K さんへの純粋仏教 法施

冠省、
季節の移り変わりは目よりも肌のほうが感じ易いもので、少し前まで寒さに震えた肩先も大分と温もりを伝えてきます。
先日はお布施を給わり感謝申し上げます
Kさんにおかれましても変化の中で戸惑いもあろうかと察して居りますが、どう
ぞ生真面目で実直な性分が、自身への負担を増やしてゆく事にならないよう願っております。
人間、自分に正直である事はとても大切な徳目ではありますが、度が過ぎて拘れば独りよがりとなり周囲と軋轢を生じ自分を苦しめてしまいます。
仏教に造詣を頂き仏道を修養するという事は即ち、八正道(中道)の実践であり、知
識の収蔵でも仏典の勤行でもなく、自分という存在を冷徹にそして客観的に観察し分析し理解する事であり、何故今、此処に居るのかが理解できれば自ずと何処に向かえばば良いのか解るものです。
人は自分に捉われなくなって初めて安寧は訪れ、自分に拘る自我意識や主観的な見解が苦悩を造りだしている事を発見し乗り越える(超越)ことが出来るのだとも言
え、道元禅師の言葉のごとく自分を習うことこそが本当の仏道でありそれは正しく精神性の修養をしてゆく事なのです。
ちなみに仏教の修養法を七科三十七道品としていますが、これも言わば八正道を項目として捉えて並び替えているに過ぎません。
八正道は項目ではなく、八つの正しい行為を同時進行的に行じてゆくものであり. その修養の成果(階梯)を四向四果や五下分結・五上分結(十結)や七覚支などにより
検証してゆき、その中において縁起(因果律)や四聖諦・三法印などを理解してゆき
自分という存在の実相を理解してゆくことだと言えるでしょう。
仏道とは果てしない苦行の道などでは決してなく、捉われとか拘りや軛(くびき)な
どの自縛された物事から解き放たれ(解放)、乗り越え(超越)、目覚め(覚醒)れば、
明日にも到達できる、こよなき幸せ(この上ない最上、最高な幸せ)な境地であり、
釈迦尊(ブッダ)が仰ったように、悦楽のなかで智慧の悟りを顕現させえるものであ
り、それを阻害しているものが間違った見解や頑迷な自我意識なのだと言えるで
しょう。
釈迦尊(ブッダ)の精神性や人と生りを学ぶ為には、法句経(ダンマパタ)・雑阿含経
(サンユッタニッカーヤ)・大般涅槃経(マハパリニルバーナスッタンダ)などが必須
となりますので是非、ご購読下さい。
しかし精神性を成長させ向上させ進化させ、叡智を顕現させ真理(摂理)を理解する
ためには「自燈明経」「法燈明経」が欠かせません。言わば釈迦尊(ブッダ)もこの
「自燈明経」「法燈明経」により目覚められ到達されたのです。


人は誰でも幸福を求めて生きています。
例え人生を儚んでこれから自殺しようとする人でさえ、それは死の中に幸福を見出すからに他ならず、例え不幸に塗れた毎日であったとしても幸福を目指して生きているのであり、もし貧困や泥沼に填まり込み喘いでいたとしても、その中に幸福を見出そうと喘ぎながら深みへと堕ちて行くものである。そんな時には兎に角、死力を尽して這い上がり、前に向かって歩き出してから幸福を目指さなければ何れ不満と破壊欲によって身を滅ぼすものである。
では幸福とはいったい何なのでしょうか
人々は皆、幸福で在りたい、幸福になりたいと幸福を追い求めて生きていながら
幸福とは何なのかを定義する事が出来ずに漠然と幸福を追い求めていて、青い鳥を探すが如くに遙か彼方に夢想していて、足下や今という瞬間を疎かにしてしまい今という瞬間に踏み止まる事が出来ずに真の幸福を取り逃がし、所有の次元という客体的な付随物・手段としての価値しか有しない事物に翻弄されていて所有物によって幸福が得られると勘違いし錯覚しているのではないでしょうか。
