仏教は信心を求めない

◆仏教の有名な言葉に、Ehipassika(エヒパッシカ)という表現があります。
仏教では「信じなさい」とは決して言わないものであり、「自由に、来て下さい、見て下さい。」といった意味で、束縛をしないということであり仏教とは信心でも信仰でもなく、自らよく見て観察して理解してゆくものであり、物事とは理解できれば.その瞬間から[信じる]は霧散し[知っている]となる事にない気付くでしょう。つまりは信心とか信仰とは無明・無知・盲目であるが故に陥るものであり光(真理.真実.現実.実相)の顕現により消え去る性質のものだともいえるでしょう。例えるならば信仰や信心とは、握りしめた手掌の中には宝石が入っています、それを疑ってはいけません信じなさいと言っているだけなのです。その手掌を開いたならば本当に宝石が有るか無いか真実を確認して理解できれば[信じる.信じない]という妄迷はなくなるです。つまりは妄想されたものは観察し理解することは出来ませんから.手掌を握りしめて中に有ると宣って.決して開いて見せる事なく信じろ疑ぐる事なかれと言って、疑ぐる者は不遜で罪人であると嚇かしたりする性質のものに過ぎないのです。      
他の宗教を批判する心算ではないが、他の宗教は信者として束縛しようとし、我が宗教(信仰)はこういうことをしなければならないとか、こういうことは絶対にやってはいけないとか、何しろ疑いを持たず信じなさいとか、色々な制約を設定していきます。その代償?として、幸せな生き方が出来ます。みんなが仲良く生きられます。心の安寧と平安が得られます。というのは心の気休めともなり善いとしても、果ては病気が治りますとか、お金持ちになれますとか、もっともっと偉い人間になれますなどという個人の利得をちらつかせ、また信者のほうも何々教を信奉すれば、そういう自分の人生における得(徳ではなく)が身につくと、誤った情報によって踊らされてしまうのが現状であり、仏教の説法の根本である「気根(心の在り方)」により必要に応じて説き諭すのではなく、信仰教団側が用意したマニュアルに従って教団の都合を染脳(洗脳)するが如く、飴と鞭で脅したり賺したりしながら、無理やり信じ込ませようとするカルト紛いな信仰が宗教の仮面を被っているのである。こういった信仰は真面ではないということを、釈迦尊は言われているのです。特に新興宗教などは勢力拡大や集金団体という所有の次元の方向に目的と存在と価値を置く団体でもあり、宗教(宗となる教え)では無く信仰の団体であり、しかし存在の次元を指し示す真の仏教とはその方向性に於いても真逆な本質を有するものなのです。
剰え、世の中に数ある宗教と呼ばれる信仰の開祖といわれる人達は皆、神か仏かその化身であるとか、それらに使わされた眷属とか、或いは神や仏からの啓示を受けた存在であるとか、生まれ変わりであるとか眉唾か妄想的な主張により成り立っているのですが、唯一、仏教の開祖である釈迦尊だけが自身を人間であると主張され、自らが努力と知性による観察と発見による理解する事によって到達し達成したものであり、そしてそれは誰でもが自らを観察とし理解する事への決意と努力しだいで叡智が生まれ到達し達成してゆける道を指し示しているのです。     
「真理を知りたければ、まず自分で物事の真贋を見抜き、解釈し、判断できる能力をもった真面な人になることである。」と。
