渇きと愛

●多くの人が美しい愛だと思っているものは自己愛、所有欲であり、感覚的享楽への渇愛(渇望)でしかなく、心の渇きの自己中心的(自我)な情報.選択.盲目的衝動に過ぎない。
真実の美しい愛とは.自我を超越して対象を理解する事により生まれる慈しみ(慈愛)なのです…

本能的には生物は自己愛と所有欲しか有してないのであり、つまり自分が具している「愛」とは「私を愛してほしい・私を理解してほしい・私を大事にしてほしい」という所有欲だけであり、それは自我意識により妄想されたものでしかなく、情緒的な感情であり決して崇高な精神性などではなく、他者や異性や他の生物への打算のない慈しみや愛とは人間性(精神性)の成長・成熟により育まれる種類のものなのです…
自我が消え、自分に捉われず自分に拘らなくなって初めて自他の分別を超えた本当の愛や慈しみの価値や意義が理解出来るのです…
◆仏教では愛について
①魅惑・魅了・享楽
自分の本質を刺激し、訴える美しい異性と出会うと人は彼(或いは彼女)が好き
にな惹かれり愛し初め、会いたくて堪らなくなり、会うことが喜びとなり、楽しみとなる[身惑・魅了・享楽]です
②悪い結果、危険、不満
しかし彼(或いは彼女)の魅力も永遠ではなく、享楽も永遠ではない。
状況が変わりその人に会えなくなると享楽が奪われたと感じ、後ろ向きな妄想を始め、哀しく惨めになり、理性的な判断が出来なくなってゆき、不安的になり愚かな振る舞いさえする[悪い結果・危険・不満]な側面です
③自由と解放と超越
もしも貴方が.その人に執着せず完全に乗り越える事(超越)が出来れば.それが自由であり解放なのです[自由・解放・超越]
この三点は人生に於ける全ての享楽に共通しています…
以上から解るように、仏教は悲観主義でも楽観主義でもなく、無神論でも、愛を否定している訳でもなく、主観に惑わされず客観的に冷静に定義してゆく現実主義の教えなのです

●すべては不安定な本能(生存の素因)の渇きの衝動なのである。
存在への欲・承認理解への欲・所有への欲への執着が空虚で満たされる事のないものであり、陽炎を追うが如き性質のものであると識れば、心はしだいに執着を捨離し、平安をえて解き放たれる。
●煩悩の要求に幾ら応えた処で更なる要求をしてくるだけであり、逆に煩悩の要求を抑制してゆくことにより、真の価値あるものが見えてくる。
●物事は、その人の持つ本質(精神性)に一致するものに価値を見い出し興味を向けるのであり、物事を主観的にしか見ることが出来ず、主観的、感情的に判断している人の本質(精神性)は、自我意識を離れることが出来ずドゥッカ(苦悩)を住処と成す。
●たとえ金が天から幾ら降って来ようと欲望は満たされない。更なる欲望を生み出すだけ、智者は知っている、欲得の追求の果てに得られる快楽は少なく苦悩は多大である事を外なる物事で、内なる欲を満たすことは根本的に不可能であり、一時的な快楽はやがては苦悩へと変わる性質のものであり更なる欲に追い立てられ、手にしたものを失う憂いも生じさせる。
●渇 望(渇愛)
☆この現象世界に存在する全ての物質的エネルギー及び心的エネルギーによる万象は、不安定な本質の安定化運動であり、不完全で不安定な本能よる完全化・安定化への衝動こそが渇愛である。
☆不安定状態とは渇きであり欲であり飢えであり、渇愛によりドゥッカは生起するが
絶対的主因ではなく相対的で相互依存的である因果律においての(全ては他の何かに依存して生起する)関係性によるのであるが、主としては無知(無明)に起因する誤った自己の考えにより生起しているのである。
渇愛とは生命の根源的な欲望である(渇き・満たされていない・不安定・欲しい)
渇愛の三つの側面 (三つの側面を撚り合わせて一本の糸としている)
①感覚的な歓びに対する渇望 (kama tanha)
・五感官(眼耳鼻舌身)に刺激を与えたいという欲望
②生存に対する渇望 (bhava tannha)
・生きてゆきたい・死にたくないという欲望
③非存在に対する渇望 (vibhava tannha)
・嫌な物事を排除したいという破壊欲、開き直りや放棄なども含まれる。
渇愛の特徴
①再生成・再び成る  (punabbhava)
・成っては消え、ずっと何かしらの状態に成り続けてゆく。(不安定から小安定)
・欲深い人も高い精神性を目指す人も、それなりに何かをしてゆく。
・瞬間瞬間、人は変化してゆき、私は成し終えた、もう何もする必要がないという心
 の安定状態は、決してない。
渇愛には喜びが伴なっている (handi ragasahagate)
・喜び + 愛着
③愛着     (tatra tatra bhinandini)
・その時々で喜び、その自分の状態を気に入り大事な者だと錯覚してしまう。
・生命は何かを捜し求めてゆく事を気に入っていて、幾ら苦しくとも、そこから離れ
 たいとは思わない。
・自分の生き方を変えることも捨てることも出来ず、不幸な人であっても自分の状態
 に愛着しようとする。
☆生命は「生きてゆきたい・存在し続けたい」と、その為にずっと競ったり争ったり貪ったり怒ったりしています。そして自分にとって好ましい物事を欲し、障害となる物事やプラスとならない物事を憎み破壊したいと欲するのです。
・人間の本質とは自分にとってマイナスだと思えば平気で何人でも他人を殺める事が
 出来るのです。(人を殺すと罰せられるから我慢しているだけ)
・戦う対象に如何しても勝てなくて怒りが頂点に達すると自殺する(自己破壊欲)
 戦う対象(他人・環境・社会・状態・状況・生活)
・無思考(思考のさぼり) 他人や社会の見解や観念などを鵜呑みにしてしまう。
・常用を求める。(安心感を得る)
☆仏教では「ほしい、ほしい」という思いは、真実が理解できて居ないから無知(無明)が生じ、無知(無明)から渇望(渇愛)が生じると説かれる。
・全てのドゥッカ(苦しみ)のもとは「生きてゆきたい」「ほしい」という心の働きで
 あり、無如なる過去から際限なくドゥッカ(苦しみ)を造りだしている。
☆渇望が再生存・再生成を生じ、貪欲と結びつき次から次へと新たな喜びを見い出してゆく。これらが全てのドゥッカ(苦しみ)と存在の継続を生起させている。
☆客観的に自分を観ることにより、無知(無明)と渇愛から脱出する事が出来る。

