仏陀は何故、書物(本)を遺さなかったのか

釈迦尊ブッダ)・キリスト・ソクラテスという何れの三聖人も書物(本)など残さなかった(識字・文筆・教養の総てを兼ね備えてるにも係わらず)
書物(本)として残すものは知識でしかなく決して智慧ではなく、概念や見解などの主観的認識に過ぎないものを真実を知ったつもりにさせてしまう、云わば全体性を分断してしまうものであり、全体性を失った各論的観念や偏ったり誤ったりした妄想思想を乱造してしまうのも、叡智を顕現させる為の絶対条件である客観的かつ冷静に観察し検証し理解することを怠り不毛なる理論の荒野に迷い込んでしまい実践から隔離された空理空論とも言える形而上論的な知識や思想や概念に陥りやすく、智慧による真理とは知識が実践により検証され確証を得て初めて智慧となり叡智とも成るものであるからなのである。(云わば書物とは諸刃の剣なのである。)
一般に「理解」と呼んでいるのは「知識」であり即ち、ある種のデ-タに基づいたある種の事柄の知的把握でしかなく決して「理解した」とは言えないのであり、真の理解(深い理解)とは物事の本質をも見透した全ての物事との関係性の上に於いて理解できるのであり、それは実践や経験や検証に裏打ちされた洞察を伴い見出されるものなのである。
言葉(言語)自体が既知の物事の考え方を象徴し表象するシンボルでしかなく真実の伝達方法としてに非力なものであり、一般のありふれた物事でさえその本質を伝える事が出来なず、ましてや真理を伝える手段としては誤解や誤認を伝達しやすいという側面を忘れてはならないだろう。
例えるならば身近な食事の味覚について他人に伝える時に「美味しい」「不味い」という実に抽象的な表現に頼るが、もし味わいを言語や文章として伝えようと謀れば分厚い書物の一冊を要しても正確に伝える事は出来ず実際に食べてみるのが一番の良策なのだから。
しかし残念ながら我々人類という至高な存在でありながらも、他人に物事を伝える手段として文字や言語や図形や映像を駆使してゆかねばならず伝達手段の最上位が口伝だと言えるのは真理を伝達する時、口伝に於ける抑揚や間(ま)による「無言の言」という伝達法も有効であり、相手のレベルや状態や状況に応じた対機話法が出来るからである。
今の世の中を見渡しても斯くの如く書物(本)は満ち溢れ、見解や主義主張は人の数の数倍溢れかえっていて、その殆どが偏った見解や主張、錯誤した見解や主張、浅薄な見解や主張、作為ある見解や主張などであり
中には「これが真理だ。これが法(法則)だ。」と宣いながら、毎年のように下劣な書物(本)を書き続ける作家の如き輩も多数いるが、ではその者が以前宣った真理や法とは何だったというのであろうか。兎角、作家などという輩は妄想を膨らませフィクション(作り事。虚構)を現実の如く錯誤させ、言葉を弄び、人の感情を刺激し、人を惑わす、知識人では有るるが決して智慧ある者ではなく悩み苦しみ心を病ませる存在でしかなく、もし芸術の範疇に在るものであるならば自己完結するものであり経済的問題を主目的とする芸術と称するものなどは芸術とは呼べないものなのである。
どんなに偉大なる智慧や真理も、崇高な智慧や真理も、下劣な智慧や真理と宣うものも、書物(本)として「知識」として在るならばその存在は同列なものでしかなく、実践され検証され結果を得て確証されるまではパラノイアな教祖が宣う戯言も、脳天気な評論家が宣う能書きも同レベルな存在に貶められ、まして読む者が感情に主導され欲するならば、決して理解すること能わずして同列な知識の一つと解するか偏見を生ずるだけであり、却って見識ある者に軽んじられ、浅薄な者に弄ばれ作為ある者に悪用されて行くだろう事を見通されたからに他ならない。
