如来品正師.多々方等正覚語録.その5

如来品正師 多々方 等正覚 語録】
<諸悪の根源>
問題の本質や秘密や原因を等閑にしたまま深く思慮する事もなく、理想論を語り、そんな自分に酔っ払っているような人をよく見かけるが、理想と現実とのギャップにより生み出されるものはドゥッカ(不安定さ・不完全さ・苦しみ・悩み・儚さ・脆さ・弱さ・空しさ・惨めさ・実質の無さ・怖さ・無知・欲)である事も知らずに。
諸悪の根源とは人間の持つ煩悩(生存欲)であり、煩悩による本質的には永遠の存在への儚い渇望による自己愛の利害への執着に他ならず、個人も国も世界も自分側の立場に立った利害により、争い、憎み、恨み、騙し、従え、苦しみ、殺し合い、傷つけ合い、迷い、惑い、悩んでいるのである。
煩悩を制御せず乗り越えず克服せず、煩悩の奴隷状態に気付くこともなく所有の次元の物事に翻弄されながら、平和や慈しみや愛や共生や解放を説く者は詭弁を弄しているか偽善者でしかなく、それは片手でこぶしを握りながら片手で平和を説いているのであり、達成できない理想論を語っているか騙っているに等しいのである。
人の行く 裏に道あり 花の山

如来品正師 多々方 等正覚 語録】
煩悩(生存欲)の束縛から、解き放たれ(解放)
煩悩(生存欲)の執着を、乗り越え(超越)
煩悩(生存欲)の欲求から、目覚め(覚醒)
人は自らが生活の中で実践的に修養してゆくことにより、
人は自らが真理を顕現させてゆくことにより、叡智は啓ける。
得体の知れない神や仏や外的な超越的な力などや、特別な
能力や啓示を与えられたと主張する妄想者や悪人達から、
その従順な行いや態度や妄信に対する恩恵や報いとして、
与えられるものではないのである。

如来品正師 多々方 等正覚 語録】
生きるとは生じ続け、変化し続けることであり一瞬でも同じ状態には在らず、そして死ぬとは物質的エネルギーと心的エネルギーの結び目が解かれ、物質は分解され違う何かに成り続け、心的エネルギーはその消滅が次の生起を条件付け、新たなる生命へと再生し続けるのだが、果たして何に再生してゆくのかはサンニャサンカーラに内包された業(カルマ)の不安定の度合とも言い換えられ、業(カルマ)深ければ蠢きの処(地下の微生物や原生生物)へと再生する者もあり輪廻を決して見縊ってはならないのであり、再び至高の存在(人間)へと向かい生物の進化(捕食の関係性)の激しい流れ(連鎖)の中を流転する。この生死の隔てなく連鎖する継続的運動とは自然法測(摂理・物理法則)であり、完結する性質のものでもあり。条件により生起する性質のものは、同時に消滅する性質のものなのである。
五蘊とは五集合要素であり、ドゥッカとは執着の五集合要素(五蘊)により生みだされる精神作用なのである。それは物質的エネルギーにより形成される色蘊と感受蘊と心的エネルギーにより形成される想行蘊(サンニャサンカーラ)とのコンビネーションにより識蘊(ビンニャーナ)という意識を生じ更に五蘊をグルグルゴチャゴチャ回転させると概念が生じ、想念が生じ、感覚が生じ、無知(無明)による盲目的な闇の中で感情が生じ、主観が生じ、自我が生じ、妄想が生じ苦や悩みが生じてゆくのである。

如来品正師 多々方 等正覚 語録】
経済社会という物質文明の潮流は、人々を欲得への誘惑により翻弄しながら盲目的な無知(無明の闇)を深めてゆく社会でもある。
物や情報は溢れかえるほどに豊富な社会の中で、豊かに発展して行く社会の中で人の心だけが益々と貧しくなっては居まいか。
たとえ暮らし貧しくとも、心の豊かな人で在れ。
たとえ暮らし豊かなりとて、心の貧しい人となるなかれ。
天の采配は受け入れて、感謝する心を失うことなかれ。
天の采配は他に分け与える為に、預かりしものと心得よ。
幸せは、愚かなゆえに握り締めようとする欲得や執着を、
放てば掌(たなごころ)に満ちるものなれば。

