菩薩と如来

「よく調いし、その身こそ仏なり」                                            「神仏も悪魔も鬼も外に居ず、人の心の中に在り」                           「菩薩」(bodhisattva)「如来」(tathagata)とは何であるのか。        【菩薩とは】                                      菩薩とは菩提薩埵(ボーディ・サットヴァ)の略であり、「完成へと向かう修行者」の意であり、「所有の次元」から「存在の次元」へと向かう解脱を繰り返し、その境地を「預流向」→「預流果」→「一来向」→「一来果」→「不還向」→「不還果」→「阿羅漢向」→「阿羅漢果」へと向かう(四向四果)と修行の完成により世俗諦を啓き菩薩身となり、無学の境地にて勝義諦を啓き「如来」となり、仏身と成る(成仏とは、「仏と成る」の意)であり「死ぬ」という事ではなく修行により「如来」となるというは勝義諦を啓かずば理解し難い境地なのだが物質エネルギーである物質と液体と空間と熱により成る身体は集合(結び目)を解き別の何かに成り続けてゆく、生命エネルギーからなる心的エネルギーは精神のクオリティ(質)によりこの現象世界を別の生命へと継続する継続運動(輪廻)を流転するか、この現象世界から消えてなくなり表の世界で仏となるかであり、膨大な物質エネルギーと生命エネルギーにより形成されるこの現象世界とは、生命エネルギーと物質エネルギーの本源エネルギーである梵(ブラフマ)という「大いなる意思」との同化による「まるで宇宙の本源(梵)が来たるが如し(如来)」という事であり、唯死んでも「成仏」はしないし例え有難い経を聞こうが有難い法名を頂こうが菩薩となり迷界(彼岸の淵)へ赴き休息し再び幸福な輪廻再生を繰り返すか生命の進化を根源から繰り返しながら果てしない輪廻の激流を流転を繰り返すのであり、如来となり仏界に成仏して輪廻から外れる事とは違うのである。 そして輪廻から外れるとは「もう二度と現象として此の世へは再誕しない」という意である。                               (虚空蔵菩薩)                             
生きる事、造る事、集うこと、すべての所業は常ならず終には滅びさる虚しい定めなのである。(空観)                             仏教的な空とは因縁より生滅する存在でしかない、因縁に翻弄され彷徨っているに過ぎない物質の、本性とは空なのである。(空性)縁起的成立にある無自性と虚空的対立にある無自性の間には、存在論からの乖離という共通性を上記のように見ると同時に、仏教の無自性は無競合的なものであり、且つ自本性へ向かう方向にある事が見てとれる。しかし本質としては「空」とは考える事ではなく諦観すること即ち心に宿すことです(虚空蔵)そんな修行者を虚空蔵菩薩と呼ぶのです。                     (観自在菩薩)                                              人は「自我」により己の観点に固執するから苦悩や不満を生み出す、それは過去・現在・未来に善悪とか順逆という分別を生み出し、際限のない欲望の中に住み続け、際限のない苦や不満を創り出してゆくのです。       自我が消え「無我」となったとき、自分という存在が大海の中の自在な一滴であることに気付くことが出来るのです。                   この現象世界には絶対普遍な物事(色)など存在しないのです、否、絶対不変なものなど存在できない世界なのです。                   このように正観し、過去を引きずらず未来に不毛な期待を抱かず現在の欲望に溺れないならば、自ずと正しき方向へと進み欲望から開放されて自在な境地が得られるでしう。                                                                同様に絶対的な精神作用(受想行識)など存在せず、全ては三世(過去・現在・未来)にわたる関係性の中の、仮の姿に過ぎないのです。           誰でもが、生活の中で実践的に修習してゆき、誤った認識を正しい観念へと改め煩悩の迷い苦しみを、とこしえの喜びと平安へと変えてゆく事が出来るのです。このように正しい気付きと認識を以って自在に全ての物事を観自在に観るを、 「観自在菩薩」と呼ぶのです。
如来とは】                                      <上座部大寺派のブッタゴーサによる解釈>                「かっての七仏の如く一切を知る智慧に到達した者」             <転法輪経による解釈>                             「真如より来る。故に如来と名づく。涅槃を如と名づけ知解を来と名づく。正しく涅槃を覚するが故に如来と名づく」                    <成実論>                                     「如来とは、如実(真如)の道に乗じ来たりて正覚を成ずるが故に如来という。」などであるが、これは【「還梵」により如来へと至る。】という釈迦尊の御言葉を敢えて蔑ろにして、真如(如実)という曖昧な表現へと転化させた各部派の思惑があったのではなかろうか。それは釈迦尊がその悟りの先に目指しそして至った「梵我一如」の境地が、部派各派にとっては当時の対抗勢力であり主要宗教でもあったバラモン教の中心的理念でもある「ウシャニパッド」の理念と競合する事にもなり仏教としての独自性を追求するあまり「梵還」を解釈することを避け、それにより阿羅漢(アラハーン・応供)菩薩(最上位)の境地に於ける「解脱」と「悟り」を最終解脱、最終正悟(正覚コンダンニャの法眼の生起)と定義し、「梵還」であり「梵我一如の境地」であり「大梵天来たる如し」「大梵天勧請」を「真如より来る」などと真如という形而上な処を挿入することで収めたのかもしれない。しかし釈迦尊はアーラーラ・カーラーマやウッダナ・ラーマプッタなどのバラモン修行者達と交わり学び、バラモンのすべてを否定した事などなく「伏陀の真理を内包」して大悟を正覚されたのが釈迦尊であり、「伏陀の真理の内包」により如来へと至るのである。しかしそれは目的では決してなく釈迦尊の完成における結果として「伏陀の真理」において「梵我一如」へと到達されて如来となられた。つまりは「阿羅漢が最終解脱でも最終正悟でもない」と言うことが単なる見解でも世迷言でもなく、釈迦尊の「梵天界応還」と如来へと到達することにより顕現する「如来出現梵天勧請」により真理なのであり、単に釈迦尊入滅以後2500余年の間に到達した者が居なかった否、到達を自らの浅薄により阻んでいたということなのではなかろうか。「釈迦尊の仏教の真理」と「伏陀の真理」とにより「如来へと至る」これは明らかな検証可能な真理なのであり、喩えて言うならば釈迦尊の説かれた「仏教の真理」を火薬として固め込み仏道で包み込んだ爆発物に「伏陀の真理」という導火線を挿した状態に於いて、「悟り」という火を点火すると大爆発(大変革)を生じ「大悟」へ到達し、「梵我一如」を体験し「如来」(大梵天来たるが如く勧請せり)が出現するのである。 これを「還梵」という。しかし仏教各部派宗派は頑なに仏教という殻を硬直させ導火線を挿せない道を築いてきた感さえ在り、それにより釈迦尊に続く如来の出現を自ら阻んできた事実(第六の蓋)がある事に気付くことなどなかろうが。