真に仏道を歩むならば大乗各派が宣う概念や観念は成立しない事に気付くはずなのであるが。そもそも大乗の成立が釈迦尊の教えが理解出来ず脱落していった者達(馬鳴みみょう等)が、迷信的な信者達と共に新興教団を設立させ当世に蔓延していたカルト思想や迷信を釈迦尊の教えの内の理解出来た部分に絡めて編纂していったものが大乗経典と呼ばれるものなのである。つまりは釈迦尊の真の教えが理解できない者達が作った経典を用いて、釈迦尊の真の教えが理解できない者達が仏教(釈迦尊の教え)だと錯誤して信心する新興宗教に他ならないのである。
書物のもつ全体性の分断という性質を、逆手に用いれば各論を正しい教え真理を説きながらも、全体性(総論)という方向性において間違った観念や主義主張や思想を植え付けてゆく事は可能でもあり、大乗や新興宗教などの宗となる教えを各論に散りばめながら、得体のしれない見解や神仏への信仰へと依存させ、総論として作為のある意味や価値観を信じる事を押し付け、人々それぞれが具する真の生きる意味や価値観を貶めて人々を盲目にさせてしまう害毒・麻薬の類ではなかろうか。心の真の平安や救いは妄想されたものへの依存によっては決して得られないのだから。
私なども釈迦尊の御教えを文字にして表現しようと試みる時、一つの行目を説くとき自ずと全体性から分断されてしまい各行目と全体との関係性を絡めて表現しようとすると、一語句語る毎に何千にも及ぶ他の行目との関係性に言及してゆかねばならず却って理解不能な文章と成らざるを得ず更に文章の読み手は尚更に各行目にフォーカスを合わせ全体を把握してゆくのが困難な傾向を有していて、同じ仏教を語るにしても各人が各論に固執すれば争い拘りやがては各論に拘った分派に発展してゆくのである。
つまり文字というものは、各行目を語るには非常に優れた記録法なのであるが反面、文字や文章というものは全体性を分断してしまう性質を有するものなのである。随って文章とは意味を掘り下げると共に全体性との関係性の把握のに勉めなければならず、つまりは垂直方向への思考と水平方向への思考の拡がりを同時に又は差異的に追求しなければ、偏った見解や誤った見解、拘った見解を生じる事となるのである。
対話による説法において議論に陥ることなく、相手の全体性の理解の程度に応じた不備や欠格の補充により、より大きな全体性の把握をもたらすことが出来るのである。(つまりは全体性の直接的な把握こそが仏教なのであり、各論的な知識の蓄積は観念的妄想でしかなく、仮説を観察し検証し理解し確証を得ることが智慧を顕現させる実践であると説くのである。)
それが実践に用いられ検証され結果を得て確証されるならば、その価値は歴然と顕現されるのであるが、世に満ち溢れる「知識欲」の殆どが、煩悩(本能の渇きにより生ずる存在欲)の衝動によって貪られているのだから頭の中に無駄な知識というゴミ屋敷はどんどん増築してゆき知識量に自惚れ賢しい議論の道具となし心を救うことなく却って人を貶め疾すあれども、実践し検証し結果が確証されてゆく事など稀有なのである。
生きた教えとは、身に具わり実践していって初めて大輪の華を咲かせるものであり、頭の知識庫(記憶域)にいくら溜め込んでも何の役にも立たず却って能書きが増え論理を弄び見解に争い、現実と理想とのギャップを生じさせ悩み苦しみ心を病ませてゆくだけなのである。
智慧を施す者は、知識を施さず、知識を施す者は、智慧を施さず」
頭(思考域)がいくら理解していても心(潜在域)が理解しなくては何も変わっては行かないのである。(変わった識ったという錯覚はある。)
喩えるならば、知識として高級フランス料理で高額で最高に美味であるとインプットされていて、頭(思考域)で「美味しいだろう」「感動する筈だ」などと想像しても、実際に食べて心(潜在域)が「美味しい」と感じなければ御馳走とは成らないのであり、言葉や文字では表現しきれない心理や感性という「心」を知識という文字や言葉によって表現しようとする試み自体が、曖昧や誤解や偏見を生じさせる事を釈迦尊は認識されていたのだろう。
「語るより食せ」「考えるより実践」「欲心は残念を生じ無心は感激を生ず」
