【如来品正師 多々方路傍石 語録】
我れを褒め.他を貶むる者になるなかれ
身を慎み、言葉を慎み、心を慎む者は、
身を慎み、言葉を慎み、心を慎む者は、
大いなる果報を得る道を歩む
努め励まん…
◆如来品正師 多々方路傍石 語録◆
似非の沙門(僧侶)は何処にいる、
寺に住まいし経を読む。
真の沙門(僧侶)は何処にいる、
辻に立ちて衆生に功徳を施す。
似非の沙門(僧侶)は何をする、
自惚れ、能書き空論講釈す。
真の沙門(僧侶)は何をする、
求めに応じて真理を語る。
似非の沙門(僧侶)はどう励む、
寺、派、教義を高めんと日々励む
真の沙門(僧侶)はどう励む、
衆生を一人でも救わんと真理を説く
似非の沙門(僧侶)はどう生きる、
所有に向かいて布施を求める。
真の沙門(僧侶)はどう生きる、
施与の功徳を積まさんと辻に立ち
真の存在に向かいて平安を求める
似非の沙門(僧侶)はどう消える、
権威と地位と名誉に執して輪廻する
真の沙門(僧侶)はどう消える、
何泡沫の如く何も残さず散りゆき消える
似非の沙門(僧侶)はどう望む
真の沙門(僧侶)はどう望む、
世の無明と妄迷と暗愚からの覚醒と超越と解放を望む
◆如来品正師 多々方路傍石 語録
社会は無明な者により成り立ち、無明な者なくば社会は成り立たず発展する術を失なう。
無明な者は煩悩に翻弄され、欲をみたそうと所有の次元を彷徨っている。
一つ持ちたれば二つ持つを欲し、二つ持ちたれば更に欲して満ち足りる事無し。
社会はそんな無明な者の決して満たされる事のない欲を煽るために存在し、満たされ不要となる時、社会もまた不要とされる。
社会は無明により成り立ち、無明なくば社会は成り立ち発展する術を失なう。
金銭を手段として成り立つ社会では、金銭を目的として搾取する者と搾取される者とに大別される。
搾取により金銭を集める者を資本家と呼び、労働力を提供して金銭ないし糧を得る者を労働者と呼ぶ。
資本家は依り金銭を集める為に依り安く質のいい労働力を求めてやまず、労働者は提供する労働力に依り多くの金銭を求めてやまぬ。
この相反する問題を社会は乗り越えて、資本家は愚か者に依り多くの金銭を払うと同時に無明なる煩悩の欲を刺激して回収を試みる。
労働者は資本家を更に富ませてお零れに与かる。
資本家は富を蓄積してゆき労働力を必要としない社会を目指す。
労働力は新たな労働力の前に切り捨てられてゆく。
社会はこうして廻ってゆき、社会はこうして発展してゆく。
社会は無明な者により成り立ち、無明な者なくば社会は成り立たず発展する術を失なう。
昨日の労働者は忘れ去られ、今日の労働者は使い捨てられ、明日の労働者は必要とされなくなるだろう。
◆如来品正師 多々方路傍石 語録
想い定めし時より仏法は始まる。
死に直面した時になって、人は自分の生涯を振り返り後悔もするのです。しかし過ぎたるは及ばざるが如く、その時は既に手遅れでもあるのです。人は何時、自分というものを思い定め、生きるとは何ぞやと気付く事が肝要なのです。人から感謝される存在で有りたいですね。
死に直面した時になって、人は自分の生涯を振り返り後悔もするのです。しかし過ぎたるは及ばざるが如く、その時は既に手遅れでもあるのです。人は何時、自分というものを思い定め、生きるとは何ぞやと気付く事が肝要なのです。人から感謝される存在で有りたいですね。
◆如来品正師 多々方路傍石 語録
人の心のその奥に、仏も住むが鬼も住む。仏は慈悲に出現し、鬼は貪欲に出現する。六根・六境の執着と誘惑を悪魔の罠と知れ、制御するは神仏にも勝ると知れ。
◆如来品正師 多々方路傍石 語録
利を追うも一つの道、理を追うも一つの道、どの道を行こうが福徳を生ずる行いに努め励め、此れ現世に利あり、来世に利ある 天地万象の理法である。
◆如来品正師 多々方路傍石 語録
仏道修行で特に要求されるのが卓越した洞察力である。釈尊はその洞察力も並外れて居られたのである。日本に於いても聖人の如く崇められる方々も優秀な頭脳と見識をお持ちになって居たのだろうが惜しむらくは真贋を見抜き通す洞察力と神通に欠けていたようで馬鳴教や竜樹教が大乗なる仏教であると誑かされた。
