施与の功徳

高度に発達して快適な生活をもたらすはずの現代社会は、却って人々に苦しみや哀しみや怒りや欲望を増やしたのではないでしょうか?

凡そ全ての苦しみの原因は自分(自我意識)への捉われ.拘り.執着であり、存在欲.所有欲など汎ゆる欲望に煽られ、社会も人々の欲望を刺激しながら自意識を高めさせ取り込もうと大きな口を開いて待ち構えているのですから…

​施与の功徳
①施与の功徳
②托鉢行
③運 気
④心が軽くなってゆく詩
⑤福徳を招き寄せる唱文
①施与の功徳
「一切の生きとし生けるものは.幸福であれ.安泰であれ.安楽であれ」
邪道が蔓延る世の中に.
如来は.憐れみ辻に立つ
邪法が蔓延る世の中に.
如来は憐れみ辻に立つ
衆生…心.浄めたもう.
貧しき心.浄めたもう
賤しき心.浄めたもう.
愚かな心.浄めたもう.
衆生、徳を積みたもう.
衆生、無明を晴らしたもう.
衆生、虚妄を目覚めたもう.
衆生.軛を解きたもう.
一切万象 因果応報

一切万法 自業自得

心貧しくなるなかれ…

貧しき心を浄めたもう…

朝 顔を洗う如く 

心を浄化めし沐浴処
[世に与える者と貰う者があれば.汎ゆる功徳は与える者に果報として現れる…
この理法により聖者への施与は功徳が増す]
如来への施与.供養.寄進は満願を成就させ.福徳を生じさせる。
 ●物や金を人に分け与えたくないという吝嗇(物惜しみ)もまた心の病の一つです。

