智者は[今]を生きる

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「智者は縛られず」
釈迦尊(ブッダ)は仰っている。
智者は昨日を悔いたり明日を心配せず、とにかく「今」を生きている。だから毎日が輝いているのだ。
愚者は昨日を悔い、未だ来ぬ時を憂い、「今」を見ようとしない。
青くとも刈り取られた葦には命がないように愚者も真に生きているとは言えない。
過去や未来を思い煩うな。未来を期待し過去を悔いて居ては、煩悩を招いて何れ刈り取られた葦のように萎びてしまう。
過去を悔いず縛られず、未来を期待し縛られなければ苦悩を招くこともない。
今を見つめ一瞬一瞬に没入して、今をしっかり生きてこそ心身は健全となるのだ。
智者は無心に観じ、すべてに没入し時空に身を任せる。
自分という意識(自我)も、自我意識から生じる好嫌・良悪・快不快・美醜・悲哀もないから俗世に在りながら胸を痛める事もない
寿命の長短は在れど、皆、今を生きるのみ
智者は一刻も疎かにしないよう努めて今この時を全身全霊で享受しているから生き生きと輝いているのだ。
「即今当処」こそが我が全存在であり、他の何処にも我れは居ない。
人は.今という此処にしか居ない、同時に幾処に存在する事など出来ず、彼処に居れば今いる此処を失なうのだから。
(即今⇒時間的には即今と、当処⇒空間的には当処という時空に於ける存在。)
所有の次元という一過性の価値観に捉われ.拘り.魅入られ.誑かされ.執着し.今という実存的な存在の次元の価値観を貶めることなかれ
例え.世の中にあって、悪人.罪人.人非人の称号を所有する者であっても心から悔い改め.真に償い.今という存在の次元に於いて真に[仏]であるならば、往生.成仏も叶うという如来の慈悲である理法であり.真実の「悪人正機」であり、信者の獲得の為に.大衆迎合的に善人が救われるのなら悪人は尚更に救われるという教説は.善を前提とする仏国土を騙るものであり、人の価値は所有的価値ではなく、存在的価値が問われるのである。
人は常日頃、呼吸を顧みる事もなく漠然と呼吸している。まして常日頃から空気に感謝を致し、呼吸を味わい安堵し歓喜することなど有ろう筈もないのだが、自分という全存在はその一息(呼吸)の間のみに在るのであり、過去にも未来にも存在せず到来した[今]という瞬間(一息)だけが唯一の実存とも言えるのであるが、凡愚な人は明日も当然持っている将来も当然持っていると錯覚して生きているから、今日が疎かになり今(一息)を心起きなく味わう事が出来ずに今やるべき重要な物事でさえも明日やればよい、いつか遣ればよいと自分自身を納得させて今日という一日をぼんやりと無駄に過ごしてしまうのである。
※『徒然草』真赭の薄に説かれている如く。
「明日ありと思う心に引かされて、今日も空しく過ごしぬるかな」
多くの人達は今という瞬間を味わおうとはせず、先へ先へと次から次へと意識や雑念に駆られて、今という瞬間に踏み止まろうとしない。人は自覚して踏み止まらなければ何処までいっても踏み止まる事が出来ないのだ。仏教では正しいと書いて「一で止まる」と呼び、身口意の三業を踏み止まることが正思惟(正しい思考)だと説かれる。しかし煩悩に操られ衝動に急かされている事に気付く事なく、自我意識により自己中心的な自分の都合に随って物事を判断して行けば、苦楽・善悪・快不快や美醜に始まり優劣・到達未達まで自分の都合に随って分別してしまい物事を主観的な偏見という歪んだ価値判断を潜在域の想行蘊(サンニャサンカーラ)に記憶の残滓、汚穢として積み上げて行く。そんな歪んで偏った五蘊(五結合要素)による意識を基準にして社会や自分に接すれば世の中や自分という存在は、そうそう自分の思い通りに都合よくは運ばない無常(常ならざる)なものなので[苦しみ.悩み.怒り.不満.怖れ.心痛.悲哀.迷い.悔い.渇き.儚さ.弱さ.脆さ.空しさ.無常さ...]という不安定要素(ドゥッカ)に突き当たるのは自業自得な自然法であり、そんな時に得体の知れないものを精神的支柱(拠り処)としたり妄想を深め躁鬱症や精神異常などに陥ったり妄想に支配され欲深く貪欲になってゆくのも、ある意味「道理」だと言えよう。
