中道 <補足>

真正なる仏教を学ぶとは、自分自身を学ぶことに他ならず、自分自身を学ぶとは、真の自分という存在を冷静に客観的に理性を以って見つめ観察し、思惟し、分析し、理解し、自分の今の状態を明確に定義してゆく処から始まるのである。
その為の八正道であり、四念処であり、中道という全てに於いて両極端に偏らない心処を育成してゆく事を目的とする。
「中道は平安なり」の補足として掲載
◆中道とは、
物事の両極を確かに識って.両極端を避けて聖なる中道を歩む事で叡智は顕現して解脱する。
人は物事、現象を分別して捉える時、全ての物事、現象には両極が在り、その両極の間をどちらか一方へ偏ったり揺れ動いたり、無知(無明)の中で不安定に存在しているのであるが、それは丁度、玩具のヤジロベエのようなものであり、その伸した両極が確かに機能してこそ振れず安定した中道が得られるのである。
しかし中道は両極の程々の処に在るのではなく、両極を超越した処に在る。
【例】
寒いのは[苦]から.暖かいのは[楽]だろう
金が無いは[苦]だから.金持ちは[楽]だろう
そんな偏った極論的な偏見から超越する
⚫苦楽は外界からもたらされた物の多寡には関係なく自分自身の心の満足度.如何であり、片極への執着や渇望を乗り越え両極それぞれの価値の中に存在がある。

世の中には両極を直視する事なく何気なくどっち付かずに生きている状態を中道であるかのように錯誤している半端な人も多く、更には現在の恵まれた状態の中にあって自分は無欲に、そして在るがままに生きてると錯覚している人も見受けるが、それらこの諸行無常な世界において条件や状況により一時的に生起しているだけに過ぎない物事を常住的に捉えた無知(無明)の闇の中で一寸先の苦に気付けずに絡め取られてしまう人そのものなのである。
条件により生起しているもの(縁起)は本質的には苦に他ならず、ドゥッカなのであり、やはり条件により消滅してしまう性質のものなのである。
全ては真理である自然法則に依拠した現象に過ぎず、真理との依存関係による因果律(縁起)に遵った存在こそが実存であり堅固であり中道なのであり、縁起・無常・無我・四諦という真理(自然法則)が、八正道により輪廻という自然法である循環運動に包括される。
◆論理的に偏ると、その思考は人間味を喪失してゆき血も涙も慈悲も寛容もない冷徹なものと成ってゆく、一方、情緒的に偏ると不安定な感覚的・感情的なものと成ってゆき、能天気なお人好しか我ままな気分屋など愚かな善良となってゆく、その中道とは物事を客観的に理解認しながらも、相手の立場・環境・状態をも思い遣り、気使い、礼儀と節度のある身口意による行動をしてゆく事である。
琴の糸は張りすぎても、また緩くてもよい音は出ない。
琴の糸を張りすぎもせず、緩めすぎもせず、柔軟に
緩急よろしきを得て、はじめてよい音を出すものである。
急すぎても糸は切れてしまい、緩すぎれば役に立つ良い音を奏でることは出来ない。
同じく八正道も両極のどちらにも偏らない中道に安定し、良い音を奏でる琴を目指すのである。
<苦楽の中道>
自分を修養してゆく者は、二つの極端な生活を行ってはならない。
ひとつは愛欲や享楽を追い求める生活、ひとつは苦行や自虐的で禁欲的(ストイック)な生活である。ひとつは刹那的に偏り、ひとつは偽善的か盲目的妄想に偏ってしまう。
<主観と客観の中道>
人が自分の心だと思っているものは実は錯覚された自意識という自我による主観であり決して事実や現実を映しだしてはいない。
そして理性とは、自分の心ではなく心の見張り役なのであり、生物界の頂点として発達させた思考力・想像力と共に発達させた客観的な理解認識能力という至高の存在だけに具わる超能力なのである。
主観に偏れば、感覚的・感情的に自分の都合や立場でしか物事を考えられない自分勝手な愚か者になってゆき、逆に主観の否定へ偏り客観的すぎれば、自分という存在の意味や価値を損なってゆく。
主観と客観の中道を育成してゆくと、心は自然と静まり、真理を映し精神性は磨かれてゆく。
その為には、心と心のメカニズムを理解して行かなければならず、次回は、心と心のメカニズムの把握と理解を説こうと思う。
<生死の中道>
生と死とは現象であり状態性に他ならず、生とは死があるからこそ価値あるものであり、もし死がない生があるとすると、その生は価値あるものではなく苦そのものでしかない。
<善悪の中道>
善を意識する時、悪も同時に生起する。悪を意識する時、同時に善も生起する。
善が悪の対極にある時、それは世界を分別した偏った断片であり、悪を前提条件として存在する、そんな悪を根拠とする善は本当の善とは言えない偽善であり、本当の善とは真理に基づいた有為自然に在るがままに在る真美真善なのである。◯意図が善であろうと悪であろうと、縁起による現象としての果報(結果)が必ず善行なのか悪行なのか判別する意味はなく唯、自らの業(カルマ)を形成してゆくだけ。
否定と肯定の中道>
