世俗諦と勝義諦

龍樹(ナーガルジュナ)のニ諦によらず世俗諦と勝儀諦を定義する。
龍樹はいう。
 「二つの真理(二諦)に依存して、もろもろのブッダは法(教え)を説いた。その二つの真理とは.世俗の覆われた立場での真理と.究極の立場から見た真理とである」

仏教に於ける悟りとは大いなる本質的な真理への気付きであり目覚め(覚醒)、乗り越える(超越)ことであり.八正道による観察力,分析力,思惟力,思推力.洞察力による智慧と検証による発見と理解であると言えよう。
そして実は悟りといっても数多くの悟りがあるのだが、大別すると二階梯より成立し、世俗諦としての諦観(悟り)と勝儀諦としての諦観(大悟)であるが、日本の伝統仏教に於いては世俗諦は多くの先達により高度に洗練されて今に伝わっているが、勝儀諦については重要な認識を曖昧にし、先祖崇拝という儒教思想に染められた中国仏教を土台とし、縁起・無常・無我・四諦について目覚め(覚醒)乗り越え(超越)ながら、縁起・無常・無我・四諦という四つの目覚め(覚醒)が、輪廻という自然法・循環法に包括されることに目覚め覚醒することが出来ない。
上座部に於いては有学の四向四果における阿羅漢果(応供)が到達点と錯誤して無学の没入に於いて顕現する勝義諦へと向かう道を閉ざす偏った解釈は、釈迦尊が五人の弟子に中道・八正道・四聖諦を授けた後に機を見て初転法輪を説かれると、即座に五人の弟子は解脱し阿羅漢と成られ、そして釈迦尊は五人の弟子に得度をお授けになられたという事は、釈迦尊は五人の弟子が世俗諦を得て世俗の呪縛から解き放たれたのを見定められてから得度を授けて、仏道の本道である勝義諦(如来への道)へと入るのが純粋で頂乗な仏道なのであるが、上座部派においてはブッダゴーサの論蔵(アビダルマ)を乗り超える事が許されず、大乗に於いても龍樹(ナーガルジュナ)や先達を乗り超える事は憚られ、出藍の誉れこそ法島帰依(法燈明)・自島帰依(自燈明)という釈迦尊(ブッダ)の残された無記の至高な修行法でもあるに関わらず、世俗諦が悟りの境地であると解して世界を「空」で括り大宇宙を形成させる不変の真理(法・ダルマ)を顕現させる叡智と.現象世界の本質と表裏世界の本質とを悟る(真諦・大悟)を求道せず、世俗的・恣意的・瑣末的な観念や概念.見解.仮説.仮名(けみょう)の域を出ないばかりか世俗諦さえ喪失し、無明の闇を盲目的に彷徨っている。
世俗の人や沙弥(シャミ)か第一階梯として「世俗諦」に向かうのが仏道であり、魂や自分という[本質的実体が在る]という妄想.錯覚(自我意識)から目覚め.乗り越え.捨て去りて離れ(捨離).世俗的な六根(眼耳鼻舌身意)の六竟(色声香足触法)という刺激.情報への感覚的な感情.主観などが無常な現象に過ぎない事に気付き、それら感覚が同時に苦や不満や貪欲を造り出している事を理解して.拘り.捉われ.執着から解き放たれる道であり、内観(禅定.観照.瞑想.瑜伽)と智慧により[盲目的な生命への意思と、それにより具現化する表象]こそが煩悩(存在欲)であると比縁的に理解し、人間の認知的・心理的・精神的な煩悩と苦の因果関係の縁起(現象)を比縁的に理解できれば[所有の次元と存在の次元]との関係性[主体と客体]との関係性、[目的と手段]との関係性を比縁的に理解する事が出来、善を礎にして心は自ずと解き放たれ世俗諦(悟り)を得る。釈迦尊初転法輪の説法を、五人の弟子が既に中道・八正道・四聖諦を理解している事を見定めて初めて五蘊無我を説かれた時、五蘊無我を理解する能力が育っていた五人の弟子達は解脱し阿羅漢(アラハ-ン)となられたが、これは世俗諦を得て勝儀諦(如来道)へと向かう通過点としての解脱なのである。
そしてこの世俗諦を解りやすく現わしているのが道元禅師の「正法眼蔵」であろうと思う<下記参照>
