調った感性

よく調えられた観性は大楽を生じさせる。それは人々を魅入らせる世の中に溢れ返る罠(誘惑)が仕掛けられている「所有の次元」への必要以上の欲や執着を膨張させず「存在の次元」を顕現させる事でもある。
釈迦尊真に説いて居らっしゃるのは世の多くの者達が説く、思考域での意識改革を説いているのではなく、無意識層(潜在意識域)と基底層(本能域)をも含めた真理の覚醒なのである。 
先ず心とは何なのかを簡単に説明するならば、根源的な意志から発する意識により衝動(意志)を生じさせ循環している無常なる流れなのである。
大宇宙の意志(総体的な存在としての意志)にしても、個体的な存在としての意志にしても状態の違いであり同じ全体意志(梵我一如)なのである。
そして意識とは、存在としての意志が行う状態への監視・認識作用であり
後追い的に発生する「気付き」のフィードバックなのであり、自由意志なのではなく、自由拒否的なものなのである。存在としての意志とは、存在していたい・安定したい・満たされたいという不安定な渇き(渇愛)の根源的意志を監視・認識して意識を生じ、安定化・潤い・満足へ向かおうという衝動         
(意志)によりこの世界も私も貴方も存在しているのである。
そして生物に於いてはその各々の具する機能的な記憶能力・思考能力などを始めとするあらゆる能力により概念を形成し、それら概念を回転させたり組み合わせたり繋ぎ合わせたりしながら一つの結論的概念を導き、それらが間違っていようが偏っていようが執着する(それが本質的な意志が意識のフィードバックにより、存在としての意志であると認識する)
人間の場合は潜在的な無意識領域で成されるこれらの概念を表面の発達させた思考域で言葉として認識して思考を付加しているのである。
表層の意識や知識を変えようと努力してもその基にある無意識層の概念意識(潜在思考)を変えてゆけなければ何も変わっては往かず無意識層を変えて行けなければ本能(基底層)の渇き(渇愛)により生じる存在欲(煩悩)の衝動による感覚に翻弄されて不安定で受動的な感情を生じさせるという、六処(眼耳鼻舌身意)と六境(色声香味触法)との出会いによる刺激を五蘊(色受想行識)という精神作用で識別し錯覚した汚穢(サンカーラ)を積み上げて自我(エゴ)という妄念により無常で空しい苦を生み出してゆく。人は表層意識(思考)で言葉で考え、行動しているものと勘違いしているのだが、実はそうではないのです。
無意識層と基底層の衝動によって作り出される感覚により潜在意識(潜在思考)に形成された概念(無意識)を後付けで思考域が言葉として認識しているにすぎないのです。(犬も猫も概念と無意識の概念で行動している)
言い換えるならば、今ある自分を導いてきたものは思考ではなく潜在域の概念であると言えるのです。
しかし普通、人は潜在域とその奥の基底域を直接的に変えたり調えたりすることが残念ながら出来ないのです。ですから表層の思考や意識を一生懸命に変えようとしても中々変えてゆけないばかりか負担を増してしまう事となり因り感情的な人間になって行ったりするのです
潜在域の概念の発生メカニズムが変わってゆくことが、いわば「境地」が変わってゆくという事でもあり、この世が苦や不満と不安的な渇き(渇愛)により存在している無常で空で無我な世界であるという「真理」を心が後ろ向きに捉えるならば、そう信じたくないと逃げ出し盲目的に何か得体の知れないものであっても縋りたいと無明に生きるのですが、この「真理」を心が前向きに捉えるならば、苦があるから楽がある(苦を前提に楽が存在している)渇きがあるから潤いの快楽がある。無常で空で無我な世界なのだから真の価値観や意味は「所有の次元」にはなく、存在としての意志の中に見出せる筈であり、心が安定し満たされ潤い、苦を踏み台に揺るぎない快楽を味わうならば、もはや存在の意志は存在の根源的な意志を失ない