◆如来品正師 多々方路傍石 語録
人の心のその奥に、仏も住むが鬼も住む。仏は慈悲に出現し、鬼は貪欲に出現する。六根・六境の執着と誘惑を悪魔の罠と知れ、制御するは神仏にも勝ると知れ。
◆如来品正師 多々方路傍石 語録
利を追うも一つの道、理を追うも一つの道、どの道を行こうが福徳を生ずる行いに努め励め、此れ現世に利あり、来世に利ある 天地万象の理法である。
◆如来品正師 多々方路傍石 語録
仏道修行で特に要求されるのが卓越した洞察力である。釈尊はその洞察力も並外れて居られたのである。日本に於いても聖人の如く崇められる方々も優秀な頭脳と見識をお持ちになって居たのだろうが惜しむらくは真贋を見抜き通す洞察力と神通に欠けていたようで馬鳴教や竜樹教が大乗なる仏教であると誑かされた。
◆如来品正師 多々方路傍石 語録
自称他称を問わず、自分は成功者だと思う者達の、その努力・精進・智慧・時勢等に依り功成るは祝着なり、しかしその所以は天と世間様のお陰なるを忘れ感謝と慈悲とを怠り高慢にして謙譲在らざれば今生には大禍に見舞われ、来世は辛苦の境遇が待つ。名も財も名誉も地位も所詮は諸行無常なものである。
◆如来品正師 多々方路傍石 語録
積善の者は報われ、積不善の者は苦境へと至る・・・水が一滴ずつ滴り落ちるならば水瓶でも満たされるが如し。
水を少しずつでも集めるように善を積むならば、やがて福楽に満たされる。これ天地万象の理なり。
◆如来品正師 多々方路傍石 語録
何かに捉われ拘り貪っていては、幸せになんか成れやしない。お空から金銀財宝が雨降る如く落ちてきても満足なんか得れやしない。貪欲が深まり悩みの種が増すばかり、己の心を調える事すら難儀な身の上に訪れる幸せなんて幻想に似て儚く朽ちて苦を生じさせる本性を携えて来るものかな
◆如来品正師 多々方路傍石 語録
積善の者は報われ、積不善の者は苦境へと至る・・・水が一滴ずつ滴り落ちるならば水瓶でも満たされるが如し。
水を少しずつでも集めるように善を積むならば、やがて福楽に満たされる。これ天地万象の理なり。
◆如来品正師 多々方路傍石 語録
何かに捉われ拘り貪っていては、幸せになんか成れやしない。お空から金銀財宝が雨降る如く落ちてきても満足なんか得れやしない。貪欲が深まり悩みの種が増すばかり、己の心を調える事すら難儀な身の上に訪れる幸せなんて幻想に似て儚く朽ちて苦を生じさせる本性を携えて来るものかな
◆如来品正師 多々方路傍石 語録
万物に感謝せずには居られない。立てるに感謝、座れるに感謝、食べれるに感謝、歩けるに感謝、寝れるに感謝、生きてるに感謝、世間様に感謝、感謝、これ幸せと満足の法則なり。故に、感謝のない者の人生に大楽なく、愚痴と不満ばかりの中高年とも成りたる所以か。今の世は歳の功より亀の甲であるか・
◆如来品正師 多々方路傍石 語録
「業」というものを、前世の行いによる現世での果報だとか人の意による行為であるとか言われるが、前世の行為、即ち業なのではなく、因縁というが如く因と縁とに依り形成されたものであり、人の意による行為というよりは善行悪行、慈悲無慈悲・宿業の影響を受けつつ積み重ね形成される因縁なのである。 善行とは想いに始まる行いである。
◆如来品正師 多々方路傍石 語録
禅定の[禅]とは集中力であり精神統一であり一に止まる止観であり、[定]とは気付きであり観行である
万物に感謝せずには居られない。立てるに感謝、座れるに感謝、食べれるに感謝、歩けるに感謝、寝れるに感謝、生きてるに感謝、世間様に感謝、感謝、これ幸せと満足の法則なり。故に、感謝のない者の人生に大楽なく、愚痴と不満ばかりの中高年とも成りたる所以か。今の世は歳の功より亀の甲であるか・
◆如来品正師 多々方路傍石 語録
「業」というものを、前世の行いによる現世での果報だとか人の意による行為であるとか言われるが、前世の行為、即ち業なのではなく、因縁というが如く因と縁とに依り形成されたものであり、人の意による行為というよりは善行悪行、慈悲無慈悲・宿業の影響を受けつつ積み重ね形成される因縁なのである。 善行とは想いに始まる行いである。
◆如来品正師 多々方路傍石 語録