しかしマハ-ヤ-ナ(大乗)における唯識中観派禅宗という所謂新興宗教の部派においてその論ずる主旨は概ね「空」を一大テーマの如く捉えてしまい勝義諦へと進む道が阻まれ、世界と全てを「空」に包括しようとする無理に気付けない処があり、何故に衆生(有情の生物)が在るのか何故に人間が存在するのかについて、無常なる現象世界を空に包括しようとする試みは根本なる比縁性を否定してしまう。空理空論や能書きが実践による叡智を否定できる訳がなく、各論的に分断してしまった教説により全体性の調和を損ない、その不完全を外からの怪しげな力や得体の知れない神仏とともに本質的な空により包括しようする形而上的な次元へと翻弄させるものでしかない。衆生(有情なる生物と人間)が生じた因縁は本質的なる意思(自然法則)が造形したこの偉大なる世界を「理解するもの」「供に味わう事が出来る存在」を欲したるが故に生物(理解するもの)が祥じたのであり、空間の安定化の為の変化への渇望によるのであり、空と観じて欲しくて生じさせた訳ではないのである。大宇宙の理法と表裏一体の世界の実相と関係性との因果関係の縁起(現象)を比縁的にその法を理解し証ずる勝義諦(真諦・大悟)を脱落させてしまった。
現象世界(色界)は無常であり空であるが、表裏の世界を一体と捉え物質としての存在(色)と非物質なる存在(無色)の両極を捉えるならば空ではない。
世俗諦について「在家と出家」とを考えるならば、在家とは世俗に暮らす事であり出家とは世俗を諦観する出世俗であり、出世間ではないのである。
出世間との表現は偶さか社会を厭離して山中に籠る修験道が如き行法が理想的であるかの浅薄な解釈を生じさせる原因でもある。
それは同じように山寺に籠り座禅三昧を理想とし、恰も悟りを啓き理解できた如く錯覚しても、社会に戻った途端に「所有の次元」に翻弄される煩悩僧の本質を晒すのが落ちなのである。
仏道は社会に寄り添い、社会に塗れず、社会の為に在らねばならない。
そして「悟り(世俗諦)」も「大悟(勝義諦め)」も、[所有の次元]に在るのではなく[存在の次元]に在るのである。
誤まった認識や偏った見解を含めサンカーラ(行・固定観念による汚穢)により助長された煩悩(存在欲)を制御する事が出来なければ必ず[所有の次元]を彷徨う妄迷へと到達してしまうのである。
因みに善行に励むも徳を積むも戒めを守り悪や不善処から厭離する事も自利への執着を慎み、利他を奉行するも、自分を縛る重荷でも強要されるものでもなく[存在の次元]に気付くならば、それらの事柄こそが自分を真に悦ばせ自分を真に安んじ自分を真に生かす、存在の価値と意味と美味を味わう事ができる深淵なる釈迦尊(ブッダ)が説きたもう仏法であり自分と世界との関係性に於ける[存在の次元]の中に世俗諦を見出すのである。
◆世俗諦の教書
道元禅師(正法眼蔵現成公案より抜粋)仏道を習うというは.自己を習うなり
自己を習うというは.自己を忘れるなり。
自己を忘れるというは.万法に証せられるなり
万法に証せらるるというは.自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり
〔訳〕
仏道を習うというのは、自己を習うことであり、自己を習うということは、自我意識に捉われないことであり、自我意識に捉われないということは、天地宇宙・森羅万象の一切のもののはたらき(法則)によって今ある存在であるという証(さとり)を心に明確に顕現する事であり、証(さとり)を明確に心に顕現するというのは、自分だ他人だと分別しようとする愚かな心の自縛から脱せしめることである。
つまりは自己への執着(自我意識)を捨て、自他という分別を捨てなければ、万法に証せらるることもないということなのである。
★だが道元禅師ほどの秀逸を世俗諦に留めてしまったものが只管に座する座禅三昧という頑迷であり、禅定・集中を何故に三昧(サマーディー)というのか日常において(立って居る時、座っている時、歩いている時)の中に於いて禅定が在るのであり瑜伽や瞑想を限定して行じる事により真に得られる領域ではなく、変化、躍動する世界と心とを感じ取る能力を駆使する中に得ようとしなかった処が世俗諦を乗り超えること(が出来ず勝義諦(真諦)へと到達できなかった理由なのであり、瑜伽であったものが発展し依り洗練された座禅のもつ不完全な面を証明する事ともなり、その結果が「山を下りたら唯の人」を排出する原因ともなったのではなかろうか。