前向きな心には不運など存在しない

前向きな心には「不運」など存在しない。
全ての物事、何が幸運で何が不運なのかすら解らない事なのに、単に主観的な角度から捉えて「これは不運だ」「今は不運だ」と認識しているに過ぎずそんな認識(サンカーラ=汚穢)が不運を呼び込んでいるのではなかろうか。「人間万事塞翁が馬なることを識らずや。」
前向きとは物事の捉え方であり、捉える角度の問題でもあり、自我(エゴ)という主観的な立場にしがみ付いた心で捉える物事の多くは自分を不運に感じさせてゆく。この時、自分では気付いていないのだが此れは煩悩(存在欲)の怒り・不満なのであり感情(貪瞋痴)の消極的な衝動なのであり、煩悩を起点とする感情により生じる自我意識(エゴ)は妄想により深まり、愚かさ未熟さ無常で空な存在、どうでもいい物事、つまらない物事、下らない物事に拘る狭量な本質を理解する事が出来ず、根拠のない尊大や自惚れにより真の平安や満足を得ることが出来ず、それは言うなれば煩悩(存在欲)の衝動への執着の歪んだ顕現に他ならないのである。
世の中には暗い表情をしている人が居れば、明るく笑っている人も居るが、そんな人の大概は別に不幸な事があったから暗い表情をしている訳でも、幸運な事があったから明るい表情をしている訳でもなく、暗い後ろ向きな事ばかりを考えているか、明るい前向きな事ばかりを考えているかの違いなのであり、そんな表情や雰囲気により、福を呼び込んだり厄を呼び込んだりするので、暗い表情をする人は益々、不満と暗い後ろ向きな思考を深めてゆき、明るく笑う人は益々、明るく活き活きとした思考をして行くのである。ここで注意する事は、スマイル(笑顔)とラフ(笑い)とは別物なのだという認識である。スマイル(笑顔)には笑顔という表情により気持ちを明るくさせてゆくという効果さえあるのだが、人前で状況判断や礼儀や気使いの欠けたラフ(笑い)とは実は心の闇の裏返しなのであり況して気使いや状況判断、礼儀を欠くような大笑いをする人間は秘められた深い闇
を持っていると判断して注意するのが間違いがない。作り笑いをする詐欺師よりも、深い闇を覆い隠そうとするかの如く大笑いをし明るく振る舞うような危険人物を選別するのも重要な事でもあり、物事は振幅作用するものであり作用と反作用の関係性の上に存在しているのであり不自然な大笑いの裏には必ず反比例する闇が潜んでいるものなのである。
現実世界に生きるならば誰でも苦や不満や悩みは付いて周ることであり、
生きる事、即ち苦であり不満(不安定)であり悩みなどを前提条件として、喜びや快楽や満足や理解を得てゆく事であり、自我意識とはそれを理解出来ずに自己中心的な妄想に執着し、理想と現実とのギャップを生じさせ、苦に執着し、不満に執着し、悩みに執着し、苦しみ続け、不満の中を流れ、悩み続けてゆくのです。
物事を積極的に前向きに捉えるならば、ピンチはをチャンスへの門が開かれたのだと捉える事も出来、世の大事や偉業はすべて不運なる失敗の繰り返しの中から生み出されて来たのであり、我が日本国などはその最たる国であり、国家成立時においては白村洪の海戦に大敗したことにより唐の先進的な律令制や事物を学び取り入れ国家を発展させ、黒船や西洋船の来航の脅威により西洋の先端技術や制度を学び取り入れ国家を発展させ未曾有の惨禍を与えた日米戦に大敗したことにより米国の先進技術や制度を学び取り入れ国家を発展させて来たのである。世の中の役立つ物事はすべて成功により出来上がった物など実はなく、数多くの失敗に学んで造られているのであり、云わば失敗こそが師匠でもあり、世の中で失敗せずに出来上がった物事は兎角、粗悪品か不良品が多く、提供されてから多くの不具合や故障を生じさせ世の中の役に立つどころか迷惑さえ掛ける存在となるものが多い。失敗の中に学び依り精進・昇華させてゆく事こそが人間が生きてゆ真の価値であり意味であり本望なのであり、犯した失敗に対してゴチャゴチャと自己弁護して納得するのではなく前向きに失敗は失敗として認め、失敗から学ぶ努力や向上心を維持してゆく気力により自分の質(クオリティ)を少しでも高めてゆくのが人生の価値観でもあり、失敗や挫折してしまった時は一刻も早く立ち直りぬけ出す事に一心に努力すべきであり、「七転び八起き」と言われるように失敗に学ぶ事を忘れずに起き上がってゆくならば自ずと道は開け、必ず報われるものなのです。