如来品正師 多々方 等正覚 語録】
釈迦尊は仰っています。
〇自分とは五集合要素そのものである。
〇意識は条件から生起し、条件のない処に意識は生起しない。
〇意識とは物質・感覚・識別・意志に依存しているのであって、それらから           独立しては存在しえない。
〇条件により生起する性質のものは、消滅する性質のものである。
因果律に従って一つのものが消滅し、それが次のものの生起を条件付けるのである。
〇その物事に執着せず、完全に超越できれば、それが自由であり解放であり、捨て去ってゆく道である。

如来品正師 多々方 等正覚 語録】
仏道とはどんな物なのか?と問われたとしたら私は答えるだろう。
存在という主体にとり、手段であり客体であり付随物(付き随う物)でしかない所有の次元の事物(金財、物品、地位、称号、権威、権力、勢力、名声、知識、異性、出自、等々)が生きる主目的であるかの如く錯覚した価値観を見出して幻影を追うが如き砂上の楼閣を懸命に築いている事に気付けない。所有の次元に魅入られ執着させ向かわせるのは本能的な渇き(渇望)であり煩悩(存在欲)が拡大してゆき貪り執着させてゆくからであり煩悩という生存の素因の暴走を制御し束縛から解き放たれ存在の次元(存在の本質)へと向かう道こそが真に苦しみ・悩み・迷い・怖れ・不満・悔やみ・怒り・悲しみ・心の盲目・不安など自分を縛り付けているあらゆる物事から解き放たれ、同時に自分という存在の真の意味や価値に気付いて人としての質(クオリティ)を高めてゆく道なのである。そこには自ずと法(ダルマ)による慈悲や思いやり・状況判断・礼儀・道理、徳目、倫理などが不可欠であり磨き浄めてゆく事でもあるのである。 誰でもが決意と信念と努力により、人の具する知性と叡智により真理を発見し、理解し、到達し、達成する事が可能な道なのである。釈迦尊の聖道跡を辿って、

如来品正師 多々方 等正覚 語録】
ニルバ-ナ(涅槃)を釈尊は実存と仰った。
これは物質及び自分という存在と心的な精神作用である五集合要素(感覚・意識・意志・識別)の何れもが非実存的なものである事に対する実存として仰っているのだが、非実存とは現象世界(この世界)における全ての事物は生じては変化・成長して消えてゆく性質のものであり生と滅とを繰り返している物理的エネルギ-と生命エネルギ-の流れ(連鎖する継続性)であり、実存的(恒常的)なものは存在できない世界である。心的な感覚・意識・識別・意志(これは意図と言うべきであり意志とは潜在域に本質的意志がある)とは物質(条件)との接触により生じた、云わば湖底の揺らぎにより生じた泡が変化成長しながら昇り湖面において消えるような性質の
物であり、一方の涅槃(ニルバ-ナ)とは条件付けられた結果ではなく、渇愛(渇望)や煩悩や不浄や悪心や欲得や執着などを素粒子電荷に例えるならば、それら帯電させているものを捨て去って電荷から解き放たれた生命エネルギ-のニュートラル(本質的な中性)な状態において安定化した生命エネルギ-の本質を実存と仰ったのである。

