如来品正師 多々方路傍石 語録-6

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自分を高め 
世界を変える真正な仏教

如来品正師
多々方路傍石.語録
似慈悲
兎角 新興宗教を広宣する連中は慈悲だ慈悲だと嘯いて自分達の教えは正しくて他の教えは間違っている!劣っている!と囀るが求めてもいない他人に対して自身の思想を押し売ろうと試み、意に沿わないと地獄へ墜ちる!だの成仏出来ない!だのと脅し込む何処に慈悲が在ると言うのであろうか.それは突き詰めて行けば観音信仰とその呪文こそが、お釈迦様が色々説かれた最後に説かれた最上の教えであるという捏造された妄想を真実だと信じ洗脳(染脳)された無明な人達が、観音様を信仰しないで他の仏を信仰する事は悪事であり地獄へ墜ちると本気で思い込み他の信仰に対して敬意を払う事なく誹謗中傷し攻撃するという不毛な反仏教思想そのものに他ならないのでありある意味に於いては彼等も偏った思想に染脳(洗脳)された被害者であると言えるが自分が救われる事を願い求め、あまつさえ望んでも求めても居ない他者に対して敬意を払う事もなく自分の思想を押し付けようとする行為は思想の自由、信教の自由という観点から言っても悪行であり、それは善行や慈悲という崇高な言葉を以って為される偽善や似慈悲に他ならず、仏教思想とは言えない反仏教思想でもある独善的な蛍思想に冒されて居るのです。   
ホ~ホ~蛍来い♪
あっちの水は苦いぞ♪
こっちの水は甘いぞ~♪
ホ~ホ~蛍来い♪    
そんな自我の塊りのような信仰集団の一つが政権与党の一角を占めているような今の日本の政治が良いほうへ向かうとは思えないのは杞憂であろうか。                                   
参考「本覚・真如思想はカルト思想」
自由とは法に則った自分個人の範囲内に於いて自由なのであり、社会生活や人間関係の上に於いては自分の自由や権利は制限され社会や人間関係に於いて許容される範囲に於いてのみ主張できる自由や権利でしかないのです。

贅沢
一切万象 自因果自得
一切万法 自因果応報
人々よ 心を清め給う
貧しき心を清め給う
卑しき心を清め給う
浅ましき心を清め給う
人々よ 徳を積み給う
人々よ 質を高め給う
人々よ 格を磨き給う
人々よ境地を深め給う
人々よ度量を肥やし給う
人々よ無明を目覚め給う
人々よ暗愚を晴らし給う
人々よ躯を解き給う
一切万象 自因果自得
一切万法 自因果応報

浄化、浄化と唱えるなかれ
清まるが何かも気付かずして
汚れ、汚れと唱えるなかれ
汚れるが何かも気付かずして
汚れるも清まるも唯一心なり
自我への捉われ拘り執着.愛着に如ず.                                 
自我の行いとは利得(所有)への渇望なり                              自我を芯とする両極への分別選択なり                                  自我が行う善は全ては策謀.偽善なり                                  無我にて行う善こそが陰善なる徳行なり                              自我が行う全ては汚穢を積み
無我が行う全ては人を清める
全ての悪は自我により成され
もし魂が在るならば
人は清まる事はなし
自我を離れたるは安楽なり