思考や自我を持つ人間として生まれたのだから、の快楽や幸せを追い求める事は
至極当然なことであり自然なことである。
しかし自分にとって本当に大切なこと、そしてとこしえの幸せとは何だろう。
それが解らず定義できない内は、人はの利を貪り、外界に刺激を求め、
欲望を満たすことばかり考えている。
しかし「外界への快楽の追求」こそが苦悩を造り出す原因であり、どれ程の名利や
物質による享楽や快楽とか幸せを手に入れた処で所詮は本質的に儚く空しい一時的な喜びや幸せに過ぎず、本当の満足を得ることなど出来ず、やがては劣化したり飽きたり失なって、苦悩を生じ再び満たされていない状態へ戻り不満を抱えて暮らしたり、その時の訪れを心配したり怖れたり、更なる欲望を芽生えさせ際限なく翻弄されながら大切な時間を浪費しているのでは有るまいか。
永遠に色褪せることのない悦楽は、心の充足からしか得られないのだから。
世間の名利を追うのも一つの道であり、内なるとこしえの悦楽や、こよなき幸せを
追うのも一つの道であるならば何で態々、必ず苦悩や後悔へと行き当たる道を突き
進んでしまうのだろうか。

幸福や喜びとは本当は何かを得る事によって訪れるものでも、その大小や多寡によるものでもなく、心の状態であり捉え方であり、あらゆる行為の中に見い出すものである。愚かな人はお金で幸福が買えると錯覚して、盲目的にお金を掴むことを目的化させ生きているが所詮は短命的な匹夫の喜びを得るのが精々で決して本当の幸福などに得る事など出来ずに絶えず欲求し続ける本質的には不満(渇き)の中を生きてゆく。
そんな人は漏れ流れ巡る水性であるお金を、自分の事ばかりに使うことしか出来ない器量という精神性により必ず何処かで躓くものである。賢い人は発展したい成長したいという行為の中に歓びや幸せを見い出してゆくもので、お金や所有の次元の事物はたまたま付いて来た付随物であると認識し行為の中に見い出した価値感や意義の成長・進歩・達成こそが目的であるが故に、客体的な付属物の有益な使い方を模索する事も出来るのである。
つまりはその人の本質(精神性)に一致し、訴えかけ、刺激し価値感を見い出しているのであり、人それぞれの本質(精神性)のレベル(人としての質・格・境地・徳性・倫理性・了見・器量・清浄性など)によって、価値感や意義を見い出す次元がそれぞれ異なって行くのであり、①物質的・肉体・身体的レベルから②感覚的・感情・情緒的レベル③知識・情報レベル④知性レベル⑤精神性レベル⑥覚醒精神性レベル、へと上位レベルに価値観や意味を見い出す為には、それに随った精神性が必要なのである。
精神性を成長・進化させてゆき、こよなき幸せや歓び・潤い・満足へ向かう為には煩悩(存在欲)や無知(無明)や渇望(渇愛)の正体や秘密を識って理解する必要がある。