しかし有学に於ける世俗諦(悟り)を啓くには適した道でもある事を付け加えて於かなければならない。更に付け加えるならば仏教界において最も釈迦尊の御教えに近く釈迦尊の御教えを忠実に伝えている上座部仏教(部派仏教)でさえも「帰依」という基本思想を権力と結び付くことにより喪失させ、権力への依存により権力や勢力という「所有の次元」への方向性へ向かい、ヴィッパサナー瞑想こそが釈迦尊の瞑想であると信じて疑わないサンカーラ(固定観念・汚穢)という第六蓋とも呼べる障礙に阻まれて勝義諦への道を閉ざしてしまって居るのであり、敢えて言うならばヴィッパサナー瞑想とは「アーラーラ・カーラーマ師やウッダカ・ラーマプッタ師の瞑想法」を釈迦尊が踏襲した部分的側面に過ぎず、況してテーラワーダのヴィッパサナー冥想に於ける実況中継(ラべリング)やスローモーションなどという煩わしい原則はマハシ爺さんが考案したもので釈迦尊の内観(冥想)とは言い難く、サンカーラに捉われる者達はここに大きな禍根(蓋)を造りだし光の境地へと至る道を閉ざしてしまった。釈迦尊と等正覚なる大悟(真諦)を啓く道とは世俗諦の内観(瞑想)を基点(導火線)とする無学の境地(自島帰依)(法島帰依)よる智慧の顕現による[存在の次元]における摂理(天地自然の法則・物理法則・因果法則)による大いなる意思(cetana)との合一(想受滅)により勝義諦(光明の学)を得るのである。これを有想において行ずるならば妄想世界を夢想する独善へと陥り、無想において行ずるならば天地自然の理はその門を開く。
故に「瑜伽・瞑想・禅定なくば悟りなく、瑜伽・瞑想・禅定の中に大悟なし」 なのであるが、果たして此処に気付く者が居るだろうか
大悟(真諦)へと至るは正念正智(ヴィッパサナー)と無念無想(サマティ)との循環によるスパイラル(螺旋的)による没入(内々観)により内奥に於ける真我(アトマー・阿羅邪識)との合一である。もし内々観へと没入せしが真我を見出せず合一を果たすこと能わずば、旅先の空港へ最早到着せしが、空港の門(ゲート)を出ざれば彼の地の風を感じること能わずが如しなりて、真我(アトマー/阿羅邪識)の目前にして戸惑う有識に等しい。
しかしてヴェータンダの如き観念的な妄想に捕らわれてはならない。
臨済宗の仙厓義梵が揶揄って詠んだ「ただ座って覚れるのならば、蝦蟇はとっくに覚っているだろうに」などとは実に笑える詩である。
そして天地宇宙の一切のはたらき(法則・摂理)は光の境地、勝義諦に顕現する。
★現成公案解説
正法眼蔵』「現成公案」の巻には、さとりにいたる順序が懇切に示されているが、上記のことばはここに出ると特に有名な一節である。
仏道は、人間や世界を客観化し、それについてデータをとったり、分析したりすることによって、なんらかの真理を認識するものではない。
仏道はむしろ、主観と客観が分裂する以前の世界に身をおいて、そこに生きて動くものをそっくりそのままつかまえようとする。
道元の難解な『正法眼蔵』もそのことに焦点をあてて書かれているもので「現成公案」例外ではない。
道元はここに「自己をならう」ということをいう。仏道にいう「自己をならう」とは近代の哲学や心理学で「自己を探求する」とか「自己を研究する」といわれるのと全く異なっている。
後者においては探求や研究の主体となる〃自我〃がしっかりと確保されているが、仏道においてはこの〃自我〃を捨てること、あるいは乗り越えることが「自己をならう」ことになるからである。 近代の教育を受けて育ったわたしたちは、何かにつけて「私の考えでは・・・・」「ぼくが思うには・・」としばしば自分の考え方や、知識、見解を主張して、それを不思議とも思わない。ところが仏道においてはこうした〃わたし〃〃ぼく〃こそが迷妄の根源であり、真理をおおい隠しているものに他ならないと観る。〃わたし〃や〃ぼく〃の意識が生まれる以前の生きているありのままの世界に立ち帰るとき、かけがいのないこの人生において歩むべき道が、坦々として明らかとなる。それを道元は「自己をならう」といったのである。
