一切は存在欲

生命の本能的な渇き(渇愛・不安定状態の安定化への渇望)により、存在欲という不死への儚い幻想への執着でもある煩悩を生じ、その存在欲の衝動に翻弄され自分が思考し決定して人生を造りだしていると錯覚しているが、その実は潜在域に於いて存在欲の衝動による感覚を条件として五集合要素(五蘊)によるパンニャ.サムカ-ラ(記憶の残滓・ラベル付けされた記憶・煩悩)と識別された意識(ヴィンニャ-ナ)を結び付けたり回転させたりしながら捏造された新たな概念が表層域の思考へと伝達され感情的な主観を生じさせ自分の見解であり事実であると誤認し執着して妄想させているのである。物事を理性的(客観的理解認識能力)に在るがままには認識して居る訳ではなく全体性を分断し認知した物事に対してフォーカスを当て主観的な識別をしているのである。生存の素因とも言われる存在欲により人は生かされていて「意欲」もやはり存在欲の衝動により生じているのである。渇き(渇愛)とは言い換えれば「不安定状態を安定化させたい」「渇きを潤したい」「不足を補いたい」という本質的な意志であり、惑星が恒星の周りを廻るのも、銀河が回転し続けるのも不安定状態を安定化させる為なのであり、心も不安定なるが故に安定へと向かおうとするのであり生命はこの不安定・不足を苦と捉えて空気が不足すると苦しいから息を吸い、吸ったままでは苦しいから息を吐き、空腹で苦しいから食物を摂取し、摂取したままでは苦しくなるから排泄する代謝により身体を維持安定化させているのである。存在欲とは「存在していたい」という渇きを安定化させるために永遠の存在へと向かう働きであり自分の存在の為には他の物事を破壊してでも取り除きたいという妄想は本質的な渇き(渇愛)から発せられる永遠への存在欲なのである。この不安定な存在を安定化させようと増幅させた存在欲の衝動が貪瞋痴(不善処)なのであり「貪」とは存在の為に肯定的だと判断する物事を貪らせ「瞋恚」とは存在の為に否定的な物事だと判断すると激怒させ「痴愚」とは存在の不安定の不満に縛られる事なのであり、存在欲(煩悩)を増幅させてゆくと所有の次元の事物に執着させる感覚に主導され錯覚し、自我(エゴ)を形成してゆき苦や悩みや不満、怒り、怖れ、渇き、憂いなどを自らの妄想により造りだし深めてゆく事に気付かないのは、この世が不安定な苦と無我と無常な世界であり変化生滅により成り立ち変化生滅しないものは存在出来ない世界であるという真理を煩悩(存在欲)は理解出来ないのである(煩悩とは主観的であり、また理性.知性とは客観的に理解認識する能力である)故に存在欲(煩悩)は苦に縛られ、自我を捏造し無常を受け入れる事が出来ないのである。存在欲が貪瞋痴(不善処)の執着を増長させてゆき感情に主導され自我により捏造された主観により生きる時、存在欲とは永遠の存在という幻影に向かって盲目的に彷徨ってゆくのである。
この世界自体(現象世界)本質的な渇望と不安定な意志である物理的一源のエネルギ-(ブラフマナー)の途方もない流動であり、アインシュタインがE=MC2と言うようにエネルギ-(ブラフマナー)の質量状態(物質化.色)或いはエネルギー状態(非物質状態.無色)にあるかであり、生じては変化して滅し、滅しては新たに生じる変化生滅を繰り返しながら成り立っている。故に生命エネルギ-も生じては変化して滅し、滅しては因果律に随って次の生起を条件付けてゆく流れ(継続性)により生滅を繰り返しているのである。心も物質もこの大宇宙のすべてがエネルギ-の流動あり流れとは生滅の継続性であり、今という瞬間と次の瞬間とは同一のものでも状態でもなく、新たに条件付けられた流れに他ならない。物質とはエネルギ-の3集合(結び目)により各種の素粒子を構成し、各種の素粒子の3集合により原子(原子核と電子と中性子)を形成し、原子(原子核と電子と中性子)が各種の分子を構成し、各種の分子が各種の物体を構成している。各種の物体の内より酵素核酸が生じ、細胞という代謝を行う物質が生じ、その細胞の構成(結び付き)により全ての生物が造られているのだが、たとえ実験室で何千億回も酵素核酸やその他の生物の構成要素を混ぜ合わせようとも加熱や冷凍や電気刺激を与えようとも有機物は合成できても代謝する細胞のひとつを造り出す事は出来ないのである。