禅定の[禅]とは集中力であり精神統一であり一に止まる止観であり、[定]とは気付きであり観行である
トランス状態(ジャーナ)にある。想受滅とは在るでもなく無いでもない意識と無意識の狭間にある。サマタはアラーラ・カーラマ瞑想でありヴィッパサナーも本当はウッダカ・ラーマプッタ瞑想(気付きの瞑想)であり仏教瞑想の一項目に過ぎないず、真の釈迦尊(ブッダ)の瞑想とは両極の中に顕現する透察(透視的洞察)である。
◆如来品正師 多々方路傍石 語録
人が苦を生み出すのは、幻想と現実の狭間において成される。理想を高くなどと言われたものだが、凡そ高すぎる理想は夢想とも妄想(申そう)。理想が朽ちて幻想となり苦想(クソー!)となる。足元を見つめ(立場・環境・状況・時勢)一歩一歩と努力と精進を重ねる者を神仏も助ける
◆如来品正師 多々方路傍石 語録
心身は一体ならずして.身体には身体の養生あり.心には心の養生あり
心身は一体ならずして.身体には身体の浄化あり.心には心の浄化あり
感謝するその第一は仏尊なれど 天地草木 吾に恩恵を齎す
万物に感謝せずには居られない
故に 感謝ない者の人生に大楽はなし
◆如来品正師 多々方路傍石 語録
心の中を覗いてごらん。慈しみ(仏心)も居れば非情(鬼心)も居るし、欲求(悪魔)の誘惑もあれば自我(煩悩)もイッパイ、制御されない心の中は色んな餓鬼が走り回り色んな神が出入りする。
◆如来品正師 多々方路傍石 語録
うたかたの夢幻の如き今生に、理想に拘る者 苦想へと至る
人生は 幻を追うが如し 空に覚りて寂静に生きる
今の世は 頭で解る者多かれど 心で解る者は少なし
◆如来品正師 多々方路傍石 語録
大宇宙とは状態であり仏とは要素である
大宇宙とは我であり仏とは意志である
大宇宙とは理であり仏とは法である
大宇宙とは現象であり仏とは効果である
◆如来品正師 多々方路傍石 語録
人が苦を生み出すのは、幻想と現実の狭間において成される。理想を高くなどと言われたものだが、凡そ高すぎる理想は夢想とも妄想(申そう)。理想が朽ちて幻想となり苦想(クソー!)となる。足元を見つめ(立場・環境・状況・時勢)一歩一歩と努力と精進を重ねる者を神仏も助ける
◆如来品正師 多々方路傍石 語録
心身は一体ならずして.身体には身体の養生あり.心には心の養生あり
心身は一体ならずして.身体には身体の浄化あり.心には心の浄化あり
感謝するその第一は仏尊なれど 天地草木 吾に恩恵を齎す
万物に感謝せずには居られない
故に 感謝ない者の人生に大楽はなし
◆如来品正師 多々方路傍石 語録
心の中を覗いてごらん。慈しみ(仏心)も居れば非情(鬼心)も居るし、欲求(悪魔)の誘惑もあれば自我(煩悩)もイッパイ、制御されない心の中は色んな餓鬼が走り回り色んな神が出入りする。
◆如来品正師 多々方路傍石 語録
うたかたの夢幻の如き今生に、理想に拘る者 苦想へと至る
人生は 幻を追うが如し 空に覚りて寂静に生きる
今の世は 頭で解る者多かれど 心で解る者は少なし
◆如来品正師 多々方路傍石 語録
大宇宙とは状態であり仏とは要素である
大宇宙とは我であり仏とは意志である
大宇宙とは理であり仏とは法である
大宇宙とは現象であり仏とは効果である
◆如来品正師 多々方路傍石 語録
間違った見解に基き、物事を見、聞、言、行う者は、報われない
間違った教えに基き、理法を学、習、修、行う者は、報われない
只、無明と暗愚の中に生きて死するのみ
◆如来品正師 多々方路傍石 語録
空界の内に彼岸あり。彼岸に三界あり。光(天界)と迷い(迷界)と闇(地獄)である。天界に三十三天あり。迷界に九明王あり。地獄に鬼あり。神は精霊にして、仏は空界に座す。人は光・迷・闇から来たりて光・迷・闇の何れかへと帰ってゆく。
成道し大悟せし者のみが輪廻より解脱し空へと戻る。
◆如来品正師 多々方路傍石 語録
意識界(色界)を制御したるは道半ば為りて、禅定であろうと瞑想であろうと観照であろうとも、無意識界(無色界)の浄化なくば、潜在意識の真我の出現なく天界に通づる「梵我一如」へは至らん。これを釈尊は「瞑想による合一こそが最上である。」と仰せになられた。
