釈迦尊(ブッダ)が目指したもの

 
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相互依存関係性(縁起)における汎ゆる物事を象徴化(シンボライズ)し感謝し.畏敬し.崇め.奉り.信仰心へと高め、拠り処(精神的支柱)とし、現実を直視し、現実の中で今ある汎ゆる困難に立ち向かい乗り越えてゆく道こそ、人を真に幸せへと導く道であり、人間の本質的なドゥッカ(不安定さ.不完全さ.苦しみ.悩み.心痛.迷い.悔い.哀しさ.儚さ.脆さ.弱さ.空しさ.実質のなさ.惨めさ.恐怖.無常さ.無明.愚かさ.不満.欲望)による自己保存、自己防衛への根深い執着により存在の保護.安全.安心.恩恵を渇望し、心理的投射として妄想し造り上げた得体の知れない神仏や超常的な力に縋り求め祈る迷信的な信仰は、人を現実から逃避させ盲目的に麻痺させる阿片であり、人を真に幸せに導きはしない。

釈迦尊(ブッダ)の御心の枝葉とも言える断片の理解を以ってして悟ったと宣う寝呆けた者多く、又その身の出在に関わらず夢幻なる自己の悟りに囚われ菩薩道の実践から離れ、自説に拘り観念に溺れ俗欲に捕われ理想を妄念化させ現実から乖離し無明の闇の中を彷徨う者達による盲目的な系譜を大切に守ってきた結果、多くの先達が守り伝えてきた至高なる釈迦尊(ブッダ)の御心と至高なる御教えの真髄を埋もれさせて伝統と歴史と権威に支えられ既得権益化した日本の伝統仏教界に於いて釈迦尊(ブッダ)の御心の真髄を理解し継承し犀の角の如く独り歩む。
      
如来品正師 多々方路傍石  
釈迦尊ブッダ)が目指したものは、何であったのか。そして仏教としての存在の目的、修養の目的とは、何であるのか。
 
第一章】
相互依存の関係性に於ける象徴的(シンボライズ)されたものへの信仰心を逸脱した妄想的な得体の知れないものへの信仰からの目覚め(覚醒と超越)
釈迦尊(ブッダ)在世当時の世相を考えると、釈迦尊(ブッダ)が活動なされたインド地域に於いては多くの迷信的な信仰が説かれ中でもヴェーダ聖典によるバラモン教が文化と伝統と権威とを誇り隆盛していた時代でしたが、一方では長い年月を経たバラモン教団にも経年劣化とも言える綻びや堕落や腐敗も見られ、民衆に得体の知れない神や力への信仰を強い、民衆を染脳(洗脳)し抑圧搾取する特権組織となって居り、そんなバラモン教団の在り方に背反する形で多くの修行者や教祖などが輩出したのですが、そんな修行者の一人が釈迦尊(ブッダ)なのです。
それは正に時代を超えて世の中に溢れ返る数多の信仰宗教に翻弄されている現代人にも通じる問題でも有るのです。
そしてこの世の実相と真理とを探求なされた釈迦尊(ブッダ)は、インド社会に溢れるかえる得体の知れない神々や怪しげな力に依存しようとする信仰(信心)を遠回しに否定されたのであり、得体の知れないものへの信仰や偏った観念や倒錯的な苦行などが.一時の気休めにこそなれ何の解決にもならない無益なものであり人間を盲目的にさせてゆくだけのものである事を経験的に認識され、得体の知れない神や仏や怪しげな倒錯的な超越的な力(霊力・呪術・予言)などへの盲目的な依存により大切な時間と金財と労力を搾取される民衆への憐れみの心で説かれたのです。
ですから直接的に否定されては居られませんがそれら類への祭祀・儀式・儀礼などを奨励されず、執り行れなかったのです。
