無心(忘我)

先日、未だ沙弥である弟子の一人と対話した時に「解き放たれた心」について説いたのだか私の表現力の拙さも手伝ってか、理解させる事が出来なかった。仏教の基本的で日常的な姿勢は断妄想と気付きであると言えるが、集中する事により自分という意識を脱落させ解き放たれた自由で無為な状態が無心であり、身体という集まり(結び目)に繋ぎ止められ、過去の記憶に繋ぎ止められた意識・無意識から解き放たれた心の状態が理解できないようで、その感覚すらも「妄想」なのではないかと沙弥は宣った。
そしてその沙弥の疑問は世人の疑問でも無かろうかとこの項目を設ける。 
先ず「妄想」とは何故、生じるのか。
それは渇愛(本能)の衝動により存在欲(煩悩)が造り出す感覚により生じる感情により主観を生じ雑念化し妄想化しているのである
つまりは妄想とは「存在欲の表象」なのであり、貪欲から生じた妄想は世界中の金銀財宝から生命、権力、名誉・・・凡そ「所有の次元」の産物を貪ることを妄想させ、瞋恚から生じた妄想は世界中の自分の存在を脅かしたり立ちはだかる物事を破壊し存在の安泰を妄想させ、痴愚(不満)から生じた妄想は自我(エゴ)な見解や主観を真理の如く妄想させ、人間を欲深くさせてゆく。
それに気付かせてくれるものが「理性」であり、妄想を止めて現実を客観的に冷静に理解し認識させようと働くのである。
解き放たれ解放された無心状態が持続してゆくとき、身体に繋ぎ止められる意識・無意識における軛からも解き放たれてゆく。
その解き放たれた無心が、何かを思考(想念)するとき、心に存在するものは思考した想念だけであり外世界.内世界からの刺激を条件として生じる感覚、記憶、感情による意思に依らない無為な思考による想念こそが存在の認識で在るとき、心は認識対象と合一してゆく。雲を想念すれば、その存在は雲であり、別に雲に成りたいという妄想するのではなく、心が雲なのである。
何かに一途に集中したことが有る方ならば理解し易いのだが、例えば、集中して彫り物を彫っている時など、心は段々と無心へと入ってゆくものである、集中力が充分でない内は色んな欲得や雑念を生じながら彫っているのだが、集中が増してゆき無心へと入っていったとき、自分という意識は徐々に脱落してゆき、無心な心における自分は彫刻刀であり、自分という彫刻刀が刃先で木板を削いでゆくが如き感覚となる瞬間が在るものであり、その感覚に近いのではなかろうか。
吾、自分が脱落し、無心に在るとき、吾我心、風を想いたれば、吾、風なり
この先は、沙弥や世人には到底理解できないだろう領域なので、第二項として認めるが、心とは本来、自由で純粋な無色(非物質)であり、根源的意思とは全体意思の一塊であり、木に宿れば、木に繋ぎ止められ木こそが自分であると自覚し意思を生じる(軛)、その本質的な意思は「存在していたい安定化へ向かって成長したい」と存在している。人も自分と思っている小さな個体に繋ぎ止められて生きているという事実があります。しかし身体という個体こそが自分としての存在であり生命そのものなのでは決してなく、自分の生命の実際は自分という身体に縛られ繋ぎ止められた状態を凌駕した処に存在しながら、この身体という限定的な個体に働いているに過ぎないものなのであり、根源的な意思も「私の思い」として身体に縛られ繋ぎ止められて「身体こそ自分である」と考えているのですが、身体一つを考えても自分の意思に関係なく天地自然の法則(物理法則)と因果法則により変化生滅を繰り返してゆくだけであり、想念も記憶領域に蓄積したサンカーラ(経験、知識、思い込み、固定観念)による感覚や五蘊を通じた識別作用(感情)により生じているに過ぎないものを「自分の考え・自分の思い」と認識しているだけであり、自分という意識を乗り越えるならば、自分という身体に縛られ繋ぎ止められた自分を脱落させ、より自由に純粋に存在する心とは、一源であり「一是れ即ち多であり、多是れ即ち一である」ことにも気付くだろう。即ち、自分という自我意識は五蘊(色受想行識)がつくる錯覚でしかなく、我が身(色)の受想行識は空であり無常であり苦であると観じ理解し、自我が脱落した心が「無我・非我」であり世俗諦なのである。
真摯な仏道が何故に孤独な道であるのか「愚かな者を友とせず、森林に佇む象の如く、雄々しき犀の角の如く、独り歩め」と釈迦尊が仰るごとく、愚かな師僧の元で、より小さく伝えてゆけば軈ては俗人と変わらない僧が生じて来るが如く、第六蓋とも成りし各宗派という枠内で形而上学的な観念化してゆき仏教が釈迦尊の御教えから遠去かるが如くなり「自島帰依・法島帰依」という身の内に問え、法理に照らして問えという根本において完全無比なる釈迦尊の御教えを真に追求するならば、真理への道を指し示す師は釈迦尊(ブッダ)唯一人しか存らずして釈迦尊(ブッダ)の歩みし聖道跡(八正道)を歩むのが僧侶であり、釈迦尊(ブッダ)の教えの前に於いて総ての沙門(僧侶)は仏と法に帰依しているのであり僧伽(サンガ・集団)に帰依する事ではなく、仏法僧とは在家者が仏と法に帰依した僧に帰依する僧侶の自己責任の上に仏教は成立しているのであり、名でも権威でも勢力でも能書きなどではなく存在の価値に対する帰依なのである。