中道は平安なり

得体の知れないものへの信仰(拠り処)を否定された釈迦尊(ブッダ)の教えである仏教に於いて片極に偏らなき中道を目指すとき、それは現実主義に根ざした宗教(人間がむねとすべき教え)である仏教は、それとは真逆な性質を有する信仰との中道を図るとは、得体の知れない神仏や妄想的な力などへの倒錯した崇拝.信仰.信心と、宗(むね)となる教えとの中道を図る事などではなく、釈迦尊(ブッダ)が明確に仰っている崇拝対象(信仰対象)は現実的な六方崇拝(六方拝)であり、堅固で安定的な拠り処である真理の顕現を目指す宗教的側面と人間の叡智と情緒を育成する信仰的的側面である六方拝との中道を図ることを聖道とされたのである。
中道とは、物事を分別.分断化して捉え[暑いのは苦しいから涼しいのは楽だろう][貧乏は苦しいから金持ちは楽だろう][孤独は苦しいから大勢は楽しいだろう]というような極論的な見解.観念を超越した境地であり「有無同然」「苦楽一如」「生死一如」など両極の真理を理解し中道の安定を得る(やじろべえに喩えられる)
     六 方 崇 拝
仏教徒は六方拝(東・西・南・北・天・地)を行ぜよ。六方への崇拝。
東方拝 東方に両親を敬い、崇拝し、感謝し、幸せを祈る
西方拝 西方に兄弟姉妹を敬い、崇拝し、感謝し、幸せを祈る
南方拝 南方に恩師を敬い、崇拝し、感謝し、幸せを祈る 
北方拝 北方に友人や隣人を敬い、崇拝し、感謝し、幸せを祈る
地方拝 地方に使用人・部下・弟子を敬い、崇拝し、感謝し、幸せを祈る
天方拝  天方に聖人や如来を敬い、崇拝し、感謝し、幸せを祈る
この六方を崇拝すべきであり、崇拝対象に対してその義務を果たすことにより初めてその崇拝は大いなる果報を生じるのである。 
東西南北天地への敬い、崇拝、感謝の祈りは自分は万物(森羅万象)のお陰さまで生かされている事実への敬い、崇拝、感謝の祈りであり、叡智と慈しみと心的規律の育成(八正道)を説く仏教の慈しみという情緒的側面と叡智・倫理という知的側面との中道を説いているのであり、心的側面(情緒)と知的側面(叡智)との中道を目指すとは、八正道に於ける倫理的生活のための正語(正しい言葉)正業(正しい行い)正命(正しい生き方)への啓発による育成であり、釈迦尊ブッダ)が説かれた仏教が「多くの人々の利益のために幸せのために世界に対する慈しみのため」に説かれたものであり人々が真に目覚めて(覚醒)ゆくために育成してゆかねばならないものが慈しみと叡智の中道であり、慈しみとは慈愛・慈善・親切・寛容といった情緒的側面であり、叡智という知的側面との中道を図って行かねばならず、情緒的側面だけを育成させても心優しい愚か者でしかなく、知的側面ばかりを育成させても忘筌に陥ったり他人の牛を数えるような理論家を気取る礼儀や配慮を欠いた自惚れ傲慢な愚か者でしかなく、どちらも偏った観念や見解によりドゥッカ(苦悩・不満・痛み・悲しみ・惨めさ・不完全さ・空しさ・実質のなさ・無知の闇)を生じ続け、平安へと向かうことは出来ず、叡智と慈しみとは不可分なものであり叡智と情緒の中道を目指し育成してゆくことは即ち完全なる人格を育成して行くことなのであり、八正道とは即ち中道の実践であり、八正道により「苦楽の中道」に言われる「快楽主義」と「苦行」という世俗的と非俗的な両極に偏よらない(快楽を追求しても真の満足など得られず僅かな快楽と大きな不満を生み出し続ける無益なものであり、苦行の中に快楽や真理を追究のも倒錯的で無益なものである。★苦を前提条件として楽があり、楽を前提条件として苦があるのだから苦楽の物差しを作る経験としては必要である。)中道において平安を得るのであり、「善悪の中道」を善事と悪事の中道と捉えてはならず、善いとされる物事も悪いとされる物事も環境・時代・状況により変化するものである事を八正道により偏ない理性による客観的理解認識能力を育成し中道にあって平安を得るのであり、「有無の中道」も尺度と見る角度しだいでしかなく例えば一万円を多いか少ないかと判断し満足するか不満を持つかはやはり環境と時代と状況により変化するものであり自分の存在の為の真の必要量という物差しを得れば有無同然なものであり、中道を図ることにより平安を得るのである。(故に修養には托鉢行が最善な聖道とされたのである。)
中道により平安を至り安堵の呼吸(実存の一息)により心は悦楽を得る、しかしそれは条件により生起しているものであり、条件により生起する性質のものは条件により消滅する性質のものであり実存的な涅槃(ニルバーナ)ではなく軽安(七覚支を参照)を得たのである。