しかしそれは漠然と感覚的にそう捉えているだけであって、本質的な苦が一時的に快楽という感覚(姿)をとって現れているに過ぎず、何れは苦という本性を現すものでしかなく決して永続的に満たされているとは言えない状態を、自分は幸福なのだと自らに言い聞かせ、しがみつこうとして却って苦を造りだしてしまっている事であり、大きな苦と小さく短命な快楽・幸福の間を彷徨い翻弄されながら一生を費やして、大きな後悔と僅かな幸福の記憶を刻しているのである。
蛇足ながら大きな悔いを残さずに大いなる幸福の記憶の中に五結合要素(五蘊)の結
び目から解き放たれる(死)を迎えるには生前に於ける死随観によるのであり、精神
性(人の質・格・境地・徳性・倫理性)が関わってくるのだが、死随観により「死ん
でしまってから考えてみる、死んだと仮定して人生を振り返る」それが出来れば何が自分にとって真に重要な事であったのか、何処へ向かって何を目指して生きる事が真に幸福であったのかを覚ることが出来るでしょう、因みに後悔することの第一は挑戦(チャレンジ)しなかった事と精神性を高めることに精進しなかった事だと言われます。
決して永続的な満足と幸福など得ることが出来ない本質的にはドゥッカ(不完全・不安定・苦しみ・痛み・不満・不安・惨めさ・哀しみ・空虚さ・儚さ・無知・脆さ・弱さ)という性質のものが快楽・満足・幸福という姿をとって一時的に現れているに過ぎない外世界の所有の次元の事物(金財・所有物・社会的地位・名誉・称号・勢力・権力・評価・理解・認識・承認・知識・見解・・・)に必要以上に依存し、所有の次元の事物(所有物)には一時的な快楽・満足・幸福と引き換えに、飽き・比較・劣化・変化・消滅という恐怖と苦が伴なっているのです。
釈迦尊(ブッダ)はそんな人々を、麦藁や雑草をご馳走だと言いながら美味しい美味
しいと食べているようなものだと仰っていますが、真の永遠的で実存的な幸福と
は所有によって獲得するものではなく、捨て去ってゆく事により初めて得られるものだと言え、つまりは捨て去ったものに、飽きや比較も劣化も変化も消滅もあ
ろう筈もなく、それは軛(くびき)、妄縄自縛、煩悩(生存欲)などを捨て去る事に他
なりません。
多くの人は金財によって幸福を得られると思って、裕福になろうと懸命に努力しますが、さて彼らは本当に幸せなのでしょうか。もし富というものが幸福の絶対条件だとしたら裕福な人達は貧しい人達よりずっと幸福なはずです。
しかし現実を主観を交えず客観的に直視すれば明らかなように、裕福な生活を
送っている人達や栄誉や社会的地位や権力を持つ人達の方が、市井に暮らす一般庶民より私的生活においてさえ深い苦や悩みや迷妄を持っていて自殺する人も案外多く、それほど金持ちでもない人々の方が余程に幸せであることに気付くので
す。(貧乏礼讃でも金財否定でも裕福敵視でもなく真の幸福の絶対条件ではないという事に気付く事です。)
また所有の次元における地位・名誉・名声・称号・権力・勢力・評判なども幸福の一時的な条件であるかもしれませんが、それらを失った時のドゥッカでしかなくつまりは「苦は楽の種、楽は苦の種」と言われるように条件によって生起するものは(縁起)、条件よって消滅する性質のものであり必ずやがてはドゥッカへと行き着いてしまうものなのです。
※ドゥッカ  ドゥッカを苦と訳すとドゥッカの本質が霞みます。ドゥッカとは即
ち、苦・痛み・悩み・不満・哀しみ・惨めさ・不安定さ・不完全さ・弱さ・脆さ・恐怖・愚かさ・儚さ・空虚さ・無知(無明)・欲・執着などを含んだ、五結合要素(五蘊)自体がドゥッカであり、故に一切皆苦なのです。