それは貧しい心を育てている事なのです…
そういう人は施すという法則を実行せずに.不善を積み上げている人なのです。
多くの人は.これは自分が稼いだのだから.自分だけのものだと思い込んでいますが.それは違うのです。
それは預かっているものであって、自分だけのものとは.決して言えないのです。
例えば、今の日本ではそれなりの仕事をすれば、それなりの給料を貰えます。
しかし.それは日本人がこれまで頑張ってきて.こういう恵まれた状況が生まれたからであって、貴方の努力だけで得られたわけではないのです。
日本も少し前までは.資源も乏しく.人々も貧しい生活をしていたのです。
戦争にも負け、戦後の荒廃した焼け野原となった国土と.今日生きるのが精一杯などん底生活から立ち直ってきて今日の繁栄を築きました。
それは誰でもない私達の先達のお陰であって今、私達が.それなりに恵まれた給料を貰えるようになったのも、先達の苦労のお陰である事に.感謝しなければいけません。
世界を眺めても.恵まれた国ばかりではなく後進国や紛争国などでは、皆さんの何倍もの仕事をしても.その日の食事を購うのがやっとと言う中で生きている人も居るのです。
でもそれは.その国の状態なのですから仕方がない事でもありますが、皆さんの今の幸福は先逹の努力による発展と平和のお陰であり、決して自分の努力だけで得た理由ではないのだということを忘れてはいけません。
全ては縁起(因果)による関係性の上での出来事(現象)ですから、この金は自分のものだから、自由に.自分勝手に使うのだと、縁起法(因果律)を省みない使い方をしていると、お金は貴方に縁のないものとなって行ってしまう法則があるのです。
今のあなたが稼いだお金は長い長い年月の中で多くの人々の苦労と努力という[お陰様]と.人々の関係性の上に成り立つ[お互い様]の上に、預かった(授かった)ものなのですから。
[お陰様で][お互い様で]というのは、この世の自然法則を意味している生き方なのです。この自然は、草木が一本もなければ生き物は呼吸もできませんし.食も成り立たず、又.大地や水がなければ生きていけないでしょう。動物が生きていなければ、自然法則は崩れてしまいます。すべてが自然法則に逆らわずに生きているのです。人間だけが勝手にそれを壊し、自然法則に逆らって生きているのではないでしょうか。
必要な時に、必要な人に[お陰様で]とか[お互い様で]という行ないは自然法則であり、そう思わない人間は法則に逆らって生きていると言わなければなりません。
人間が幸福になりたいと願う心もまた自然の法則です。誰でも不幸になりたいという人はいません。動物であろうが何であろうが、心のある生命体はみんな幸福になろうとしています。そうであれば自然法則に従う人こそ自然に幸せになるものであり、それも自然法則なのです。
自然法則を勝手に破る人は、苦労という法則に向かってしまうのです。自分が貰ったものでも自分のものですと思わずに、「これは皆さんのお陰だ、生きとし生けるもののお陰だ皆、お互い様という関係性の上に存在しているのだという生き方こそ自然法則に逆らわないものなのです。こういう心で生きていると必要なときに何も嫌だとか損だ.などという貧しい発想を持たずに人のために使うことが出来るし、そのような人は例え自分の全財産をあげても不思議に貧乏にはならないものなのです。自然法則によってその人は多くの人から支えられ、誰からも愛され、いつも幸福でいられるのです。
「自分に気付き.良い生体波動を調える」
幸不幸や運不運は紙一重、呼吸により自律神経を制御コントロールするのに、吸う息より吐く息が長くなると副交感神経のスイッチが入り体の緊張を解しリラックスさせ眠りにも入り易くなり(安息)、逆に吐く息より吸う息が長くなると交感神経のスイッチが入り体が緊張し活性化してゆく(活息)ように、人の幸不幸や運不運も同じようなもので、人に与える事を積極的に行い与える方が貰う事より多くなってゆくと幸運のスイッチは入り況ゆる物事が幸運へと向かい、与える事より貰う事に積極的になり貰う方が増してゆくと不運のスイッチは入り況ゆる物事が不幸へと向かうものなのである。
この理法は科学的な実験や調査でも証明されている事実であり、悪行事も同様である。
●得る事による快感が、短命で.虚しく.無常で苦の本質のものであると.明確に理解できたならば、汎ゆる渇望.執着.愛着から解き放たれ.心は自由と豊饒を得る。
●得る事による快感が幸福だと錯覚している者は、それによって無明の闇の中を盲目的に.所有欲に翻弄されながら苦と不満の日々を、心を貧しくさせてゆく。
●幸せへの道

