悉有仏性

何分、勤行と托鉢の合間を見て執筆しているので、湧き出る新しい着想に執筆が追い付かず、書き掛け.執筆途中.下書きばかりが溜まってゆく….xx
最近は富に仏教の枝葉ばかりを題材としている感もあり、畢竟.お釈迦様の説かれる仏教の根幹に今一度.フォーカスを当て直して書いて行こうと思っています・笑
先ずお釈迦様の教えへの幾つかの誤解について書けば、[煩わしい].[難解].[能書き].[堅苦しい].[古臭い].[不必要].と色々と誤解されている処が否めず、⚫お釈迦様の教えとはアァしろ.こうしろと他人様の生き方を否定して.型に嵌めるような煩わしい教えだろうと言う誤解、修養者ならいざ知らず、お釈迦様ご自身も王子様の身分を捨てて修行者となられたように.人それぞれが.生きたいように自由に生きるべきだと説かれています、但し自由にそして幸せに生きたいと願っても.結果的には苦悩や心痛や不満が一杯な生き方をしてしまう人が大勢います、そんな不本意な生き方をしている人に慈しみの心で.そうなってしまう原因と対策を指し示し.自由に楽しく幸せへと向かわせるものであり.実践するもしないも個人の自由だと説かれるのです。だから必然的に十人十色.千差万別な人それぞれに対機話法というその人に即した教えが説かれるのです。
⚫次の誤解が.堅苦しい座禅や瞑想など付き合ってられないからという誤解、確かに色々と忙しい現代人には不向きでもあり敬遠したくなりますが、たまには心静かに自分を見つめる事は、自分にとって得難い大きな収穫をもたらす筈です。
必要なのは[心を鎮めて.無駄な雑念や妄想を止めて.集中した心で自分や世界を冷徹に眺める(見つめる)]ことであり、座っていようが、立っていようが、短い合間でも構わないのです。
⚫次に多いのが.堅苦しい儀礼や作法を重視して.多忙で多様的な現実世界で実践を伴わないプラパンチャ(能書き.戯れ言.空論.綺麗事.偏った見解)を宣うのが宗教だろう。………
お釈迦様の在らした当時は.儀礼や作法に拘るバラモン教全盛の時代でした。
お釈迦様は儀式や儀礼や作法に拘り翻弄される暇があったら、鎮かに自分を見つめなさいと仰った方であり、苦行や得体の知れない神仏への信仰からも離れて.悦楽の中に智慧の悟りを現わす教えを説かれたのです、ですから古臭い処か欲望的な物質文明の中で、翻弄され.迷い.悩み.苦しみ.心を痛める今の人々にとってお釈迦様(ブッダ)の教えは、最適な教えだとも言えるのです。
釈迦尊(ブッダ)の仏教(仏の教え)により仏教徒となるも、物狂徒となるも仏の教えを理解し実践してゆくか .観念.哲学.見解に貶め.言行不一致なプラパンチャ(戯れ言.能書き.空論.綺麗事)に貶めるかである
仏教とは、後付けた定義である哲学ではなく[生き方]そのものであり.今を生きる人々が.脆いその身を護る剣なのである。
現実世界を見渡せば、我が身.我が宗派の保全を優先する余り:利他を謳いながら自利に忙しく慈悲行不在の日本仏教や、眉唾な力や.他力からの救いを謳い.気休めを提供する信仰への不信感から、宗となる教えさえも喪失してしまい.糸が切れた凧のように欲望的(タンハー)な世間に流されたり.翻弄されて.苦しみや不満の中を彷徨ったり、世を儚んだり.迷ったりしている人々が増えている現実社会において、得体の知れない物事を拠り処(精神的支柱)として得られる一時的で短命な安心.安全.喜び.小楽を乗り越えて.堅固な安心.安全.静逸.歓び.大楽.幸せへと導くの.が釈迦尊の本当の教え(仏教)なのです。
上座部各派を含めて今の仏教界を眺めると、仏教経典を一生に渡り読み続けようが、研究しようが智慧がなければ.釈迦尊(ブッダ)の教えを真に理解する事など到底できず、その智慧とは頭がいいとか知識がある.記憶力が優れているとか論理的表現力に秀でているとかなどではなく、自由で柔軟な理解と思考と発想による気付きが重要であり、各宗派.各部派の教義や見解を蓋(おおい).軛(くびき).箍(たが)から、目覚め.乗り越え.解き放たれた処に顕現するものなのである。
故に各宗派.各部派から異端者とも落伍者とも罵られる覚悟と信念と意志が求められる。
[人の心のその奥に.仏も住むが.鬼も住む]
        多々方 路傍石
[一切衆生 悉有仏性]と大乗では説かれますが、お釈迦様は[誰でもが努力と精進により仏となる資質を有してる]と仰っているのであって、仏教を理解できるのも至高な存在である人間だけなのであり.必然的に仏となれるのも人間だけで、他の生き物のままでは仏にはなれません
先ず人間以外の生きとし生けるものたちには善も悪も在りません。
必死に生きて死ぬだけであり、仏性云々は成り立ちませんが、生きとし生けるものたち全ては.至高の存在である人間に向かって生死(輪廻)を繰り返し.何れは人の身に生まれ成仏できる仏さま候補ではありますが、例え人の身に生まれたとしても生死への執着を乗り越えられねば、またそれぞれの心の階層に遵って輪廻してゆくのです。
生物には六種あり、最下層(地獄界)の分解層に生きる微生物や昆虫がいます、次の階層(餓鬼界)は生産層でもあり高等微生物や植物層が該当します、次の階層(畜生界)は一次消費層であり草食動物など捕食の関係性で、次の階層(阿修羅界)の二次消費層である肉食動物に捕食されるのです、次の階層(人界)が三次消費層(雑食層)であり類人猿や無明で未熟な人間の階層であり、人としての質.格.境地.器量などが具わると次の階層(天界)に在し、他者や他の生物の為に生きる存在となりますが、輪廻の激流からは未だ解脱しては居ない存在です。
釈迦尊(ブッダ)の教えは実践してゆく道を説くのであり、仏法を知識.情報として捉えるならば解脱も覚りも大悟や叡智や涅槃を現わす事など決して在り得ず、それは学者や研究者や観念論者の仕事でしかないのであり、すべては自らが観察し分析し思惟し実践し検証し発見し理解し啓発して行くものであり、衒学的なものでも信心を求めるものでもなく自覚と変化の道を指し示すだけである。
俗世社会とは[所有の次元]へと向かい所有の次元の事物を.依り多く所有した者を勝利者と呼称する相対的に成り立つ世界であり、仏教さえも仏教思想という知識の所有量で仏教を理解していると錯誤している者達も多く、所有の次元の事物への飽くなき執着により.[存在の次元]の尊さと価値が理解できすに、人々は利己主義へと向かい.他者を蹴落とし.争ったり.憎みあったり.害しあったりしているのではなかろうか