如来品正師 多々方 等正覚 語録】
二つの連続する瞬間を通じて、同一の存在として在り続けるものは何ひとつとして無く、全ては一瞬ごとに生起し一瞬ごとに消滅し流転を続けているが、これを全体性として捉えてはいけない。人間の体や物質を集まりとして存在する全ての物事が全体として同時に生起し、全体として同時に生滅している訳ではなく、マクロ的に捉えて全体として同時に生滅を繰り返すならばこの物質世界や身体がネオンサインの如き点滅的存在であると言っているに等しいが、そうではなく時間的尺度をプランク時間(時間というものの最小単位)を仏教では一刹那とミクロ的に捉えると全ての物質は其々の周期・条件に従った刹那時間で生滅という継続的な連鎖の流れを繰り返しているのであり、その集まりである物質は一瞬というマクロな時間的尺度で捉えるならば、一瞬ごとに生起し一瞬ごとに生滅しているのである。そして心的エネルギ-とも言われる生命エネルギ-は一刹那ごとに生滅を繰り返しているのである。例えるならば最小の原子である水素は陽子と中性子からなる原子核の周りを電子が廻っていると言われるが素粒子である電子は数刹那(一瞬の何十億分の一)に生滅を繰り返しながら連鎖的な流れを作っている(これを周っていると表現している)、粒子(素粒子の集まり)である中性子は約十分毎に崩壊を繰り返していて、陽子は約十年毎に崩壊を繰り返すといわれているが、粒子を構成している素粒子は刹那における其々の周期・条件により、時間的尺度をマクロ的に捉えるならば一瞬(指をパチンと弾く間)ごとに生滅を繰り返しながら流れ(連鎖の継続)を作っていて、其々の生滅の周期・条件を持つ粒子・素粒子による集まり(結び目)として水素原子が存在しているし、身体で例えるならば分子の集まりであるが、細胞の集まりであるが、細胞は常に何処かが入れ替わりながら、この身体を存続させている集まりである細胞が一時に同時に入れ替わる事はありえず、それでは集まりである身体自体が現れたり消えたりしてしまう事になってしまう。そうではなく因果律に従った其々の性質や周期・条件付けにより、ひとつのものが生滅し、次の生起きを条件付けながら継続の連鎖を繰り返しているのである。

如来品正師 多々方 等正覚 語録】
人の心のその中に仏も住むが、鬼も住む。
一切衆生 悉有仏性なれど、一切衆生 悉有畜生なるも忘れまじ、
どちらの道を辿ろうとも 選択するのは己自身なのだから。

如来品正師 多々方 等正覚 語録】
世の中の多くの人が葬儀屋の喧伝を鵜呑みにしてか葬儀や納骨を仏事だと誤解されているが葬儀は俗事であり、納骨や墓の建立は日本の習俗であり、仏教行事ではありません。遺族が故人が善い処に逝き安らかに眠れるように徳が高い仏教行者に供養を懇願し、行者は依頼に応えるという関係性であり、墓を管理するのは徳川幕府の政策であり仏教思想とは相容れない性質さえ有します。まして戒名料などは何の意味はなく、宗派の経済政策として編み出され、それが為に釈迦尊が明確に定められ経典の各所にも聖道として記される托鉢行により修行者(僧侶・沙門)は糊口を凌ぎ努め励みなさいという教説は歪められ、大乗(マハ-ヤ-ナ)に於いても本来は六波羅蜜の感性には欠かせないものと見做していましたが、阿呆が増えた今の日本では托鉢などする僧侶は偽坊主だと蔑み、乞食行(菩薩行)ではあれど乞食をしている訳ではなく、俗世の人々が人生の目的であるかの如く向かう所有の次元(金財・富・地位・名誉・権威・事物・権力・勢力・・)への欲得や執着の心を多少でも洗い浄める為に握り締める欲得や執着の掌を放ち修行者に施与を施すのであり、修行者は生活の為の僅かな糧を得るのである、布施した人は存在の次元という内面的に於ける人間性や人の質(クオリティ)という真の生存の意味や価値観を得て自らの存在を浄め高める事を目的とするのであるが、嘆かわしいかな短絡的思考しか出来ない多くの人達の認識は、仏道を外れ邪道へと向かっている寺を守るという経済行為・社会行為を仏道と勘違いした僧業者達を僧侶(沙門)だと宣い、聖道跡を歩む修行者を乞食、偽僧侶と蔑む主観による無明(盲目)でしかなく、自ら調べ観察し理解して得た理性による客観的な認識や理解ではなく、誰か感情的な無知な者に尋ねたりして無明の闇を深めて了見の狭い了見違いが増しているだけなのである。仏教とは客観的に自ら観察し理解してゆくものであり、キリスト教イスラム教・ユダヤ教のような祈りの宗教ではなく、自らが実践により発見してゆく宗教であり、お題目をあげたり読経したりするのは暗記の為の作業であり、妄想により生み出された得体のしれない神仏に祈る訳でも、御利益を期待して願う事でもなく、守護を得体のしれないものに依存することなく、自らの身は自ら守ってゆくのであり、自分という存在を生みだしてくれた父母に感謝し、育んでくれた社会や環境に感謝し、社会や国家や人々が平安で幸せである事を願い、生かせれている現実(環境や条件や状態など)に感謝し、自分自身を克己し無事に暮らす事を心懸けて真に価値や意味のある存在へと向かうのである。