<解説 中村 元 先>
◆勝義諦の教書
如来品正師 多々方等正覚
正統仏教ブログの各処に於いて説いているのだが、掻い摘んで説くならば、この世界が常ならざる無常な変化生滅するエネルギ-の流れである如く、心というものも因縁の起生(縁起)により五蘊が働き、サンカ-ラ(記憶の残滓)に影響されて結んでいる常ならざる概念でしかなく、ア-サヴァ(湧き出る汚穢、染み込む汚穢)の滅尽によりサンカ-ラを浄化してゆく事こそが修行とも言えるのである。本質的意志(渇き)による煩悩(存在欲)の衝動に執され変化生滅を繰り返す無常なものであり、生命とは意志(渇き・存在欲)を持つ生命エネルギ-の常ならざる流れであり、この流れとは「生滅の連続性」であり、その連続性を生じさせているものが本質的な意志なのであり、輪廻を理解するならば本質的な意志(渇き・存在)への執着により、生命エネルギ-が生滅から解き放たれずに生滅の連続性という流れ(激流)を流転してゆく事なのであり、固定的としての霊魂・霊体・法体(ダルマ)は存在せず故に説一切有部は偏った部派でしかなく而も邪見なのである。法(ダルマ)とは天地自然の法則(物理法則・因果法則という摂理)こそが法(ダルマ)なのである。ア-サヴァ(汚穢)によるサンカ-ラによる汎ゆる物事への執着の深度により大いなる意志(渇き・存在を本質とする天地自然の法則・因果法則・摂理)は生命の根源である微生物から進化の道を捕食の関係性の上に流転させているのであり、成仏と言われてはいるがブツはブツでも実は微生物へと流転しているのである。つまり某大勢力を誇る鹿留斗教団の信者達が自分達の意に沿わない意見や見解に対して事在る都度に「地獄に堕ちる」とか「天罰・仏罰」が当たるなどと善良な人々を脅かし威圧している行為は、天地自然の理法(物理法則・因果法則という摂理・ダルマ)から言えば主観的な概念への執着により自他を中傷して感情を安定化させている無明な執着に縛られている事に他ならず深い闇の中で更に盲目的な信心へと陥っている状態であり生命エネルギ-の生滅の果てしない流れの中を流転(輪廻)し、生命の根源である微生物(奈落)から捕食の関係性の上に何百万回という生死を繰り返して生命エネルギ-が帯びる業因(汚穢)から解き放たれてゆく流れを繰り返しているのであり、得体のしれない信仰によって成仏するのではなく、八正道に適う正しい思考と正しい行いと正しい言動により正しい智慧と真理を顕現させ、あらゆる執着から解き放たれ天恵を得て成仏するのである。
成仏とは生命エネルギ-の生滅の連続性による色界(物質界・現象世界)への生から解き放たれ無色(非物質)の状態世界(表界)に融合する事であり、それを物質界から表現すると「消えて無くなり二度と母体には宿る事なし」と釈迦尊は表現なされたのである。
これらは大衆には受け入れ難いが真理なのである。、真理とは諸刃の剣でもあるのだから。それを昔の人は知らぬが仏と言ったのだろうか。
内観によりサマ-ディ(禅定)が顕現する事により、五感官から入る情報とは次元を異なる情報がもたらされ生命の何たるかを啓き解き放たれる6神通を得る世俗諦。そして無学なる内々観による想受滅により、光明の学が顕現する事が勝義諦である。過去世から未来世までも、ミクロの摂理からマクロの摂理まで、天地自然の法(物理法則・因果法則・摂理・ダルマ)までも見通す神通を超える法力を得た如来の出世である。
◆大いなる意思についての解説
天地自然の法則(物理法則・因果法則)は本質的意志により条件つけられる故に全ての物質エネルギ-にも生命エネルギ-にも因果律により生じては変化して滅し、それが新たなる生起を条件つけている。天地自然の法則の本質的意志によりこの世界は創造されたのであり、無色(非物質)状態にある大いなるエネルギ-を梵なる生命エネルギ-(ブラフマー)と呼ぶのであり、生命エネルギーが色界(現象世界・物質界)においての心的エネルギ-状態を真我(アトマ)と呼ぶのであり、永続的な魂でも霊魂でも霊体でもなく生命エネルギ-の生滅の流れなのであり、バラモン教で説かれる魂・霊魂・霊体としてのアートマンという言葉は、呼吸する(アン)、行く(アト)、吹く(アヴ)を語根として想定されるものであるが、それと区別する為に心的エネルギ-を釈迦尊(ブッダ)はアナータ(アナートマ・無我)を想定されたのだが、この心的エネルギー状態を明確に理解して頂く為にアトム(アトマ-)と呼ぶ。