つまりは所有の次元には真の幸福はなく、幸福追求の方向が間違がっているのであり、拠り処(精神的支柱)とする対象でもない付随物、手段的価値を有する事物でしかなく決して主体的事物ではない客体的事物であるという事なのである。
次に幸福とは何なのかを定義すれば「幸福とは心の状態であり、心の捉え方であ
るが、その人の心の本質を満足させる感覚や感性であるかどうか。」なのであり、その状態を得ようと,(物質的・肉体的レベル)において(感覚的・感情的レベル)において(知的レベル)において(精神的・倫理的レベル)において(覚醒叡智レベル)において各々様々な次元において人間の質(クオリティ・人間性)・人間の格(レベル・人格)・境地(ステージ)・徳性・倫理性(モラル)という人間の精神性(本質的レベル・業 カルマ)によって、それぞれの状態に適応しているのです。(見えるもの・興味を引く物・拘る物・捉われる物など)つまりは人は自分の本質に応じて物事を反応し.理解し.判断しているのであり、幸福とはその人の本質に一致するものであり、その人の本質に訴えかけるものであり、その人の本質を満足させるものであり、世の中に溢れる意識改革とか自己啓発などという小手先で浅薄な観念により却って苦しみ悩み満たさない不幸な人を増産しているのも、意識や見解・感覚という現れては変化して消えてしまう性質のものを拠り処(精神的支柱)としようと足掻いていることに他ならず、精神性(人としての質・格・境地・徳性・倫理性)こそを業(カルマ)として捉えた精神性の修養・成長・啓発・進化を伴なわねば幸福を達成することは覚束かないと言えるのです自分がどのタイプどのレベルの人間なのかを識ることは重要な事であり、私たちはその人の本質に応じて外界の刺激や情報に気を向かわせ反応し行為しているのであり、それぞれの人が持つ色眼鏡というフィルターを透して物事にバイアスをかけてあらゆり物事を見ているのであり、例えばある人物が世評などを含めて真面目で寛大で律儀で誠実で温和で優秀だといっても彼自身の本質の範囲においてのみそう在る事が出来るのであり、無知(無明)から始まる存在である人間が色眼鏡の色度を薄め外して行く為には、自らが造ってきた色眼鏡を自らが自覚して色度を薄め外してゆくためには自らが修養し、人の質(クオリティ・人間性)・人の格(レベル・人格)・徳性・倫理(モラル)・境地(ステージ)を高め・磨き・深め・成長させ進化させてゆくしかなく、その為の八正道(中道)であり真の幸福を実現する為には心を修養してゆくことが必須なのだと言えるのです。
心が修養されていない人は所有の次元の事物(金財・物・社会的地位・名誉・称号・理解・環境・権力・勢力・・・)を幾ら獲得して積み上げ裕福であったとしても満足を得る事が出来ず更に欲深くドゥッカの中を貪欲に生きてゆく事となります。
一方、心が修養されている人にとっては所有の次元の事物は随ってくる事物でしかなく決して目的としての価値順位は高くないはずです。
所有の次元という外世界の刺激の中には本当の幸福を与えるものはなく、ドゥッカという大きな代償を伴う一時的な快楽でしかなく、本当の幸福とは精神性(質・格・徳性・倫理性・境地)を伴った智慧や叡智を前提とした修養され制御(コントロール)された心(感性・情緒・精神性)により、こよなき幸せ(この上ない最上で最高な幸福)であるニルバーナ(涅槃)までも到達できるのです。
これを逆説的に捉えると、