如来品正師 多々方 等正覚 語録】
    輪廻のうた   作詞 多々方 等正覚  
       線路は続くよどこまでも節で歌ってみて下さい。)
1, 輪廻は続くよ~ どこまでも~   ♪
   生と滅とを~   繰り返し~    ♪
   遥かな過去か~ら 未来まで~  ♪
   進化の歴史を~ なぞりゆく~   ♫
2, 輪廻は巡るよ~ いつまでも~   ♪
   激しい流転を~ 浮き沈み~    ♪
   何処から来たりて~何処へ行く~ ♪
   何に成りても~ 難度海~     ♫
3, やっと生まれし~ 人の身に~  ♪
   欲得、煩悩、 塗れ生き~     ♪
   激しき流転を~ 繰り返す~    ♪
   仏はブツでも~ 微生物~     ♫
4, 軛を解かれて~ 光音天~  
   全き叡智の~ 内に座し~     ♪ 
   天の輪廻を~ 流れゆき~    ♪
   いつかは必ず~ 梵釈天~     ♫ 

如来品正師 多々方 等正覚 語録】
俗世の人は所有の次元へと向かい修行者は存在の次元へと向かう。
所有の次元の事物の全ては付随物(付き随うもの)であり客体でしかなく必要への依存であり、必要を越えた依存や執着は必ず苦や悩み怖れ悔み不満へと行き当たる性質である事を知らない。釈迦尊の教えは啓発され制御された全ての関係性の中に存在の次元に収束される。外へ向って築いてゆく所有の次元の儚い価値観の輝きは夢幻なものでしかなく、内へ向かって築いてゆく存在の次元に於ける真の価値観で輝く。世の所有の次元で輝く者の本性が金の亡者であったり守銭奴であったり貞操のない色気違いであったり徳の薄い人間であったりする所以であり、死が近づき所有という輝きを脱ぎ捨てる時、自分という存在の真の価値観にも気付いて待ち構える輪廻に恐怖するのであるが、自己という存在の真の価値観を磨き人としての質(クオリティ)を貴めた人は輪廻を思う時、天に留まれるか悪くても良い処に人の身ぐらいには生まれるだろうと死への恐怖を抱く事も執着もなく穏やかに平安である。この世に縛り付ける渇きによる生存の素因、煩悩(存在欲)は制御され、五つの集合要素(五蘊)の無常なる本質は克服されたのだから。

