神を超越した存在

今回のタイトル「神を超越した存在」と聞くと、随分と思い上がった人間か時たま見掛ける頭のネジが緩んだような人か頭がパンクしてしまった人か或いは寝呆けた新興宗教パラノイア教祖を連想してしまいそうだが、決してその類の話ではなく真の仏教思想である事を先ず申し添えておこう。
●人間存在こそが至高な存在であり、それより高い位置から人間を差配し、罰を下したり意思を押し付けたりする得体のしれない神や仏や自然法に則らない超越的な怪しい力などは存在しないのである
●人間とは何ぞや。
神々であろうとも人間として生まれ、より高い存在へ進化すべく修養すると言われる人間とは何ぞや?
人間とは本質的には不完全で、不安定で、脆く、弱く、愚かで空虚で、無明(無知)な存在である。(そんな事は自分というものを冷静に客観的に詳細に眺めれば、そこには整合性もなく不完全で、不安定で、脆く、弱く、愚かで空虚で、無明(無知)な本質による色んな自分が発見できるだろう。)
●神とは何ぞや。
仏教において神とは恵まれ幸せな人や恩恵をもたらす事物を指し、自分とは天地自然.他者.社会あらゆる物事から独立して単独には存在できないものなのであり、万物・万象の内に神性を見い出し感謝する素朴な心情と、人間の本質的なドゥッカ(不完全さ.不安定さ.苦.悩み.儚さ.哀しさ.脆さ.弱さ.悔い.愚かさ.惨めさ.実質のなさ.空しさ.無知.無明)による欲が、自己防衛と自己保存の衝動により情緒的な渇望を生起させる。根深い自己防衛の意識が子供が親にしがみつくように保護・安全・安心・恩恵などの渇望の心的投射として神や仏や超越的な力や神秘的な不思議を妄想したのであり、根深い自己保存の意識が永遠に存在してゆく実相的で実存的な魂.霊魂.霊体の存在を妄想しそれらへの執着は砂漠をさまよう者が喉の渇きを潤す水を欲するが如く、強烈にしがみつき、無くてはならない存在だと錯覚していて容易には目覚め乗り越える事が出来ないでいる。    
☆それら根深い妄想から目覚める事こそ覚醒する事である。
☆それら根深い妄想を乗り越える事こそ超越する事である。
☆それら根深い妄想から解き放たれた自由こそ解放である。
●仏教思想とは無神論的思想でも享楽的思想でも厭世的思想でも刹那的思想でも形而上学的思想でも無く現実主義思想なのである。
●目覚めとは何ぞや。
目覚めとは単に信じるとか信じないとか、在るか無いかという様な丁半博打的な知識や情報の収集ではなく如実に知見する事である。
信じるという底には信じられないという意識が同居していて、在るという底には無いかもという意識が同居しているのであり、自覚してない状態であり、目覚めるためには自らが冷静に詳細に客観的に眺め分析し検証し確証を得て理解できなければ叡智が現れることなく妄迷を乗り越える事など出来ず、目覚めとは心(潜在識)が真理を理解し納得することであると言え、無知(無明)の闇の中を盲目的な意志により現れる表象(意識)に翻弄された錯覚から目覚める事でもあり明らしめる事である。
人間の本質的な不完全さ不安定さ脆さ弱さ愚かさ空しさ無知(無明)と欲・執着を乗り越え、得体の知れない神や仏や超越的な力への信仰を捨て去り離り捨離し、解き放たれ解放され、真理に目覚め覚醒したならば、真に神を超越したと言えるのである。
「目覚めた人は、欲望の享楽に耽ることなく、又その心に濁りなく、全ての妄迷を超えている。そして目覚めた人は諸々の事柄を明らかに観る眼を持っている。」ダンマパタ(法句経)
●目覚めるには。
真に理解して目覚める為には自分という存在と世界を冷静に詳細にそして客観的に眺め分析し確証を得て真に無常法を理解し納得することである。
つまり人間の本質的な不完全さ、不安定さ、脆さ、弱さ、愚かさ、未熟さ、空しさ、無知(無明の闇)と欲望を乗り越える(超越)には、真理を明確に理解して、その軛(くびき)を断ち切る以外には道がないのである。
その① 欲望を制御する。(物事の本質を見透す。)
その② 心を浄化してゆく。(執着・愛着しない。)