そこには生命エネルギ-を生じさせる因果律と条件が調わなければ生命(細胞)は発生しないのであり、細胞が多種多様へと進化する道も生命エネルギ-の本質的な性質(渇き・不安定状態の安定化)による物理法則(天地自然の法則・ミクロの量子力学.マクロのアインシュタイン力学の統一法則.ダルマ・摂理)により生じているのである。
生命エネルギ-の本質的な意志が存在の状態の把握・巡回を行い状態を認識する時に発生させるのが意識(潜在意識・気)であり、細胞は微生物から人類に至るまで其々の脳に当たる器官を構成し、電気エネルギ-により潜在識の概念(気)を思考や意識化する器官を生じさせている。(人間は潜在意識(概念・気)を表層で言語として思考化させ具現化させる事により理性(客観的理解認識能力)を飛躍的に発達させて来たのであり、他の生物と人間とを決定的に隔てているものこそ、その発達させた理性.知性なのである。        
安定化したい、渇きを潤したい、存在していたいという本質的な意志による天地自然の法(物理法則、因果法則という摂理・ダルマ)により時空を形成するエネルギーは加速度的に膨張し続け、物質は安定化に向かい引き合ったり離れたり爆発し変化したり、周っているのである。(人の心身も大宇宙も同じ摂理のもとに同じ運動である変化生滅を繰り返しているのである。)
人の心とは、細胞という物質を生命へと変える生命エネルギ-とは別に、人間という存在(結び目)を構成させる生命エネルギ-により生じているものであり、人の身体とは生命エネルギ-により構成された約60億の細胞の集まり(結び目)と、その集まりを結びつけている生命エネルギ-により造られていて、その生命エネルギ-の本質的な意志の現状巡回・把握認識作用により意識(潜在意識・気)を生じさせ、本質的な意志である渇き(渇愛)により存在欲(煩悩)を生じさせ、存在欲(煩悩)により概念を生じさせ煩悩の作る概念により感覚や感情を生じさせ、表層に於いてその潜在概念や感覚や感情により主観を生じさせ、主観により自我を生じさせ、自我意識により妄想を生じさせ、妄想により捏造された識別(分別)を生じさせているのであり、それらを理性という客観的な理解認識能力により偏りや間違いや愚かさや未熟を気付かせてくれているのである。
釈迦尊(ブッダ)は真我(ア-トマン)を否定され非我(アナ-ト)を説かれたが、これは当時考えられていたバラモン教などの霊魂や霊体・法体という実存する固定的に流転し常住する実体を否定されたのであり、一源のエネルギー(ブラフマター)と無我なる生滅を繰り返す生命エネルギ-(アナート)の流れ(連続性)を否定されたのではなく、釈迦尊(ブッダ)が「自分という家の作り手」と仰っているように物質の集まりを生命と成し得て、生命体という集まり(結び目)を作っている生命エネルギ-の集まり(結び目)こそが「私という家の作り手」なのである梵我一如なのである。
真我(アトマ)とは霊魂や霊体や法体(ダルマ)という永遠に固定的に流転し常住するものではなく生命エネルギ-の生滅する流れ(連続性)であり実体的な常住する実体ではない非我なる真我とは生命エネルギ-の流れであり生命エネルギ-が運ぶサンカーラ(カルマ(業)と記憶の残滓)であり、輪廻(サンサ-ラ)という生滅の流れ(連続性)を生じさせるものがサンカーラ(カルマ(業)と記憶の残滓)が運ぶ本質的性質(渇き・存在欲)への執着であり輪廻を語るならば、生滅の流れを断ち切り成仏する事が出来ずに生滅の激流の呪縛に繋ぎ留められ、生命エネルギ-の生滅の流れ(輪廻)を遠い過去から未来に向かい流れ続けるのである。そして輪廻とは、生命の根源である微生物から捕食の関係性の上に何百万回と巡り流れて浮き沈み人の身に辿り着くのであり、業やサンカ-ラの深さや執着から解き放たれた生命エネルギ-の純度(浄度)により約二百万種の生物を五界(奈落・餓鬼・畜生・修羅・人)に分類された何れかの境遇から生物の捕食の関係性の上に流転してゆくのである。  
生存の軛から解き放たれるとは無色界(非物質界)に滅し、現象世界に再び生じる事なく、生滅の流れから解き放たれ成仏するとは生命エネルギ-(アートマ)が安定し浄まった意志とカルマ(業)とサンカ-ラ(記憶の残滓)の消滅により一源のエネルギー(ブラフマター)へと戻る処こそ虚空であり彼岸でありその最上位の仏界(無色界)における生命エネルギ-の状態であり、たとえ成仏に至らずとも純度(浄度)の高き者は天界に成仏を果たすか再び善き母の腹に宿るか良い処へ生まれる、また貪瞋痴・執着・欲深い者は地底(奈落・地獄)の微生物から輪廻の激流を捕食の関係性に従い繰り返す者も居る。もっと言うならば縁ある処に生ずる理ではあるが、必ずこの大宇宙の片隅の小さい惑星、地球に生じるとは限らず、大宇宙の果ての異質な生理作用を有する生命体として生まれる事さえあり、今生に於いてで福受け尽くさば縁必ず弧なり。
