鰮の頭も信心から

「一切の生きとし生けるものよ、幸福であれ、安泰であれ、安楽であれ。」

邪道が蔓延る世の中に.如来憐れみ辻に立つ、
邪法が蔓延る世の中に.如来憐れみ辻に立つ、
衆生、心.浄めたもう.貧しき心.浄めたもう、
賤しき心.浄めたもう.愚かな心.浄めたもう、
衆生、徳を積みたもう.
衆生.無明を晴らしたもう.
衆生.軛を解きたもう.

⚫愚者は流転する
正しき法を悟らぬ愚か者の輪廻は果てしない
虚空に道なく、外道に沙門なし、衆生は虚妄を喜び、如来に虚妄なし。
悪を成すのは自分.その苦を受けるのも自分。悪を取り除くのも.浄化するのも自分である。
浄も不浄も自分次第、誰も浄化はしてくれない。
虎は兎を喰らっても悪行とは考えないし、稲が人をやしなっても善行とは思っていない。
何が善か悪か、苦なのかは人それぞれ。
己の苦は己だけが知り、自分を救うのも自分だけ。
自分以外に頼るものなし、法(真理.真実.現実.実相)以外に寄る辺なし。
得体の知れない神仏や預言者への信仰は[愚の骨頂]であり、激しい流転を繰り返す。
己の心身をきちんと調えられた時、人は得難き主を得るだろう。
如何に高尚な文言で巧みに論ざれていようと
観念が現実を包摂する事などし得ない。
能書きが実践により顕現する真理(真実.現実.事実.実相)を包摂する事などし得ない。
真の仏教とはヴィカルパ(妄想.分別)な観念.形而上学的論証.戯れ言.能書き(プラパンチャ)などにより人々を依り深く盲目的信仰という不毛な思想の荒野に誘い込むものではなく、人々を真理(真実.現実.事実.実相)に目覚めさせ、無為(変化消滅しない安定的なもの)なる真理を拠り処(精神的支柱)とする事によつて得られる安定的で堅固な幸せ.平安.安泰.悦楽.歓び.静逸へと向かう道を説いているのです。
⚫人が何を信仰しようが何を信心しようが自由なのであり、[鰮の頭も信心から]と言われるように喩え鰯のような詰まらないものでも心から信心すれば有難く崇高なものに見え、プラセボ効果もあり.その人の範疇に於いては大切なものであり他人が犯すべからざるものなのである。
しかしその人が「これだけが尊い真実であり他の物事は偽りであり、天罰が当たる。」などと主張する事など許されざる事でもある。
心の中に崇高なる信仰心を持つ事は拠り処を持たずに暗夜行路を手探りで彷徨い歩くよりはよほど安定的であろう。
しかし信仰や信心に頼むのは.物事が本当には見えない状態にあるという事でもあり.真実が見えた瞬間には消滅する性質のものである事に気付かねば折角の人生を盲目的に酔生夢死してしまいかねない。