その③ すべての妄迷を乗り超えてゆく。(妄想に陥らない)
☆人は欲望のままに、あらゆる物事に執着し愛着し、妄迷の真っ只中に生きている。つまりは眼で見て、手で触れ、耳に聴こえ、鼻に香り、舌に味わい、身に知覚する刺激を感受を得て実存だと錯覚しているが、夢幻(ゆめまぼろし)の如き空なる縁起による現象に過ぎず、それは水中の魚が、自分が水中という限られた世界に居ることを知らないようなもので、人も世界を実存だと錯誤して自我や神や魂を妄想しているのであり、この世界の実相を人間はその発達させた理性と心眼による透視力(洞察力)により、集中して客観的に冷徹に詳細に眺めれば叡智により絶対真理はその秘密を顕現する。
●理性とは
その眼を閉ざすことはあっても、理性は妄想しない。
理性とは客観的な理解・認識能力である。
妄想させるのは煩悩(生存欲)の欲による感情であり主観である。
主観を離れた理性により、創造は成される。
つまりは多くの人や主流的な社会とは現実を直視しようとはせず、妄想や夢想の中に埋没しているのである。
夢幻(ゆめまぼろし)に過ぎない名利を追って見栄を張り妄想に縛られ自我に翻弄され真に価値ある生(せい)を味わおうとはしない。
世間の人達は、真理を理解し、あらゆる軛(くびき)を乗り越えて、良く調えられた感性と平安とが齎すものが如何に美味で甘露なものであるかを知らない。
「世間の人達は真のご馳走を知らず、ただの藁草を美味しい美味しいと食べているようなものだ。」と釈迦尊(ブッダ)も仰っている。
俗世であれ出世間であれ、人間としての格(人格)、質、徳性、浄化、境地という精神性こそが真の宝であり、夢幻(ゆめまぼろし)を追い掛けて真の価値を失う人こそ憐れである。
「たとえ巨万の富を築こうが、糊口を凌いで生きようが、この世の生を、どう観じ、どう味わって、どう理解して生きるか次第。」
●無常法とは何ぞや。
此の世界のすべてのものは常ならず変化生滅してゆくエネルギーの蘊まり(あつまり)であり、移り行き止まることのない流動であり、変化生滅しない実体的で永遠的である摂理に背く存在(神・仏・超越的な力)など存在出来ない世界である。
自分という存在も実相ではなく非実存的な無自性なものでしかなく縁起における関係性(相対性)の中での一つの現象であり、我があるという錯覚でしかなく、自分という存在の実体であり永遠的である主宰者(魂・霊魂・霊体・守護霊・背後霊)など存在できない世界であり、因果律に随った全ての物事の相対的な相関性(縁起)と一瞬一瞬に生起し変化成長し滅してゆく移ろい行く連鎖(輪廻)という無常なる流動が無常法である。
●一縁に因らず一法に立せず、しかも明々歴々一縁一法を晦まさず
あらゆるものごとが相対的に相関的に関係しあって縁は生起する。我が身も在りとあらゆる関係性の中に存在しているのであって、決して己が単独で存在している訳ではない、しかも雑然と存在している訳ではなく雀は雀として犬は犬としての法位に存在し、人は人としての法位に存在しているのである。
しかし無常と無情との語感的錯誤からなのか、無常法が平家物語に言う諸行無常や侘び寂びの情感として刹那的、厭世的にのみ捉えられがちだが確かに人生とは、夢幻の如くであり儚く、風の前の塵みたいなものだが、それは物事の一面であり物事を前向きに捉える仏教においては諸行無常とは循環を説いているのであり寒い冬もやがては春が訪れ夏を経て秋となる、春に芽吹く草木も寒い冬の中で黙々と準備をしてたのであり、悪い時勢の時こそ克己して春の訪れを待つ心掛けが、やがて循環してくる良い時勢への備えであり、又、良い時にこそ、やがて循環してくるだろう冬に備えて措かなければならない事を説き、良いも悪いも、運も不運も、幸も不幸も、循環している一部分を無理に焦点を当てて切り取ってるだけでしかなく、唯、人事を尽くして天命を待ち、縁に任せて在るがままに循環を味わうだけなのである。
夜の来ない朝がないように、朝が来ない夜もないのである。
●摂理とは何ぞや。 
マクロ次元の物理法則とミクロ次元の量子法則であり自然法則である絶対真理である「無常法則」こそがこの現象世界の摂理である。