それは心を常に「未達」の状態に置いてしまっている事に他ならず「達成」が安定状態であるならば未達状態とは不満(ドゥッカ)であり不安定な思い通りにならないという苦であり、それは本質的な不安定状態を安定化させようと渇望する煩悩の衝動により、却って心を更に不安定化させているに等しく、決して充たされる事のない「達成・到達」に向かって貪りと執着を深めているだけなのだと言えよう。
今という瞬間に踏み止まり一生に一度きりの今という瞬間(一息)を、散漫へ奔ろうとする心を制御し集中させ「今」という瞬間(一息)を心置きなく味わい、その統制され澄み渡った心の感性により、その場その時に於いて真に優先すべき重要な問題や事柄を正しく選択し専念してゆくことを三昧・正定(八正道のひとつ)と言い、理想的な将来とは三昧・正定の連続性・連鎖性という積み重ねの先に現れる果報だと言えるのである。
先ず、既に限りない果報や恩恵の上に今の自分が存在することに気付いて物事を前向きに捉え、八正道により物事や自分を客観的に眺め偏らない「中道」を目指すよう心掛け、今の自分という存在を冷静に客観的に眺めたとき自分が無知(無明)な存在であり何時までも愚かで未熟で空しく下らない物事に捉われ、どうでもいい物事に拘り、つまらない物事に気を取られ、自分の分際ではどうにもならない物事に思い煩ってしまう存在だと自覚出来なければ、無知(無明)なまま根拠乏しく自惚れる愚者のままで進歩することも学ぶことも出来ないのです。この学ぶとは仏典を学ぶ事でも作法を学ぶ事でもなく「今の自分を学ぶ」という事であり、主観的に自分に拘り自分に執着する自我意識から離れて、客観的に自分という存在を見つめて理解して行かなければ真の自分を見る事も、自分を学ぶ事も出来ないのである。
仏教には崇高なる二巻の「無書の経典」がある、そしてそれに向かう道を指し示す為の他の幾千という経典群だとも言え、その崇高なる二巻の「無書の経典」とは「自燈明経と法燈明経」なのである。
「汝らは自らを燈明とし、自らを依り処(精神的支柱)とし、他人を依り処とせずに在れ、法を燈明とし、法を依り処(精神的支柱)とし
他を依り処とせずに在れ。」
※自らが正しく眺め理解した真理を精神的支柱とし、他人の説を依り処とするな、この世界の真理(無常の理法・縁起の理法・輪廻の理法)を精神的支柱とし、他のものを精神的支柱とするな。
観察し確証を得て理解した自然法則(無常法・因果律・輪廻)と、自分の中に既に具されている存在の秘密と真理への気付きと理解を精神的支柱(拠り処)とし、他のものを精神的支柱(依り処)としないようにとは、即ち無常なる所有の次元の事物や得体の知れない確証を得られない眉唾な信仰宗教などを精神的支柱(拠り処)とし、自分の真の生きる意義や価値感を殺して他人の意義や価値感に依存して生きる人達を憐れむのである。              
自分に具わる真理を理解する知性という燈明と.法という釈迦尊(ブッダ)が発見された真理と天地自然の法則を燈明で.無知(無明)の闇を照らし、虚妄を捨て去り離れよ(捨離)、真理に目覚め(覚醒)乗り越え(超越)解き放たれて(解放)、涅槃(ニルバーナ)の体現にまで導いてくれる至上なる聖典であり、それは八正道により自分という存在、この世界の摂理(物理法則)、すべての事物の関係性などを自分に学び気付いてゆくこであり、主観を交えず不放逸(集中)に観察し発見し理解してゆくことによりあらゆる自縛を乗り越え(超越)、解き放たれ(解放)自由を得た内観による禅定状態(ジャーナ・トランス)へと至るとき瞬時に大悟(勝義諦)を顕現させる至上なる経典であり、それは学べば学ぶほど自分の無知(無明)に気付くことが出来、更に学んで行く意欲が漲り精進して行けるのです。