この真理を明確に理解し、無常を悟り解き放たれるならば流転する生滅の流れ(輪廻)からも解き放たれる。この生じるとは色(物質化)する状態であり滅するとは無色(非物質化)する状態であり、現象世界の本質的な苦・空・無常から解き放たれ、無色(非物質)に安定化するのである。
天地自然の法則(物理法則・因果法則という摂理(ダルマ)でもある大いなる性質(全体意志)梵(ブラフマター)とはいわゆる無色(非物質)なエネルギ-であり、色(物質化)へと変化して初めて検知されているのである(人類の所有する汎ゆる発展途上の検知機械では現在において検知できないだけ)が、それらは関係性の上に変化生滅を絶えず繰り返しているのであるが、人智による認識能力においては変化生滅による移動を、動いている・廻っている・流れているなどと認知しているだけなのである。
世界は梵(ブラフマター)というエネルギ-により存在し、生命に宿る生命エネルギ-の流れを真我(アトマ.アーナート)と言うのであるが、同質同根なる無色非物質状態)なものであり一如なるものである。
しかし真我(アートマ)を仏教界における一部の観念論者は、釈迦尊は非我.無我(アナート)を説かれたのだから真我(アトマー)を否定されたと捉えてしまう。しかしそれは当時における主流の宗教バラモン教が説いていた真我(アトマー)が不変な霊魂・霊体・法体(ダルマ)という固定的で実存的な存在を否定し、意識(意の識⇒思考域における記憶・想念・認識・思考判断など)を死後も携えるという誤った観念を釈迦尊は否定されたのであり唯識説一切有部の系統の部派や大乗は霊魂・霊体・法体(ダルマ)が有るという前提で教説が成り立っているものさえ在るが、意識が残るとする真我(アトマー)ではなく意識は残らないとする生命エネルギ-の消滅による非我(アナート)を説かれたのであるが、そも意識とは本質的な意志(渇き・存在欲)の巡回・状態把握作用により生じる随意的なものに過ぎず霊魂・霊体・法体(ダルマ)という主体は存在せず従って残存記憶はサンカ-ラ(記憶の残滓)であり、意識は生命エネルギ-の巡回・状態把握作用による無常なる随意的なものでしかないという事である。つまりは常見でもなく断見でもなく、自分という家を形作る色(物質)と無色(非物質)との間を変化生滅する生命エネルギ-の無常なる流れなのであり、それは釈迦尊は此岸と彼岸を説かれているのだから此岸と彼岸とを往還する何かが当然ある事を説かれている事に他ならず非我とは往還する時に意識(意の識⇒思考域における記憶・想念・認識・思考判断等)ではなく生命エネルギ-の本質的性質を真我⇒非我(アナート)と説かれたのである。
意はなく気の識を携える真我(生命エネルギー・アトマー)により非我(アナート)は形成されるのである。
それは在る状態でも無い状態でもない「在るでも無いでもない存在」である(この説明を一昔前であったなら偏った見解扱いされそうなのだが、現代においては確証的に言うことが出来る。最新科学がいう「量子」とは無色化(非物資)状態にある梵(ブラフマター)という一源のエネルギーが3結合して色化(物質化)した状態が「量子」であり同根であり万物(物質)の本源であり集まり(組織化)して量子(素粒子)を成し、素粒子が3結合して集まり(組織化)して原子(原子核.電子.中性子)を成し、原子が集まり(組織化)して分子を成し、分子が集まり(組織化)して万物を形成しているのである。それ故に科学分野に於いてはまだ未解明ながら心の性質と量子の性質とは同一な性質を有し、例えるならば心の想念の右上に描いた想念は瞬時に左下へも移動できるし共時的に描くことも可能であるが如く、認識により形を形成し認識せざれば形を形成しない性質をもつ。量子も宇宙の究極方向へ在るも瞬時に発生方向へ瞬間移動するも共時的に存在するも存在しないも意思しだいなのであり認識により表象が具現化する性質のものなのである。