何故、自我の妄想を乗り越える事が出来ずに自分に捉われ拘り執着して生きたり悪を積み重ね他を害した者や無明の闇の中を盲目的に生きた者が分解層(地獄界)や生産層の(餓鬼界)へと輪廻して行かねばならないのかは、因果律(縁起)と言う相互に依存しあう関係性の上にこの現象世界(大宇宙)が存在しているという事実(真理)を真に理解出来たならば明白な事なのである。 
人は通常、有益で重要な事も考えているだろうがそのほとんどは愚かな事やどうでも良い事.下らない事.詰まらない事をゴチャゴチャと積み重ねながら煩悩(存在欲)の要求に従って貪瞋痴(貪欲.瞋恚.痴愚の三毒)の思考をしながら生きている事実に先ず気付かねばならす、雑念を放置していると妄想をし始め煩悩(存在欲)の要求に従った自己中心的で自分の都合に沿った自分勝手な自我意識を強めて人を欲深くさせ自分にばかり捉われ拘り執着させてゆくのでありこれを仏教では心が汚れ穢れると見るのであり諸悪は自我への捉われ拘り執着によってなされるのである              潜在域の煩悩(潜在煩悩・随眠煩悩)と業(カルマ)によって発せられる衝動(意志)に主導され従って生きれば生きるほど下層の動物的となり、なまじ智慧を持つから煩悩(存在欲)は自我の存在を錯覚し妄想し意識して自我に捉われ拘り執着し煩悩思考(貪欲.瞋恚.痴愚という貪瞋愚の三毒思考)を繰り返して自ら汚れ穢れてゆく事となる。       他の生命が輪廻の激流を上流に向かい流れてゆくのに人間だけが何故に下流へと流れて行かねばならない者が居るのか、それは人間以外の他の生物は悪事などは行なわず、例え肉食獣が他の生命を殺め食するのもボツリヌス菌が人を殺すのも蜂が人を刺すのも自己防衛・自己保存の為の自然の行為であり悪事とは言えず被害を被った側が悪事だと偏って見做しているだけであり、悪事だと認識しながら悪事を平然と行えるのは自我の妄想に支配された人間だけなのである。先ず至高の存在であり、神々さえも下り来ると言われる人間界と人間と言う存在について触れると、人間という存在が高度に発達させたその思考力と理性に基づいた記憶力.洞察力.想像力.状況把握.認識能力などにより、この世界の真理(真実.実相)を理解できる能力を具している至高な存在であり、また手先の器用さによりあらゆる物を造り出す能力を持っているが、本質的には他の生物と何ら変わる事のない単なる進化系であり、感受器官が受け取った刺激情報に対して感覚を生じさせ、その感覚を記憶に結びつけ感情(衝動.意志)を生じさせ、その感情(衝動.意志)に基づき概念(潜在意識)を生じさせている。それを其々の生体階層の機能に従って表層意識として生じさせて、其々の生体的階層に従って認識しているだけであり、其々が帯びる性質(業・カルマ)と生存への渇望(煩悩)による運動性(意欲)により形成されている。この現象世界の真理は「不安定性の安定化」であり、常ならざる変化生滅(諸行無常)も、本質的にはドゥッカ(苦)であるエネルギーにより生きている(生存の素因)のも、無我で移ろいゆく存在(諸法無我)が実存的で実相的な自我(魂.霊魂.霊体)を妄想するのも、銀河が回転するのも惑星が恒星のまわりを周るのも例え一時的なものに過ぎずとも全ては「不安定性の安定化運動」なのであり、全ての物質の不安定状態の安定化運動と同様に精神世界の心的エネルギーも不安定性の安定化運動により成り立って居り不安定性(ドゥッカ)の安定化運動として楽(喜び・小楽・大楽)へと向かうのである。右に傾いたものは安定化の為に極限まで傾くか左に振り戻るか安定点へと向かおうとする「ヤジロベエ運動」だとも言え.悪に偏ったものは善に向って傾く事で一時的にせよ安定点を得る事が出来るように輪廻の継続においても今生に於いて自分の所有や消費や煩悩の為だけに捉われ拘り執着していた存在は、次の世では他の生命の為の生産層(植物類.菌類.昆虫類など)として生まれ安定点へと向かい、自分への捉われ拘り執着により悪事を重ねて汚れや穢れを多く造り出した存在は、次の世では他の生命や環境の為の分解層(微生物.原生生物など)として生まれ安定点へと向かうのであり、他を食い物とした者は食われる側に周り、他に食われた者は食う側へと周る捕食の関係性の上に進化の道(継続してゆく連鎖・輪廻)を辿り、この世界の真理(真実・実相)を理解する事が出来る至高な存在・人類へと辿り着いたのであり、折角の貴重で束の間の人の身を煩悩に誑かされて自我と欲望に塗れ生きては折角の磨けば輝る宝玉を、ただ曇らせるだけの一生とぞ化す。         如来品正師.多々方路傍石.語録】

