末法思想

仏教の[末法思想]について.どう読み解くかが重要なのではなかろうか…
世の中で盛んに末法思想を叫ぶ人達は、釈迦尊(ブッダ)の教えはもう古臭くて時代にそぐわないものだから.何たらと[あっちの水は苦いぞ.こっちの水は甘いぞ-]と末法思想を歪曲して捉えながらも.釈迦尊(ブッダ)の権威にはしっかりと阿っている感が否めないが、真の意味は釈迦尊(ブッダ)在世当時でも優れた弟子もいれば.愚かな弟子もいただろうし、教えを理解できるものも理解できない者もいだろう、そして理解できない者に限って欲望や自我意識などか強いものであり、そのような者達が.やがては仏の教えを大衆迎合的に捻じ曲げたり変質させていき仏法も堕落し廃れてゆくだろう事の洞察から生まれたのが末法思想であり、それは歪んだ仏法を正しい教え(真理)へと導く如来の出現の暗示でもあるのです…
私が日本仏教の一僧侶であるから言う訳ではなく.真の釈迦尊(ブッダ)の教えを学ぼうと欲するならば、オタクでも在るまいし.別に上座部へ帰依する必要など無いばかりか.残存経典の範疇と認識に留まり自ら第六蓋とするだけでしかなく.目の前にある現在の日本仏教で充分なのであり、肝心なのはそれを如何にして学ぶかという姿勢なのではないでしょうか…
それは道元禅師も喝破しているように[仏道とは己を習うこと]であり、釈迦尊(ブッダ)が到達された深淵なる真理(真実.事実.実相)への到達は各人一人一人の問題であり、自らを真に助けるものは自分自身の努力と智慧だけなのですから…
その為に.別に物真似をするという意味ではなく、釈迦尊(ブッダ)が考えただろう如く考え、釈迦尊(ブッダ)が行なっただろう如く行ない、釈迦尊(ブッダ)が語っただろう如く語ることを心掛けることも一法なのです…
四大教示としても残っている釈迦尊(ブッダ)の言葉に…
私が去った後になって「私は尊師から、目の当たりに直接に.このように聞いた(如是我聞)とか.目の当たりに承った、これが真実の理法である、これが戒律である、これが師の真実の教えである…」と言う者が必ず現れよう…
それを無闇に受け入れる事なく、排除する事もなく、それらの文言.教説を良く理解して、一つずつ私の信頼できる言葉や経典に引き合わせ、戒律に参照吟味してみて、私の信頼できる言葉や経典の教えに合致せず、戒律にも一致しないものは「これは尊師が説かれた言葉や教説ではなく、尊師を騙った何者かのものであると、これを放棄すべきである…」と先々について戒められた…
これを迷妄.短絡な者達は、保守的だと非難するが、世の中の無常.有為な真理によって立つ俗諦と.無為な普遍的真理(絶対真理)を説く仏教とを混同して観てはならず「真理は一つであって第ニのものは存在しない」のであり、世の中の習いが変わろうとも.時代が変わろうとも「真理は真理.虚仮は虚仮」でしかなく、正法.像法.末法という思想自体が邪な作為により造り出されたまやかし(摩羅迦子)に他ならないのです…
しかし世間と言うものは、事実(真実)を素直に認める性格は持って居らず、権威.伝統.風格などとか.思い込み.多数派.一般論.迷信.先入観.既成概念.文化的価値観.錯覚...などが優先的に信頼され、人々に真実を理解させる事はひどく骨の折れる作業を伴うものである…
まして多くの人は自分を基準とした浅薄.短絡.主観的な尺度でしか物事を見ることが出来ず.しかも乏しい根拠に基づいたまま[自分の考えは正しい][自分は間違ってない]という自我意識を乗り越えることが出来ないで居るのだから…
無常な現象でしかない感覚.感情.主観を尺度として物事を測れば、視野の狭い自我意識に翻弄される事は必然であり、又それが苦を造りだしている事にすら気付けないでいるのですから…