木を見て森を見ず

仏教を森に例えれば.お釈迦様の教えという大樹を.囲むように.各宗派.各部派という木々が繁り.下生えに仏教系新興宗教が生えているという系統図となるでしょう…
仏道を道に例えれば.お釈迦様という偉大な方が引かれた大道から.枝分かれるように各宗派.各部派という道が延び.その脇道として仏教系新興宗教の小道が延びているという系統図となるでしょう…
しかし各宗派.各部派.新興宗教という色の付いたメガネを掛けて.この系統図を見れば他宗派.他部派は雑木の類の如く映すでしょうし.劣ったものとも映すでしょう…
色付きメガネを外し.木々に捉われず.道に拘らず.仏教という深淵な森.偉大な道を見る時.そこには大原則が横たわっている事に気付くのではないでしょうか…
仏教とは染脳(知識.情報.観念などを植え付けるもの)するものではなく.洗脳(染まり染められた色を洗い落とすこと)してゆく道であり.自分というものや.物事や事象を在るがままに眺め.観察し.分析し.思惟.思推し.検証し.確証を得て理解してゆくものであり.仏教とは教えと言うよりは.道標としての依り処であり.ただ信じるものでも.拝むものでもなく.気付いてゆくものなのです…
地域.時代.環境.条件.制度などにより左右されざるを得ない側面はあるでしょうが、実践法として[釈迦尊が為さったように為し、釈迦尊が為さらなかったものは為さない]という基本的大原則があり、もし外れるならば外れるなりの正当事由が必要とされるのです…お釈迦様ご自身も仰っています…この実践法より優れたものがあったら.躊躇わずにそちらを信じなさいと…
しかしそれは違った実践法を試したとしても依り優れた実践法など凡そないだろう上での.お言葉なのであり、例えば各部派.各宗派とも托鉢を惨めな行と見てか兎角.連行や行事へと走るが、では意味がなければ何時でも止められるお立場であったにも関わらず何故にお釈迦様は日常に於いても、また死期を覚った最後の旅でも各街町で辻に立ち.托鉢をなされたのか…それはその中に重要な要素があるからであり、辻立ち.托鉢の不必要さを明確化することなく易きに流れるは怠惰に他ならず.観念論に走り、実践を疎かにし、我田引水に歪曲してゆけば.大悟(世俗諦.勝儀諦)への道は閉ざされ、真理からは遠ざかり、堅固な安らぎ(涅槃.ニルヴァーナ)は得られない…
木々(各論)に捉われていては、全体性(森)が見えなくなり、真理へ到達することは出来ないできないのですから…

携えるものは自灯明と法灯明であり、捨て去るのはプラパンチャ(戯れ言.能書き.観念論.空論.形而上の論理.妄想.主観.見解…)なのです.重要なのは信じることではなく、確かめる事なのですから…
自らを明からしめ(世俗諦)
世界を明からしむ(勝儀諦)(真諦)
木々(各経)や道(各論)に捉われ.拘り.執着していては全体性(森)が見えなくなり、絶対真理(ニルヴァーナ)へは到達できないのです…
その森を超えた先、その道が辿り着く先に.涅槃(ニルヴァーナ)はあるのです…