● 四念処を 修さぬ仏道 御陀仏道 
能書き宣い 豚に真珠
言うは易く 厳しき戒律 売りにして
行なうは難く 肥え太る

如来品正師.多々方路傍石.語録】

自らの無明に気付けぬ故とは言えど
良き師に巡りあえぬ者こそ憐れなり
死刑になりしオウムの林泰男も語る
「師を違えると人生を違えてしまう」
倒錯したカルトが溢れ返る世の中で
邪教に染められし者を如来は憐れむ
来世は決して師を見誤る事なかれと

如来の弟子は幸いなれ
無明の闇に真理を灯し
難病業病さえ根治させ
艱難辛苦を乗り越えて
苦悩の日々は最早なく
平安と喜びと静逸の中
如来の筏は捨て去りて
人の筏とぞ成り行かん
如来の弟子は幸いなり

 【如来品正師.多々方路傍石.語録】

       心の栄養素
心の栄養は喜びであり快楽.平穏.欲望.幸福.安心.満足.もまた喜びの化身であり喜びを求めていない人は居らず、これから自殺しようとする人も、ストイックに苦行を行ずる人もその中に喜びと幸せが見い出せると錯覚するからでありは、皆、喜びの正体も知らずに次から次へと喜びを求めて彷徨って居るのだ。
例え明日をも知れない絶望の中に居ようと、多くの喜びに包まれて居ようと更なる喜びを求めずには居られない決して満たされる事のない無限地獄の中に身を置く存在だとも言えるのである。
人は煩悩(存在欲)を生存の素因として生かされてていて、生きる意欲に始まり全ての渇望や欲は煩悩(存在欲)の要求に他ならず、永遠の存在へ向かおうと夢みる煩悩(存在欲)の要求に幾ら応えた処で更なる要求をして来るだけで決して満たされる事なく次から次へと喜びを求め続ける無限地獄へと陥り、一時的な喜びにせよ喜びを与える物事には貪り執着し、一時的な喜びにせよ喜びを阻む物事には怒り排除し、一時的な喜びにせよ喜びが得られない物事には愚痴り喜びを渇望し、貪瞋痴の三毒と束の間の喜びを栄養素として煩悩(存在欲)に翻弄されながら無明(無知・暗愚)な闇の中を盲目的に生きて居ながら、物事が見えていると錯覚し自惚れているから、毒華(ドゥッカ・不安定さ.不完全さ.苦しみ.悩み.心痛.悔み.迷い.恨み.儚さ.脆さ.弱さ.怖さ.哀しさ.空しさ.惨めさ.実質のなさ.欲.渇き)が付いて廻るのである。

如来品正師.多々方路傍石.語録】

気付きとは自ら眺め分析.思惟.検証し見出すもの
覚醒とは自ら眺め分析.思惟.検証し目覚めるもの
超越とは自ら眺め分析.思惟.検証し乗越えるもの
解放とは自ら眺め分析.思惟.検証し解放される物
解脱とは自ら眺め分析.思惟.検証し脱縛するもの
自由とは自ら眺め分析.思惟.検証し自在なるもの
涅槃とは自ら眺め分析.思惟.検証し真理に依る物
大悟とは自ら眺め分析.思惟.検証し顕現するもの
その背負いたる夢幻の如き重荷を捨て去るに似て

如来品正師.多々方路傍石.語録】

人としての精神性(人としての質(クオリティー)を高め・人格(レベル)を磨き・境地(ステージ)を深め・度量(ボリューム)を拡げる)に努め励む日々ほど満たされて楽しく幸せな時はなし。 無明(無知)の闇を明らしめ盲目的な心眼を目覚めさせ(覚醒)乗り越え(超越)解き放たれた(解放)自由ほど堅固で安定的な平安と寂静はなし。人々が息災に暮らし、人々が平安な日々を送り、人々が楽しげに語らい、人々に歓びがあり、人々が笑顔で在る時ほど嬉しい時はなし。生きとし生けるもの全てが、安心で平安であれ生きとし生けるもの全てに、歓びと幸せがあれ如来品正師.多々方路傍石.語録】