輪廻の激流から外れこの世界に留まる意志(意義)を失う。
この大宇宙(現象世界)も同様であり、不安定状態を安定させようと廻っている星も安定すれば回転を止め、存在を止めるように全ての物質が安定し満たされ潤うならばこの世界も存在の意志(意義)を失ない存在をやめるのである。(不安定で不満で渇きのエネルギーにより存在している有難い天地自然の理法(物理・因果法則)なのである。)
無意識層を変えて行く方法は、表層の意識をまず調え、集中力を増し、心の今の状態に気付き、良い想念を潜在域へ送ってやる事に努め、やがては潜在域が調えられてゆき、基底層さえも調ってゆくのです(四念処)
そして重要なのが呼吸法であり、この呼吸法により自律神経(交感神経・副交感神経)という言わば「活性の呼吸」と「安らぎの呼吸」の切り替え制御(コントロール)次第なのです。(呼吸法により万病さえ克服できます。)
そうして調えられた心が観るこの世界は、清浄で愉悦に満ちた有難い世界なのだという事に気付くのです。
それには先ず雑念や妄想に気付き、妄想に取り込まれない気付きが必要であり、雑念や妄想を深めず、物事を理性により客観的に理解、認識するよう努めてゆく事であり、五蘊(色受想行識)の精神作用の本質が無常であり空であり苦である事に気付くならば、自我は消え感情に振り回されず平安を得るでしょう。
衝動的な感覚の発生による受動的な感情(喜怒哀楽)を生じさせるものが「所有の次元」の事物であり、調った感性による能動的な悦楽(歓喜)を生じさせるものが「存在の次元」への明確な気付きであり、五蘊という外的な刺激に頼らない真の悦楽(歓喜)であり、空しく無常で苦であるという本質である「所有の次元」による喜びとは短命で一時的な喜び(小楽)でしかない事に気付き、「存在の次元」という智慧と真理の発見により気付く否依存的な追随的な悦楽(大楽)への道を説いているのが、釈迦尊の真聖な仏教なのであり、妄想を深め所有の次元に翻弄されている自分に気付き、真に自分という存在を価値ある幸せへと向かわせる方法が五蘊の制御であり、要は社会に満ち溢れる罠(誘惑)に対して「見ない・遠ざかり・離れる・考えない」の四点を心掛け、所有の次元の誘惑は本質的には、無常なものであり、空しいものであり、苦であることに気付く事でもあるのです
「地獄も極楽もその身の内に在り」
「心、清浄ならば山地草木、何処も清浄なりて、生きるに勝る有難きなし」
「心とは考えるものではなく、感じるものであり味わうものである。」    「幸せも、美味しいも、考えるものではなく感じるもの、味わうものである。」 
【サンカーラ】記憶の残滓、汚穢(おえ)、形成力 
サンカーラが明確に理解出来たら、仏教の大半が理解できた事でもある。 
捏造した認識や錯覚した認識や記憶により積み上げた心の汚れ穢れの事。先入観・固定概念・固定観念・思い込み・常識という偏見や、経験や記憶による偏見や見解など。
(追記)言わば仏道修行とはこの滲みついたサンカーラの洗浄であるとも言える。例えば托鉢(辻立ち)に付いて言えば「施与とは水を必要としない心の沐浴である。」と釈迦尊は仰っているが、では心の何を洗い浄めよと仰っているのか?多くの人は心の汚れとは「悪心」であり悪い心や悪い行いを洗い浄める事(反省し改める)だと解釈するが、そうでは決してないのです。それは人の心には常に悪心と良心とが裏表に有り、どちらを選択するか次第なのであり(選択であり洗濯ではないのである)から、心の沐浴とは記憶の残滓による汚れ穢れであるサンカーラを洗い浄めなさいと釈迦尊は説かれるのである。何故に釈迦尊も托鉢(辻立ち)を乞食行として成されたのか、それは身なりや能書き(プロパガンダ)や権威などに惑わされ、真に尊い者に気付くことが出来ない無明な者(盲目的な意志により現れる表象)のサンカーラ(汚穢)を洗い流してゆく事による慈悲心の顕現と心の潤いと安らぎをもたらすものが心の沐浴なのです。