これは語義としては根源を意味する。これを釈迦尊は霊魂としてのア-トマンを明確に否定されたうえで「自分という家の作り手」アトマをアナ-トマンと表現なされた生命エネルギ-の本質的意志こそが存在の主体であり、根源を表現する意味を以ってアトマと表現してゆく。意識(潜在意識ないし気)とは意志の確認作用・巡回作用により発生する付随的なものであり後追い的なものであり、表層の思考域に於ける意識とは潜在意識から概念として思考域に伝達された意識を言語や映像として捉えているに過ぎず、その原意識に思考や記憶を加えて識別しているのである。「全体意識」とも言われる全ての物質として集まる物理的エネルギ-の本質的意志と真我なる生命エネルギ-とを別々の存在であり別々の本質的な意志であり、別々な性質なものであると捉える無明な意識と概念により誤った観念を生じさせるのである。            
また一部の観念論者は釈迦尊は非我(アナートマン)を説かれたのだから真我(アートマーン)を否定されたと捉えてしまうのも、永続的な存在への盲目的な意志と具現化された表象による妄想に他ならない。それらが後追的に生じている意識や精神を永遠不変なる得体の知れない神や仏を妄想するとき永遠不変なる意識や精神を妄想し、永続的な魂・霊魂・霊体などの妄想を生じさせ、天からの啓示や恩寵や罪罰などという外からもたらされる怪しげな力を妄想するのである。(渇きに発する煩悩と感覚による感情や主観などの自我意識が深めた妄想パラノイアを条件としてに生起する)           
当時の主流の伝統宗教バラモン教が説く真我(アートマン)が意識(意の識⇒思考域における記憶・想念・認識・思考判断など)を死後も携えるという誤った観念を釈迦尊は否定され、意識が残るとする真我(アトマー)ではなく意識は残らないとする非我(アナートマン)を説かれたのである。釈迦尊は此岸と彼岸を説かれているのだから此岸と彼岸とを往還する何かが当然ある事を説かれている事に他ならないのであり非我とは往還する何かには意識(思考域における記憶・想念・認識・思考判断など)は残らず気(潜在域・本能域)に残る気識(原識)である無意識を携えた真我⇒非我(アナートマン)であり、釈迦尊が仰る非我(無我)とは「私」という固定的な実体はないと説かれたのであり心の本質までもが無いと説かれた訳では無いのである。 
(無色なる彼岸へと還るものは生滅の因縁から解き放たれた生命エネルギ-でありそれは真我(アトマ)でありそれは梵(ブラフマー)である)
<意と気>の章を参照
意を携えず気を携える真我(アートマー)こそ非我(アナートマン)である。  
そして浅薄な者達は釈迦尊は天地宇宙の事など殆ど説かれていないから天地宇宙を司るもののはたらき(法則)や性質や実相を顕現させる勝義諦を否定して世俗諦という人間の内面を説かれた地に足の付いた教えこそ
釈迦尊の教えの本質であるなどと嘯くが、根本仏典の各処には、人が何処から来て、何処へ還り、どう来世に繋がってゆくのか語れて居るように人間にとって最重要な「生死の軛」を抜きには仏教は成立せず、此の世に舞い戻って仕舞わない道を説いてもいるのであり、真に地に足が付いた教えとは深淵なる領域にまで踏み込むものであり故に仏教が偉大な教えなのである。。一見して荒唐無稽にも思える真理を検証可能にしてゆく道も仏教の本質には内包しているのである、有学の域における言葉で表現し得る世俗諦が釈迦尊の本質であると宣うならば、大悟(勝義諦)を何故に釈迦尊は難解で言葉では表現し切れない部分と仰ったというのであろうか、難解である故に大悟した真理を説く事をるのを躊躇われたのであろうか。