すべてがプラスとマイナス、陰と陽、表と裏という両極的で相対的関係性の中に成り立ち一方が欠ければもう一方が成り立たなくなる関係性こそが世界(現象界)であり、それ自体として自立的、実体的、固定的に存在成立している訳ではなく因縁による無自性と無我、空、無常なものであり、無我であるが故に真我(アートマー)が成り立ち、無我と真我の両極を客体とすれば主体たる梵(ブラフマター)が定義する事が出来、現象世界が認知されるが故に恒常世界が論証されるのである。
本能(生存の素因)は、存在を維持・防御・獲得するための三要素、激質(攻撃本能)・暗質(防御本能)・純質(理性)により成り立っている。
攻撃本能と防御本能により煩悩を生じ、煩悩(無明)とは存在欲により成り立っているのである(生存の素因)。
「愚か(無明)なる故に、因縁を蓄積(行)し、名色(所有の次元)に向かい六処(眼耳鼻舌身意)を駆使して接触(触)を欲し、感受(受)させるものは渇愛(愛)に執着(取)させる有(存在欲)である。」 十二縁起
存在欲から逃れられない(生死の軛)から、この世界に生まれてきて苦しみや悩みを造りのであり、無明なる煩悩(存在欲)の性質に気付き見極め制御する実践的方法が八正道と不善処への気付きによる智慧の顕現なのである。(世俗諦の悟り)
煩悩とは渇き・所有欲・承認欲・性欲・食欲・・・・など存在を維持(現状維持)・防御・獲得しようとする存在欲なのである。
存在欲は存在を維持(現状維持)・防御・獲得しようと欲求していてたえず不安定な状態に在り、しきりに潜在識へ向かって存在欲の衝動を発する。潜在識はその衝動を意思として表層の思考域へと発し、思考は五官(眼耳鼻舌身)を駆使して外界に存在の維持(現状維持)・防御・獲得に必要と考えられる物事を探し求める。眼で何かしらを眺めるのも、耳で何かしらを聴くのも、鼻で何かしらを嗅ぐのも、舌で何かしらを味わうのも、体で何かしらを触るのも、すべて存在欲がそうさせているのである。そして自分の存在に対してプラスだと感じる(潜在識)物事に対しては肯定し貪りを生じ、またその自分の存在に対してマイナスだと感じる物事に対しては否定し怒りを生じる。(感情とは存在欲の衝動なのである)
その感情により意識は存在欲の要求に従順に応えるべく自我を生じさせ自我は存在欲の維持(現状維持)・防御・獲得をすべてに優先させ、存在への渇望により自己中心的で自分勝手な主観により思考し自分の都合で情報を捏造し認識するようになり、他を排除,破壊してでも存在欲を満たそうとする。故に存在欲の主導による現状維持や防御、獲得の欲求により得られる「所有の次元」からは自身を向上させる可能性や創造力の顕現は見られず現状維持や防御へと向かい煩悩の好む貪瞋痴の獲得しか生み出さない。感情(貪瞋痴)により生じた自我とは存在欲なのである。」
そして他の生命と人類とを隔てるものが飛躍的に発達させた理性であり理性に基づいた思考能力なのである、本能に発した存在欲なのであるが、客観的ば理解能力と客観的な判断能力を有し、感情を監視、制御する存在の維持・防御・獲得の為に、拠り良い選択を導くものなのである。
心の一切は存在欲であり、存在欲とは「生き続けたい」「死にたくない」としう意思であり、つまりは決して適わぬ願望に基づいて物事を判断しているのだから、必ず苦へと行き着くのである(一切皆苦)。
人は何かをする時、常に存在欲を安定化させる方へと向かうのである。
何かをする時、存在欲をどの様に、どの程度、安定化させ得るかという結果(成功)を期待しながら行動していて、結果が予期していた以上ならば大成功と大喜びし、期待どうりなら成功と喜び、期待したものと違った結果では失敗したと悲しみ、期待に反して存在欲に対してマイナスな結果であれば大失敗と怒り嘆くのである。だから心はいつも失敗しているのである。
ただ立っている時も、歩いている時も、何かをする時も、横になっている時でさえも、行動に対する結果(選択に対する成功)を期待し、期待した通りの結果を得られず、不本意、不満、苦、そして怒りなどの失敗を繰り返しつつも、自我による捏造した認識により対象物が悪であり、自分は被害を被った如き主観を積み上げているのである。