幸せになりたくて向かっている方向が間違っていては欲望に翻弄されるだけで堅固な幸せへは辿り着けません…

心の平安と欲望の平安…心の充足と欲望の充足…心の満足と欲望の満足とは、真逆の道であり、一つは堅固で実存的なものであり、いま一つは無常な夢幻に過ぎないもの…

●心の沐浴処
朝、顔を洗うように、心を洗いなさい…
生きる垢や汚れを落とすように、
欲望による心の垢や汚れを落としなさい…


因縁起果報.一因に縁らず一法に立せず、
然し明々歴々、一因一法を晦まさず


人々が悩み苦しみ怖れ哀しみ不満の中を生きるのは無明ゆえに自我の欲望に魅入られ捉われ拘り執着しているからであり「自分のものだ」としがみついたり「もっと欲しいもっと欲しい」と貪ろうとしたり失う事を怖れながら生きていて、そんな自我の欲望により心が貧しく賤しく不浄になって苦や不満の中を満たされる事なく生きているのである。
施与の功徳とはそんな自分を目覚めさせ乗り越えさせ心を依り貴い処へと向かわせる因縁となり果報として自我の欲望という妄想的な苦しみ悩み怖れ哀しみ不満から解き放たれる因縁果報の起因(功徳)なのである。
■作為ある者の仕掛ける罠は巧妙で、愚かな人は信じ込まされ、未熟な人を型に填め、無明な人を脅し込む。
真に仏道を理解せんと欲するならば、二乗だろうが自ら眺め.観察し.分析し.思惟し.検証し.確証を得て理解すべきであり.バイアスを乗り越え貪欲に学ぶは当然であり、真に到達せんと努めるならば、二乗修する必要があるのです…
仏道は其々が偏って成り立っている片極は自分に偏り、一方の片極は空論に偏って居る、そして両極の安定する地点こそが中道であり八つの徳目による正道だからである。
正道への阻止を目論む作為ある者は、二乗を学ぶは地獄に堕ち.悪業を積むなどと脅し宣う恣意的な教義を拵えて、此方は稲米.石蜜、彼方は粟稗.雑穀と空虚な権威を創り出す
そんな自我に捉われた偏りこそが衰退の道であるとも気付かずに。
釈迦尊(ブッダ)の御言葉 抜粋経集
■サンユッタ・ニッカーヤ(雑阿含経)
★施与とは、水を必要としない心の沐浴である。
(貧しき心を清めたもう。卑しき心を清めたもう。狭き心を清めたもう。)
★乏しき中から分かち与える者は、法を実践する事になるだろう。
百千の供犠をなす者の百千の供犠もその様な行ないを為す者の功徳の百分の一にも値しない。
一日一万扁、読経する者の百日間に勝る行ないである。
★施与、善行に努め励むことは現世の利益と来世の利の両つの利を保つ。福徳を生ずる行ないに努め励む事を聖者は褒め讃える
★毀るべき者を拝して讃えるべき人を毀る者は.その口と行ないとによって禍いを重ね.その禍いの故に福楽を受ける事が出来ない
生存の素因(五蘊)より生じる煩悩を滅し、神々をも超えた境地(涅槃)に梵住する菩薩、供養を受けるに相応しい人を供養するその人に対して清らかな信を起こして供養するならば、此の世でも彼の世でも来世でも、安楽を受ける功徳を積む行為である。
■マハーパリニルバーナ・スッタンダ(大般涅槃経)
★有徳にして自ら制せる菩薩行者を供養したならば其処に居る神霊
たちは汝らに施与の功徳を振り向ける。
★広大なる大楽を追い求めるならば、福徳を生じる行ない(四徳)に努め励め。四徳に努め励む者は生命(長寿)と健康と美貌に恵まれ、天界に生まれて来世は高貴な家に生まれる。
神霊の瞑々の加護(冥加)を受けている者は恒ねに幸運を観る。
〇四徳とは、誠実.自制.忍耐.施与である
★施与する者には功徳が増し、果報あり
この世の富は捨離してゆく物、施与したる善行という財を持ちて逝く、賢者は福業を行ぜよ。それは死後にも伴いゆく財宝なり。
■ニディカンダ・スッタ(伏蔵経)
★施与は因縁ある者に対する義務にして、餓鬼には多いなる供養がなされ比丘には力を興なう。是の如く慈悲ある者は因縁ある者の為に清浄にして適したる施与を興え。施したる者は善果を得る。
■ラタナ・スッタ(宝 経)
★八輩の人は四双の人であり、真なる仏弟子であり施与を受けるべき人である。彼らに施したならば大いなる果報をもたらす。
この勝れた宝は法の内にある。この真理に依りて幸せであれ。
■スッタニパータ(経集)
★他の人々に何ものかを与える事により人々を助ける事が出来る。
(「自分の物だ。」と言って握り締めるのではなく他の人を思い遣り慈しみ、他の人に何かを与える処に人生の深い歓びがある)
■ダンマパタ(法句経)
★怒りには怒りを捨てる事によって打ち勝ち
悪い行ないには善い行いによって打ち勝ち
物惜しみに施しによって打ち勝ち
虚言には、真実によって打ち勝て
★貪欲な者、吝嗇な者は天界へは趣けない。愚者は分かち合う事を讃えない。しかし心ある者は分かち合う事を歓ぶ、それ故に来世は必ず幸せである。愚者たちは彼方の岸の淵(死生界)迷界を彷徨っている。来世は償い購うに生きる事となる。
★水を少しずつでも集めるならば水瓶も満ちるが如く、少しずつでも施与をし善を積むならば、やがて福徳に満たされる。
★水を少しずつでも集めるならば水瓶も満ちるが如く、少しずつでも物惜しみ悪を積むならば、やがて災禍に満たされる。
★百年間、月々千回ずつ祭祀を営むより、自己を修養した人を一瞬間でも供養するならば、その供養のほうが百年の祭祀を営むよりも勝れている。
■イティヴッタカ(如是語経)
釈迦尊(ブッダ)によって是のように語られた。
施与,調御,節制に果報あり、聖者への功徳は一万遍の読経に値する。
■マンガラ・スッタ(吉祥経)
★施与を為し、浄く行ない、親族を慈護し、非難なき生業に従う。
これぞ最上の吉祥なれ。
②托鉢行(頭陀・菩薩行) 
辻立ち.連行.門付け.行脚.勧進
衆生に縁ある餓鬼への供養を行ぜさせる為に、我らは住家の外に、又は街の四辻に立ち或いは各自の家に行きて戸口に立つ。
餓鬼には多いなる供養がなされ比丘には力を興なう行である。