安心と経済的安定ばかりを追求し冒険心と信念とを放棄した処には変革は成されないのである。しかし整備された現実社会に於いては危険な要素も少なく、況して大きな失敗も無く、大きな災害を被らずに今日も生きている幸いに感謝こそすれ、人知を超えた物事に対し妄想しても闇を深くするでだけであり、徳川の世から明治の世へと文明開化させたのも徳川の世が堕落腐敗した不運に世の中の不満と不幸とが成さしめた改革であり、今、快適な文化生活を送れて警官から「おい!こら!貴様」などと誰何されることも、軍人さんに道を譲ることも徴兵される事もないのは戦争に負けたという不運からであり、皆んな大きな恩恵を既に受けて人間として生きている幸運な選ばれし者であることへ感謝する事もなく文句ばかり言っているに等しいのではなかろうか。現象を悪い事象と捉える心も、吉祥と捉える心も、一つの現象を捉える角度が違うだけなであり、依存する移ろいゆく事象を固定的に捉えようとしているだけに過ぎず、他人と比較をして、他人に有る欲する物事が自分には無いと不運だと憂い、他人にない好ましくない物事が自分には有ると怒り、感情に翻弄されて本当に不幸になってゆくのです。
今という新たに訪れた時空は同じように感じていたとしても決して同じ時空ではなく「新たに訪れた時空」であり、新たなる出会いや現象の中に居るのであるが、それを過去の記憶の残滓や妄想の錯覚が、「新たなる時空」を在るがままに感じ、在るがままに味わう事を奪っているのである。
自分は運がない。不運だ。悪い星の元に生まれてきた。これはきっと何かの祟りだ。と考えているとしたらそれは妄想なのであり迷信的観念やカルト性や神秘性への憧憬を後ろ向きに捉えているだけに過ぎず、百歩譲って不運な星や悪い因縁や祟りなどというものが在るとしても、此の世は「無常」であり常ならない世界なのである。不運な星の元に産まれた人が巨万の富を築き、悪い因縁を持つ人が偉大な貢献や偉業を成し、祟られた人が人類にとって掛け替えのない存在と成り得るのが「無常」なる現実世界なのですから。すべては身口意により成された業(行為)による作用による反作用という天地自然の理法(物理法則・因果法則)により成り立っている事に気付き理解してゆく事が重要なのです。
主観にしがみつき不運と捉える消極的な心に気付いて拘りなく角度を変えて前向きに見る訓練と「災い転じて福となす」位の気概を養う事から先ず始めましょう。
自我(エゴ)に囚われ、自分の利益追求の為だけの策謀は必ずどこかで破綻するものなのです。自他の利益に適ってこそ繁栄もするのであり、幸不幸とは「有無同然」と言われるように物事をどの角度から眺めるか次第であり了見次第であり、「禍福とは糾える縄の如し」と言われるように福を待ち禍を避けようとばかりしていては福も禍も撚り合わさった縄のような物なので禍を避けて福を取り逃がしてしまうもので、やはり両方を受け入れる位の度量と了見が大切なのではないでしょうか。
「福 受け尽くさば、縁、必ず弧なり、福縁去りて 悪縁を招く。」
私の処にも時々、血相を変えて寸秒を争う重大事の如く相談に来られる方がいらっしゃいますが、問題に執着し囚われている本人にとっては重大事なのでしょうが失礼ながら些細な問題に過ぎない事があります。お話を伺い助言や対処法などを授けると、憑き物が落ちたように生き生きと成られるのが正にその証左でもありましょう。大過でもない物事でも捉われ執着するならば、大過とも成ってしまう。身から出た錆でもあるのです。
物事に捉われ執着した了見の狭い心で物事を判断していては生きる事は苦痛と不満の蓄積になっていってしまうのです。
感情(貪瞋痴)に主導されず、理性(客観的・理解認識能力)を培ってゆく事が自我(エゴ)から解放される道であり、自我(エゴ)から解放される事が前向きに生きる道なのですから。
物事の基本的な考え方は「禍福は糾える縄の如し」と言われるように、すべての物事は相対的なものであり、光あれば闇があり、陽極(プラス)があれば陰極(マイナス)があり、苦があれば楽があり、幸運があれば不運もあり、幸福があれば不幸もあるのですが、光も闇も、陽も陰も、苦も楽も、運不運も、幸不幸も一如(同じ物)なるものを見る角度によって分別しているだけなのであり、物事の一つの側面にフォーカスを合わせてそれが全ての如く錯覚しているだけであるのです。例えるならば「苦」というものを考えてみましょう。生命の本質は苦なのです。苦があるから生きていられると言っても良いでしょう。苦しくなるから息をして、苦しくなるから飯を食べ、苦しくなるから排泄をして、苦しくなるから睡眠をとり、苦しくなるから動き廻っているのです。しかし呼吸も食事も排泄も睡眠も活動も決して苦ではありません。却って快楽でさえ有るのです。つまりは苦があるから楽があるので、苦を前提条件として楽が存在しているので、苦も楽も一如な現象の一部分を捉えて認識しているという事なのです。つまりは苦を抑え込んで大きく快楽を味わうとは、早めに対処してゆく事でもあり、同じ物を苦と感じた瞬間からが苦であり、苦と感じない負担量は苦を前提条件として味わえば快楽なのです。(解りづらいが集中して考えれば理解できる。真理)
