人間の本質

苦しみ、悩み、不満は、執着より生起する。 執着は、貪欲と渇愛より生起する。  
貪欲や渇愛は、無知(無明)により生起する。
無知(無明)は、老いと死を条件付けられて生起する。
老いと死の因縁は、誕生により生起する。
このように無明(無知)を条件つけられ生まれて来た人間の本質は生まれ出でて母親にしがみつく如く、不安定で、不完全で、不安で、怖く、弱く、脆く、空しく、儚く、苦しく、欲する存在である。
故に愚かな人は何時までも、つまらない物事に捉われたり、どうでもいい物事に拘ったり、下らない物事でも執着して何かしらの喜びの感覚を欲し続け、貪ろうと彷徨ってしまうのである。
自我に固執し、貪欲や渇愛が生存本能の衝動に過ぎない事を識らず、制御する術を知らぬ者は、執着と渇愛の中に暮らし妄想を深め、苦と悩みと不満の中を流れゆく。 自分に執着し所有に執着し見解に執着し生存に執着し執着により彼岸へは辿りつけない。
自分という存在を冷徹に客観的に観ることにより、渇望(渇愛)と無知(無明)は脱落してゆく。苦と不満の衝動に翻弄されて、自我という錯覚に誑かされて、迷いの中に一生を費やす憐れな者多く、無知(無明)の闇の中を盲目的に悔やみと怖れと執着により流転を繰り返す。          ◆雑阿含経典(サンユッタニッカーヤ)は説く。               「この世の事物の実相が如何なる物か知らなければ、愛着や欲望を断つ事が出来ず、苦悩も無くならない。又、感覚、情動、意志、認識といった心の働き(五蘊)が不安定なものであると明確に知らなければ、愛着や欲望を断つ事が出来ず、苦悩も無くならない。」     人間とは?人間の本質とは?(因果律の無明により生起する想い)      
先ず仏教とは悲観主義的でも楽観主義的でもなく現実主義的な教えであり、人に偏った観念や見解を植え付けるものではなく自らを内観することにより気付かせることを目的としていることを認識して頂きたい。
人間とは不安定で、空しい存在であり、苦と不満の衝動を活力に存在している。正にこの大宇宙もまた物質エネルギーと生命エネルギー(心的エネルギー)により途方もないエネルギーの集合体として同じ理(ことわり)のうえに存在している。     そして心を落ち着けて自らを内観するならば何時までも未熟で、愚かで、つまらない物事に捉われ、どうでもいい事に拘り、下らない物事に執着し自縛される存在であることに気付く、本質的な弱さ、脆さ、
怖れ、無知、空しさ、儚さ、欲を乗り越える(超越)すべを知らず、生きる本質である「四苦八苦」の中をのたうつが如く翻弄され、生まれ成長し変化し老い病みて死んでゆく。怨憎会苦・求不得苦・愛別離苦五蘊盛苦も一切が皆、生存苦であるのだが、生きるとは即ち諸行無常なるこの世界を苦を前提条件として存在する短命な快楽を味わうことに終始することに非ず、感覚的なる生存への執着を捨て去った処に平安と静逸と充足な涅槃(ニルバーナ)が実存する。 
人は見解(概念)
により汚れ惑い妄想すると自我という自分本位で自己中心的な錯覚と誤認によって物事や世界を捉えよう試み、それが無常な世界の中でドゥッカ(苦しみ・悩み・不満・空しさ・痛み)を自ら造り出していることに気付いていない。 固定的な実体としての本質的存在は成り立ち得ない(魂・霊魂などは存在しない)存在であり、自分とは五要素(五蘊)の集合体であり、生じ変化し消えてゆく、譬えるならば、湖底より生ぜし泡が水面へと向かい、やがては同化して消えてゆく過程に在ることを知らず、依存と執着のよる苦しみから逃れる術を知らず、依存し執着し在るがままに昇って行けなければ、水中に霧散し迷いの中を輪廻する連鎖の中を流転するが如しなり。    
 だからこそ!                ☆安定した心は、所有による心の安定を計らず、存在を唯、味わう。あらゆる執着の心から解き放たれ(解放)その見解さえも捨て去りて平安を得る。(未熟は成熟へと向かい、愚者は賢者へと向かい、不安定は安定へと向かい、自縛から解放され解脱する。)