それには先ず渇望(渇愛)を理解するために因果律(十二因縁)を把握して頂きたい。
①誕生(生成)を条件として、老いや死が条件付けられている。
②老死を条件として、無知(無明)が条件付けられている。
③無知(無明)を条件として、行(欲求の動機)が条件付けられている。
※無知(不安定)を条件として生起したものは、行(欲求の動機)であり業(カルマ)
であり、渇愛・意図・精神性・カルマは同一のものを指している
④行(業・カルマ)を条件として識(欲求の意識)が条件付けられ生起する。
※五集合要素(五蘊)の精神作用により識(欲求の意識)を生起させているものは無知
(無明)により条件つけられた業(カルマ)であり、心的エネルギー及び物質エネル
ギーの本質である不安定の安定化・不完全の完全化という性質により業(カルマ)・
渇望(渇愛)・意図・精神性が条件付けられている。 
⑤識(欲求の意識)を条件として名色(欲求へと向かう精神・肉体的現象)が条件
付けられ生起する。 ☆条件付けているのは無知である。  
⑥名色 (欲求へと向かう精神的肉体的現象)を条件として六処(六感官)へと向かう意
識が生起する。☆煩悩(存在欲)であり、条件付けているのは無知と業である。
⑦六処(六感官)を条件として、接触が条件付けられ生起する。
接触を条件として、感受が条件付けられ生起する。 
⑨感受を条件として、渇望(渇愛)が生起する。
ここで言う渇望(渇愛)とは煩悩(生存欲)であり、存在の意図(生き、存在し、再存
在し、継続し、増大)しようとする意志であり、それは欲望であり、不安定状態の安
定化・不完全状態の完全化、渇きを癒したいという強烈な意志であり、ドゥッカを
生起させる原因であり、五集合要素(五蘊)の行蘊(サンカーラ)であり、記憶の残滓
や汚穢(アーサバー)と伴に行蘊(サンカーラ)を構成する業(カルマ・心的意図・精
神性・渇愛)なのである。         
⑩渇望(渇愛)を条件として、執着が条件付けられ生起する。
⑪執着を条件として、有(所有欲・煩悩)が条件付けられ生起する。
⑫有(所有・煩悩)を条件として誕生(再生成)が条件付けられ生起する。
●世の中で「愛」と呼んでいるものの正体は根源的な自己愛であり所有欲であり煩悩(存在欲)であり、煩悩(存在欲)の「私を愛してほしい・私を大事にしてほしい・私を理解してほしい」という欲(衝動)の心理投射であり、花を愛でるとは花が欲しいという衝動に他ならず、あの女性を愛しているとはあの女性が欲しいという所有欲による感覚的享楽であり、渇きを癒すために所有したい欲しいと言う渇愛であり、所有の次元の事物の性質である何時かは劣化したり飽きたり失ってしまう一時的な快楽や幸せを与えてくれる客体的(付随物・手段的)な儚く空しい本質のものでしかなく、執着や愛着により苦悩や恐れ渇き(ドゥッカ)へと戻る本質を理解しなければならない。
釈迦尊(ブッダ)が説かれる「真の愛」とは自分という意識(自我意識)を脱落させた
自分と他人、他の生命、他の物との分別を捨て去って、他人も自分もない同一な存
在である(大海の水の一滴)のだという自他同時の気付きこそが、自分だけを愛してや
まない人間の本性が自分を愛するように他人を真に愛することが出来る道であり、仏教の四無量心こそが真の愛であるといえ、自己犠牲でも自己否定でもない自我の妄想からの目覚め(覚醒)であり、本質的な渇望(渇愛)の自己防衛欲・自己保存欲による保護・安全・安心・恩恵への渇きや自分を愛してほしい・自分を大事にしてほしい・自分を理解してほしいという渇きの心的投射により妄想された得体の知れない神や仏や超越的な力や預言者への依存や信仰に陥る人達が、崇高な精神性と錯覚して愛という言葉を振り翳し魅了されるのも自分自身が愛に飢え渇いて欲しているだけでしかなく自分への拘りや捉われから乗り越え(超越)、自我という自己愛であり自分本位な欲望から解き放たれ(解放)、他人や他の生命に対し自分自身を愛するが如く自分と他人の分別を乗り越えて行く事により達成してゆくことが出来るものなのである。