小誦経.七品.戸外経(施餓鬼経)
★托鉢によって自分の得た物を軽んじてはならない。   
★譬え、得たものが少なくとも修行僧が軽んずる事がないならば、怠る事なく清く生きるその人を神仏も称賛する。
★媚びてはならない。
★世間話をしていてはならない。
★当然として平然に施与を受けよ。
★策して施受を求めるな。
★人々と親しく交わるな。
★荒々しい言葉を以て敵対的に応えてはならない。
★罵られても敬礼されても平然とした態度で臨め。
★忍辱は最大の苦行であり、涅槃は最高の悦楽である。布施.自戒.忍辱.禅定.精進.智慧(六波羅蜜)を奉行せよ。
★修行僧は時ならぬのに歩きまわるな。
★六根(眼耳鼻舌身意)を刺激する六竟(色声香味触法)の誘惑に対する欲望を慎み、感受(感覚)を制御せよ。
★施しを得たのは良かった。得られなかったのも又良かったと思え
釈迦尊(ブッダ)も有難う感謝します。と返答なされたと言われる
★自ら知って己を制し、自ら知って多くを語らず。それが聖者の行である。
★四無量心と四念処、七覚支と八正道を修養せよ。六波羅蜜を育成せよ。
人格に勝る財なく、慈悲に勝る宝なし。
★生きるとは生じ続け変化し続ける事と識り変化生滅に捉われる事なく安寧を得よ。
★修行僧は自分の粗雑な思考を治めとり何ものにも依存せず、束縛の軛を完く解き放ち何人をも謗るな。謗られても謗るな。
★問われたならば答え、問われなければ答えるな。
★真摯で誠実ではない礼なき者に返答するは能わず。
★対機説法を心掛け相手の機根に合わせた真理(真実)を語る。
相手の知的好奇心を満たす為に説かず、相手の苦しみ悩み悲しみを抜く為、癒す為、目覚める為に説く。
★人は座して誹り.他言を誹り寡黙を誹るものであり.世に誹られざる者なし。
身を制し、語を制し、意を制するは賢者なり
★たとえ暮らし貧しくとも、心貧しくなるなかれ。
★この世に誠実、真理、堅固、施与、忍耐に勝れたものなし。
★貪欲.吝嗇.心が不潔な者は清める事が至難であり功徳を積めない。
★身の装いは、どうあろうとも行ない静かで心修まり心身を調えて慎み深く行ない正しく、生きとし生きるものに対して慈悲を施す人こそバラモンであり托鉢遍歴僧とも言うべきである。
バラモン(僧.比丘.沙門)が修行に熱心であれば、世の中は栄えて幸福となる。
バラモン(僧.比丘.沙門)は読誦を唱えて報酬として得たもので食うてはならない
★托鉢僧は施与で僅かな糧を得て、法施で大いなる功徳を施す。
★雑阿含経(サンユッタニッカーヤ)
僧侶(比丘)とは修養する出世者であり、
修養するが故に僧侶(比丘)なのである。 
剃髪し粗衣を身につけ托鉢で暮らしているこのように貧しい生活を送るのは負債や 生活苦による理由ではなく、我らの心身を蝕む苦悩(ドゥッカ)や煩悩(存在欲)から、
解き放たれて自由になるためであり智慧の真理(真実)に目覚め(覚醒)乗り越え(超越)衆生に功徳と慈悲を施すために此のような
生活をおくるのである。
永久(とこしえ)の平安を得る為に.永久(とこしえ)の平安を伝える為に修養するのである.成功や名声の為でも人の上に立つ為でもなく 真理(真実)を悟り衆生にこよなき幸せを齎す為に此のような生活を送るのである 
♢托鉢行(行脚)とは
自欲を離れて人々が健やかに在る中に歓びを感じる事であり、人々の平穏.安心.喜び.幸せが自分の歓びを満ち足らせると同時にその平穏.安心.喜び.幸せが不安定で脆く常ならざるもので在る事も識っている故に無明(本質的無知)に生きる人々を憐れみ請われれば真理(真実.現実.実相)を説き、堅固なるこよなき幸せへの道を指し示すのである。
★托鉢修行者とは決して苦行の行者ではなく真の幸せの具現者.真の勝利者に向かって辻に立つ者であり沙弥を連れ立つ連行とは似て非なるものなのである。
それは何の具現なのかと言えば、人は皆んな自分の幸せや喜びを追い求めながら生きていて幸せや喜びを求めない人など倒錯者以外には存在しないのであり、これから自殺しようとする人であっても死の中に幸せや喜びを見い出していると言えの、苦行する人も苦しみの中に幸せや喜びを見い出そうと行ずるのである。
この大宇宙という時空でさえ不安定性(ドッカ・苦)から安定性(スカ・楽)へのミクロ及びマクロの全領域における安定化運動により成り立っているのである。
無明(本質的無知)な人々は付随物(手段)に過ぎない所有の次元の事物に魅入られ捉われ執着して所有の次元の事物を生きる目的物だと勘違い.錯覚して煩悩(存在欲)の要求に翻弄され追い求め続けるが.それが決して満足させる事のない諸悪とドゥッカ(苦しみ.不満)の根源である事に気付かず.心を賤しく.貧しく.欲深く.無明に.盲目的にさせ.真の幸せや歓び快楽(スカ)からは遠ざかり、やがて振返った時にドゥッカ(悔い.空しさ.儚さ.実質のなさ)に行き着くのであり、存在の次元の事物(存在的価値.精神性.人としての質.格.境地.度量.柄など)の実現こそが真理(事実.現実.実相)の具現であり、真の幸せ.歓び.満足.平安.静逸.悦楽などは所有する事によっては得られず所有の次元の事物とは、却ってドゥッカ(不安定さ.不完全さ.苦しみ.悩み.心痛.怖れ.哀しさ.悔い.淋しさ.脆さ.弱さ.空しさ.儚さ.実質のなさ.みじめさ.欲望.不満.重荷.無常.無明など)や妄想.欲望.自我を造り出してしまうものであり、真の幸せ.安心.歓び.満足.静逸.快楽.安定などは捨て去り捨離し、解き放ち解放され、軛(くびき)縛りから自由に生きることに依って得られる物である事を指し示し具現化させているのであり真の幸せ.真の勝利を実現した托鉢修行者を如来と称するのです
托鉢修行者そして如来は世界一の幸せと歓びの具現者で在らねばならない。
⚫安寧は三猿によりもたらされる。
孔子曰く、礼に在らざればこれを見ず.聞かず.話さず。