特にここで大事なことは、もし釈迦尊の説かれた真正な仏教を宗(むね)となる教え(宗教)と定義するなら、日本をはじめ中国などで仏教と呼んでいる大乗教(マハ-ヤ-ナ)というものは宗教ではなく信仰だということです。ですから後年になって「大乗仏教とは釈迦尊の教えを基に菩薩仏の教えにより進化した仏教である。」などと慚愧に耐えない詭弁を弄し、捏造された大乗経典を進化した経典であるなどと嘯くるようにもなり、印度においては釈迦尊の教えが理解出来ない脱落者とその親派により新興宗教が造られ最新仏教思想であると法華経を捏造し、ガンダ-ラを経て中国で鳩羅摩什や智儀らの手により更に民衆迎合的に書き換えられ偽造された法華経や無量儀経を日本へ伝えた最澄の興した天台宗、伏陀教を主とした大日経理趣経などの空海真言宗法然の説く浄土宗、親鸞の説く浄土真宗日蓮の説いた日蓮宗などは宗教(宗となる教え)というより信仰を中心として仏教思想を取り入れて本覚思想から成る注意すべき危険な教義をも内包しているのである。一方、唯識派達磨大師を祖とする禅宗などは釈迦尊の教えを基として成立していながら膨大に蓄積された論蔵が却って第六蓋(手枷足枷)となって仏道を窮屈で観念的(能書き)なものへと貶めてしまった感は否がめない。日本人は元来、大乗とは釈迦尊の思想を依り高め編まれた仏教だと染脳(洗脳)されているのだが、それはとんでもない大間違いだということです。大乗の出自は当時の新興宗教であって、真聖な釈迦尊の説かれた仏道を理解できず迷い脱落した者達(中心は馬鳴ミミョウ)により応時のバラモン教や土着信仰や迷信や本覚思想などを取り入れて仏教(従来の釈迦尊が説かれた真正な仏教)を批判する事により成立した新しく発展した仏教であると嘯く新興宗教である事実は覆しようがなく、その系譜を分かりやすく言えば新興宗教の馬鳴教が興り、後代になって龍樹が空(真正な仏教では無常)の思想を説き空理空論に陥った観念的な要素を盛り込んだ龍樹教を興し、中央アジアを経て偶像的な信仰へと変質し各地の土着信仰を取り込みながら信仰色を強めながら中国に至り、中国で儒教道教などの洗礼を受け各種の経典が捏造され、それらが日本に伝わって、やはり土着の信仰や神道などに影響にされ最澄教、空海教、法然教、親鸞教、日蓮教などが成立したと解釈すべきなのです。仏教は読んで字の如くブッダ仏陀)の教えです。仏陀という言葉には大悟した仏達すべてを指す意味もありますが、釈迦尊(ゴータマ・シッダ―ルタ)以外の仏の教えは仏教ではありません。何故ならば釈迦尊の発見した真理により釈迦尊如来如来十号)と呼び仏教が成立しているのです。そして真正な仏教の本質は信仰などは気休めとして敬虔な祭祀としてし行うものであり信仰などに惑わされてはいけないと釈迦尊は説くのです。もっと現実に心を払い真の自分に気付きなさいと言う教えなのです。社会の知識人といわれる方々もこういう正しい情報は提供してくれません。しかも、現代ではすべてが受け売り文化です。自分で勉強しなくても、わざわざ修行など苦しい思いをしなくともチャンネルをひねれば情報が飛び込んでくる時代です。日本人の勤勉で寛容な気質が日本人を育みましたが一方この受け身の文化が実は、物事の本質を見抜くことを出来なくする元凶でもあるのです。何故ならば社会とは決して真理と善意で成り立ってはいません。そこに在るのは偏った主義主張や能書き(プロパガンダ)や作為ある正義を振りかざす「所有の次元」への誘導ばかりであり、各種各人が自分の都合に合わせて罠を仕掛けて待ち構えているが如きであり、人々を何かしらに依存させ取り込もうと策謀し、染脳(洗脳)し誘導し、然も自分で思考していると思わせているのです。
我々は寛容を尊び、和を尊ぶ文化の中では異論を唱える事が忌嫌われる風潮が生じ自分の正しい認識を阻害してゆきます。真に嫌悪されるのは感情(主観)による批判や排除や個人攻撃などであり、理性(客観的な理解、認識能力)による提議さえも排除しようとする社会は既に家畜化されつつある社会でもあり追随的で消極的な観念は可能性をも腐らせてゆくのです。仏教も既得権益に守られ自浄作用が働きません。過って明治政府により神仏分離令(廃仏棄釈)が行われた時に寺仏を破壊したのは民衆達であり傲慢で堕落した僧侶への反感こそが原因であったのですが大乗仏教界はそれを教訓とする事が出来ず今日に至りました。しかし仏教界に限らずそんな自分勝手で傲慢な制度や認識には必ず重大なしっぺ返しが来ることは歴史により証明されているのです。