満たされていないから、必要以上に欲しがるのであり、満たされていないから、必要以上に外界へ意識を向けるのであり満たされていないから.争うのであり、満たされていないから.他を誹謗するのであり、満たされていないから.自分に拘るのであり、満たされていないから.自説や見解に執着するのであり、満たされていないから.貪り怒り愚痴るのであり、満たされていないから.他者を意識し比較しようとするのであり、満たされていないから.他者や他の生き物に優しく在れないのであり、先ず、無常(常ならざる変化生滅)の世界に生きているのであり、何事も変化し生滅してゆく事実を理解し納得し奥深く味わい、物事を固定的に捉えようとせず今ある幸福に気付いてゆくならば、既に膨大なる幸福の上に今ある事を識るだろう、足るを知り幸福と悦楽の中で前向きに成長を怠らなければ幸福が増す事は
あっても不幸が増す事などないのです。仏教ではこれを有無同然と捉えます。解り易く言えば「有ればあったで満たされてない人は無ければ無いで不満の中を生きている」「無ければ無いで幸せな人は
有れば有ったでやはり満たされ幸せの中を生きている」幸福や快楽を得るためには事物の所有の多い少ないが問題なのではなく、心の状態・精神性という人間性(質)・人格・人間性・徳性・境地が問題なのであり、人は、生活のため、金のため、勢力のため、出世のため、~のためと何かしらに依存して生きていますがそれらは皆、幸福のために生きている事に他ならないのです。
宗教や信仰というものも幸福を説かないものはひとつもありません。
カルト思想や自己犠牲を説くものであってさえ、その中に幸福を主張しているのであって倒錯した迷信的で妄想的な信仰でさえ幸福を看板として掲げています。
しかし人々は果たし本当に幸福になれたのでしょうか。
私には人々は益々、欲深くなっているように見えるのです。
昔と比べて便利で快適で安全で安心な世の中を実現したというのに、人々は決して満たされることを知らず、争い憎み合い、比較し優等劣の偏見を捏造しています。
煩悩(生存欲)の衝動や感覚が結んだ概念を自分の心だと錯覚しているからであり、
煩悩(生存欲)の要求に幾ら応えた処で更なる要求をしてくるだけであり、決して満
たされることのない餓鬼道へと陥ってゆくだけなのです。
(何しろ煩悩(生存欲)は永遠の存在の実現へと儚く向かっているのですから)
仏道とは、逆に此れを抑制してゆく集中力により欲望や執着により波立った心の湖面を静めて、その澄み渡った心に映る有りの儘の自分という存在とその意味や価値を理解することでもあり、世俗社会における方向性(ベクトル)を釈迦尊(ブッダ)が発見された真実(真理・摂理)の方向へと転換させてゆくことなのです。
●煩悩の衝動・感覚に気付き制御する方向性の変換
☆人は必要もなく考えて居なくてはいられない(考えさせられている)
⇒集中力を育成し、感情による主観や自我による雑念(ゴチャゴチャ考える)や妄想
に陥らないように見張る。理性による客観的思考
☆人は必要もなく何かをしていなくては居られない(何かをさせられている)
⇒気付き意識して無駄な動きを制御する
☆人は必要もなく意識を外界へ向かわせ何かしらの刺激・情報を漁らずにはいられない。
⇒必要以上に外界に意識を向けさしている煩悩の要求を抑制する
☆人は何かしら所有していかずには居られない。
⇒別に無くとも困らない不必要なものを所有しようとしない
☆人は他人と群れ、何かしらの刺激・情報を漁らずには居られない。
☆人は普段、呼吸に注意を払わない
⇒心は呼吸により統一される。煩悩(生存欲)の衝動に急かされ人は今という瞬間に
踏み止まることが苦手なのである。意識を呼吸に集中させ浅ければ浅いなりに、深ければ深いなりに呼吸に幸せ・安堵・歓び・感謝・充足などの想いを乗せてゆく。
気持ちは感覚に誘導されるのではなく、前向きに作るものなのである。
例として、朝、感覚的に憂鬱な時、憂鬱にならず前向きになる智慧を以って