人間の無知(無明)な本質的.潜在的な苦しみ.心痛.悩み.弱さ.脆さ.儚さ.哀しさ.空しさ.恐怖.実相のなさ.惨めさ.不完全さ.不安定さ.無常さ.無明.欲などドゥッカへの防衛願望.生存願望により大いなる存在からの保護・安全・安心・守護・恩恵などの他力願望の投影として妄想された得体の知れない神や怪しげな超越的な力の存在を媒体とする作為的で洗脳(染脳)的な単なる推測に過ぎない複雑な形而上学的、哲学的、神秘的な言い回しにより成立する教義に対する信心を強いることにより、それぞれの人が本来もっている真の存在の意味や価値感などを喪失させ人間の心を盲目的にさせ欲心を刺激する偏った存在の意味や価値感で折角の人生を台無しにしてしまい輪廻の激流を流転する人々への慈しみと憐れみと愛により、独自の実践(独覚)により達成された真理を説かれたのであるが、釈迦尊(ブッダ)本人も御自信の発見されたこの真理が世の潮流に逆らうものであり、人間の持つ利己的な欲望を否定するものである事を充分に認識されて居られ「私が体現したこの真実は見難く、理解し難く、賢者にしか把握されないだろう。世の潮流に逆らい、高遠で深淵で微妙で難解なこの真理は、欲情に打ち負かされ、無知(無明)の闇に包まれた者達には見えないだろうから、世間に説明しても無駄ではないか。いっそ此の侭、涅槃(ニルバーナ)に安住してしまおう」と真理を説かれるのを躊躇なされたのを梵天(理解者.支持者)が世間を蓮の池に喩え「池の中には未だ水面下に留まっている蓮の華もあれば、丁度、水面に顔を出した蓮の華もあり、水面高く抜きん出ている蓮の華もあり、同様に世間にも色々なレベルの人達が居るのだから中には真理を理解する人も必ず居るものである。だから、この唯一無二なる真理を人々の幸福の平安と歓喜と幸福の為にお説きください。」と梵天勧請により説法を決意されたのですが、既存の信仰勢力と争うことを厭い遠回しに得体の知れない神や精霊への信仰を批判されて、釈迦尊(ブッダ)の説かれる信仰対象とは六方拝(六方崇拝)であり、天上天下の万物(森羅万象)と、自分を生んでくれ育んでくれた両親であり、自分を育成してくれた恩師であり、守り庇ってくれた家族であり、仕事を教えてくれた上司であり、自分を育成してくれる社会であり、自分を生かしてくれる天地自然と法則であり、現実主義に根ざした現実的な恩恵を施してくれたものへの崇拝と感謝と敬いと畏れと慈愛を説いているのです。しかし今、世の中を見渡せば仏教の根幹とも言える六方拝を欠落させた信仰対象の方向性を歪めた新仏教(信仰)や実証されない妄想的なもの、超越的な力への倒錯的な信仰だらけであり残念ながら得体の知れない信仰が社会には溢れかえっています。自分に拘り自愛に縛られ自分の欲得に魅入られ、恩あるものへの崇拝や感謝や慈愛は薄れ、信仰の名のもとに争い、憎み合い、殺し合い、悩み、苦しみ、迷い、悔やんでいる現実を前に、私は敢えて直接的に説いているのです。(信仰とは人の心を盲目とさせ、折角の人生を捏造された錯覚の中におくり自分の真の価値感や存在意義を見失わせる人間の持つ弱さに付け込んだ麻薬のようなものである。)
真の仏教とは、そんな思想の荒野とも言える不毛な概念や見解から解き放ち(解放)、乗り越え(超越)、目覚めさせる(覚醒)ものであり、真の仏教とは悲観主義でも楽観主義でもなく人間を生命を世界を在るがままに捉える現実主義であり、物事を客観的に眺め、観察し、分析し、理解するためのものであり、人の持つ弱さを突いて極楽を夢想させたり神秘的な力からの助力を約束したり、又ありとあらゆる不安や罪や罰への意識を掻き立てたり怖がらせたり嚇かしたり苦悶させたりしない、人間と世界の在るがままを正確に客観的に説き、完全な自由・平安・歓喜・幸福への道を指し示すものである。