ガンジー曰く、悪を見ず.聞かず.話さず。
仏教では.人の愚かを見ず.聞かず.話さず(.相手にせず)
如来の無量.無尽.堅固なる真理の光明を供養し功徳を積む者は大いなる福徳を生じさせ、来世でも善い処に生まれる。
③運気(開運招福)
福受け尽くさば、縁必ず弧なり
福とは巡り巡って大福として戻って来るものであり、既に受けてるあらゆる幸運や福徳に気付かず味わえず感謝出来ないで欲望(煩悩)や不満ばかりを募らせて生きて行けば大きな災いを被る羽目に陥り易くなるので、既に受けているあらゆる幸運や福徳に気付き味わい幸運や福徳に感謝し、自我意識に陥らず自分ばかりに捉われず他人を思いやり、金銭なども自分のものだと握り締めるばかりではなく
他の人に分かち与えたり他の人の役に立つ使い方という心の豊かさが運気を上げてゆくもなのです。
★★例えれば金財や自分に捉われている姿は丁度、運気.運命の梯子を両手で強く握り締めて身体を辛うじて支えている姿そのものなのです。両手を一度に離せば梯子から転げ落ちてしまいますが、かと言って両手で握り締めたままでは上へ昇って行く事は出来ません。そして握り締めたままではやがて握り締める横木も朽ちたり細ったり又は疲れと痛みとで運気.運命の梯子からずり落ちてしまうだけのジリ貧へと陥るものなのです。
情けは他人の為ならず、掛けた情けはやがて何かしらの形で報われたり助けられたりするものなのですから。
一縁に依らず一法に立せず、然れども明々歴々一縁一法を晦まさず     
④心が軽くなってゆく詩
我らは平穏に楽しく生きよう    
不満だらけの浮世で不満を持たず
不条理な世の中で条理に遵い
病んだ社会で病むことなく 