それらを否定する者達はそれを釈迦尊のスタンドプレイの如く、釈迦尊を貶める魂胆でも腹蔵するのであろうか。それは言語により表現できる「有学」による境地と、言葉によっては表現しきれない実践により個々が発見し理解し啓いてゆく境地である「無学」による境地であるから言葉や書物としては現存していないだけの話なのであり、故に釈迦尊は「例えわたしが言った言葉であろうがそのまま鵜呑みせず自ら実践により検証しなさい」という見解に汚されることのない動かしがたい真理であるという自信により仰ったのであると同時に「自灯明」「法灯明」の二つを頼りとし他の何物にも頼ってはならない。色々な観念や見解に惑わされていては決して大悟には至れないと仰るごとく、「法灯明」を優先し、宇宙の法則を理解し仏法という釈迦尊の発見された道標を頼りに学ぶ「有学」の域と、「自灯明」を優先し、皆が自らに具わっている天地宇宙を感じ取る能力を高めることに精進し自らが発見して理解して啓かれる、言語筆舌では語りえない深淵なる領域を無学による修行の中に顕現させるのが勝義諦(真諦・大悟)であり、釈迦尊が無記において返答なされなかったのは、一つに問う側(未熟)には検証しえない以上、釈迦尊がいくら語ろうとも議論(ディベート)へと陥り争いへと陥るだけの無常な対話でしかなく、「吾には吾の考えを持つが・・・。」と前置きして返答をなされなかったのであり、二つに見解に縛られている者は「私の見解だけが正しい」と頑迷であり、真理へとむかう機根を持ち合わせて居ない愚か者でしかなく、愚か者が頭に積もらせた実証も検証もない知識というゴミ屋敷を相手としなかったのに他ならない。
情報が満ち溢れる現代社会に於いて、私などとても足元にも及ばない学者も顔負けな知識を所蔵される方は実に多くいらっしゃる、しかし偉い学者先生でも覚れないでいるように、能書きや観念論を称えているに過ぎない知識というゴミを頭に溜め込んで自惚れている愚か者には智慧が顕現がする事はなく、しかもそんな人達が膨大な知識量を根拠として人様に説き本まで書いて論蔵(アビダルマ)という第六蓋を遺し、後に続く者達を惑わせている。「能書きと作為」に満ちた所有の次元が支配する社会と、真理へと向かう道に有る筈の仏教界までもが「所有の次元」を彷徨う根底には見解や知識を求めるあまり忘筌へと陥り、ヒエラルキー(階層)を構築し上位下達を重宝するあまり生死を乗り越える道を求めず師を乗り越えるを好しとしない歪んだで見誤った習俗を仏教と錯覚してしまう人の性(煩悩)で あり、「実践で得た真理が観念に包括される事などあり得ないのである」
知識や見解などに惑わされる事なく、見解に汚される事なく、対話により真理を説き、慈しみの心で精進し、よく調った心身こそ仏の顕現である。
人間の表層の思考域(意)における想念、記憶、認識、理解、感情や感覚などの意識とは電気的エネルギーの流れであり、身体が滅すれば消えてしまう性質のものなのである。そして思考域の想念を「意識」と呼ぶならば真我域(阿羅邪識)と潜在域(末那識)にわたる潜在意識(気)は「無意識」であり現す言葉さえ無いが敢えて言うならば気の識(原識)であり彼岸へと携え伝えてゆく生命エネルギー(量子的エネルギー)なのである。
故に、心とは論理的コンピューター(二次元的なYES:NO)の如き思考域と、量子コンピューターの如き無意識(潜在域・本能域)との相互作用により織りなされているのである。であるならば生命エネルギーである真我(アトマ)に意識は残留するのか否かは、意識を思考域の意識と潜在・本能域の原識(気)とを明確に認識するならば、思考域の意識(電気エネルギー)は肉体の死滅に伴い失われる性質のものであるが、潜在・本能域の原識(気)というサンカ-ラとカルマ(業)を帯びた生命エネルギーの生滅の流れ(継続性)は輪廻の流転から解き放たれ宇宙の本質へと同化するとき残留原識(気)を伴い無色界(非物質界・天界・極楽浄土)に於いての輪廻により天界・仏界へと浄化の流れを形成するのであり、空理空論の多い龍樹がニルバ-ナ(涅槃)もサンサ-ラ(輪廻)も同じものであると説いた処は、図らずも的を射ているのである。