八正道の実践により軽安を得たならば、頭ではなく心(潜在域)が「無常の法」を理解し納得しなければならず、この修養法こそが「自燈明・法燈明」なのであり無常の法則という真理を得ることが出来て初めて涅槃(ニルバーナ)を顕現させてゆく事が出来るのである。(釈迦尊ブッダ)が「涅槃(ニルバーナ)とは実存である」と仰ったのも「涅槃(ニルバーナの先には何もない」と仰ったのも、無常・無我なこの世界(現象世界)において、唯一の実相(実存的)であり自性であるものとは真理(自然法則・無常の法)の顕現であり「真理(物理法則・摂理)はこの世界が在り続ける限りにおいては実存であり、真理の先には真理以外の何ものもない」のであり、それは知ろうが知らずが始めから在るものであり、既に身の内、大宇宙に在ったもので、あらゆるj概念やら見解やら観念やら哲学やら教義やら邪見やらに縛られた意識を解き放ち(解放)、捨て去り(捨離)、乗り越え(超越)、目覚める(覚醒)ことにより顕現するのであり、顕現したニルバーナによる感覚や見解への執着さえも捨て去った処(解脱)こそが真の涅槃(ニルバーナ)であり実存であり平安であり静逸な境地なのである。
八正道の実践により自我意識の妄想を脱落させ、心が無我を悟り無常を悟って涅槃(ニルバーナ)を顕現させた処を世俗諦と呼称されるが、大悟とは大宇宙及び自分という集まり(五集合要素)の関係性と摂理(自然法則・因果律)を心が理解し納得することにより輪廻法則(サンサーラ)を悟り心が理解し納得する事であり、輪廻転生が生きている状態においても続く継続の連鎖が死ぬことにより断ち切られる訳ではなく違ったもの違った形を以って続く継続の連鎖(自然運動)を如実知見することが勝義諦であり大悟なのである。(大宇宙を動かし移ろいゆく流れも、私という集合体の移ろいゆく流れも同じ途方もないエネルギーの流動であり同じ法則に則った大いなる流れの一齣なのである。)
▼一般的な中道の解釈(ウィキぺディア)
中道(ちゅうどう、梵語: Madhyamā-mārga, マディヤマー・マールガ、梵語: Madhyamā-pratipad, マディヤマー・プラティパッド、パーリ語: Majjhimā-paipadā, マッジマー・パティパダー)とは、仏教用語で、相互に対立し矛盾する2つの極端な概念・姿勢に偏らない実践(仏道修行)や認識のあり方をいう。
苦・楽のふたつを「ニ受」(にじゅ)といい、魂(アートマン)や様々な存在物について恒常的に「有る」(「常見」→依存・安住・固執・堕落)とか、ただ単純に消えてなくなるだけで「無い」(「断見」→虚無主義ニヒリズム)・荒廃)という見解を「二辺」(にへん)というが、そのどちらにも囚われない、偏らない立場を中道という。
(なお、有無の「二辺」を避けるために仏教が提示する発想こそが、「縁起」である。あらゆる存在物はそのままの状態として存在し続けることはないが、改変・連鎖を繰り返しながら存在し続ける(輪廻)、したがって良き連鎖を形成・持続できるよう努力し続けよ(そして最終的には修行を完成させて涅槃(ニルバーナ)に到達し、解脱せよ、というのが仏教の姿勢である。)
【苦楽中道】
たとえば、厳しい苦行やそれと反対の快楽主義に走ることなく、目的にかなった適正な修行方法をとることなどが中道である。
両極それぞれからの程々の位置という概念ではなく.相補性により成り立つものである事を
理解し、[生]とは[死]により価値が担保され、[楽]は[苦]により価値が担保され、苦がなければ楽もなくなる。毒と薬は同じもの.負担量次第(状態.現象)で毒にも薬にもなる一如なものを分別(分断的)して捉えないのが中道。
釈迦は、6年間(一説には7年間)に亙る厳しい苦行の末、いくら厳しい苦行をしても、これでは悟りを得ることができないとして苦行を捨てた。これを中道を覚ったという。釈迦は、苦行を捨て断食も止めて中道にもとづく修行に励み、ついに目覚めた人(仏陀)となった。
釈迦尊鹿野苑において五比丘に対して初めての説法を行った際にも(初転法輪)、この「苦楽中道」を四諦・八正道に先んじて真っ先に述べたことが、パーリ語経典相応部の経典などに描かれている。        「比丘たちよ、出家した者はこの2つの極端に近づいてはならない。第1に様々な対象に向かって愛欲快楽を求めること。これは低劣で卑しく世俗的な業であり、尊い道を求める者のすることではない。第2に自らの肉体的消耗を追い求めること。これは苦しく、尊い道を求める真の目的にかなわない。