◆如来品正師 多々方路傍石 語録
煩悩少なくして、霊魂は其の軽ろき故にて迷界・天界・仏界へと昇ってゆく。煩悩多くして霊魂は其の重み故にて修羅界・畜生界・餓鬼界・地獄へと沈んでゆく・・・釈尊の御言葉「明知は上昇する者の内で最上の者である。無明は下降する者の内では優れたものではある。」
◆如来品正師 多々方路傍石 語録
人がこの世に携えて来たものは「生命力と運」なのです。そして今がある事に、まず感謝すべきは「生命力の根源と運の根源」に対してなすべきなのです。そして家族・恩師・友人・環境・境遇・社会・人々と有りとあらゆるものへの感謝に満たされるなら、平安で幸せな人生を過ごせるでしょう
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
世の人は、喜捨の心を置去りに、慈悲だ慈悲だと言うけれど・・・・慈悲喜捨の心を「同情するなら金をくれ」としか受け止められない・・・・だから釈尊は世の多くの者は無明で暗愚だと仰るのです・・・・耶祖教でも仏教でも「天国の門は狭くそこに至る者は少なし」「成仏至難」と仰るのです。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
物事は心に基づき心を主とし心によって創りだされる・・・・・陽の波動を積み上げし者には、健康や財貨・運・縁・命などが付き従うが、陰の波動を積み上げし者には病や破財・不運・別離・寿命などが付き従う・・・・己が波動を知るには、神々の性質に共鳴するのか、悪魔の性質に共鳴するのかである。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
真なる仏典は奥深く、読み下すは容易なれど、読み通すは永きを費やし、実践するは生涯を要す感あり
◆如来品正師 多々方路傍石 語録
意識界(色界)を制御したるは道半ば為りて、禅定であろうと瞑想であろうと観照であろうとも、無意識界(無色界)の浄化なくば、潜在意識の真我の出現なく天界に通づる「梵我一如」へは至らん。これを釈尊は「瞑想による合一こそが最上である。」と仰せになられた。
◆如来品正師 多々方路傍石 語録
煩悩少なくして、霊魂は其の軽ろき故にて迷界・天界・仏界へと昇ってゆく。煩悩多くして霊魂は其の重み故にて修羅界・畜生界・餓鬼界・地獄へと沈んでゆく・・・釈尊の御言葉「明知は上昇する者の内で最上の者である。無明は下降する者の内では優れたものではある。」
◆如来品正師 多々方路傍石 語録
人がこの世に携えて来たものは「生命力と運」なのです。そして今がある事に、まず感謝すべきは「生命力の根源と運の根源」に対してなすべきなのです。そして家族・恩師・友人・環境・境遇・社会・人々と有りとあらゆるものへの感謝に満たされるなら、平安で幸せな人生を過ごせるでしょう
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
世の人は、喜捨の心を置去りに、慈悲だ慈悲だと言うけれど・・・・慈悲喜捨の心を「同情するなら金をくれ」としか受け止められない・・・・だから釈尊は世の多くの者は無明で暗愚だと仰るのです・・・・耶祖教でも仏教でも「天国の門は狭くそこに至る者は少なし」「成仏至難」と仰るのです。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
物事は心に基づき心を主とし心によって創りだされる・・・・・陽の波動を積み上げし者には、健康や財貨・運・縁・命などが付き従うが、陰の波動を積み上げし者には病や破財・不運・別離・寿命などが付き従う・・・・己が波動を知るには、神々の性質に共鳴するのか、悪魔の性質に共鳴するのかである。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
真なる仏典は奥深く、読み下すは容易なれど、読み通すは永きを費やし、実践するは生涯を要す感あり
◆如来品大師 多々方等正覚 語録