しかし自分が無知(無明)である事を自覚することが出来ず自惚れてる者には自分を学ぶ事(真の今の自分に気付き理解してゆくこと)が出来ず、故に無知(無明)なまま人生を費やし流転して行ってしまうのです。やっと有難いご縁により人の身に生まれることが出来、人間として生まれたからこそ有難い釈迦尊(ブッダ)の教えを聴聞し理解することも出来る折角の果報を、自惚れた人は盲目的に無知(無明)の闇の中で費やしてゆき足元を注視せず今という瞬間(一息)に専念せず躓きながらよろめきながら煩悩に翻弄されてゆくものなのです。 
仏道とは神仏を拝む事でも、経典を読経することでも作法に随うことでも世間から離れて山林や僻地に暮らす事でもありません、物理的な世俗からの厭離ではなく精神的な世俗からの厭離を目指すものであり、「所有の次元」の事物の価値感や意義の本質が無常なものであり夢幻であり空虚なものであり付随物(手段)でしかなく決して目的物ではない事に気付き、「存在の次元」に於ける価値感や意義こそが人を進化させ発展させる存在の主目的であり、至高の存在(真の人間)となる為の目覚めへ向かわせるのが真の仏道であり釈迦尊(ブッダ)の教えなのです。俗世的な価値感や意義でもある「所有の次元」へと向かって生きる人々を在家(世俗)と呼び、「存在の次元」へと向かって生きる人々を出家(出世間)と呼ぶのであり、それは地位でも尊称でも職業でもないのです。そして真の仏道とは自分を学ぶものであり、仏教教典を学ぶ「有学」とは釈迦尊(ブッダ)の教えを把握する為のものであり、例え全経典を暗通し百万遍読み一生を賭して研究しようとも悟る事(大悟)も涅槃(ニルバーナ)を体現することも輪廻の流転から逃れる事も出来ません。それは情報の把握であり知識の記憶でしかなく心が理解し納得できた訳ではなく、心が理解し納得する為には実践的に観察し分析し検証し確証を得られて初めて心が理解できるのです。仏道とは「無学」とも言われる崇高なる無書の経典「自燈明経」「法燈明経」を紐解いてそして修して実践して始めて大悟(勝義諦)も解脱も目覚め(覚醒)も涅槃(ニルバーナ)も顕現するのであり、つまり世俗に在りて世俗に染まらない実生活を送る中において実践的に[存在の次元]を目指す事であり、悦楽の生活の中に甘露な涅槃(ニルバーナ)に到達する事が出来るものなのです。    
今の自分を学び、自分という意識(自我意識)により分別された心・身体という意識や感覚を捨て去り(捨離)自縛から解き放たれ(解放)、自分という意識が脱落し、心と身体との分別も消え、自分と外界との分別も消えてゆく時、自分が大海の中の自在な一滴であった事に気付き前向きで歓びに満ちた存在へと成長してゆけるでしょう。         
本質的な不安定による無知(無明)により怖れや迷いや不安や渇きや貪欲や執着を生じさせている事に気付かなければなりません。 人は煩悩の衝動(感覚)を自分の本質的な要素(魂・霊魂)から発せられた自分の本心だと錯覚し、感覚的で感情的な主観による自我意識を捏造して行きます。もし身体に病が在れば、この病が無かったらと思い、悪化しないかと怖れ、その日その日の食の当てが無ければ、心配せずに食って行けたらと思い、万一の備えに蓄えが無ければ少しでも蓄えがあったらと思い又、蓄えが有ってもその蓄えがもっと多かったらと思うのですが、既に多くの物事(恩恵)の上に今の自分が存在している事実に気付き感謝する事が出来なければ「有無同然」でしかなくそれは何が有って何が無いからという問題ではなく、心がどう気付いてゆくか次第なものであり、あらゆる物事に雁字搦めに縛られて自由に身動きすることも考える事も出来ず、その自分を縛り付けるものの正体さえ発見できず、今を見失い、今を顧みず、今を蔑ろにしながら煩悩に翻弄されて生きる人生とは、本質的な苦(ドゥッカ)に縛られている事に他ならず固定観念・先入観・思い込み・立場・誤解・錯覚・無知・妄想などに縛られ、所有の次元の事物[権威・地位・伝聞・主観・評価・称号・金財・物欲・名誉・権力・勢力....]