自浄作用

「自ら悪を成すならば自ら汚れ、自ら悪を成さないならば自ら浄まる。
浄化も不浄も各自の事柄であり、人は他のものを浄めることは出来ない。   人は、自らの行為と智慧と理法と戒めと節度ある生活により浄められる。」
他力や外力により、人が浄められると説く教えは仏教ではなく、それを説くものは仏弟子とは言えない。
釈迦尊は「自浄作用」を説かれるのであり、自ら気付き改めてゆく精進に努め励むことこそが仏道なのである。
いくら正しい道を説かれ、尊い教えを学ぼうが、自らが浄化してゆく発心を持続させ精進に努め励めなければ、心は必ず自ら汚穢してゆくのである。
天は自ら助くる者を助くというように、いつも誰かに頼って誰かのせいにして自ら浄化してゆく努力を惜しむならば必ず挫折や報いとして不幸に見舞われる結果を招く事となるのである。
この時、自浄作用を妨げるものは自らの渇き(渇愛)であり、愚かな現状に甘えさせ不浄な状態にも固執させてしまうのであり、社会における既得権益に惰眠を貪り、他から避難されようが破壊されるまで持続させることに固執し「自浄作用」が働かない頑迷で保守的なものが進歩や発展を停滞させる事は歴史が証明している。
更に言うならば向上しがたい者とは自らの愚かさを自覚できず自・他に対して言い訳を以って納得し自我(エゴ)で生きようとする者であり、愚かさを自らの存在の独自性の如く捉え物事を客観的に観ようとはしない者であり感情による手前勝手で身贔屓な価値観を基準として主観的に感覚的に生き、自・他に迷惑を掛けながらも気付くことが出来ない者である。
寛容で従順で事なかれ主義的な日本社会では尚更に、既得権益に惰眠を貪り自浄作用がはたらき難く、歪な社会を形成しやすい面が否めない。
釈迦尊の仏教が真に理解されるならば、自らに問いかけ自らが浄化してゆく人々により、より良い社会が築かれてゆくことだろう。
それは信仰を宗教と勘違いし、宗教団体を宗教と勘違いし、信仰を捨てた時、宗教までも捨ててしまう浅薄な認識から来ているのではないでしょうか信仰とは人を所有の次元へと向かわせ欲得への執着を説き彷徨い人を貪欲にさせるのであり、神や仏が所有の次元の事物を与えてくれる事などなく所有の次元の事物は自分の努力と智慧により与えられるものであり、そして宗教とは人として生きる大切な教えであり「存在の次元」に気付かせ、智慧と真理により真の幸福や喜びを教えてくれるものであり、信仰とは人が大いなる存在に向い、畏れ敬い感謝するものであり、大いなる存在や神や仏や霊能者が人に対して、恩恵や御利益や幸福を与えてくれると
所有の次元の事物を説く信仰は悪意ある者の妄想でしかないのである。
人は存在の次元による作用により、環境(空間)や出会い(時間)などの時空の条件による天地自然の法則(物理法則)と因果法則(時間と空間の法則)により現在の存在をなしているのであり、善行を積み上げれば良い方向へと達し、悪行を積み上げれば悪い方向へと達するのは天地自然の法則(物理法則)と因果法則による絶対法則なのであり、そうでは無いと疑いを持つ者は善行と悪行との認識が間違ってからなのである。
たとえ今、砂上の楼閣に勢力を誇ろうとも空しい所有の次元の一時的な現象に過ぎず、やがては存在の次元による真理に駆逐される存在でしかなく、存在の次元に発見する真理は、その身に付き随い真の幸福を得るのである。
{ 善行とは }
〇自分に、他に迷惑を掛けない行為は、善行である。
〇自分に、他に必要不可欠な行為は、善行である。
〇自分が、他が幸福になってゆく行為は、善行である。
〇自分に、他に役に立つ行為は、善行である。
{ 悪行とは }
〇自分に、他に迷惑を掛ける行為は、悪行である。
〇自分に、他に必要以上に欲する行為は、悪行である。
〇自分が、他が不幸になってゆく行為は、悪行である。
〇自分に、他に役に立たない行為は、悪行である。