如来品正師 多々方 等正覚 語録】
マハ-ヤ-ナ(大乗)に於いても、上座部に於いても偉大なる仏教指導者であるブッダゴ-ザ師やワ-ルポラ・ラ-フラ師を始めスマナサ-ラ老師に至るまでも、釈迦尊の教説への理解が硬直化している処と甘いのではないかと言わざるを得ない処が多く見受けられるのだが、それを仏教学者をを名乗る浅薄な連中が追従し延いては世俗の人達に誤った観念を伝播している事実は歪めない。何故ならば偉大なる釈尊が発見された叡智により顕現された真理を語る仏教を妄想的で得体の知れない信仰と同列に看做されてしまうのは、涅槃(ニルバーナ)を瞑想によって到達する究極の境地の如く捉え、神秘化されたベ-ルの中に所有の次元の事物の如く貶めてしまっている事に気付かないからである。釈迦尊(ブッダ)がj強調して仰っているよう内観(瞑想・ヨガ・禅定・観照)は仏教には欠かせない重要な徳目であるのだが、高度な内観(瞑想・ヨガ・禅定・観照)によって得られる安定・平安・歓び・幸福・悦楽・神秘体験や第三の眼などの深い洞察力にしても、それら全ては条件により生起しているものでしかなく、やはり条件により消滅する性質のものでありドゥッカであると説かれ、瞑想は涅槃へと向かう為の一つの手段に過ぎず、大悟へと至る心身の調整としての内観(ヨガや瞑想)であり、睡眠により一日の経験を記憶域に整理しているように内観(瞑想・ヨガ・禅定・観照)による深い洞察力で叡智を整理し如実知見するのであり、高度な内観(瞑想・ヨガ・禅定・観照)によって涅槃(大悟・ニルバーナ)に至るとは説かれてはおられず釈迦尊(ブッダ)存命の当時から今世に至るも蔓延る瞑想=悟りという間違った見解を明確に否定され、間違った観念や悪用された内観(瞑想・ヨガ・禅定・観照)により迷い・惑い・妄想・倒錯へと陥って行く多くの人々に対して警鐘なされているのである。では涅槃(大悟・ニルバーナ)とは何かと言えば、釈迦尊(ブッダ)の教えの具現化による無我⇒慈悲⇒一如という目覚めへの方向性により、自分に捉われ自分に拘った自己愛を乗り越えて、自己愛への執着を乗り越えた分を、無常法の中で無常の劫火に焼き尽くされている全ての生きとし生きる者達の世界苦を自己の一身に背負い、全ての生き物に対し無私で無分別の愛情として振り向け、自己愛への執着から完全に乗り越え解放された時、慈しみ愛する対象物(生きとし生ける者達)で満ち溢れた世界への歓び、感謝、平安、静逸、幸福などの存在実感こそが涅槃の境地(ニルバーナ)であり、生成し存在し継続し増大していこうとする渇望(渇愛)という全宇宙を動かしている途方もない力による業(サンカーラ)として執着させていたエネルギーが安定化する事により、再生成することが出来ず輪廻(次の何かに成り続けてゆく継続の輪)から外れ、安定エネルギーにより成り立つ世界(大宇宙という現象世界は安定エネルギー世界の一画に生じた不安定世界なのである。)そして安定エネルギー世界で安定的・実相的に存在するのが成仏なのである。
またカルマ(業)への解釈にしても「意図した行為」と解釈して五十二の要素を定義しているが、意志には本質的な意志と意図的な意志が在るが本質的意志の巡回確認作用により生じる意識(無意識)と表層域による思考による意図的意識を同列に扱うのは、他の生物と同列な感覚による概念の生成と、人類が進化させた理性という客観的理解認識能力とを同列化するに等しく、見られる心と見張る心という感情的な無知な心とそれを見張る理性という仏の要素を啓発させる全ての修行を形骸化させてしまう第六の蓋とも成るのである。それは潜在域においては生命エネルギ-による概念を結び、思考域においては電気エネルギ-による概念を結んでいるのであり、身体を形成する物質的エネルギ-による電気エネルギ-と生命エネルギ-という本質的意志の明確化こそが、得体の知れない神仏や天からの啓示などという盲目的な妄想から先ず解き放つ道なのである。見必の故意の如く、意図すれば容易に避けられる悪行を、意図する事を怠って意図しないが為に行われた行為により悪行となる結果とは、意図して認識に努めれば避けられたものを意図せざるが為の結果は業を生ずるか否か。
論ずれば戒と律とは、修行者を縛るものではなく修行者を助けるものであるが、それはもし戒と律とが定まって居ないならば一つ一つの行いについて都度「これはすべきか。せざるべきか。善か悪か。」を自問自答しながら行わねばならなくなり感覚に翻弄されたならばその時の感覚次第で違う対応さえも在り得てしまうものだからでもある。不殺生という戒律を考えた時、全ての生き物が同じ存在の欲により生きている事実に対して慈しみの心で殺さない助ける意図で道路面に注意を配り小さき生き物の殺生を避ける事なのであるが、当然の戒律を意図せず、夏場など特に道路面など見向きもせず踏ん反り返って正面を見据えて歩けば小さき生き物をどれほど殺生してるか判らないのに些細や気使いが出来ずその認識がなく意図しない時の業(カルマ)は有りや無しや、浅いか深いか最も重要な業(カルマ)の生成に対する理解が曖昧なのである。
自他の両面に於いて善行を意図し、自他の両面に於いて悪行を意図しないと理解しなければいけない。