運不運、幸不幸などを極論的に言うならば、片腕が無かろうが、歩行困難であろうが、美人であろうが醜女であろうが、金持ちであろうが貧乏であろうが、認められようが認められまいが、運不運、幸不幸とは無関係なのだという事であり、金持ちでも身の不幸に嘆く者多く、貧乏でも楽しく笑って幸福に暮らす者多く、美人でも不運に見舞われる者多く、醜女でも幸運に恵まれる者多く、世の中を客観的に見廻せば明らかな事であろう。
幸運にも宝くじに高額当選してしまったが為に金のトラブルで殺された人とか、却って美人に生まれたばかりに男に煩わされて世を儚む貴方や(笑)、醜女に生まれて明るい親近感により人から賞賛を勝ち得る者もいる、中には恵まれた環境に生まれてしまったが故に、幼少から自分が望む物事が優先的に適えられ成長して、社会に出たら脱落者や社会不適合者であったり、麻痺した感性により尋常な物事では感動や刺激を覚えられず倒錯的な廃人へ至る不幸や不運さえあろうし、社会で成功者と言われる人間と自分とを比較するならば自分とは非成功者であり不運な人間ではなかろうかと錯覚させるが、折角の人生を所有の次元の産物の為に齷齪費やして、真に意味ある命を味わうことが出来なかった人間を存在としての次元で量るならば、後悔の中に逝くだろう憐れむべき存在でしかないのである。
では何故、日常において運不運、幸不幸と感じてしまう人が居るのかといえば、煩悩(存在欲)の衝動により、必要以上に他人と比較してしまう事により妄想に陥り「膨張させた存在欲」に翻弄されるからなのであり、妄想が更に存在欲を刺激して存在欲を膨張させるという悪循環に気が付かないからであり、存在欲とは「生存の素因」であり存在欲の衝動である「苦」に生かされている必須なものであり、所有欲も意欲も生理欲も生きる全ての欲と力とが存在欲によって生じているのであるが、依存し拠り所とする物事を他人と比較して「所有の次元」へ執着すると妄想は深くなってゆき、自我(エゴ)が強まり存在欲を膨張させてゆき、あらゆる物事において自分より多く所有する者と比較して運不運、幸不幸を感じているだけであり、本当は既に有るがまま幸運であり幸福であることに気付けないだけなのであり後悔や不満という苦に行き着いてしまう所有の次元に、必要以上に執着する事なく真の生きる意味を追求し顕現させるならば、自分の力では今更どうしようもない物事に捉われ後悔や不満という苦を自ら作り出している愚に気付きと呪縛から解き放たれるだろう。「過ぎたるは及ばざるが如し」なのである。
運不運、幸不幸とは他人と比較し自分の立場・状態・環境を推し量るものでも、所有物の多寡によって得られるものでも無く、心がどう感じ、どう味わうか次第なのであり、物事の本質(真理)、世界の本質(真理)を智慧を以って眺めるならば、既に幸運である事に気付くだろう。
しかしこの仏教思考法を世の中に氾濫する自己啓発などが盛んに唱える「努力すれば必ず報われる」「頑張れば必ず成功する。」とか「乗り越えられない試練はない」「信じれば必ず栄光が得られる」などというような無責任な妄言と混同し惑わされてはならない。世の中に溢れる脳天気な慰みは「所有の次元」に魅入られ執着する者に対して、飴を振るさげ誘導しようと作為する輩の手管に他ならず、漠然と努力しても多くの者は報われる事無く不満を募らせ、信じて得体の知れない価値観や祈りを繰り返しても気休めしか得られず、恭寛信敏慧と客観的な状況判断や礼儀が欠けていれば「所有の次元」の事物(特に金財)は付いては来ないものであり、乗り越えられない試練というものも実際はたくさん存在していて、特に自然を軽んずるならば天意(天地自然の物理法則・因果法則・摂理・法(ダルマ)は取り返しの付かない試練を人々に与えているのである。仏教が説いているのは、客体でしかない無常なる「所有の次元」に魅入られ執着する心に気付かせ、本質的な「存在の次元」における意味や価値観を指し示しているのである。およそ全ての不満も苦も悩みも執着も、自分に拘る心が造り出す幻影でもあり、他人と比べたり自分こそはという自我(エゴ)の意識から離れてみれば他愛もない事であり、「存在の次元」に気付くならば、多くの幸運の上に今、生きている喜びや感謝に安堵できるのではないだろうか。