それ故に釈迦尊(ブッダ)ご自身には教団(サンガ)を指導しようという考えはなく、実際にも指導は主に高弟の舎利子や迦葉が成されていたのですが、それが何故なのかと言えば、釈迦尊(ブッダ)は教団(サンガ)を修行者の集いと考えられていて決して教団(団体)として是認はしなかったからであり、それは仏教徒の集まり(サンガ)が教団化してゆく事により既存のバラモン教団に見られる如く、やがては教えを真には理解できない偏った者達による主導により偏り変質し堕落し腐敗してゆき教団の繁栄を第一義と誤認し、信者の獲得を主目的とする集団へと変貌してゆかざるを得ない事を厭って居られたからだと思え、信者の獲得を主目的とする教団とは、盲目的な無知(無明)の中に生きる凡その大衆が、自らの心理的な弱さや無知や怖れや欲により自らの保護や安心や恩恵を強烈に求めてやまない利己的で根深く強烈な欲求のために神などへ依存しようとする愚かさに対して教団が迎合してゆく事に他ならず、それこそが釈迦尊(ブッダ)が否定された盲目的な信仰を礎とする宗教へと変質してゆく事であり、釈迦尊(ブッダ)が慈しみと憐れみと愛により、暗夜行路をゆくが如く盲目的に生きる人々を目覚めさる事を目的とした仏教を、人々を翻弄する麻薬であり盲目とさせ、ドゥッカ(苦・悩み・空しさ・渇き・不安定)の中を彷徨わせる反仏教思想である得体の知れないものへの信仰へと向かわせることに他ならないからなのであり、真の幸福に気付くこともなく真理を顕現することもなく目覚めることもなく、得体の知れない信仰(Religion)などを拠り処とし盲目的に生き、煩悩の奴隷状態に気付かずドゥッカの中を空しく生き、輪廻という連鎖運動の激流に翻弄される人々への憐れみと慈愛と幸福の為に正しい生き方(How to Presence)を指し示されたのです。
【第二章】本質苦からの四諦の如実知見による目覚め(覚醒・超越)
      <別項記載>
【第三章】実体としての自我の妄想からの目覚め(覚醒・超越)
      <別項記載>
【第四章】煩悩による感覚や感情主導からの目覚め(覚醒・超越)
      <別項記載>
【第五章】因果律(縁起)に遵った輪廻という自然法・循環法の如実知見と、諸法が輪廻に包括される目覚め(覚醒・超越)
      <別項記載>
そして仏道の修養による法印(自然法則・摂理)への目覚め(覚醒)により顕現するものが神通とも言われる過去・現在・未来を見通す深淵なる洞察力と、時空と生命の関係性の理解と認識力を超能力と呼ぶのであり、第三の眼とかカルトやSF的な得体の知れない眉唾な妄想的、倒錯的な超能力の類ではないのです。
日本でのお寺参りによくあるような、何々如来様、何々観音様にお願いして、ご利益を頂くことであろうか。これは、単にご利益信仰というべきであり真に釈迦尊(ブッダ)が目指したもの、仏教が目的とする処とはいえない。
総じて日本の仏教と呼ばれるものの正体は、釈迦尊の仏教を理解する事ができず脱落していった集団と取り巻き信者達が興した大乗仏教を基にしながらも、それさえも受け入れられなかった中国仏教という新興仏教を基にしながらも、それさえも受け入れられず新仏教として成立させた日本仏教という信仰であり、決して釈迦尊が目指したものとは言い難い処が見受けられる。各論として仏教を用いながらも総論として得体のしれない神仏への信仰や神秘やカルト的思想へと誘導する大衆迎合的に編纂されたものがインドからガンダ-ラを経て中国に於いて中国式習俗と儒教道教などの洗礼をうけ中国化されたものが、日本に伝わって日本化された大乗を核とする新仏教各派であり、真正な仏教とは、その目的も内容も、かなりかけ離れてしまっているといえる。
真正な仏教の目的は、ニルヴァーナ(涅槃)を体現することであり、盲目的な無知(無明)からの解放であり目覚め(覚醒)であり解脱とも呼ばれるが,広く誤解されているのが世俗諦と勝義諦(真諦・大悟)との混同であり、五集合要素(五蘊)こそが自分そのものであり自分という実体への錯覚による自我意識への拘りや執着からの開放であり超越である(世俗諦)と、無知(無明)という因果律により形成される渇き(渇愛・不安定)とその三面的要素である生在欲(煩悩)と感覚的な快楽への執着と不死への執着による歪んだ自己破壊欲からの開放(超越)により無知(無明)を叡智へと入れ替えることにより体現する実存的な平安を涅槃の境地というのであり、涅槃の体現により顕現する深淵なる叡智による洞察・透視能力を勝義諦(真諦・大悟)というのであり瞑想による心的創造や神秘体験ではないのである。