人は本質的無知(無明)により生じる不安定感により渇愛(渇き)を生じ、渇愛により煩悩(生存欲)を生じ煩悩により所有欲の執着を生じさせている。それは心が対象に触れる時(感受)、何かしらの感覚や衝動を生じさせている(想蘊)、それは煩悩(生存欲)の欲求であり、生きて行く為に必要(プラス)だと認識したものに対して貪り(もっと欲しい)、生きて行く為に邪魔(マイナス)だと認識したものに対して怒り(瞋恚)、生きて行く為に充たされない(不満)だと認識したものに対して愚痴り(痴愚)、不善処(貪瞋痴)な感覚を理性(客観的理解認識能力)が制御しているのであり、そうして潜在域においてで絶えず造りだされる概念を、表層の思考が言葉や自意識としてなぞっているのであり、感情的に捉えれば主観的に考えだし雑念や妄想へと入ってゆき、理性的に捉えれば客観的に考え出し道理にそった気付きをもたらすのである。
☆苦と不満の正体を見破り制御され心は、大楽と涅槃を得て条件により生起する感覚的な享楽を厭離し実在的な平安と悦楽と歓喜を感じ味わう調った観性を得る。     ☆空なる本質を蔵す心は、現象世界の正体を見破り、不安、畏れ、不善処を離れ寂静を得る。 
人は「見解により汚れ、叡智により浄まる」のであり、それは知識を積み上げる事ではなく、知識や見解によって先入観や固定観念や既成概念化された偏ったり誤認したり錯覚している見解を捨て去り真理へと置き換えてゆく事に他ならず、自分は日本人であるという見解に縛られていては外国人を理解する事など出来ず、自分は人間であるという見解に縛られていては他の生命を理解する事など出来ず、自分の見解に縛られていては真理と叡智を理解する事など出来ないのである、釈迦尊(ブッダ)が御自身が発見された真理を「見難く深淵なるこの真理は利己的な欲求に翻弄される者達には到底理解できないだろう。」と思われたように、老子が「聖人の説く言葉を理解する者が稀れなのは、聖人の説の尊さの現れだ。聖人が襤褸をまとい懐に宝玉を抱いているのを理解する者は更に稀れだ。」と言われたようにバイアスの罹った見解を信念とし心情とし哲学・思想の如く崇拝している者には真理を理解することが自己否定を意味してるようにさえ錯覚してしまうものなのである。(無常なる世界においてドゥッカという苦や悩みや不満・空しさ・無明による痛みを必ず味わう事となる)
☆これらの道理が判らない者は無明であり暗愚である。 
積み上げられた知識の延長線上には真理は顕現しないのであり、それは頭の中にゴミ屋敷をせっせと構築しているに過ぎず「他人の牛を数えているだけ」でしかなく幾ら数えても自分のものではないのである。  
真理とは所有の追及を目指す世俗的方向性とは真逆とも言える存在の追及を目指す道の延長線上に顕現するものなのである。
それをそうと捉えられないのは間違った「見解や観念」により、物事を在りのままの観る事が出来ないからなのであり、その為の八正道、四聖諦、三宝印、十二因縁、五蘊の理解、七覚支、十結なのであり、内観(禅定や瞑想などを含む精神集中)が必須なものなのである。        これらを軽んじ、励むことを説かない経典は釈迦尊の御教えではなく、仏道・仏法・仏教でさえ無いのである。    偽経や信仰に依存して、邪見を深める者は、本能の衝動(煩悩)を基点とした不善処(貪瞋痴)を拠り所として洗脳され、修復不能な邪見(決定邪見)へと墜ちる。釈迦尊(ブッダ)は、その様な者達を「まったく救い難い者達であり、最悪所なる紅蓮地獄へと墜ちる悪業である。」と仰っています。(釈尊の名声と権威とを拝借し利用して振り翳しながら、およそ釈迦尊の御教えとは言い難く、更には釈迦尊の御教えに反する教義を説く、多くの新興宗教(信仰)やカルト教団(倒錯者集団)が仏教と称して勢力を得て、今や政権の一翼を担う集団までが出現する今の世こそが末法とも言うべき、地獄世界へと向かっているのでは無かろか。
正当に出家してる仏弟子の一人として語る。                          
「出家していても自分に拘り生臭で在る人より、たとえ在家であっても存在の賢者である人のほうが遥かに尊い。」
人は生まれにより尊いのでも卑しいのでもなく、自らの行いにより尊い人も卑しい人も居るのである。