比丘たちよ、私はそれら両極端を避けた中道をはっきりと悟った。これは人の眼を開き、理解を生じさせ、心の静けさ、優れた智慧、正しい悟り、涅槃のために役立つものである。」
初期仏教教団において、釈迦の直弟子の一人であった提婆達多は、僧団の戒律をより禁欲的・苦行的性格が強いものへと変更するよう釈迦に求めた(「五事の戒律」)が、釈迦はこれを拒否した。そのため提婆達多は独自の教団を創設し、仏教教団を出て行くことになった。             【琴の弦(緊緩中道)】
パーリ語経典の律蔵・犍度・大品(マハーヴァッガ)においては、釈迦が、どんなに精進しても悟りに近づけず焦燥感・絶望感を募らせていたソーナという比丘に対して、琴の弦を例えに出して、中道を説いている。
弦は、締め過ぎても、緩め過ぎても、いい音は出ない、程よく締められてこそいい音が出る、比丘の精進もそうあるべきだと釈迦に諭され、ソーナはその通りに精進し、後に悟りに至った。                     【有無中道】
『沙門果経』をはじめとして、初期仏教経典では度々六師外道との思想比較が行われる。
その六師外道の内、
プーラナ・カッサパ(魂恒常論、道徳・努力不要論)
マッカリ・ゴーサーラ(運命決定論、アージーヴィカ教)
や、唯物論者である
アジタ・ケーサカンバリン(順世派(ローカーヤタ))
の計4名の思想は、それぞれ魂・運命に関する「常見」と「断見」の「二辺」がもたらす弊害(道徳・努力の欠落・喪失、人心荒廃)や、それゆえの仏教における「有無中道」の重要性を浮かび上がらせる役割を果たしている。
(残る二名の内、ニガンダ・ナータプッタ(ジャイナ教)は、提婆達多と同じく、苦行に執してしまっている存在として、他方のサンジャヤ・べーラッティプッタ(懐疑論)は、「確定的な論・道」を示せない存在として、仏教と対照され、仏教の立場を浮き彫りにする役割を果たしている。)          【流れる丸太】
パーリ語経典相応部のある経典では、釈迦が中道をガンガー河に流れる丸太に例えて説いている。
そこでは、釈迦が丸太を比丘(出家修行者)に例え、その流れる丸太が ○こちらの岸に流れつかず (六根(六内処に囚われることなく)
○向こう岸に流れつかず (六境(六外処)に囚われることなく)       ○中流で沈みもせず (悦楽・欲望に囚われることなく)            ○中州に打ち上げられもせず (自我の妄執に囚われることなく)
○人によって持ち去られもせず (社会性・人間関係(付き合い・同情)に囚われることなく)
○人でないもの(鬼神)によって持ち去られもせず (神秘主義に囚われることなく)
○渦に巻かれることもなく (五感による欲望にまきこまれることなく)
○内部から腐敗していくこともない (偽り・欺瞞を隠して生きることがない)
ならば、海(悟り、涅槃)へと到達するであろうと説かれる。         【無 記】                                        パーリ語経典中部63経『小マールキヤ経』等で説かれているように]、   釈迦尊は、
○世界は永遠であるのか、ないのか
○世界は有限なのか、無限なのか
○生命と身体は同一なのか、別個なのか
○修行完成者(如来)は死後存在するのか、しないのか
といった、修行・苦滅に役立たない問いには、どちらであるとも、あえて答えなかった。これを「無記」と言う。これも広い意味での中道の1つである。【大乗教】                                       中論・中観ナーガルジュナ(龍樹)は、説一切有部らとの論争に於いて形而上学的な抽象的空理空論により「八不」(不生不滅・不常不断・不一不異・不来不去)に象徴される『中論』を著し、釈迦の中道(及び縁起)の概念を独自の形で展開させ、引き継ぐ形で大乗教の中観派が生まれた。   天台宗
ナーガールジュナの『中論』や中観の概念は、中国へは三論宗としてそのまま伝わる一方、天台宗の事実上の始祖である慧文もまた『中論』に大きな影響を受け、その思想を中諦として引き継いだ。(諦とは真理という意味である。)
中国で説かれた中庸と同一視されることもあるが、厳密には別のものである。中庸の「中」とは偏らないことを意味し「庸」とは易(か)わらないこと、と説明されている。中道の「中」とは偏らないことを意味し「道」は修行を意味するとされる