などのあらゆる欲望の対象に縛られ、自我という捏造された自分に縛られてしまっていて、外界に振り回され縛られ自由に物事を在るかままに見ることが出来ない。あらゆる自縛から解き放たれ(解放)、煩悩の要求を乗り越え(超越)、無常(常ならざる変化と生滅)と因果律(縁起・すべての物事の関係性の上に存在している)と空(無自性)を心が理解し(目覚め・覚醒)、今という瞬間(一息)に集中して今を味わい今を歓び、今、優先すべき重要な問題や事柄を選択し専念してゆくならば苦しみも悩みも怖れも不満も迷いも渇きも恨み悔やみも怒りも哀しみも必ずその方向性(ベクトル)が転化してゆき意欲・悦楽・歓喜・平安・静逸という条件による生起と消滅(縁起)に依らない絶対的で実存的な安定状態を体現することが出来るでしょう。
仏道の基本であり、中道・三法印・四聖諦・因果律(縁起)・輪廻を理解する為に必須な「八正道」を重要視された先達に曹洞宗道元禅師と真言宗の慈雲尊者飲光が居らっしゃるが、慈雲尊者飲光の詠まれた「飢え来たれ飯(はん)を喫(きっ)し、困(つか)れ来たれば即ち眠る(腹がすけばご飯を食べ、眠くなれば寝ることだ)」 正にゴチャゴチャと雑念に振り回されず、今という瞬間(一息)に集中し、今、真に優先すべき重要な問題や事柄を選択し専念してゆくことなのだと仰っているのである             
絶対真理を理解して、絶対真理に基づいて、絶対真理を信仰し、絶対真理に依って立ち(精神的支柱)、在るがままに在るならば今という一瞬(一息)をあたら粗末には送れない。悔いなく生きるその為に今という一瞬を悔いなく味わい尽くそう。
仏教徒が信仰し、依って立つ(拠り処・精神的支柱)は釈迦尊(ブッダ)への個人崇拝でも得体の知れない妄想的なものや力への信仰でも、依って立つ(精神的支柱)でもなく、釈迦尊(ブッダ)が発見された絶対真理への信仰であり、依り処(精神的支柱)なのであり、それは誰でもが発見し理解する事が出来るものであるが故に絶対真理足りえるのである。
絶対真理とは「無常の法則と、時空に於けるその関係性(縁起法則・因果律)と、その変化生滅の流転の流れ(輪廻)」なのであり、つまり無常なるこの世界(絶対的なもの・永遠なもの・実存的なもの、固定的実体が存在出来ない世界)に於いて唯一、絶対的であり実存的であり永遠的であり実体的である絶対真理(無常の法則)を信仰し崇拝し依り処(精神的支柱)とすることにより、変化生滅を在りのまま捉え在りのまま観じ、在りのまま認識し、在りのまま反応し、在りのまま意識し、在りのまま生きる時、心は自分という意識から放れ、心は執着や自縛から放れ、心は在りのままに世界を眺め、心は感覚に翻弄されず在りのままに味わい、心は平安と悦楽と静逸を得る事が出来るのです。つまりは人間とは虚無(空)な存在でしかなく、故に人は人生の虚無(夢幻)に気付く時、嘆き虚無主義へと陥りもするのですが、これは決して逃れられない真理(無常)であり、煩悩(生存欲)の衝動である渇愛(渇き)により「永遠」を妄想し、不安定状態をなんとか安定化させようと踠き苦しみ流転してゆくのです。ですから人はその真理(無常)を理解し受け入れ、今という一瞬(一息)の中に自分という全存在、全宇宙、永遠を映して行くしか不安定で空虚な本質を安定化させる術はなく、そして流転の連鎖を断ち切る術は他にはないのです。
蛇足ながら慈雲尊者飲光に付いて述べるならば、日本仏教界に於ける傑出した高僧の御一人で在ることは間違いないのですが、惜しむらくは深い仏教への理解と学識を有しながらも盲目的な者達の系譜に連なり無知(無明)の闇を乗り越える(超越)ことが出来ずに、凡そ仏教とは異質なバラモン教由来のタントラ教の教義(信仰)や日本神道(信仰)から目覚める(覚醒)ことが出来なかった処であろうか。(八正道と釈迦尊(ブッダ)の聖道跡を歩まれたにも係わらず)