教祖と信者

宿したる真夏の日差しを温もりに
無明の闇を 晴らすが仏道


作為的なマスゴミの情報に翻弄されぬよう日頃あまり気にもしないのだが、[教祖と信者]という関係性を女性アナウンサーと按摩師の夫の関係性とに重ねた記事見出しに目を止めた…
何かとストレスが掛かるだろう芸能界の多くの人は現実逃避欲求からか、スピリチュアルとか非現実世界へ心が惹かれるようで鸚鵡教祖と同じインチキ按摩師の夫に染脳(洗脳)されて教祖と信者関係を築いて迷惑の種になっているらしい…
仏教で言えば、多くの人が誤解しているのですが釈迦尊(ブッダ)は決して教祖などという類の方ではなく.御自身も教祖だとは考えてもいなかったようであり、釈迦尊(ブッダ)は到達者なのであり.到達した真理と真理への道を教えて下さった方だと言え.釈迦尊(ブッダ)御自身でも教祖として捉えらる事を戒められ[教祖と信者]という関係性を否定されていたのです…
それには幾つかの理由があり、一つには他の宗教や信仰というものが.得体の知れない神や仏や霊体.精霊やその化身などから能力や啓示を受けた存在であるとか千三な空論.暴論を主張の根拠として教祖だと宣い.他人はそれを疑うことなく鵜呑みにして信じる(盲信)、信者なるものになる事を強要するものであり、それに逆らうものには罰や災いがあり地獄へ堕ちると嘯きながら自らが堕ちてゆく事も知らない者なのであるのに対して、釈迦尊(ブッダ)は.その様な眉唾なものの力や助けによらず、自らの努力と知性により到達したのであって、人間存在こそが至高であり人間は自らの主であり、人間より高い位置から人間の運命を差配したり審判できる(神仏のような)存在や力などなく、[自らが自らの依り処であり、自分以外の誰をも依り処とすることなかれ]と仰った卓越した人物なのです…
二つ目に、疑心暗鬼になる事を戒められると共に自ら疑問を晴らそうとせずに鵜呑みにして盲信(妄信)する事を殊更に嗜めたのです…
つまりは釈迦尊(ブッダ)在世当時のバラモン教を始めとして.世の中に蔓延る無明な人々を.依り無明の暗闇へと誘う[教祖と信者の関係性]により[寝呆け、染められ、縛りつけられる]人々を憐れみ、[目覚め(覚醒)、乗り越え(超越)、解き放たれる(解放)]道を指し示されたのが、仏の教えなのですから…
そしてその三つ目が、釈迦尊(ブッダ)に会いに訪ねてきたジャイナ教の教祖マハーヴェーラは.釈迦尊は.およそ教祖らしからず.日中はいつも托鉢(辻立ち)に出掛けていて留守で会うことが出来ず、教団(サンガ)運営を一手に担い.いつも応対してくれる舎利子(シャリプトラ)を教祖だと思っていたという記録がジャイナ教にも残っています…それ位、釈迦尊(ブッダ)には教祖などという意識も自覚もなかったようなのです…およそ教祖などと言う連中に本当の聖人も到達者も居らず.欲望に魅入られたパラノイアな方々なのですから…
大切なのは感覚.感情.主観に誑かされて.鵜呑みにして信じることではなく、よく眺め.分析し.思惟思推し.検証し.確証を得て理解することなのです…
そして四つ目が大般涅槃経(マハーパリ.ニッヴァーナ.スッタンダ)の中で語られる[吾は.自らがサンガ(共同体)を統率したり、サンガが教祖としてブッダを頼るといったことは考えた事もない]と述べられ、[自らが自らの依り処となり、決して他人を頼らず他人から助けを求めることなかれ]と自らの努力と知性によって汎ゆる束縛から自らを解放し自由になることが出来るのだから、誰であれ自分を啓発し.克己し精進しなければならない…[教祖の信者の関係性]とは縛る者と縛られる者の関係性に他ならないのだから…
釈迦尊(ブッダ)は釈迦尊(ブッダ)ご自分のことさえも良く吟味して師事するべきだとも仰っいました…
その意は、疑い(疑心暗鬼)は、精神の進歩を阻むものであり、全ての悪の根源は無明(無知)であり誤解であり物事が明晰に見え.本当に理解出来ない限り.ためらいや戸惑い疑問が残り先に進むことは出来ない…疑わずに信じるべきであるというのは全く的を得ていない話であり、ただ単に[信じる]というのは本当に理解し明晰に見えているという事ではなく、寧ろ[ミロバランの喩え]の如く、盲信(妄信)している者は決して真実(真理)には辿り着くことが出来ず、道は私達一人一人が自ら歩まねばならないのです…
自己解放は人が自ら真理を実現する事によって到達するものであり、神仏或いは外的な力などから.その従順な善い行ないに対する報いとか恩恵とかによって与えられるものではないのですから…