心の使い方次第で、健康も病も、運も財も、幸せも縁も、訪れたり去ったりしてるのです。自業自得と言いますが、正直に生きて、人に優しく生きて、精進努力して生きて、学び智慧を育んで生きて、恵まれない境遇など無いのです。
心の使い方次第で、健康も病も、運も財も、幸せも縁も、訪れたり去ったりしてるのです。自業自得と言いますが、正直に生きて、人に優しく生きて、精進努力して生きて、学び智慧を育んで生きて、恵まれない境遇など無いのです。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
懐疑から始まり疑を超え、苦悩を放れ安らぎ(ニルバーナ)を楽しみ、貪る執念を持たず、神仏と世間を声聞す
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
我、誓願せしは衆生とともに在りて修行を怠らず、功徳を積まんと望むものの、福田とならん。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
慈悲に勝る功徳なく、平安に勝る悦楽はなし。努力精進に勝る財はなく、離欲に勝る悟りなし。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
言葉や文字というものは曖昧なものであるという認識を忘れてはならない。例えば[愛]という言葉ひとつとっても愛欲・渇愛と慈愛とは全く別種な心なのです。
実践の伴わない戯れ言.能書き.美辞麗句.綺麗事.世迷言をプラパンチャという。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
想い定めし時より仏法は始まる。
死に直面した時になって、人は自分の生涯を振り返り後悔もするのです。しかし過ぎたるは及ばざるが如く、その時は既に手遅れでもあるのです。人は何時、自分というものを思い定め、生きるとは何ぞやと気付く事が肝要なのです。人から感謝される存在で有りたいですね。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
甘やかされた子供が、無慈悲な我侭者に育つように、甘やかされた教えに立つ仏教徒は、地獄の恐ろしさを知らぬ。仏になる至難を知らぬ。人には死が必ず訪れるように、この世にも死が必ず訪れる事を知らぬ。人は養生すれば長生き出来るが如く、この世も労われば永生きもするだろうのに・・・
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
世に大きな過ち有り。六道(地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界)と言われるが大別すると三界であり(天界・迷界・地獄界)の何れかに生命は戻るのである、此れは輪廻の輪に囚われる世界であり、天神さえも輪廻する。そして輪廻の輪に囚われない「仏界」があり其処に至る者は輪廻の流転から解かれ仏(ブッダ)として座す。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
人の心のその奥に、仏も住むが鬼も住む。仏は慈悲に出現し、鬼は貪欲に出現する。六根・六境の執着と誘惑を悪魔の罠と知れ、制御するは神仏にも勝ると知れ。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
利を追うも一つの道、理を追うも一つの道、どの道を行こうが福徳を生ずる行いに努め励め、此れ現世に利あり、来世に利ある 天地万象の理法である。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
真実と惑いし物とを織り交ぜて.共に在りて共に栄えん.これ仏道なり
真実と惑いしものとを織り交ぜて共存共栄.和するは尊き事なれば
安楽ばかりが道でなく 苦行ばかりが道でなし 自業自得というなれど 大悟を得るも 自業自得。
私が托鉢し辻立ちするに、施与を頂くのも人様から石を投げつけられないのも蹴られないのも釈迦尊の権威と仏教への理解と、歴史と文化の中に努め励んだ先達と他の僧侶達のお陰様。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
