甘 露

人は主観的に物事を捉え、主観的に考え、主観的に生きている。
主観とは煩悩(生存欲)の衝動的な感覚による感情により生起する概念(潜在意識)を表面思考で擦っているだけであり、環境・心境・状態などにより如何様にも変化してゆく想念に過ぎず、主観的な想念で生きる事とは即ち自我意識の妄想を深めて行く事となる。 それは「風、疎竹に来たる風過ぎて竹に声を留めず、雁、寒潭を渡る雁去りて潭に影を留めず、故に賢者は、事来りて心が現われ、事、去りて心、随って空し」と言われるように天地自然・森羅万象との縁により五結合要素(五蘊)が結んだ概念でしかなく、過ぎ去った概念にも関わらず、一に止まる(正)ことが出来ずにゴチャゴチャと考えるのも煩悩により執着させられて居るのであり、自我意識を深めて物事を自己中心的に見たり自分勝手に考えようとする事が、苦や悩み不満、怒り哀しみ、恨み憎しみを造りだして居るのであり、快や楽とは物事が自分にとって都合よく運ぶ、意に沿う、気に入る感覚であり、苦や悩みとは物事が自分にとって都合悪い、意に反する、気に障る感覚に過ぎず、諸行無常な(常ならざる)世界に生きて居るのだから、そうそう物事が都合よく運ぶわけがない当然な物事を自我意識(煩悩を含む)は理解し受け入れることが出来ない、それ処か自我意識を肯定し正当化し絶対化させようと執着し、根拠なく主観的な自説に自惚れ、他説と争い、他説を否定し、他説を貶め、他説を排除し破壊しようとさえ試みるのである。  
それは人間の本質である不完全さ,不安定さ,脆さ,弱さ,儚さ,空しさ,愚かさ,無知を認める事が出来ない煩悩(生存欲)は主観的な概念や自我意識に執着させ、永遠の命や実存的な存在であると捏造させ錯覚させ妄想させ、その概念を見解とさせ観念とさせ哲学とさせ肯定化させ正当化させ絶対化させようと仕向け、自我意識を強めさせてゆく。つまりは主観的で在るという事は、自我的で在るという事であり、それは自ずからを汚し、迷わせ、苦しめ、生き辛くさせ、無明の闇を盲目的に彷徨わせ翻弄させ苦しめる正体なのである。
心の修養とは主観を離れた客観的思考を育成してゆく事であり、それは同時に主観による妄想を制御してゆく事でもある。
「心 万境に随いて転ず、転処 実に能く幽(幽玄)なり」
心とは人生に於いて縁に随って転じているだけであると解されるが、万境とは環境という縁と伴に、心境という境地により物事に対して浅薄にも深奥にも映るのであり、人間としての格(人格・レベル)質(人間性・クオリティ)徳性(モラル)を磨き高め育成してゆく事により、一瞬一瞬を奥深く観じ奥深く味わう事が出来、その奥深い味わいを「甘露」というのであり、その奥深い感性(情緒)により煩悩の要求を制御し、本質的な不完全さ,不安定さ,脆さ,弱さ,儚さ,空しさ,愚かさ,無知(無明)の根源的渇望である存在の実相性と永遠性を一瞬の中に映し込んでゆく唯一の術なのである。
例えるならば人々が普段何気にしている呼吸も、智慧により美味なる安堵の呼吸となり、叡智により奥深く味わい深い甘露な呼吸となるのであり、呼吸ひとつ取って見ても一日の凡そ一万回の呼吸を安堵の呼吸、甘露の呼吸で満たして行くならば涅槃(ニルバーナ)はその実存を現す、それは正に悦楽の中で智慧の悟りを得るのであり、涅槃への道など無く、道の上に涅槃があり、甘露なる悦楽こそが悟りへの一歩なのである。
それは儚く空しい所有の次元の物事の価値感を離れ、存在の次元の価値感に目覚める事でも在ると言え、深淵なる釈迦尊(ブッダ)の教えの核心でもあるのだが、それを理解する事が出来ない浅薄な先達や仏教学者や口頭の禅を行ずる者達が、釈迦尊の奥深い教えを浅薄な人生訓が如き次元にまで貶めたと言えるのではなかろうか。
仏教に於いて心の浄化(無執着)、人としての格(人格・レベル)、人としての質(人間性・クオリティ)、徳性(モラル)、境地(ステージ)の育成を説いているのは、到達困難な理想像を説いている訳ではなく、自分自身が真に幸福になるには、進化し成長し目覚める事が必要となり智慧により煩悩(生存欲)を乗り越え(超越)、軛を解き放ち(解放)、妄迷を捨て去り(捨離)、叡智により物事の本質を見透す洞察力を養い絶対真理に目覚める(覚醒)、存在の次元の方向へと方向転換する唯一の道だからに他ならず、故に仏教こそは宗ねとなる教え(宗教)であると言え、他の宗教と呼ばれる信仰とは妄想と理想と無知(無明)と無思考により成り立っていると言えるのではなかろうか。
この世界に繋ぎ止める軛(くびき)から解き放たれた精神には最早、業(カルマ)は残留しない、在るべくして在り、無くべくして無い、平安で静逸で幸福(さいわい)なる実相世界、実相世界の実存を妄想でも幻覚でも倒錯でも心的創造でも、条件に依って生起し,条件によって消滅する性質のもの(縁起)でもなく、この世界(現象世界)に於いて立証させ確証させ理解させるものこそが涅槃(ニルバーナ)であり、涅槃(ニルバーナ)により成立する世界こそが実存世界であり、精神(本質的意志・純化されたカルマ)が還り逝く処なのである。