如来品正師 多々方 等正覚 語録】
青い海と白い砂と澄みわたる青空の南の国の浜辺に初めて出会う時、驚きや湧きあがる感動的な刺激に眩惑される事だろう。しかし浜辺の素晴らしさに眩惑されているように感じながらも、実は人の本能域が新たなる発見(可能性)に対して強烈な振動を起こしたのであり、その新たなる発見による可能性とは「永遠の存在」へと向かう可能性への感動なのである。故に段々と感動は薄れ、記憶域に蓄積されたサンカ-ラ(ラベルが貼られた記憶の残滓)とア-サバ-(滲み出る汚穢と滲み入る汚穢)によって感動は失せてゆき飽きていってしまうのである。つまりは精神作用(五蘊)の本質に気付きサンカ-ラとア-サバ-の蓄積を滅するならば風光明媚な旅先でなくとも、日々の生活の中でさえも一瞬々々の現象との出会いが実は一生に一度しかない新たなる体験であり感動的で刺激的な快楽を味わうのである。しかし通常の人の感性は初めての出会いの時などに味わう強烈で刺激的な感動や快楽に魅入られ、存在欲に突き動かされ所有の次元を彷徨うのである。本能(渇愛)の衝動である存在欲が造り出す盲目的な感情や自我や主観とは、五蘊が無我であり無常である事を理解することが出来ないのだから(永遠の存在に向かって貪欲に彷徨っているのである)。五蘊が無我で無常で空である事を、観察し理解し認識する能力が、発達させた理性なのである。感情は妄想へと心を運び、人を欲深くさせる。理性はそれを見張って気付かせてくれる客観的な認識なのである。
如来品正師 多々方 等正覚 語録】
心 軽ろくして、身もまた軽ろし
身 軽ろくして 心もまた軽ろし
心は身に随いて、身は心に随いて 
圭礙なく 感じる鼻底の呼気吸気
味わい深く甘露なり

如来品正師 多々方 等正覚 語録】
明らかに聖典(正しい経典)を所蔵するのは上座部であるが、偏った論蔵により部派仏教に甘んじている。その原因の第一は精進を単に努め励む事と浅薄に捉えてはいまいか。釈迦尊の教えの一工程である知足(足るを知る心こそが真の満足を得る道である)を以ってして更なる進歩や発展を停滞させ阻害してしまう頑迷は、中道(偏らず拘らず無理をせず)に在りながら前向きに精進してゆく真の仏教とは言えない。人の心とは「これでいい」と満足した瞬間から進歩や発展は失せ退廃へと向かう物なのである。常に自他の為に進歩・発展へと向かうのが精進なのであるのだが、これは上座部が盛んな国々を見渡せば明確な事ではあろう。足るを知る素朴な人々に支えられ信頼され心の拠り所となっているが自他を利する進歩・発展を説いて来たのだろうか。禁欲や苦行を美徳と捉え進歩・発展する事が罪過の如く振る舞って来たのではなかろうか。上座部の盛んな国々が温暖で穏やかな気候風土もあって人々が素朴で無頓着な処は歪めないが、なればこそ釈迦尊は中道で偏らず拘らず無理をせず前向きに精進(進歩・発展)せよと仰ったのではなかろうか。釈迦尊は幸不幸が富裕や貧困という現状によるのではなく状態への捉え方、向かい方次第であると説かれたのが有無同然(無いは無いで幸せならば有れば有ったで依り幸せ。有れば有ったで不幸ならば無いは無いで依り不幸)に自他が進歩・発展して行く事こそが真の善行の奉行であり慈悲心の本質なのである。私は物質文明は決して礼賛しないが、その力強く前向きな進歩発展と恩恵には敬意を表わす。しかし一方で執着を増大させ[所有の次元]に誑かされ、苦や不満を造り出し、また情報というものが新聞・ラジオ・テレビ・パソコンと発達する事により、それと気付かぬ内に情報操作や情報誘導されてしまう危険を孕んでいる事を肝に銘じなければないだろう。まして最近はスマホという機器を歩きながらも寝る間を惜しんでまでも依存している人をよく見かけるが依存的な情報は単に感情を一時的に満足させているだけに過ぎず、客観的な理解判断認識能力や全体的把握能力や洞察力を司る前頭前野の発達を阻害して自我(エゴ)が強くてキレやすい視野の狭い人間を量産してゆくだろう将来が恐ろしくも思えるのである。釈迦尊が説かれた真の仏教による真理と智慧に基づいた精神文明と執着を離れた大慈悲に基づいた物質文明との偏らず無理のない融合こそが今、新時代に向かって求められるのではなかろうか。