一切万象.自業自得 一切万法.因果応報
「慎みありて戒を持し.瞋る事なく.欲を増やさず.死随感を保つ人 そをバラモン(僧侶.比丘.沙門)とぞ我れは説く」
「虚空に道なく、外道に沙門なし、
衆生は虚妄を喜び、如来に虚妄なし
旧版と併せ凡そ10年間お世話になったヤフーブログも本年末にはサービス終了の由なので書き溜めとして残念に思う所見を記す。
先ず思うのが観念が実践を包摂する事など出来ないにも拘わらず.仏教を実践の中から捉えようとせず観念化してしまう「絵にかいた餅は味わえない」日本仏教の中から至高.純粋な仏教を探求しようと言う真摯な僧侶が誠に少ない現実への日本仏教僧の一人としての憂慮である。そして旧来から非僧非俗を標榜する阿弥陀教宗派は別にして、単なる見解ではなく看過し難い事実として.仏教僧は大乗であれ上座部であれ[不妻帯.不相続.無一物.不飲酒.不淫行。剃髪]などは真理(真実.現実.実相)へ向かう為の主体的な一部とする戒律であり.時代に合わせて変化していく客体的なものではなく.まして政府あるいは時の為政者の意向に阿るべき類のものではないにも拘わらず、今の日本の多くの仏教僧たちは.明治政府の神道と仏教の分離及び仏教排斥政策の一環として[妻帯しても.相続しても.財産を所有しても構わない]という甘言政策に取り込まれ堕落を深めた.そんな無明な闇に被われたまま盲目的な系譜を績ぎ偏り間違った思想の荒野を彷徨っている事に気付く事もなく、八正道に習う正見する事もなく偏り、正道を歩む者達を異端者の如く捉え自戒する事なく、易きに流れ堕落を正当化する世論操作を施し、かって上座部を小乗と見做したような自惚れた主観と慢心により妄迷な系譜を改めようという気概さ感じられず幾らか賢明な者達と言えば.部派仏教に宗旨変えするに留まり顧みる事がないのも、江戸幕府による檀家政策により有り様を変質化させ.果ては葬式仏教化し、明治政府の政策.策謀に則り世俗化し、釈迦尊(ブッダ)の御教えとは異質で.また大乗仏教とも異質な、中国仏教から変質した新仏教とも称する得体の知れない神仏のへの信仰を説く日本仏教なるものを護持し、親や家が僧侶.寺だったからと跡を取り継承するという俗世的風習で、仏道の修養を履き違え.無思考に能書きや教義や有り様を護持して疑わない者達が緩やかに真正で至高な仏教の本来の存在価値を貶める、それは世の中の詐欺師達が自らの幸せの為に「これで貴方達は幸せになりますよ、貴方は救われますよ、これをしなければ不幸になりますよ、貴方は救われませんよ」と無責任に宣いながら搾取していくような.信頼さえも喪失させ退廃させ貶めてゆき、釈迦尊(ブッダ)の至高で純粋な御教えさえも葬り去られようとしているのではなかろうか。
多様性を尊重し.他を敬い.共存すべき世の中において、料理でいえば色々な種類の食べ物があり各国の色々な料理があるのは良い事であり仏教も色々あって丁度良いように一見感じもするが、さに非ず.純粋な仏教とは客体的な嗜好品の類でも.所有の次元の事物でも.感覚的な趣味の類のものでもなく.偏った食事が不健康な体を造り出すように.心において生存苦の中を盲目的に彷徨いながら生きる人間に.偏らず堅固な拠り処(真理)を伝える完璧な心の栄養素であり.偏った食事を提供するものではなく.ビタミンはキリスト教から摂取し.タンパク質は大乗から摂取し.ミネラルはイスラム教から摂取し.必須アミノ酸上座部から摂取するものでもなく.純粋な仏教は生きる支え(精神的支柱)として安定し.健全に.平安に.安楽に.静逸.幸せに生きる為の偏りのない完璧な心の完全栄養素(真理)である。
仏道とは知識や情報を始めとして所有してゆく道に非ず、己の内の無明で盲目的なヴィカルパ(分別.妄想)とプラパンチャ(戯れ言.能書き.観念.浅薄.主観)とを捨て去り離れてゆく道であり存在としての苦悩を取り除く道であり存在の価値を磨き高める道でもある。
末那識(潜在意識)の自我意識を捨て去り.無我な心を養い.横たわる阿頼耶識の性根から浄化させ.渇望や執着を滅却し輪廻する力を削ぎ.堅固な安楽.平安.静逸.安楽.歓喜.幸福へと向かう道である。
所有の次元の事物とは便宜的.付随的なものに過ぎず必要以上に執着するからドゥッカ(苦.不満..)を生じさせる苦の根源であり、真の幸せの為に所有の次元の事物への必要以上の執着を捨て去り離れる道を説くのが僧侶であり、これは虚仮経が観音の恩恵を謳い浅薄な認識から仏教思想を謗るときに使う灰身滅智を仏教は説いている訳ではなく.仏教が説いているのは凡そドゥッカ(苦.悩み.不満.貪欲…)の根源が.利己的な欲望への執着から生じる事を実践により理解し.所有の次元の事物が手段.付随物に過ぎない便宜的な不安定な無常なものである事を覚り.得体の知れないものへの信仰を拠り処する盲目性と.所有の次元の事物を拠り処にする空性を.人々に真に教え伝える為に自ら実践により理解しなければ知識や情報や能書きと空理空論を語る無思考な偽善者に過ぎない故に.僧侶は執着の原因となる妻帯.子供.財産.飲酒.華美などから離れる事が戒律とされ要求されたのである。
仏教は悲観的でも楽観的でも迷信的でもなく刹那主義でも享楽主義でもない現実主義的な教えであり.得体の知れない神仏や力への信仰ではなく.人を盲目的に幸せだと思い込ませ一時的な気休めを与えるものではなく.真理を拠り処とした安定した幸せを実現させるものなのである。
人は苦という本質のもとに喜びと快楽を求めて生きている。人生の感覚的快楽とその痛み哀しみ、そしてそれらからの解放をも含めて完全に.客観的に理解する事により初めて本当の自由を得ることが可能だと説かれている。
「もし修行者あるいはバラモン(沙門.比丘.僧侶)が感覚的喜びによる快楽を[感覚的快楽]として、自らの意が満たされない事を[意がみたされない]事として、そうした事からの解放を[解放]として客観的に理解しなければ、彼ら自身が感覚的喜びによる欲望を完全に理解して他の人を教え導き.感覚的喜びへの欲望の無常さを完全に理解させる事は不可能である。
もし修行者あるいはバラモン(沙門.比丘.僧侶)が感覚的喜びによる快楽を[感覚的快楽]として、自らの意が満たされない事を[意が満たされない]事として、そうした事からの解放を[解放]として客観的に理解したならば、その時初めて彼ら自身が感覚的喜びによる欲望をはっきりと理解して他の人を教え導き感覚的喜びへの無常な欲望を完全に理解させる事が可能なのである。」
戒律も教えである。実践が伴なっていなければ、その教えは能書き.戯れ言(プラパンチャ)でしかなく仏道ではなく真の仏弟子とは言えないと釈迦尊(ブッダ)は説かれたもう、真正な仏教における僧侶とは所有の次元の事物という便宜的.付随的.手段的な事物への必要以上の依存や自縛がドゥッカ(苦.不満.心痛)を生じさせる原因であり.安定的な幸せを願い求めながら却って真の幸せ.喜び.安楽から遠ざかる事なく、所有の次元の事物への必要以上の執着.渇望を断滅し解放され、存在として輝きによる教え諭し導かねばならないのである。
●書き納めといってもヤフーブログでの書き納めであり他のブログで続けて行こうと思いますので宜しくお願いします・・笑
真正.至高.純粋な仏教とは