身に具わるとは、必要な時に必要な知識や智慧を有益に用いる事が出来ることであり、思考域や記憶域に知識をいくら蓄積させても、身に具わらず必要な時に必要に応じて顕現しない「知識」とは汚穢・塵芥なのである。
身に具わせるには暗記してしまうのが一番であり、それを時々にでも諳んじていると、いつの間にか身に具わって心(潜在域)もそう理解し、必要な時に必要な形で役立ってくれるのであり、釈迦尊の涅槃に際して高弟たちが入滅された後に書物(仏典)として遺すことを請い願った時、躊躇われながら承諾された時に、儀礼語であるサンスクリット語梵語)で遺すことを禁じられ、必ず民衆語であるマガダ語やパーリ語で遺すよう厳命されたのは依り「暗記」し易いだろう通常語を選択されたからに他ならず、釈迦尊の真意は「自らの内に既に具わっている真理と大宇宙の真理を認識する能力を頼りにして努め励みなさい(自灯明)」「私が語った法則と大宇宙の法則を頼りとして真理の発見に努め努め励みなさい(法灯明)」、という二点であったが、同時に書物(仏典)として遺すことにより「教えが散逸しずらい」「後世になって釈迦尊が説いた教えだという偽経典が現れ難くなる」「文字や言葉による教えには限界もあり中には真意を理解できない者も現れようが、文字や言葉の奥の真意を読み解く者も現れよう」と考えられたのではなかろうか。
実践し検証し結果を得て確証を得てゆく道(仏道)は、決して安易な道ではないが決して苦行なる道(邪道)ではなく、歓喜と悦楽の中に平安なる境地へと至れる道(聖道)である。釈迦尊の教えを幾ら唱えても幾ら蓄積しても実践し理解してゆけなければ何の役にも立ってはくれないが、実践し理解してゆくならば智慧を顕現させ、人間の領域を超越した情報や真理を受け取り、その人間にとって宗(むね)となる教えにより人の質(クオリティ)を高めて行ける崇高で完璧な教えであることを識るだろう。
釈迦尊は予見された。
「私が去った後になって、これが私(釈迦尊)の教えだと宣う多くの教えが現れるだろうが、それらを頭から否定するのではなく、私の法(ダンマ)に照らして、合致していれば肯定し合致していなければ否定しなさい。」 
これは云わば、釈迦尊尊い教えが、時代を経ると像法という観念的(空理空論・形而上的)に変質した仏教だと名乗るものが現れる(大乗の事)、更に時代を経ると末法というカルト的、偶像礼拝的な仏教と名乗るものが現れる(現代の世に雑草の如く蔓延末法思想を説く信仰宗教)だろうと仰予見されていて教説の書物化(仏典)には肯定的ではなかったのだが、ある意味それが書物化(仏典)の成立を百年から二百年遅らせる事になり、それが為にカルトや新興宗教や偏った信仰集団などが詭弁を弄し「釈迦尊の直説などない」という不善な概念を生じさせ嘯かせたのであるが、それは心も清く優秀な多くの者達が釈迦尊の教えを一言一句たりとも違える事がないように誠実の上に真摯に、暗誦し伝え継いだ釈迦尊の教説を軽んじ蔑ろにして、後の時代の釈迦尊の教えを真に理解したとは言えない作為ある集団が拵えた、当時の世の中に満ちていた迷信とか習俗とか偏った思想や誤った思想や観念を持ち込んで捏造した仏典と称するものを崇める素地を造り出してしまった感がある。しかし厳格に釈迦尊の教説に拘る必要もなく他の人の良い教説は尊重すべきであるが、仏道とは釈迦尊の指し示された真理に向かう聖道跡から脱落させる教説は積極的に廃除してゆかなければ辿り着けない道でもあるのである。信頼できる教説を用いて真聖で尊い釈迦尊の教えを継承する正統な仏教が復活されなければ仏教は益々と信仰化してはカルト化していってしまうだろう。(現に世の中にはそんなカルトや本覚思想や末法思想が蔓延ってしまっている。)    明らかに上座部仏教聖典(正しい経典)を所有しているのだが、権力に擦り寄りすぎて偏った部派仏教に成り下がっている感は否めず、大乗は観念的で更に形骸化してしまっている感が否めず、今の世に失われてしまった真聖で尊い仏教を私は説いて行く事を誓願したのである。