故に仏教では作意的な慈善活動や支援活動を余り行なわず、陰善なる四無量心(慈悲喜捨)を尊ぶのである。
「転倒の善果、よく梵行を壊す」と言われる如く、自分で「善」と考える結果が得られたとしても、それは倒したものであり、梵行(清浄なる行為)を破壊してしまうことになるように、自分で「愛」と考える結果が得られたとしても、それは倒したもの(自分本位な考え)でしかなく、真実の愛(清浄なる行為)を破壊してしまう事ともなるのです。
渇愛の消滅こそが涅槃(ニルバーナ)であり、そしてニルバーナの体現こそが実存的なこよなき幸せ(この上ない最上な幸福)であり、その満たされ潤った心で成される大慈悲こそが真実の崇高なる愛なのである。
外界の所有の次元の事物の正体を理解しその誘惑を乗り越える事(超越)事である。
●欲への執着とは、渇きによる愛着によって造りだされる。
「存在の欲」「承認の欲」「所有の欲」の何れも本質的に無常なものであり、条件によって生起しているだけであって、条件のない処には生起しない。そして条件によって生起する性質のものは、条件によって消滅する性質のものなのである。
あらゆる欲望により汚れ、承認欲によって汚れ、所有欲によって汚れ、生存欲によって汚れ、無知(無明)によって汚れる。人はどんどん汚れながら生きている。
眼が燃えている、耳が燃えている、鼻が燃えている、舌が燃えている、身が燃えている、心が燃えている、金財に心が渇き、所有に心が渇き、名利に心が渇き、地位や名声に心が渇き、権力や勢力に心が渇き、承認へ心が渇き、生存に心が渇き、愛に心が渇き、渇いた心が満たされる事なく、短命な一時凌ぎでしかない所有の次元の事物で辛うじて凌いでいる、もし真実や秘密を理解すれば、心には甘露な泉が湧き出ずる事を知らずに。
無知(無明)なままで真実が見えない、故に本質である業(カルマ・精神レベル)に随って、それぞれの次元に捉われ本質に一致するもの、本質に訴えかけるもの、本質を刺激し価値観を見い出すも変わって行くのである。
●人は刺激により生かされていて、刺激が無ければ苦痛であり、刺激が無ければ生きてゆくことが出来ない。人は刺激により変化、成長してゆける。
刺激のない処には意識(概念)は生起しない。
刺激により五集合要素(五つのあつまり五蘊)が意識(概念)を生じさせる。
つまりは意識(概念)とは五集合要素(五蘊)の作用(機能)により生じているのであり、その奥に主宰的な実体(魂・霊魂)は存在しない。
外部の刺激による快楽への執着や集中が依存症を造りだし、毒にも薬にもなる刺激の負担量を抑制することなく受け続けることで心を汚し不安定化させ感情的になる。
外部刺激への集中により短命な快楽をえることが出来る。(すぐに苦に戻る本性)
人はゲームや娯楽や賭博事などへの集中により享楽的になり依存症となる。
内部への集中は強烈な愉悦感と平逸を生じ心を安定化させる。
刺激的で妄想的な映画やドラマや番組に夢中になると心は平静を失い精神性は自我の妄想により貶められ、渇望(渇愛)を欲深くさせ、満たされる事のない不満や欲望のなかで理性を失ってゆく。
刺激に虚を付かれるように、心をよく見張り、刺激的な映像から厭離するよう心掛けなければならない。
●仏教というものが一番に誤解されている事が「禁欲的であるという誤解」や「苦行を行ずるという誤解」であるが、仏教は決して禁欲的でも享楽的でもなく、どちらにも偏らない中道的で現実的な宗ねとなる教であり、欲望や欲求を無理やり抑制したり否定したり我慢したりする事を説いているのではなく、心を成長させ精神性を高める事により低次元の不毛で盲目的な欲望に執着したり愛着してしまう愚かさから解放され成長する道を説いているのであり、それは叡智による悦楽の中で真理を理解してゆく道なのである。