如来品正師 多々方 等正覚 語録】
大悟に至りし修行の中で前頭前野が発達し、盛り上がりし前頭を剃髪するとき難儀あり、沙弥の時分が懐かしい。

如来品正師 多々方 等正覚 語録】
仏道の初歩は、妄想習慣からの厭離であり、集中力の向上である。次には今の自分の発見であり、その為の観察なのである。大概が愚かで未熟で虚しくつまらない物事、どうでもいい物事、下らない物事に捉われ拘り執着してしまう自分を発見出来るだろう。そんな発見が出来ない者は既に悟ってるか慢心してる

如来品正師 多々方 等正覚 語録】
知識はあれど智慧はなし。そんな世の中で多くの法(ダンマ)が正しく理解される事なく間違った観念や偏った見解や浅薄な理解による論蔵で溢れかえっている。例えば五蘊とは瞬間的な精神作用であり拘り捉われ執着し思考と五蘊を回転させ続けるから苦を生じるのであり五蘊が働かせない者は廃人なのである

如来品正師 多々方 等正覚 語録】
自分の愚かを識る者こそが、悟りの道を歩んでゆける。気付けぬ者は必ず忘筌へと陥り、間違った観念や偏った見解により、釈迦尊の教えを真に理解する事が出来ない。そんな者達が立ち上げたのが大乗教という信仰宗教なのではなかろうか

如来品正師 多々方 等正覚 語録】
人は一日の内でも、九割以上の愚かな五蘊作用を繰り返し、必要な五蘊作用は一割以下でしかない、だからこそ愚かな五蘊作用を働かせなかった事への沢山の安堵を得るのである。沢山の安堵を得るからこそ歓喜が生じ、歓喜を得るからこそ充足(知足)を生じ、充足を得るからこそ慈悲の心が生じるのである。

如来品正師 多々方 等正覚 語録】
愚者はグシャグシャ考えて主観を心と錯覚し、誤者はゴチャゴチャ考えて妄想重ねて欲深く。無心に味わう事もなく、何だかんだと宣いて苦悩と不満が膨らんで、何かに頼り何かに縋り、束の間の安堵を握り締め、真理から目を背け、解き放つ事能わず、渇いた心で自惚れる

