとし生きるものに暴力を用いず労る人こそバラモンとも道の人とも托鉢遍歴僧とも言うべきである。」
人は、森羅万象.天地自然の中、ありとあらゆる他力によって生かされている。
「身の装いはどうあろうとも、行い静かで心が修まり身心調えて慎み深く行い正しく、生きとし生きるものに暴力を用いず労る人こそバラモンとも道の人とも托鉢遍歴僧とも言うべきである。」
人は、森羅万象.天地自然の中、ありとあらゆる他力によって生かされている。
ありとあらゆる他力から独立した単体として生きてゆく事など出来ない存在であり、悠久なる時空の流れの中に束の間、人間として現れただけなのである。
全ては人間存在の本質は、不完全.不安定.儚く.弱く.脆く.苦しく.空しく.哀しく.惨めさ.実質のなさ.無明なものであり、自己防衛、自己保存への根深い欲望に被われ、保護.安全.安心.恩恵のために何かしら依存し支えとなる精神的支柱(拠り処とするものを必要としていて、例えそれが一時的で滅する性質の物であっても強烈にしがみつき手放す事が出来ずに、それでも生存の素因の欲による煩悩(存在欲)の欲望である生きる意欲により力強く強かに生きているのである。
愚かな人とは自力で生きていると錯覚し自分を愛する事に懸命で、自分に誠実である事に腐心し他力に気付くこともなく、妄想された自分という主宰的な実体に翻弄され、主観的な感覚.感情に従い現実との齟齬を他力によると責任転嫁し自業自得・因果応報な自然法を否定し倒錯し閉鎖的な我田引水な偏った見解に束縛される人。
無明な人とは物事が本当には見えていないのに見えている理解していると錯覚したり自惚れたりしながら、明かり(真実・叡智)を灯さず闇の中を手探りで行き当たりばったりに彷徨うように盲目的に生きて行く人。
人は社会に於いても天地自然の摂理に於いても独立して単独で存在できない、因果律に遵った全宇宙的な相互依存の関係性(縁起)の中で、在りとあらゆる他力によって辛うじて生かされているに過ぎない泡沫(うたかた)の如き存在であり陽炎(かげろう)のような儚い本性のものであり、生命の無限で自在な働きなど到底理解することなど出来ずに存在しているのである。
他力とは現実的な森羅万象.空間.環境.時間(時期・時代).関係性によって成されるのであり、父母のお陰様で産まれ、天地自然や森羅万象に生かされ、健康や生命力に支えられ、他の生命の犠牲の上に辛うじて存在しているのであって、得体の知れない他力によって生かされて居るわけではなく、例えば相互依存関係(捕食の関係・食物連鎖)から考えてみれば微生物から高等生物まで、人類が滅亡したとしても彼らは何も困る事など無いだろうが、彼らの何れかが滅び連鎖性が損なわれたとしたら生命層は破壊され人類も存在することができない。バクテリア(分解層)が滅びたり植物(生産層)が滅びたりしたら他の動物(消費層)も連鎖的に滅びる定めの上にあり、そして大自然に対しても同様であり、大宇宙、大自然の中で辛うじて保たれている安定状態という限られた期間に存在できるのが人類であって決して永遠を保証された存在でもなく人類が滅亡しても大自然は幾分も変わらず変化生滅を繰り返してゆくだけであるが、ひとたび大自然が牙を向ければ人類など露と消える儚い存在である事に気付かされるのである。
そこには汎ゆる他力が投影され象徴化(シンボライズ)された信仰心とは異質な得体の知れない神や仏や超越的な力への信仰を主張する無明な者達は存在せず、ただ大自然の法則、大宇宙の法則(摂理)による大いなる他力によって成されるのであり、感謝し、敬い、崇め、奉り、畏れる信仰心こそが信心であり、お願いし任せて依存し祈り唱え讃え諂う信仰心や信心は、愚かな人を気休めを超えて陥らせると欲深くさせ妄想的にさせ現実から逃避させるだけのものであり、
現実的な物事に感謝.畏怖.畏敬.崇拝が出来ない人には光明の学(真理)を得る事は出来ず、現実的な摂理を理解することが出来ない。
しかし無明な闇の中を盲目的に生きる衆生の苦(ドゥッカ.苦悩・心痛)を抜くが仏法の第一目的であり、毒矢の譬えで説かれるように毒の原因・種類・性質などを分析し理解し知的好奇心を満足させる前に一時的な気休めに過ぎない応急処置であろうが先ずは毒が全身に周って死んでしまう前に少しでも毒を抜いて行かなければならずその為には得体の知れない神や仏に縋るのも一手であり肯定される事であり諸宗派はそれを目的として創られたと言えるのだが、仏法の本道は無明の闇を晴らし盲目的な生き方に光明を灯し目覚めさせ覚醒させ、乗り越え超越させ、解き放ち解放させ、自由で堅固な幸せをもたらす事を主目的としているのであり、故に釈迦尊( ブッダ)は、因果律に遵った縁起(条件)によって現れる現実的な他力への感謝が心を清め、心を育成し、智慧を顕現させて精神性を高め、幸せへと導いてゆく法を説かれ、釈迦尊(ブッダ)の叡智の仏教では六方崇拝を必須なものなのです。
しかし無明な闇の中を盲目的に生きる衆生の苦(ドゥッカ.苦悩・心痛)を抜くが仏法の第一目的であり、毒矢の譬えで説かれるように毒の原因・種類・性質などを分析し理解し知的好奇心を満足させる前に一時的な気休めに過ぎない応急処置であろうが先ずは毒が全身に周って死んでしまう前に少しでも毒を抜いて行かなければならずその為には得体の知れない神や仏に縋るのも一手であり肯定される事であり諸宗派はそれを目的として創られたと言えるのだが、仏法の本道は無明の闇を晴らし盲目的な生き方に光明を灯し目覚めさせ覚醒させ、乗り越え超越させ、解き放ち解放させ、自由で堅固な幸せをもたらす事を主目的としているのであり、故に釈迦尊( ブッダ)は、因果律に遵った縁起(条件)によって現れる現実的な他力への感謝が心を清め、心を育成し、智慧を顕現させて精神性を高め、幸せへと導いてゆく法を説かれ、釈迦尊(ブッダ)の叡智の仏教では六方崇拝を必須なものなのです。
●正統な仏教徒は六方拝(東・西・南・北・天・地)を行ぜよ。
六方への崇拝
東方拝 東方に両親を敬い、崇拝し、感謝し、幸せを祈る
西方拝 西方に兄弟姉妹を敬い、崇拝し、感謝し、幸せを祈る
南方拝 南方に恩師を敬い、崇拝し、感謝し、幸せを祈る
北方拝 北方に友人や隣人を敬い、崇拝し、感謝し、幸せを祈る
地方拝 地方に使用人・部下・弟子を敬い、崇拝し、感謝し、
幸せを祈る
天方拝 天方に聖人や如来を敬い、崇拝し、感謝し、幸せを祈る
この六方を崇拝すべきであり、崇拝対象に対しその義務を果たすことにより初めてその崇拝は大いなる果報を生じる。
※六方拝(東西南北天地)とは全方位から齎せる恩恵への感謝と祈りでもある。
●全ての生きとし生きるものたちが幸せで在りますように。