もし魂が在るならば食べ過ぎたりはさせぬだろう
もし魂が在るならば夜更かしなどはさせぬだろう
もし魂が在るならば病気になんかさせないだろう
もし魂が在るなら感覚衝動感情主観はないだろう
もし魂が在るならば危険なことなどさせぬだろう
もし魂が在るならば不条理な人生などないだろう
もし魂が在るならば理不尽な社会などないだろう
もし魂が在るなら外見を飾り立てはさせぬだろう
もし魂が在るならば全ての命と繋がりゆくだろう
もし魂が在るなら死に怖れなく転生できるだろう
もし魂が在るなら無明で盲目的には生きぬだろう

如来品正師.多々方路傍石.語録】

権威主義的メンタリティ

権威主義的メンタリティ障害こそ衆生たらしめ
権威に阿るとは夢幻に依存し真理に抗うに同じ
権威に阿るとは天動説を信奉してた者達であり
権威に阿るとは地球を中心に世界が廻ってる人
権威に阿るとは未だに進化論を受け入れない人
権威に阿るとは社会通念を乗り越えられない人
権威に阿るとは先入観に縛られ真実を見ない人
権威に阿るとは既成概念を奉じ無抵抗に従う人
権威に阿るとは不安定社会を安定的だと思う人
権威に阿るとは頑強な男性は心も強いと思う人
権威に阿るとは大本営発表に一喜一憂してた人
権威に阿るとは医者の診断を疑わず信じ込む人
権威に阿るとは教師は人格者ばかりだと思う人
権威に阿るとは聖職者は善人だと勘違いする人
権威に阿るとは大僧正は無欲だと騙される信者
権威に阿るとは天皇陛下を今だに神と崇める人
権威に阿るとはブランド力で良し悪しを計る人
権威に阿るとは金持ちは高級車に乗ると思う人
権威に阿るとは家柄経歴を見て行いを見ない人
権威に阿るとは新聞テレビを無警戒に信じる人
権威に阿るとは秀才は眼鏡を掛けてると思う人
権威に阿るとは美人は心も美しいと錯覚する人
権威に阿るとは迷信も根拠があると気にする人
権威に阿るとは風聞世評を真実だと誤解する人
権威に阿るとは学者の学説を鵜呑みにしてる人
権威に阿るとは歴史文化風格に信頼を寄せる人
権威に阿るとは他人の評価を信じて自惚れる人
権威に阿るとは無思考無批判に追随してゆく人
権威に阿るとは現状の不満足を愚痴るだけの人
権威に阿るとは権力勢力の前では卑屈である人
凡そ権威を尊び権威に惑わされているのは凡夫
凡そ幻覚に過ぎない権威から目覚めた者により
発見.発明.進歩.発展.革新は成し遂げられてゆく
自らが眺め.考え.分析し.検証し.確証は得られる

如来品正師.多々方路傍石.語録】

身口意の三業

言うは容易く行なうは難し
思いは有れども行う事なし
行ずれど思いは其処に非ず
心と言葉と行ないの三業を以て実と成す
祈ろうが願おうが思おうが無価値なもの
祈ろうが願おうが語ろうが無価値なもの
祈ろうが願おうが行ないが価値観を生ず
                          
思うばかりで行ないが伴わない者は愚人
語るばかりで行ないが伴わない者は悪人
行うばかりで慈しみが伴わない者は凡人
自我により主観的.感覚的.感情的.主観的
な人は妄想界では納得できる行いを成す
自我により主観的.感覚的.感情的.主観的
な人は妄想界では納得できる言葉を成す
自我により主観的.感覚的.感情的.主観的
な人は妄想界では納得できる思いを成す
自我への捉れ拘り執着を乗り越えた人は
無私無為にて現実界で慈しみを施すもの
自我の妄想に生きる者達は自分だけには
災禍など来ないようにと願うが、他人の
災禍など本当は他山の石でしかないのだ
  
自分には災禍など来ないだろうと悪業を
積んで行くならば瓶もやがて水滴で満ち
溢れる如く必ず大きな災禍に満たされる
見返りなど求めずに自らを高める善業を
積んで行くならば瓶もやがて水滴で満ち
溢れる如く必ず大きな福徳に満たされる
     一切万象自因果自得
     一切万法自因果応報