テレビ社会により思考力を随分と低下させてしまい依存的にもなりましたテレビにはそれ程の影響力があるのです。一部の良識ある方々がテレビに熱中しないのは心の主導権を感情に乗っ取られない為の用心でもあるのです。そしてインターネットの普及により偽りや偏った情報に翻弄されながらより一層に依存的になってしまった上に、今やスマホと言われる使い方を誤ると思考依存が深まり感情的人間を増殖しかねないという何処かで誰かが「人類白痴化計画」を作為しているのではないかと疑りたくなるような、「依存的人格」を生み出し易い環境であることに気付くべきなのではないでしょうか。
人は依存により小楽を得て、大楽を取り逃がす
人は依存により、因縁を生起させている
人は依存により苦しみの種を作り、依存により実らせる
悪魔は人を依存させようと策し、仏は人を依存から救い出す。
人が何かしらの思慮や期待などによって依存する時、或いは思い込みや先入観や習慣などのよって依存する時、自然の現象(営み)である結果との間にギャップが生じる、これが行とか反応とも訳される「サンカーラ」であり汚穢・蓄積されたもの・既成概念などに誑かされる依存によって生じるものであり、潜在域の残存印象として蓄積され、苦や悩み不満,怖れ、怒り
憂い、渇き、迷いなどへの反応を助長してゆくのである。
つまりは全ての記憶やパターン、経験則や自我(エゴ)自意識などが苦悩や不満、怖れ、渇き、迷いなどから人を一過性の小楽へと誘い却って潜在域に本質的な苦や悩み、不満、怒り、怖れ、渇き、迷いなどを蓄積させてゆく不要なものであると理解するならば世の中に張り巡らされる依存への罠や常識といわれる非常識などに惑わされず苦や悩みや不満、怖れ、渇き、怒り、憂い、迷いなどを潜在域に蓄積させずに遠ざかり離れる事が出来るのである。
故に「サンカーラ」を行・反応における汚穢であると説くのである。
 釈迦尊の言われる、まともな人間であるためのもっとも大切なことは「自分で検証して確かめ理解する」この体験ということなのです。真理を知りたければ、釈迦尊の説かれることを自ら実践する以外方法がないのです。知識はただの情報にすぎず、検証し確証を得て理解して智慧と成さねば持てば持つほど迷路に嵌まり込むか頭の中にゴミ屋敷を造りだしているだけなのです。釈迦尊の教えは、頭で聞くだけの観念的な教えではないのです。実践して自分で、「ああ、そういうことなのか。成程、よく分かった」と実感できるものこそ真理であるというのです。しかも、真理は時代の変化に動かされることもないし、人間の違いによって左右されるものでもない、絶対のものであるからこそ、2500年以上経過した今でも、誰もが釈迦尊の教えを不変なものとして学ぶことができるのです。
ですから貴方もぜひ釈迦尊の教えを自分の体験として確認してほしいのです。あなた自身がまともな人間であるためにも。
釈迦尊は後代になって紛い物が現れるだろう事を予想されて要らして、それへの対処の仕方も四大教示として説いていらっしゃる。『吾が去った後になって「私は尊師から、まの当りに直接に此の様に聞いた(如是我聞)、目の当りに承った、これが理法である、これが戒律である、これが尊師の教えであるという物が現れよう。それらを受入れず排除する事もなく、それらの文句、経典を良く理解して、ひとつずつ真正な経典に引き合わせ、戒律に参照吟味してみて、真正な経典の教えに合致せず戒律にも一致しない時は「これは尊師が説かれた言葉ではなく、尊師を騙った何者かのものであると、これを放棄すべきである。また、もし真正な経典に合致し戒律に参照吟味してみて真正な経典の教えに合致し戒律の文句に一致するならば「これは尊師のお言葉を正しく理解した事である。」とこれを受入れるべきである。