仏道修行で特に要求されるのが卓越した洞察力である。釈尊はその洞察力も並外れて居居たである。日本に於いても聖人の如く崇められる方々も優秀な頭脳と見識をお持ちになって居たのだろうが惜しむらくは真贋を見抜き通す洞察力と神通に欠けていたようで馬鳴教や竜樹教が大乗なる仏教であると誑かされた。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
想い定めし時より仏法は始まる。
死に直面した時になって、人は自分の生涯を振り返り後悔もするのです。しかし過ぎたるは及ばざるが如く、その時は既に手遅れでもあるのです。人は何時、自分というものを思い定め、生きるとは何ぞやと気付く事が肝要なのです。人から感謝される存在で有りたいですね。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
甘やかされた子供が、無慈悲な我侭者に育つように、甘やかされた教えに立つ仏教徒は、地獄の恐ろしさを知らぬ。仏になる至難を知らぬ。人には死が必ず訪れるように、この世にも死が必ず訪れる事を知らぬ。人は養生すれば長生き出来るが如く、この世も労われば永生きもするだろうのに・・・
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
世に大きな過ち有り。六道(地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界)と言われるが大別すると三界であり(天界・迷界・地獄界)の何れかに生命は戻るのである、此れは輪廻の輪に囚われる世界であり、天神さえも輪廻する。そして輪廻の輪に囚われない「仏界」があり其処に至る者は輪廻の流転から解かれ仏(ブッダ)として座す。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
人の心のその奥に、仏も住むが鬼も住む。仏は慈悲に出現し、鬼は貪欲に出現する。六根・六境の執着と誘惑を悪魔の罠と知れ、制御するは神仏にも勝ると知れ。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
利を追うも一つの道、理を追うも一つの道、どの道を行こうが福徳を生ずる行いに努め励め、此れ現世に利あり、来世に利ある 天地万象の理法である。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
真実と惑いし物とを織り交ぜて.共に在りて共に栄えん.これ仏道なり
真実と惑いしものとを織り交ぜて共存共栄.和するは尊き事なれば
安楽ばかりが道でなく 苦行ばかりが道でなし 自業自得というなれど 大悟を得るも 自業自得。
私が托鉢し辻立ちするに、施与を頂くのも人様から石を投げつけられないのも蹴られないのも釈迦尊の権威と仏教への理解と、歴史と文化の中に努め励んだ先達と他の僧侶達のお陰様。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
仏道修行で特に要求されるのが卓越した洞察力である。釈尊はその洞察力も並外れて居居たである。日本に於いても聖人の如く崇められる方々も優秀な頭脳と見識をお持ちになって居たのだろうが惜しむらくは真贋を見抜き通す洞察力と神通に欠けていたようで馬鳴教や竜樹教が大乗なる仏教であると誑かされた。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
自称他称を問わず、自分は成功者だと思う者達の、その努力・精進・智慧・時勢等に依り功成るは祝着なり、しかしその所以は天と世間様のお陰なるを忘れ感謝と慈悲とを怠り高慢にして謙譲在らざれば今生には大禍に見舞われ、来世は辛苦の境遇が待つ。名も財も名誉も地位も所詮は諸行無常なものである。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