如来品正師.多々方路傍石.語録】

全ては自分の為に成す
人格こそ財であり 慈悲こそ宝なり
苦行と言っても自虐的なストイックなストア派に在らず、苦楽の両極を理解せず中道涅槃を奥深く味わう事出来ず      忍辱と言っても子供相撲など上るべき土俵を違えぬだけ              浄化と言っても清濁同時に住まいて選ぶ心を育てるだけ           施与と言っても自分の為の種まきで福の木に大福は咲く           慈悲と言っても質.格.器量が磨かれて輝くは我が身なり                 断雑念と言ってもゴチャゴチャと考え迷妄に陥らんが為           無一物と言っても貧困に向かうのでなく豊かさに向かい           捨離と言っても捨て離れてこそ得られる真理は膨大無限           他者を思い遣ると言えども愚かな自我を乗り越えるため           智慧と言っても物事をどう捉えるか次第で平安は堅固だ              無我と言っても地獄(自業苦)の火に焼く尽くされんが為              自我は忘れれば忘れる程に我が身は軽安なるを知らずや           覚醒と言っても無明から目覚め精神性を高める事であり           超越と言っても無明を乗り越えて人格を磨くことであり           解脱と言っても妄縄を脱し自爆から解放される事であり           解放と言っても解き放たれ自在な境地を深める事であり           覚醒.超越.解放され在るが侭なる梵住こそ甘露なりせば               全ては自分の為に成す
人格こそ財であり 慈悲こそ宝なれば

如来品正師.多々方路傍石.語録】

進 化

陸へ上がれば広く美しい世界が有る事も知らず
魚は自分の住む水の中こそ世界だと思っている
しかし自惚れる魚を陸に上げれば溺れてしまう
自分が魚だと気付き進化を目指さねばならない
人の進化も同じ事で自惚れていては雑魚のまま
幾ら待っても雑魚のまま何代経ても雑魚のまま
魚が気付き進化を目指す時を機根が調うという

如来品正師.多々方路傍石.語録】

世間の利得を求める道も道なれば出世間の真理を求める道もまた道なり。そして利得を求める道と真理を求める道は実は逆方向の道であり表と裏の関係性でもある。真理を求める道には裏に利得が潜み、利得を求める道の裏には真理が潜んでいる。どの道も心を制御し精進してこそ成し遂げられる道でなのである              
「幸せも、歓びも、涅槃さえも、語るものでも考えるものでもなく、味わうものである。」苦も楽も一如なりて、感性しだいで苦にも楽にも感じる物なのであるしかし幸せも喜びも涅槃も、苦を前提条件として味わうという因縁による。苦楽の中道において苦楽をともに楽しんでしまう楽々苦楽に生きてゆこう。                
外に自分というものを幾ら築いた処で空しく儚いものでしかなく、内に自分というものを築ければ自ずと人格も完成する。解っているようで全く解っていないものそれは真の自分というものである。内に自分の心を捜し求めれば逃げ回り誤魔化し騙し自惚れさせる。発見し観察してみれば愚かで未熟で空しく、詰まらない物事に拘り、どうでもいい物事に捉われる下らない存在でしかない事に気付くだろう。人はそこから真に磨かれてゆくのである。                 

如来品正師.多々方路傍石.語録】

世の中には主観的に生きてる人や
直感的に生きてる人は多いもので
直感というものが堅固なものなら
直感に従って生きれば良いのだか
主観というものが堅固なものなら
主観に従って生きれば良いのだが
主観ほどいい加減なものはなくて
主観とは人間の五蘊(精神作用)、
外部.内部からの刺激.情報に対し
感覚を生じ→記憶を探り→
衝動を生じ→感情を生じ→
主観を作り出しているだけだから
時間と環境によって変わってゆく
不確かで信用出来ない代物なのに
何の確証も例え真実でなくても、
私はこう思う彼はああだろうと、
邪推し妄想し偏り間違い錯覚した
見解を積み重ねるのが主観である
直感的に生きれば人は迷い苦しみ
主観的に生きれば人は悩み苦しむ
霊感で生きる倒錯した阿呆も居る