貪欲な世界で無欲恬淡に  
我らは平穏に楽しく生きよう
物事に心を乱されず    
精神充実による悦楽を活力にして
光音天の神々のように 
我らは平穏に楽しく生きよう 
平安で安楽な生き方が如何に
甘美でこよなく幸せであるか
我が身を以て具現していこう
成功.名声や人の上に立つ事を欲せば
不条理で貪欲で病んだ俗世では   
大衆迎合的的に偏ったり間違った
真理(真実)から遠退いた
妄迷.倒錯的な事を語らねばならず  
無明の闇を深め盲目的に生き、
必ず不満.憎しみ.苦しみ.妄迷.後悔
空しさに出会うだけ。        
決して目覚め乗り越え真理(真実)に
到達することは出来ない。
平安.悦楽.静逸.安堵.歓喜の中で
楽しく自由に生きてくために、成功
名声.人の上に立つ欲望から目覚め、
乗り越え、捨て去り離れ
涅槃(ニルバーナ)に梵住する。
⑤福徳を招き寄せる唱文
自分に拘り捉わる自縛から解き放たれる心
私.人々.生きとし生きるものたちが…
平安で在りますように。
私.人々.生きとし生きるものたちが…
幸せで在りますように。
私.人々.生きとし生きるものたちが…

息災で在りますように。
私.人々.生きとし生きるものたちに…

喜びが在りますように。
私.人々.生きとし生きるものたちが…
良い一日を過ごしますように。
私.人々.生きとし生きるものたちの…

悩み苦しみが無くなりますように。
私.人々.生きとし生きるものたちの…

怒り不満が無くなりますように。    
私.人々.生きとし生きるものたちの…

哀しみ悔やみが消え去りますように。
私.人々.生きとし生きるものたちが…

恨み辛みが消え去りますように。    
私はそう願い今日を生きよう…  

●メモ
顔や身体の沐浴には拘るが、心の沐浴は凡そ疎かにしてしまうもの…
物事は心にもとづき、心を主とし、心によって造りだされているです…
条件により生起する性質のものは、条件により消滅する性質のもの(現象)
堅固な無為か有為なる生起か現象的に過ぎないものか見定める為の辻立ちでもある…