自他同時(旧)

「所有の次元」に於いて、人は本能(渇き)の衝動により生じる煩悩(存在欲)という生存の素因(存在エネルギー)を増幅させてゆく。存在に必要不可欠なものを欲する「存在の次元」への意思が、増幅された煩悩(増幅存在欲)により愚かにも「所有の次元」の無常なる事物に翻弄され、苦を生じ、悩みを生じ、不満を生じ、分別を生じ、人を執着させ貪欲の中に「存在の次元」を見失い盲目的な意思を自分の心だと錯覚してゆく。
「存在の次元」において人は真理を発見し、生と死の軛を乗り越え、悦楽なる心の平安を得るのである。
自分を内観(自分を観察し理解する)し、他を内観(他を観察し理解する)し
自分と他(自他)とを観察し理解するならば、その関係性において自他が同一なる事を識るならば、自分という単独に存在する個意識は単なる妄想でしかなく無常であり空であり苦である五蘊でしかない事に気付くだろう。
それは例えるならば、淀川の水も利根川の水も大海の水が雲となり雨となり地上へと戻り、やがて各川の水となり其々の川の不純物により、何川の水と分別しているが、やがて大海へ戻るならば最早、淀川の水、利根川の水という分別など出来ない大海の水の一滴なのである。
ここに於いて全生命の一源性は証明されるのであり、多様な形態のごとく生命が多様であるならば、生物は多様な法則により行動する筈であるが、
全生命は同一に、苦のエネルギーにより存在を保ち、存在への盲目的な意思により、現象との接触により存在にとって肯定・否定・迷妄などの反応を生じ(プラスと感じる現象には肯定的な反応(貪欲)を生じ、マイナスと感じる現象には否定的(瞋恚)な反応を生じ、存在にとって肯定・否定の判断が着かないクエスチョン(痴愚迷妄)に怖れを生じる五蘊(色受想行識)を繰り返しているのだけの同一なる精神作用であり、其々が有する形態的能力により五蘊(色受想行識)という精神作用の程度の差こそあれ、一つの現象に対して各々の時間と空間(時空)の影響とサンカーラ(固定観念・先入観・思い込み・経験・記憶・見解)などによる暫定的な識別をその都度繰り返して、様々な見解を生じさせ、それに拘っているだけなのである。(皆、同じ(同一)なのであり、一源であり其々に一時的に繋ぎ留められているだけなのである。
今、私に宿る生命も全宇宙的に見れば遺伝子の連続性があろうが無かろうが偶々、何処に何に何時に宿るのかは釈迦尊の真聖なる仏教において説かれるのである。
全ての生きとし生ける生命を慈しむことを説くのも、能書きでも綺麗事でもなく同一、同源な生命であり、恩ある人であり隣人であり御先祖様でもあるのだからであり、例え業により生物の連鎖に随い、微生物に宿ろうが人間に宿ろうが、草木に宿ろうが、恩ある人であり隣人であり御先祖様なので生物は他の生命の犠牲の上に生在が保たれるという本質の上に存在しているのであり、他の生命の必要不可欠な犠牲に対し感謝し、無駄な殺生を慎むことは善行となるのである。
{ 善行とは }
〇自他に 迷惑を掛けない行為は、善行である。
〇自他に 必要不可欠な行為は、善行である。
〇自他が 幸福になってゆく行為は、善行である。
〇自他に 役に立つ行為は、善行である。
{ 悪行とは }
〇自他に 迷惑を掛ける行為は、悪行である。
〇自他に 必要以上に欲する行為は、悪行である。
〇自他が 不幸になってゆく行為は、悪行である。
〇自他に 役に立たない行為は、悪行である。
{最上の善行とは}
〇五感官(眼耳鼻舌身)の感覚器官の刺激を制御する事。
〇己の言動や心の働きを制御する事。
〇心身の一切を制御する事。
これこそが最上の善行であり、これらを実践出来る者は、
一切の苦悩、一切の煩悩から解放され、九種の神通力を得る。
 
煩悩(存在欲)は生存の素因である。(人は煩悩のエネルギーにより存在し生きている)しかし増幅させ肥大化させた煩悩(存在欲)は、人を苦と悩みや不満や迷いなどの不善処(貪瞋痴)なる世界へと誘う。