五蘊(対象物→感受→想念→意思→認識)という精神作用に於ける期待と結果について、電車に乗車中の揺れた時に例えると、対象(電車が揺れた)→感受(揺れた)→想念(経験や知識.記憶.予想などにより揺れへの対処を想念する)→行蘊(意思により対処する。結果への期待を同時に抱く)→認識→結果(成功・失敗)に対する感情を生じる。という、つまりは本質的には現象としての結果に対して、心は多くの失敗をしているのだが確実に認識して省みることがなければ、失敗は繰り返され、誤魔化す事や隠す事や体裁ばかりが先行し、感情はそれにより不本意、不満、苦や怒りを抑えながらも積み上げて行くのである。
「所有の次元」とは本質的には「客体の次元」であり「手段の次元」なのであり決して主体でも目的なのではなく、生きる真の目的は「存在の次元」に在り「存在の次元」に生きる真の目的を探すべきなのだが、本能(存在欲)に誑かされ「生きる目的は金を稼いで金持ちになる事だ」とか「生きる目的は高い地位を得て人々から尊敬される事だ」とか「生きる目的は好きな音楽や景色を愛する事だ」とか「素敵な女性と幸せな家庭を築く事だ」とか本質的には「手段(客体)」でしかない「所有の次元」に対する物事や感情を「目的(主体)」の如く錯誤しているのである。別に手段を否定しているのではなく「無くては成らないもの」かもしれないが「決して目的(主体)ではなく手段(客体)でしかない」ことを自覚できないから「所有の次元」に翻弄されて行くのである。
人は何かに縋って頼ってやっと生きているから「所有の次元」へと彷徨うのである。(この心理過程を説くのが十二因縁である。)
次という瞬間に何かしらの期待を抱くことなく、在るがままに成るがままに受け入れるならば不本意も不満も苦や怒りも生じることなく、物事(現象)に対する存在欲の衝動に勝利(つまりは成功)して行けるのである。
存在欲から形成された自我は五官(眼耳鼻舌身)を駆使して、外界に何か存在欲を満たそうと何か物事を探し求めるが、その存在欲の要求にいくら応えた処で、更なる要求を繰り返し一時的な快感や喜びと多くの苦や悩みや不満を生じさせながら生きてゆくのである、それを存在欲の要求を抑制してやれば、次第に心は澄み渡り存在欲に誑かされ翻弄されていた事にも気付くことができ、真の生きる目的である「存在の次元」も見えてくるのである。
誰しも失敗は望まず、成功を期待しているが「自分の成功とは、他人の失敗の上にある。」「他の犠牲の上に自分の存在がある」ということを心に留めて頂きたい。
そして成功や失敗に拘るのも存在欲に捉われているからであり存在欲により物事に対して「思い入れ(執着)」を抱き、思い入れ(執着)の深さにより物事に重要度や価値観を生じさせ計り比べ妄想しているのである。
存在欲を抑制して全ての物事を在るがままに観るならば全ては等しく重要であり全ては等しく価値あるものである事にも気付ければ、真の自分というものも在りにままに観ることが出来るでしょう。
人はこのように存在欲に発し、物欲・承認欲・所有欲・健康欲・性理欲・食欲・睡眠欲・・・・・等を生じさせ物事を行い、必ず結果を期待する。
結果が期待通りでなければ怒り、嘆き、悲しみ(存在にとってマイナスという感覚)、期待通りの結果を得れば喜ぶ(存在にとってプラスという喜びの感覚)。
それらの喜びにしろ怒りにしろどれ程に浸ろうが一時的なものでしかなく、
やがては存在欲の「生き続けたい」「死にたくない」という本質的な目的は何も解決も達成もされていないのであるから、またぞろ存在欲は安定を欲して衝動を発し続け、潜在識、表層意識は五官を駆使して「所有の次元」に彷徨い、存在を維持し防御し獲得しそうな物事を捜し求める、多くの人はこの存在欲の衝動に振り回され、突き動かされ、繰り返し続ける事が、人生であると錯覚して一生を費やしてもやっぱり死んでゆくのである。
真に理性(客観的理解能力・判断能力)が向かうのが「存在の次元」なのであり、「存在の次元」とは生まれてきた存在が、存在として在るための生き方の選択であり、この現象世界に於いては本質的には存在とは「今の瞬間」にしか成立していないのであり過去も幻影であり未来も幻想でしかなく「存在の次元」に於いて生死の軛を乗り越え、今という瞬間に没入してその甘露なる命の実相を味わうだけであり、他の見解は実は妄想か空論でしかなく、今という瞬間の安楽を味わい次の瞬間への執着がなくば自ずと、存在欲から解き放たれる。生死の軛を乗り越えたれば苦や不満は生ぜず、怖れも迷いもなく、解脱して大楽(法悦)なる涅槃を得る。
そして涅槃の安楽をも捨て離れた処が平安なる寂静(梵住)である