耕作者

如来とは幸せの種を播く耕作者である。耕すのは人の心であり播く種は真理であり、結ぶ実は真なる幸せである。播く種と時期(季節)とを見定めて相手に即して、対機と機根とによって人の心を耕作する。
対機と機根とが具わらない土壌に種を播いても、決して良い実を結ばないからである。
如来衆生から離れてはならない。衆生に寄り添いながらも阿ねることなく、泰然とその存在で語れ。
人の世の底辺にありて歓喜と満足の存在であれ。苦悩する富める人はそれを見て真の幸せや大楽や満足の何たるかを覚るのである。
真の幸せを齎すものは、自分の価値観や意味を覚ることであり、真の歓喜とは今を味わう事であり、真の満足を齎すものは執着を離れ「足るを知る」ことなのだから。(しかし知足は悟りへの第一歩に過ぎず、知足にて得られる満足に留まってはならない。人の心とは「これでいい」と思った瞬間から進歩が失われ退廃へと向かうものなのだから、「白硅さらに磨くべし」)
常ならず(無常)、本質的な苦でしかない物事に執着して自ら苦悩を招いている人に理解させる為に、敢えて貧しく無一物な幸せ者とならん。
その飾り立て纏いて握りしめたるものを剥ぎ取りて、存在として輝く人柄、人格、人間性という人徳こそが真の富者の財産である。
故に如来は、甘露の果実をもたらす耕作者なのである。
仏道とは、捨て去る事である。概念や見解や観念を無常なる泡沫と識り執着を捨て、所有の次元の事物の本質を識り執着を捨て、心が調いて統一する時、存在の次元への執着さえも捨て去りて解脱する。得ることにより味わう満足は短命で必ず去ってゆく、捨て去る事により得る智慧や真による満足は無くなることがない。「心、万境に随いて転ず、無常を識りて心、調いたる時、転処、実に能く幽玄なり」
釈迦尊は自らを耕作者であると仰った。わたしにとっては、信仰が種であり、苦行が雨であり、知慧がわが軛(くびき)と鋤(すき)である。慚(はじること)が鋤棒(すきぼう)であり心が縛る縄である。気を落ちつけることが鋤先(すきさき)と突棒(つきぼう)とである。
身をつつしみ、ことばをつつしみ、食物を節して過食しない。
わたしは真実をまもることを草刈りとしている。柔和が私にとって(牛の軛(くびき)を離すことである。
努力がわが(軛をかけた牛)であり、安穏の境地に運んでくれる。
退くことなく進み、そこに至ったならば憂えることがない。
この耕作はこのようになされ、甘露の果実もたらす。この耕作を行ったならば、あらゆる苦悩から解き放たれる。
福とは巡り巡って訪れる縁起なり、福受け尽くさば、縁、必ず弧なり、福縁去りて、悪縁を生ず。