極楽浄土

極楽浄土が本当に在るのかと問われるならば答えは「実在」であり、言い換えるならば涅槃(ニルバーナ)の境地こそ極楽浄土なのだと言え、不確かな実証の出来ない彼の世の極楽浄土や阿弥陀仏が無責任に約束するとしたような妄想の類でも信仰などではなく、今生において極楽や浄土そして目覚め(覚醒)により如来を顕現させ達成させてくれる教えこそ釈迦尊の純粋な仏教だといえるのです。                          釈迦尊は仰った。                                  「極楽や地獄は外にあるのではなく、どちらもその身の内にあるのだ。」     「穢土なる社会に在りても浄土は啓かれ、地獄の隣に極楽は在り。」        苦楽の大小が外からもたらされた事物の多い少ないによるのではなく、自分の心の満足度いかんであるように欲得に執着し他人の評価ばかりを気にする時、私達は外界の名利や物質的所有に束縛されているように果たして此の世が地獄に観えるか極楽に観えるか、生命を地獄の中に費やすも、極楽の中に過ごす、心の在り方しだいなのであり、今在る自分も想念の産物でしかなく想念によって如何様にも変わるのだから。        正しい想念に基づき話したり行ったりすれば悦楽は付き従い極楽は顕現する。世界は心の投影であり、心楽しければ花も雲も微笑み、苦悩に沈んでいれば風も海もむせび泣く、心、清浄なれば山地草木、何処も清浄なり                 「物事は心に基づいて、心を主とし、心によって造りだされる。」         ★心(気)により造られ、決して思考(意)によるのではない事に気付く事。)   極楽も浄土も彼の世に在るのではなく、自らが造りだすものである。        それは「所有」の如何ではなく「存在」の如何なのである。           「月白く風清し」如く、所有物によって輝こうともがくのではなく、自分という存在の本質によって輝く世界なのである。                      「放てば手に満ちて」自らが積み上げてきた先入観や固定観念や他人の評価という束縛と、自分という存在が何か得体のしれない神や仏や運命の糸という価値観に左右され操られるという妄想(汚穢)を勇気と智慧を以って捨て去れば、自ずと自分の本当の生きる意味、真の価値観を見出すことも出来るのである。                             「所有の次元」には真の価値観などなく悪魔が人の心を翻弄しているだけ、光の境地、悦楽の世界(極楽)は「存在の次元」に在り、智慧と精進だけで誰にでも辿りつける世界なのである。諸行は無常であるのだから、愚かなものも心を改め智慧と精進さえ持てれば誰にでも辿りつける世界なのであるが、決して臨終に際しお金(布施)で始末できる世界ではないのである。                                           天から金財が幾ら降って来ようとも心は決して満たされない。更なる欲得に執着させるだけ、逆に執着する心を抑制してやれば心は次第に落ち着き、平かな安息を得て、真の生きる意味も理解できるだろう。                        あの世に極楽浄土が在るのか無いのか阿弥陀仏が居るのか居ないのか誰にも解らない事なのだが、この世に極楽浄土を築くことは決して至難な事ではないのである。                               「悦楽の中に悟りを得て極楽浄土は顕現する。よく調いたる、その身こそ仏なり」                                         歓びや悦楽こそ涅槃(ニルバーナ)に至るための絶対条件なのである。