(通常及び他の意識や感覚は禅定状態であろうが軽安も快楽も平静も条件により生起しているだけのなであり故に条件により消滅する性質のものに過ぎないのである。)            同時に解脱とは輪廻の再生の流転からの解放を目指すのだが、殊に日本においては中国思想を起源とする先祖崇拝が神道においても重用視されていて、輪廻思想が受け入れがたい習俗をもち、それが為に新仏教各派が成立したといっても過言ではなく、日本では六道にゆくと捉え、生命の進化の流れに沿った流転であり完結する輪であるという認識がなく、完結する輪であるからこそ自己完結による解脱が涅槃であることが欠落してしまっている。
古代インド思想から人は輪廻転生を繰り返すとされ、釈迦尊ブッダ)も生命が輪廻してゆく摂理を悟られ、仏教でもこの考えは受け入れられ取り入れられ、この世界の真理に目覚め輪廻転生から解放され解脱された人のことを「目覚めた人」ブッダ仏陀)と呼ぶのである。
こういうことから、仏教とはニルヴァーナへ到ることを目指し、仏陀へと到る道であり、付け加えるならば、ここでいうニルヴァーナ(涅槃)とは、死後に得るものではなく現世において体現する仏教の目指す最高の境地のことを指している。
誤解を生みやすい涅槃という言葉を使わず、最高の境地をなるべくニルヴァーナ(ニッバーナ)と呼ぶことにしたい。
釈迦尊ブッダ()
ニルヴァーナについての詳しい説明はせず(水中の魚に陸地を説明しても理解できないだろうように言葉では説明できない)、実際に修行して体験するべきものとして、ただ例えを述べているだけである。そのため後世、ニルヴァーナついて、さまざまに解釈される余地が残った。
ニルヴァーナへと到った者をブッダ仏陀)と呼称しているのであり、ブッダ仏陀)とは、もともとは固有名詞ではなく悟った人(覚者)という意味である。
 一般には、仏教の開祖であるゴータマ・シッダルタ、釈迦尊釈迦族の尊者)のことを、ブッダ仏陀)と呼んでいる。
さらに釈迦牟尼(シャカムニ)と呼ばれることもある。ムニ(牟尼)とは聖者のことであるので、釈迦牟尼とは、釈迦族の聖者という意味である。
歴史上の仏陀の称号には、如来十号を始め、この他にもいろいろあるのだが、煩雑なだけなので別の機会があれば説明することにしたい。
ここでは歴史上の実在の人物として、仏教の開祖であるゴータマ・シッダルタのことを、仏陀と呼ぶ。
釈迦尊が説いたことで、一番重要なことは、ニルヴァーナへ到る方法であるが、では釈迦尊が説いたニルヴァーナへと到る修行過程とは、どのようなものであるのか。どのように修行すれば、ニルヴァーナへ到り、仏陀(覚者)となることができるのか。
実はこのニルヴァーナへと到る道は、真正な仏教経典である南伝大蔵経アーガマ阿含教典)に説かれているのだが、この聖典類はブッダゴーサが散逸から救い上座部仏教教団に現存するが上座部仏教教団も部派仏教化してしまい観念化し頑迷化してしまい応供(アラハーン)を以って達成者だと思い込み(釈迦尊をアラハーンと呼称している経典がある事を論拠とする)それにより真の到達(目覚め・覚醒)を阻み如来の出現を阻んでしまっているが、真に人々を救済する如来の出現こそ釈迦尊(ブッダ)が真に目指したものであり、盲目的な信仰に誑かされる多くの人々や心的創造を悟りと錯覚した寝呆けた者達や苦行の中に倒錯的な得体の知れない力を授かろうと無益なことに人生を浪費する者達を、愛と慈悲と憐れみの心により束縛から解き放ち(解放)、無知(無明)を乗り越え(超越)、目覚めさせる(覚醒)ことを目指したのであり、今、世界を支配し強く依存させ欲心を刺激するそれらのこそが、人々を狂気に導き、争わせ非情にさせ、欲深くさせている事に気付き、真に至高の存在として人類が進化してゆく道を指し示しているのである。     