これから海外旅行へ旅立つ時の気分を作ったり、嫌な場面やどうでも良い事に捕らわれた時、太陽が降り注ぐ南国のビーチに居る気分を作ったり、落ち着きがない時には仏像を前にしたの落ち着いた気分を作ると、それが長く続く事に気付くそれは詰まり、心が気持ちを作っているのではなく、気持ちが心を造っているのであり、暗い表情をしている人の心が暗いのは、暗い気持ちを自らが作り出しているからに他なりません。
釈迦尊(ブッダ)は仰った。
「私が、業(カルマ)と呼ぶものは意図(チェータナー)である。意図(チェータナー)
があって人は身・口・意(心)で行動する。」
意図(チェータナー)とは、心的構築・心的行為の本質であり善悪、或いはそのどち
らでもない行為の領域で心に指示を与える精神性(人としての質(クオリティ・人間
性)・格(レベル・人格)・境地(ステージ)・徳性(モラル・人徳・倫理性)であり、
注意力・意志・信念・集中力・叡智・活力・欲望などと嫌悪や不満・憎しみ・恨み・無知(無明)・自惚れ・自我意識などといった精神性に随った意図的行為により業(カルマ)の結果を生じさせてゆくのです。 

                                 頓首
  三宝のご加護がありますように。
    平成29年5月10日
                           多々方 路傍石


「煩 悩」
◆「努力して瞑想している修行者に、諸々のものごとが因果関係の鎖を成していることが顕わになったとき、太陽が天空を照らすかの如く、悪魔の軍勢を打ち破り立つ。十二縁起(十二因縁)の順観・逆観を滅しつくし苦を滅し尽くし、修行者の疑念はすべて消えさる。」
 物事は五官(眼耳鼻舌身の感受した情報を知識や経験や性質により認識し何かしら
の感情を生ずる。
 概念とし生じた感情(好嫌・良悪・快不快など)を判断し思考し見解として主観をも
つ。そこには自ずと貪瞋痴の何れかの要素が含まれ、自利による都合や欲得に向
かった生存の素因による煩悩が優先する(悪魔の誘惑)
 感情による感情的な評価(判断)とは、捏造された人の勝手な主観であり、客観的な理性(客観的理解認識能力)などないのである。
 理性とは、その主観的に形成された判断に対し客観的な判断を下してゆく機能なのである。
人は理由があろうと無かろうと感情が沸く。(欲・怒り・無知・嫉妬・憎み・落ち込み・怠け・高慢・自我・・・)
 <感情から発する判断は危険を含んでいるのである。> 気付いて避ける。
☆良い判断とは、自分のためにも、相手の為にもなる判断をすることなのである<理性による判断>
<☆智慧による評価・判断> 
<☆慈悲喜捨の心による評価・判断 ☆差別のない評価・判断>
☆俗世間(悪魔の罠がはり巡らされている。)⇔出世間(悪魔の罠に気付き智慧により回避する。)
 <世の中に溢れかえる情報を鵜呑みにして、依存する者は危ういのである。> 
☆世間では自由になることなど出来ない。束縛の種類を選ぶ程度か弱めるくらいなのである。
<儀式・儀礼・しきたり・所作・ルール・慣習・・・・・多くの物事のすべてが「形」「型」に依存している。それらを主観的に欲す人は多い>
 形や型では、精神性、人格の向上などないに等しいのである。
☆現れた感情に気付き観察することで煩悩に陥らず制御できるようになってゆく<そして煩悩は妄想の形で、現象化している。>
 <妄想を繰り返し日々を流れる者は妄想を深め、性格を悪化させ運気を損ない、不幸へと陥ってゆく。>
 <妄想の正体は煩悩なのであり、煩悩とは存在欲なのである。>
無明(無知)⇒業(カルマ・精神性)⇒渇愛(渇望)⇒煩悩(生存欲)⇒存在への欲求(永遠
への儚い欲求)⇒衝動(感覚)⇒潜在概念(感情)⇒表層思考域⇒言語に変換して認識⇒
主観⇒自我意識⇒雑念⇒妄想⇒繰り返す事で妄想を深め心を汚してゆく⇒欲深く
なってゆく