●縁起とは何ぞや。
縁起とは実体性、自性の否定に他ならず、この世の中には単独に存在する物はなく全ては関係性(相対性)の上での現象でしかなく、因果律に随って条件により生起し、条件により消滅する性質のものである。万物の関係性(相対性)の上に変化成長し生滅している非実体的で無自性なものであり、自分という存在も無我であり非実体的で無自性なものである。
この全ての物事の実体性・自性を否定出来れば、あらゆる物事が縁起している存在であると捉える事ができ、この縁起の理法が観えると真の叡智は顕現し、一切の差別的・分別的見解を捨て去り離れる(捨離)、これが根本無分別智(般若波羅蜜多)である。
※つまり縁起とは無我であり空なのである。
花は自ら咲かず風の縁により咲きほこる。風は自ら吹かず温度差と気圧差いう縁により流れている。                 ●信仰とは何ぞや
人間の持つ本質的な不完全さを補い不安定さを安定化させ脆さ弱さを克服させ空しさに価値観や意義を見出し無知(無明)の闇を明かしめてくれる拠り処(精神的支柱)を求める素朴な情緒が心理投射する神や仏や超越的な力への渇望を、作為ある者達により捏造された得体の知れない神や仏を媒体とした価値感や意味や意義を無条件で信じさせようとするものであり、それは自分という存在の真の価値感や意味や意義を自ら緩やかに殺してゆく事に他ならず、人間の理性を麻痺させ短命な幻覚と陶酔をもたらす麻薬のような所有の次元の事物でしかないのである。
宗教(むねとなる教え)である仏教は全ての事物は因果律に随った関係性(相対性)の上に存る変化生滅の過程に於ける一時的な仮体に過ぎない事を説くが、一方の信仰というものは現象に焦点(フォーカス)を当てて実存的に捉えようと、言語や対立的概念や分別を駆使して全体性を破壊しようと試みるのも、捏造された形而上学的であり妄想的であり観念的でしかない検証する事も確証を得る事もできないものを、信仰が媒体とする得体の知れない神や仏や超越的な力の存在を正当化されたものと錯覚させる為の技巧の一つだと言える。
●何故、信仰は得体の知れないものなのか。
真理とは懐疑から生まれるものであり、冷静に詳細に客観的に観察し分析し考察し確証を得て理解し納得するものである。信じるとは他人の説や見解や観念や想像を鵜呑みにして疑わぬ事である。
つまりは真理とは懐疑を明かしめるもので在るのに対して、信じるとは在るか無いかを検証することが許されない握られた掌の中の類稀なる宝石の存在を無条件で受け入れる事であり、その真実は得体が知れないものなのである。
●放てば手に満ちて
その得体の知れないものに安心感・守護・恩恵を欲して、しがみ付こうとする執着から解き放たれる事こそが、自分が真に拠り処とすべきものや自分の真の生きる価値感や意義や意味を見出す事が出来るのである。
幻に過ぎない名利に魅せられている人も同じであり、そのしがみ付こうとする執着から解き放たれてゆく事により、自分が真に依り処とすべきものや自分の真の生きる価値感や意義や意味に気付くことが出来るのである。
●人類はその発達させた理性により主観を制御してゆく事により、誰でも目覚めて神を超越した至高な存在と成ってゆく事が出来る。
しかし釈迦尊(ブッダ)在世当時に於いてさえも神や神秘への妄想を乗り越える事の出来ない弟子が多く見受けられたが、二千五百余年を経た現代に至っては妄想的な情報が氾濫し洗脳され、目覚めるどころか寝呆けた人々で溢れかえり、神の名のもとに争い憎みあい殺し合っている。
未来に向かって真に人類が進化し成長して平和で幸せな世の中を築いて行くためには原初的な情緒以上の得体の知れない作為された神や仏や超越的な力への信仰を乗り越え、目覚めて行かなければならないのですが、それが如何に困難な道なのかは釈迦尊(ブッダ)が「この難解で深淵な真理を世の中の人々は果たして理解できるだろうか?」と諦観されたように、忍耐を以って一歩ずつ人類の未来の為に説くべき未来が必要とする純粋な仏教なのである。