【基本的定義】
⚫ドゥッカ  (苦)
不安定さ.不完全さ.苦しみ.悩み.心痛.悔い.怖さ.迷い.哀しさ.寂しさ.憂い.飽き.儚さ.脆さ.弱さ.空しさ.惨めさ.実質のなさ.無常さ.欲.渇き.不満.失望.無明さ
※条件(縁起)により生起するもの全ては本質的には楽という姿を以って一時的に現れた※ドゥッカに他ならず、条件(縁起)による変化生滅によりドゥッカの本性を現わす。
無常な快楽.喜びで人を魅入らせ.惑わせ.執着させドゥッカの中を彷徨わせる。
⚫ス カ    (楽)
車軸が安定していて車輪が潤滑に廻ってゆく状態
安楽.安泰.平安.静逸.幸福
⚫無明 (本質的無知)
無知.盲目的.手探り.妄想的.偏り誤った観念や思想
※偏り.歪み.曇り.惑い.妄迷.錯覚.暗愚
無思考.思い込み.勘違い.錯覚.先入観.固定観念.既成概念.社会的価値観.偏見.誤り偏った思想.知識.情報.権威.看板.世評.風聞.主観.噂話.迷信.伝説.伝聞.習俗.歴史.文化.伝統.風格.外見.主張.洗脳(染脳).暗示.常識感(セオリー)
⚫対立.分別的概念
善悪.良不良.迷悟.長短.否定肯定.信不信.優等劣.好嫌.生死.生滅.苦楽.有無.0-1.聖俗.愛憎.貧富.明暗.光陰.寒暖.表裏.運不運.幸不幸.賢愚.深浅.静騒.快不快.条理不条理.正誤.福厄.天地.清濁.損得.敵味方.主観客観.理性感情.自覚不覚.取捨……
※自我の偏見を捨て去り.物事の両極を超越(中道)
⚫所有の次元の事物(小楽)
※無常な夢幻.便宜的な物
(事物の一時的位や輝きが自らの輝きと錯覚させる)
金.財.物.地位.身分.名誉.称号.権威.権力.勢力.威力.承認.評価.評判.理解.伴侶.家族.思い出.愛欲.美.健康.寿命.安心.安全.平穏.感覚的喜び.仲間.主義.主張.見解・・・欲するもの  
※その所有量を存在の価値.判断基準と錯覚する
※喩え所有の次元の事物(金財…)が天から雨のように降って来ようとも真の満足など得られない、更なる欲望に身を焦がし不満の中を生きてゆく事になる。真に満足をもたらすものは[足るを知る]心だけ。
※「我慢は身の毒、足るを知れ」
忍耐は自分を磨くが.我慢は不満を溜め込ませ何処かで反跳(リバウンド)を招くもの.真の満足.喜び.悦楽.幸せをもたらすものは[足るを知る]心だけ。
※条件(縁起)によって変化生滅する性質のものにである[所有の次元の事物(生.美.賞賛…)]への執着.渇望の消滅こそが涅槃(ニルヴァーナ)である。
⚫存在の次元 (大楽)※真実に依存した堅固な楽
(自らの存在の輝き)
人徳.知性.人格.人柄.品格.性質.度量.器量.精神性.境地.覚醒.超越.解放.自由.叡智……の育成により、連鎖し継続させていた輪廻を生じさせるエネルギーが生成されなくなり成仏ないし近縁種の善い処へと再誕してゆく。