如来品正師 多々方 等正覚 語録】
心 万境に随いて転ず、現れては消え、消えては現れる泡沫なり。
調いて罣礙なき心、転処 実に能く幽玄なり。

如来品正師 多々方 等正覚 語録】 
福 受け尽くさば、縁 必ず弧なり。良縁去りて、悪縁を結ぶ。
人の行く 裏に道あり 花の山

如来品正師 多々方 等正覚 語録】
依存するものは、いつか必ず消え去ってゆく性質のものである。それが自覚できず依存を深めてしまうから、いざ失った時に苦悩するのである。
人は皆んな幸せを求めて生きている。これから自殺しようとする者でさえ、その行為の先に幸せを見出しすのである。多くの人々は所有の次元の事物をより多く所有することで幸せになれると錯覚し、所有の次元の事物を所有しようと余念がないが所有の次元の事物の本質は「苦」なのであり、一時的な楽や喜びを味わわせるが軈ては苦へと還りつく性質のものでしかないものに依存し頼りとし生きていれば必ず何処かで拠り所とする事物を失って苦悩する。ある意味で苦悩とは「身から出た錆」でもあると言えるのである。
必要不可欠な依存(生存の素因)と膨張した依存(欲得、執着)とを混同していれば必ず人は苦悩に行き着くのであり、膨張した依存により執着や欲得が深まると自我(エゴ)が強くなるのである。故に欲深い人間は自己中心的で自分勝手になってゆくのである。つまりは「盲目的な意志と、それにより顕現した表象」の中を彷徨っているだけなのである。
所有の次元の事物に魅入られて他人と比較し、価値を判断し、存在の次元を見失ってゆき、存在の次元にある真の幸せを得る事が出来ないのである。
♪「所有の次元」「存在の次元」という観念の参考例
☆貴方の輝きが果たして何か事物の所有による輝きか、貴方の存在による輝きか。貴方が周りから認識されるのは良い車を持っているから?知識が豊富だから?金廻りがいいから。ファッションが素敵だから?それとも貴方自身の人格によって?「月白く、風清し」
☆車とは人や物を便利に運んでくれ、時間的余裕を与えてくれたり空間を提供してくれる存在である。
高級車や、名車などを、権威、名誉、見栄、財物として所有する場合は所有の次元の事物であると言えるのである。
☆時計は時間を見るもの。ローレックスは人に見せるもの。

如来品正師 多々方 等正覚 語録】
自我と主観による見解を自分の心だと錯覚してはならない。
それら妄想こそが、自らを苦しめ悩ませ不満を生じさせ、人の心を汚し迷わせ、拘らせ争いへと誘うものなのだから。
人々よ、明確な意志を持て。明確な意志だけが自分を幸せへ導くのだから。心には常に善と悪とが表裏一体として在り、その時々の意志による選択の連続性の果てに今の自分があり、やはり意志による選択の連続性の果てに自分の将来は築かれてゆくのである。
世界は常ならぬ無常であり、変化生滅を繰り返しているものであって、決して固定的な実体など存せず性格と呼ばれる性質も、意志による選択を明確化してゆく事により、変幻自在なものなのである。
唯、どちらの道を選択してゆくか次第なのだから、悪に馴染まず悪を厭離する自覚を持ち、明確な意志により選択して行ければ運命という気紛れな風に煽られず翻弄されず、大海を怖れずに雄々しく帆を掲げる小船の如く大海に挑んで行けるだろう。
順風時には備えを怠らず、逆風時には耐え努め励み風が治まる時を待ち望むと望まざるとに関わらず着岸する其々の目的地を目指すのではなく、大海のうねりに抗わず身を任せ、日々の航海を愉しみ、日々の変化を味わうのが人生なのではなかろうか。
「善悪を明確な意志により選択し「恭寛信敏慧」の心を育て、日々を楽しむならば、必ず道は啓ける。」
恭=うやうやしく慎み深い
寛=寛大・ひろく大きな心・くつろぎ
信=信頼・信用をえる
敏=機をみて敏な行動
慧=智慧 物事を詳細に観察し理解し智慧と成す

如来品正師 多々方 等正覚 語録】
先ず、生きるの最低限を識り、必要欠くべからざる事物を定むれば、世に怖るるもの最早なし。
「吾、米一俵と味噌一樽を備うれば、まァ一年は安堵なり、あとは何事にも拘らず、捉われず、負担を増やさず、気苦労を造らず、過ぐる日々を味わうだけ。」

如来品正師 多々方 等正覚 語録】
愚か者は僅かの金を握りしめ自分の欲得に費やして倹約を心掛けると宣いながら使い果たして消えてしまう。幾許のガラクタを残し後には何も残らない。例え僅かな金なれど握りしめる手を放てば、手に満ち溢れるもので在るを識らず。 「福、受け尽くさば、縁、必ず弧なり。」
愚か者は儚い身体を握りしめ健康という幻想に拘り怖れて養生と宣いながら使い果たして消えてゆく僅かの命を残すだけ、後には何も残らない。例え僅かな命なれど握りしめる手を放てば、手に満ち溢れるもので在るを識らず。 「人、寿命を握りしめたれば、生死、必ず怖れなり」