●注意すべき点
座禅であろうと立禅であろうとが臥禅であろうが内観(禅定・瞑想・観照を含む)が階梯を踏み高次へと進んでゆくと、自分の潜在域に蓄積されたサンニャサンカーラ(想・行蘊)の記憶の残滓や汚穢や欲により生起する心的創造による神秘体験や妄想を、それと気付かずに錯覚し精神的倒錯に陥り、恰も高次元の神仏により齎される神秘的体験とか叡智の顕現とか解脱や大悟や涅槃とそれによる覚醒と錯誤してしまう人が居るが、それらは真理の顕現や大悟や解脱や涅槃とは全く異質なものである、条件による生起であり、条件により消滅してしまう性質のものであり非実存であり、集中度が高まる事により生じるジャーナ(禅定)体験であることを理解しなければならず
この辺りが理解され難く、精神的倒錯による神秘思想やカルトやスピリチュアルやタオなどを造り出してしまう原因だと言える。(故に同時進行的に八正道の実践が必須なのである。)
●八正道
八正道の実践により妄想を断滅させ、主観を制御して客観的思考を育成し、人としての良い情緒を育成し、人としての質(クオリティ)を高め、人としての格(人格・レベル)を磨き、人としての徳を積み、人としての境地(ステージ)を深める。人の質・幅・深さ・徳度という水平次元と垂直次元の結合により叡智は顕現する。
●業(カルマ)とは
意図をもって身口意によって成された物事が業(カルマ)であるとされていますが,業(カルマ)とは意図をもって身口意により成長・進化したり堕落・退化した精神性(本質)こそが業(カルマ)であり、次の生起へと継続してゆく運動性の性質である。
●私にとっての神と悪魔
しかし仏教は無神論ではなく、情緒的な神仏(大いなる意志)への崇拝と現実論なのである。
私にとっての神とは仏教に理解を示し支援してくれる方々であり、私にとっての悪魔とは仏教を誹謗し敵視し攻撃してくる方である。
●我れ思う故に我れ在り
デカルトは我れ思う故に我れありと自分の実存性を主張したが、これも詳細に冷静に客観的に自分を観察し分析し検証すれば、何処にも自分という実存を見出す事など出来ず、一瞬として同じ状態などなく絶えず変化生滅している事に気付く。敢えていうならば、一瞬間において我れは存在している故に我れは思う。しかし今の我れは次の瞬間には変化し滅し、因果律に随った次の生起を条件付けているのである。生きている今の一瞬一瞬の変化生滅してゆく運動性(連鎖性)が、五結合要素(五蘊)の結び目が解かれた後(死)も継続してゆくことが輪廻なのである。そして因果律に随って別の何かに成り続けて行くのである。
●軛(くびき)
人間のもつ本質こそが人間にとっての軛(くびき)であり、自分という存在を縛り付ける縄を妄想させているのである。
因果律に随い、誕生という軛により老と死を条件付けられる。
②老と死を条件として無知(無明)が条件付けられている。
③無知(無明)を条件として業(カルマ・意図)が生起する。
④業(カルマ)を条件として欲求の意志(煩悩)が生起する。
⑤煩悩を条件として目的意識(肉体的・精神的現象)が生起する。
    (省略・・因果律を参照)   
⑨感受を条件として渇望(渇愛)が生起する。
⑩渇望を条件として執着が生起する。
⑪執着を条件として新たな軛(くびき)が生成される。
⑫生成された此の世に繋ぎ止める軛(くびき)を条件として、流転する輪廻が条件付けられる。                 
 ※輪廻してゆくものは我(魂・霊魂・霊体)ではなく業(カルマ)という運動性(継続性)により別の何かに成り続けてゆくこと。       
つまり生きている時も五集合要素(五つの要素の集まり・五蘊)の運動性(継続性)であり一瞬毎一瞬毎に於いて因果律に随い、前の消滅が次の生起を条件つけている運動性(継続性)が、死によって消滅するのではなく死後においても続いてゆくという事であり、身体を形成していた蘊まりは分子・原子・素粒子などに戻り別の何かに成り続けてゆくし、心的エネルギーも別の何かの形成の要素と成り続けてゆくのである。