三宝印に見る神仏や得体の知れない神秘力などの否定】
(諸行無常)  すべての物事は常なく変化生滅してゆく、この現象世界には常住なもの・永遠なもの・変化してゆかないもの・絶対的実体は存在することが出来ない世界であり、実存的な絶対神などは存在しない。
(諸法無我)宇宙のすべての現象は因縁(物理法則)により変化生滅してゆく、自分と意識する我も、因縁による変化生滅の途上にあるだけであり、固定的実体(魂・霊魂・霊体)など存在せず一切がその関係性と変化の中に生起し成長し変化し消滅してゆく。(もし魂という実体的なものが在ったとしたら、この現象世界が生じて百四十五億年間もの間、何を学んできたのかと問い質し説教を垂れたいと思っている・・・笑▼因みに無知(無明)とはクリアではなく生起なのである。
一切皆苦)   一切が本質的にはドゥッカ(苦・不安定)により成り立つ世界であり、外的な差配や得体の知れない力により楽を生じるのではなく、自分という五集合要素(五蘊)の使い方次第、条件付けられた無知(無明)の智慧や叡智の発見により前提的なドゥッカ(苦・不安定)を悦楽や平安や歓喜や幸福へと変えて行けるのである。(自力)
因果律(十二縁起)にみる五集合要素】
物質・水・熱・空間・意志の集まり・結び目である五集合要素(五蘊)
すべては物質的エネルギーと生命エネルギー(心的エネルギー)の要素的(因縁)な集合であり条件により生起し条件により消滅しているのであり、本質的実体(魂・霊魂・霊体)などは存在しない。
①五集合要素の誕生により五集合要素の老いと死が条件付けられる
②五集合要素の老死条件により五集合要素の無知が条件付けられる
③五集合要素の無知条件により五集合要素の行が条件付けられる
④五集合要素の行の条件により五集合要素の識が条件付けられる
⑤五集合要素の識の条件により五集合要素の名色が条件付けられる
⑥五集合要素の名色条件により五集合要素の六処が条件付けられる
⑦五集合要素の六処条件により五集合要素の接触が条件付けられる
⑧五集合要素の接触条件により五集合要素の感受が条件付けられる
⑨五集合要素の感受条件により五集合要素の渇愛が条件付けられる
⑩五集合要素の渇愛条件により五集合要素の執着が条件付けられる
⑪五集合要素の執着条件により五集合要素の生成が条件付けられる
⑫五集合要素の生成条件により五集合要素の再誕が条件付けられる
●五集合要素(五蘊)の回転運動(色受想行識)により意識は発生しているのであり、意識も機能のひとつなのであり「我れ思う故に我れある」のではなく、神仏や神秘的な力や魂・霊魂・霊体も存在する余地などないのです。
そして人は世の中に溢れる情報や知識を得ようと必死に記憶域に蓄積しますが、それはある面では頭の中にごみ屋敷をせっせと築いているようなものであり「他人の牛をせっせと数えているようなもの」で、自分のものとは言えず何の得にもならないのです。物事は頭が知ったという事では本当に知ったことにはならず、知ったつもりになっただけなのです。
もし諸行無常という絶対真理についても、頭が知ったつもりではなく本当に「心が理解」出来れば、あらゆる苦悩から解放されるのです。        
例え何が変わろうと何が起ころうと何が消えてなくなろうとも諸行は無常なのです。人は当たり前の事に悩みも苦しみもしないのです。しかし当たり前な事でも心が受け入れる(心が理解する)ことが出来なければ悩み苦しむのです。
人々よ、目覚めよ。真の平和や平等や自由や統一や進化は人々が真に目覚めてゆく事により達成できるだろう。