孫悟空(自我の妄想)

「考え方」次第で自分や物事を変えてゆく事が本当に出来るのであるならば知識や見解や思想が満ち溢れる現代社会には苦や悩みや不満など根絶されているだろうに、現実は苦や悩みや不満は増え続け、恨みや妬みは呪いという形をとり、前向きで建設的な向上へと向かうことさえない。 浅薄で作為的な思想や主義が氾濫し、釈迦尊の深遠なる教えの一部を以ってして真理であるがごとく嘯き凡そそぐわない到達者を振る舞い教祖を騙る邪見者が信者を集め勢力造りに奔走し真聖な仏教を貶めている。
正に孫悟空の姿を借りて西遊記に語られる釈迦尊の掌の上から遠く飛び逃れたと自惚れて賢しく石柱に一句書き残した愚かな孫悟空に過ぎない滑稽な猿と病的な妄想による邪見猿ばかりが社会に溢れている証ではなかろうか。心とは決して表面の意識(意)が主体なのではなく潜在意識(気)が主体であり表面の意識(意)は潜在意識(気)をなぞり言葉に変換して、それに思考を付け加えているだけなのである。だから表面の思考域で幾ら頑張ろうと思っても、潜在意識(気)がサボりたいと考えるならば気は乗らないのである。苦、悩み、怒り、貪り、渇き、怖れ、憂い、迷い・・・・人が忌避する感情を生じさせるものは「存在欲」であり、束の間の一時的な快楽、歓喜、安心、満足、愛・・・などを生じさせるのも「存在欲」なのである。しかし慈悲の心や安寧、平安、大楽、愉悦、寂静などを生じさせるものは理性(客観的な理解や認識能力)により開発され調って安定した心(精神と感性)なのである。
「一切の形成された事物は、無常であると明らかな智慧をもって観るとき、人は苦しみから遠ざかり離れる。これこそが人が高まってゆく道である。」
釈迦尊の仰った「名称で表現されるもの」とは「所有の次元の事物」の事であり、所有の次元の事物とは、儚く無常な現象でしかないと説くのである。
名称で表現される物のみを心の中に考えている人々は、名称で表現される物の上にのみ立脚している。
名称で表現される物を完全に理解しないならば、人は死の支配束縛に陥り絡め捕られ、怖れ悩み苦しむ。
名称で表現される物を完全に理解して、名称で表現を成す主体が「在る」と考えないならばその人を汚して瑕瑾となる煩悩は最早その人には存在しない。  「生と死の軛を乗り越えん。」
自我とは感情により成り立つものである。故に理性において自我は成り立たず、幻想と妄想の産物にすぎない事にも気付けるだろう。
自我とは煩悩(存在欲)の化身であり、煩悩(存在欲)が自我という姿をとって現れる(あたかも苦が快楽という姿をとって現れて束の間の快楽や満足を生じさせるが、やがては苦という真の姿となって現れるが如し、故に一切は皆苦なり。
「形成されたもの(所有の次元)は苦しみであると明らかな智慧をもって観るときに人は苦悩から遠ざかり離れる。これこそが人を高める道である。」
自我による感情(貪瞋痴)に基づく認識は自己中心的で自分勝手(エゴ)なもので自分という幻覚に基づいて成される物事に対する重要度の分別であり、その分別により主観を生じさせ、主観に基づいて捏造した認識により判断を下しているのである。存在欲の渇きの衝動(不安定状態の安定化)を満たすことを使命と勘違いし、世の中の物事を歪んだ色眼鏡で視るように自分に都合よく捏造してしまい、在りのままに観ることが出来なくなってしまうのである。(自我に主導される者はよく正義を振り翳したがるが正義とて自分という観点にたった重要度の分別に過ぎないのである。)
感情により成り立つ自我により観る世界は「所有の次元」しか見えない。
所有の次元を彷徨い、一喜一憂しながら苦や不満、嫉妬や怒りを積み上げてゆく。しかもそれらの原因さえも自分にあるとは決して認めることも気付くこともなく、外にその原因を見出そうと妄想を深め、自分こそが被害者
であり他者を加害者であるとさえ考え心の奥には破壊欲さえ生じさせる。
(感情とは外に向かいて刺激を求め、外に向かいて答えを求むるもの)
「一切の物事は我れならざるものである。と明らかな智慧をもって観る時に
人は苦悩から遠ざかり離れる。これこそが人を高める道である。」
諸法無我なるを識らず、人は自我ゆえに苦悩や怒りを生じる。己の観点に固執するから過去・現在・未来に善悪、順逆、好嫌などの分別を生じさせ際限のない欲望の中に住み続けることとなる。一滴の水も大海であることを世人は識らず、自我が消えて無我となった時、大海の中の自在な一滴であったと気付くだろう。自分というものを真に理解し定義することが出来たとき自ずとこの世界の実相、この宇宙と、宇宙と自分との関係性も理解し定義することが出来るのです。
孫悟空とは玄奘三蔵自身の存在欲(煩悩)により生じる誤った存在苦による空しい妄想(存誤空)であり、釈迦尊の掌の内にて自惚れる無明を言うのではなかろうか。それ故に幾多の苦難を乗り越え一切合切経典(真聖な経典と大乗経典)論蔵、律蔵の三蔵を持ち帰り、より洗練された仏教思想をもたらした多大なる功績者であるが、有劣・正邪の選別をするに能わず、自身の孫悟空(存誤空)を乗り越える事が出来なかった感が否めないのではなかろうか。