聖道跡に大悟あり

吾を臥龍鳳雛と呼びし者在れど、吾、縁の下の筍なりて、縁に依り、縁の下にて日陰に住す、然れども精進を怠らず聖道跡に思いを凝らし成したれば、縁に触れ縁を穿ちて、縁に依り、縁の上にて日向に惰眠する凡庸を蹴散したる清竹と成らん。
聖道跡、此れ釈迦尊が歩みし大悟へ至る唯一の道、真正なる仏道なり。
己の自我に気付き、自我が固定的な実体ではなく幻想であると識り、自我を生みだしている煩悩(存在欲)の衝動(感覚)に捕らわれなくなり解き放たれ涅槃という平安と寂静に梵住するを「悟りの境地」というのであるが、
それは厭くまで世俗諦(善行により至る境地)により得る境地であり、大悟とは勝義諦(宇宙の真理の発見)により得る境地であり超越なのである。
梵住に内観を愉しみ、命の英知を味わい、内なる真の我と大いなる我(大宇宙)との関係性、そして現象世界の総ての物事を結びつける関係性(バランス)を悟り、自分の心と体との関係性(結びつき)を制御(コントロール)し調和(バランス)させ解き放ち、自分の心身と自然の法則との関係性(結びつき)を制御(コントロール)し調和(バランス)させ解き放ち、 大宇宙の法則と真の我との関係性(結びつき)を制御(コントロール)し調和(バランス)させ解き放ち、自分と人々との関係性(結びつき)を制御(コントロール)し調和(バランス)させ解き放ちたる時、深淵なる智慧は顕現する。
此の世界のすべて(物質・精神)の物事がエネルギーの流れであり、恰も砂漠に風により起こされる砂嵐の砂の如く、こちらに集まって形を造っていたかと思えば、あちらに集まって又、別の形を生じさせているが如く、唯、縁という風により結びつき離れて離合集散しているに過ぎない関係性(結びつき)の上の出来事であり、つまりは現象世界とは常ならぬ世界であり、テレビの受像機に映し出された粒子(エネルギー)の仮の姿のようなものであり変化生滅の中にあり、常住なる実体など存在出来ない世界に覚醒したれば、大宇宙と恒常世界の意思(全体意思)との合一(同調)を果たし、大悟なる如来の境地へと至らん。
聖道跡は、智慧(ヨーガ)なり、禅那(ディヤーナ)と定(サマタ)と内観(ビッパサナー)と超越(トランセンド)により、結びつけ制御し調和するものなり。
法句経(ダンマパダ)に釈迦尊は仰っている。
「まさに智は瑜伽より生じ、瑜伽なくして智は滅ぶ。
その道理を知りて、瑜伽を行じ、智を増大せしめよ。」
だが釈迦尊の仰る瑜伽(ヨーガ)を現在、世の中にあるヨーガと同一視してはならない。今在るヨーガは健康体操の類と、観念的な妄想に陥る偏った見解に蓋われたものであり、心を内観し集中と止観と気付きによる智慧と真理を顕現させる瑜伽(ヨーガ)とは、形や作法に捉われず在るがままを目指す瞑想であり瑜伽でもありえるものなのである。
聖道とは、托鉢(ビク―)なり、辻に立ち、人の門口に立ち、遊行する。
六波羅蜜に纏められし徳行と、内観、八正道、五蘊四諦、十二縁起、三宝印を修習させ、四念処に始まる三十七菩提道品を行じさせ、七覚支、四向四果(禅定)、十結を達成させる総てを具する修行法こそが托鉢行なのであり、釈迦尊も成道後も自ら弛まず、物乞いシッダルダと心無い者に揶揄される事を厭わず托鉢を成され、皆具正仏道(総てを具えた正しい仏道であると説かれたのです。
釈迦尊の御言葉
我らは住家の外に、又は街の四辻に立ち、或いは各自の家に行きて、戸口に托鉢する。
僧侶とは修行する出家者であり、修行するが故に僧侶なのである。
剃髪して粗衣を身につけ托鉢で貧しく暮らすのは、負債や生活苦による訳ではなく、人の心身を蝕む苦悩や煩悩から解脱して、自由へと解放される為である。
智慧による真理を覚り、衆上に功徳を施さんが為であり、施与とは水を必要としない心の沐浴であるのだから。
乏しき中から分かち与える者は、法の実践をしているのであり、百千の供犠をなす者の百千の供犠も、施与の行いを成す者の功徳の百分の一にも値しないし、一日に一万扁、読経する者の百日間に勝る功徳をもたらす。
成功や名声のためでも、人の上に立つためでもなく、衆上に功徳を施し、自分を真理へと導くためにこの様な生活を送るのである。
では、釈迦尊の大悟とは何なのか。
そして約2500年の時を経て、吾が大悟したものとは何なのか。
釈迦尊が入滅されて2500年の間、幾多ある悟りを以ってして、これこそが大悟だと嘯く的外れでもある凡そ大悟とは言い難い事柄ばかりであり、釈迦尊と吾とに啓かれた大悟とは、それら浅薄なる覚りとは隔絶した深淵なる境地なのである。
勿体ぶる訳ではないが大悟とは何なのかは次章「輪廻とは何か」にしたためる心算であり、非公開とし喜捨して下さる善良な方にだけ公開させて頂こうと思う。
釈迦尊から約2500年の時を経て吾に啓かれし大悟を日頃、浅薄な書物や講演に大枚を叩き、知識ばかりを欲す方々に披露する事は躊躇わざるを得ない。
この深淵な大悟がブログの内に埋もれるのも又、一興なりて、もし御奇特な方や酔狂な方が在られたら是非、喜捨を施して頂き、釈迦尊と吾とに啓かれし大悟とは何なのかを観、自分とは何なのかを識って頂きたい。