否定も肯定も、信じるも信じないも、云わば真実が見えない無知盲目な状態に居る人が自己保存欲の働きによる愚かな自己優位性や損得勘定に基づく主観的で偏ったアイデンティティや見解、主義主張、信念、個性、思い違い、錯覚、妄想といった精神的な欠点により成されるのであり、それら否定も肯定も、信じるも信じないも、真実の光明に照らされた瞬間に霧散してしまう性質のものであるが、多くの愚かで無知(無明)な人達は、頑迷にその愚かな状態に依存し続けようとする。
存在と無の中道>
この諸行無常な世界において固定的な実体は存在し得ず総ては因果律(縁起)に随って変化生滅の途上における仮体であり、変化生滅しないものは存在出来ない世界である事を理解する事が中道であり真理と智慧に基づく目覚め(覚醒)である。そして自分という存在も五つの要素の集合による仮体(五蘊)であり、そこには永遠的な実体(魂、霊魂、霊体)など存在し得えず、しかも一因に縁らず、一法に立しない、ありとあらゆる依存関係性の中で明々歴々と一因一法を晦ます事なく因果律(縁起の理法)に遵って変化生滅してゆくのであり、在るという実存的な我れなど無い無我な現象的存在であり、在るでもない無いでもない存在、空なる儚い存在である。
「私には自己がない。という考えも私は自己を持っているという考えも共に間違っている。
何故なら両者とも、私は存在するという誤った感覚から生起する足枷だからであり、アナッタ(無我)に対する正しい見解は如何なる見解にも見方にも固執せず、心的な投射を行わずに物事を有りの侭に見ようとすることであり、私達が私、存在とよんでいるものは各々が独立に因果律に随い刻一刻と変化する物質的・心的要素の結合に過ぎない。そうした存在には、恒久で永続し不易で永遠なものは何もない」
<論理と情緒の中道>
論理にはしると理詰めで血も涙もない人非人・冷血漢など正義を振り翳す低俗な人間となり、情緒にはしると感覚的・感情的な凡人となる。
これら中道に安定しないまま中道に在ると錯覚・妄想・自惚れ、分別による断片を生じさせるが主観的な認識への依存であり、主観への依存から客観的認識への依存、感覚・感情への依存から理性・理知的認識への依存こそが八正道であり中道なのであり、世の大勢の人達は芽吹く前の堅い殻を纏った種のまま、自己保存欲による主観的な見解・主義・主張・観念・哲学・習慣・アイデンティティなどによる分厚く堅い殻によって未熟で無知・無明な自分を守る必要があるのだが、それは同時に芽吹く為の障害であり欠点でもあり頑固な殻を帯びたまま自分に気付けず、偏った世界の断片へ依存するのである。
植物の種が芽を出す時にその堅い殻を打ち破る如く、目覚め(覚醒)し、乗り越え(超越)し、捨て去り(捨離)し、解き放たれ(解放)されるためには主観や妄想や錯覚により形成された偏った堅い殻を手放さなければならないのである。
八正道とは未熟な自分を守っている堅い殻を否定する事ではなく、物事は本質を見出す事が出来ないまま先にすすむ事は出来ないものであり、理解も得心もないまま闇雲に否定する事は裏に肯定が潜み盲目的な闇を更に深めてゆくだけでしかない。
しかし自分の堅い殻が物事の断片的な認識により成り立っていて然もそれを真理だと錯覚していた事に気付き理解し物事が見えた瞬間には消滅する性質のものであり、拘り・捉われ・錯覚・自縛から解き放たれた自由な心に智慧と真理は顕現する。
●しかも高い処から差配し審判する神など存在せず、自分の存在を主宰する魂などもまた存在せず、また霊魂論者が陥る倒錯的観念の一つに「意識」の実存性があるが、意識とは集合要素により機能的に発生しているものであり、意識とは物質と対立関係にある精神と看做すべきものではなく、あの世にも持って行けないしこの世にも持って来ては居ないのである。意識とは感覚器官が刺激情報を感知し感覚を生じ行蘊(サンカーラ)に於いて意志や感情を生じさせる業(カルマ)の形成力(性質)により概念や意識を発生させているのであり、次の何か(微生物から人類まで)に循環して行く時、その業(カルマ)という心的エネルギーが帯びる形成力(性質)により、性質に遵った概念や意識を発生し続けるのであり、言わば性質に基づいた概念・意識は継続的に発生してゆく正に心が世界を造りだしてゆくのである。
因果律(縁起)に随った真理・摂理(プロビデンス)とも呼ばれる大宇宙の自然法則に遵って変化生滅しながら継続し循環してゆくのであり、人も死により終る訳ではなく、因果律(縁起)に遵って別の何かに成り続けてゆくのであり、故に因果律(縁起の理法)も四法印(諸行無常諸法無我一切皆苦涅槃寂静)も四諦も大いなる目覚め(大悟の覚-勝儀諦)も輪廻という自然法、循環法に包括されるのである。
「もし魂も霊魂もないのならば業(カルマ)の結果を享受するのは何なのかと迷う者は多いが、それは全ての物事に条件性を見ようとしないからだ。
無我・無魂・無自我の教えは否定的、或いは虚無的に理解すべきではなく、涅槃(ニルバーナ)と同じくそれは真理・実体であり実体は否定的では在り得ず否定的なのは本来存在しない自我や魂を想像上存在すると信じることに付いてであり、誤った盲目的な信念の闇を除き、叡智の光を生み出す無我・無魂・無自我という真実が存在するのである。」
✪輪廻の正しい理解と詳細は、当ブログの別項参照