如来品正師.多々方路傍石.語録】

世の中には器用な人が居れば
不器用な人も居る
しかし器用な人は幸せで
不器用な人は不幸とは限らない
なまじ器用者は物事を安易に熟し
慎重さを欠くものだ
不器用者は物事を慎重に熟すが
要領が悪いものだ
物事は心身が調って何事かを
成すことが出来るもの
身体的に優れても心が伴わなければ
唯の筋肉質で危険だ
心が優れていても行動が伴わなければ
唯の能書き吐きで無能だ
運動では筋肉は絶対に必要だが
   筋肉量で優劣は量れないように、   
運動では瞬発力が絶対に必要だが
   瞬発力で優劣は量れないように、   
運動では持久力が絶対に必要だが
   持久力で優劣は量れないように、  
運動では根性が絶対に必要だが
  根性で優劣は量れないように、  
心でも知識は絶対に必要だが、
  知識量で優劣は量ることは出来ない
心でも性格は絶対に必要だが、
  性格で優劣は量る事は出来ない。 
心でも努力は絶対に必要だが、
   努力で優劣は量る事は出来ない。 心でも智慧は絶対に必要だが、
   智慧で優劣は量る事は出来ない。 もし筋肉量で運動の優劣が量れたら
筋骨隆々な人が何時も一番な筈なのに
時にひ弱な人に捻られるもの
もし知識量で心の優劣が量れたら
学者こそが聖人となれる
もし性格で心の優劣が量れたら
素直な凡人こそが聖人となれる
もし努力で心の優劣が量れたら
一途な単細胞こそが聖人となれる
もし知恵で心の優劣が量れたら
捻くれ者こそが聖人となれる
皆、絶対に必要な要素は具しているけど
全く違う結果となるもので
肝心なの心身をどう調え、
どう制御(コントロール)してゆくかであり
無明な心をどんな明かりで灯してゆくのか
色の付いた灯りで照らせば色物になり
歪んだ灯りで照らせば歪つな物となり
偏った灯りで照らせば明暗表裏な物となる
真理(真実)の明かりで照らして行けば
叡智は必ず顕現し安穏な物となる。

 如来品正師.多々方路傍石.語録】 

子供たち 眠りし顔は 仏様

死んで仏と成れるなら、
この世で励むは何たらや

万世一系を以て皇室を敬う阿呆も居るもの
人類全ては元より一系一統なるを知らずや
人は生まれにより尊いのでなく行いにより
尊い人も卑しい人も在る多様性世界である
自然と頭が垂れてしめる天皇陛下その心
言葉と行いとが敬う尊い方と在らしめる

如来品正師.多々方路傍石.語録】

自分に捉われすぎ、拘りすぎれば
必ずドゥッカ(苦悩.心痛.)へと到る
自分を中心にして物事を行えば、
自分の想いに沿わない事ばかり、
周りを自分に合わせようとすれば
摩擦を生じさせ生き辛くなるだけ
不確かな主観で物事を判断すれば
凡そ真理(真実)からは遠退いてゆき
自我意識に縛られて自ら苦しむだけ

如来品正師.多々方路傍石.語録】

今という一瞬の内に我が全存在はあり
過去世にも未来世にも我が存在はなし
其処に在るのは過去の記憶と未来の幻想
壁にぶつかり悩んだ過去の記憶も
順風満帆で有頂天だった過去の記憶も
今在る因縁に如かずとも今の我れに非ず
未来が如何に閉ざされようが
未来が如何に開かれようと
今の我れを因縁とし次の何かが現れ行く
暗夜行路を行くが如し
今という一瞬の実存を如何に生き
如何に味わい如何に完結させるか
次の一瞬に我れ見い出したれば
唯、一瞬の内に我が実存を
奥深く生き、味わい、完結するだけ
平安.安楽.静逸.歓喜でこよなく幸せである

如来品正師.多々方路傍石.語録】
意識は条件により生起し、
条件のない処には意識は生起しない。
条件により生起する性質のものは、
条件により消滅する性質のものである。
外世界、内世界からの情報、刺激の感受により感覚が生じ、記憶により衝動が生じ、衝動により感情が生じ、感情により主観が生じ、それを表層の思考がゴチャゴチャと分別.分断して偏った自分の見解なるものを潜在域に積み重ねながら五蘊をグルグル廻してゆく