積善の者は報われ、積不善の者は苦境へと至る・・・水が一滴ずつ滴り落ちるならば水瓶でも満たされるが如し。
水を少しずつでも集めるように善を積むならば、やがて福楽に満たされる。これ天地万象の理なり。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
何かに捉われ拘り貪っていては、幸せになんか成れやしない。お空から金銀財宝が雨降る如く落ちてきても満足なんか得れやしない。貪欲が深まり悩みの種が増すばかり、己の心を調える事すら難儀な身の上に訪れる幸せなんて幻想に似て儚く朽ちて苦を生じさせる本性を携えて来るものかな
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
積善の者は報われ、積不善の者は苦境へと至る・・・水が一滴ずつ滴り落ちるならば水瓶でも満たされるが如し。
水を少しずつでも集めるように善を積むならば、やがて福楽に満たされる。これ天地万象の理なり。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
何かに捉われ拘り貪っていては、幸せになんか成れやしない。お空から金銀財宝が雨降る如く落ちてきても満足なんか得れやしない。貪欲が深まり悩みの種が増すばかり、己の心を調える事すら難儀な身の上に訪れる幸せなんて幻想に似て儚く朽ちて苦を生じさせる本性を携えて来るものかな
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
万物に感謝せずには居られない。立てるに感謝、座れるに感謝、食べれるに感謝、歩けるに感謝、寝れるに感謝、生きてるに感謝、世間様に感謝、感謝、これ幸せと満足の法則なり。故に、感謝のない者の人生に大楽なく、愚痴と不満ばかりの中高年とも成りたる所以か。今の世は歳の功より亀の甲であるか・
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
「業」というものを、前世の行いによる現世での果報だとか人の意による行為であるとか言われるが、前世の行為、即ち業なのではなく、因縁というが如く因と縁とに依り形成されたものであり、人の意による行為というよりは善行悪行、慈悲無慈悲・宿業の影響を受けつつ積み重ね形成される因縁なのである。 善行とは想いに始まる行いである。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
人が苦を生み出すのは、幻想と現実の狭間において成される。理想を高くなどと言われたものだが、凡そ高すぎる理想は夢想とも妄想(申そう)。理想が朽ちて幻想となり苦想(クソー!)となる。足元を見つめ(立場・環境・状況・時勢)一歩一歩と努力と精進を重ねる者を神仏も助ける。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
子供の元気に勝る 生命力はなし
世界に 幸せは満ちているのに、欲呆けしたる者達は、気付く事なく味わう事なく 齷齪 不幸を拾ってる。
一息の内に、すべてあり
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
心身は一体ならずして.身体には身体の養生あり.心には心の養生あり
心身は一体ならずして.身体には身体の浄化あり.心には心の浄化あり
感謝するその第一は仏尊なれど 天地草木 吾に恩恵を齎す
万物に感謝せずには居られない
故に 感謝ない者の人生に大楽はなし
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
心の中を覗いてごらん。慈しみ(仏心)も居れば非情(鬼心)も居るし、欲求(悪魔)の誘惑もあれば自我(煩悩)もイッパイ、制御されない心の中は色んな餓鬼が走り回り色んな神が出入りする。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
うたかたの夢幻の如き今生に、理想に拘る者 苦想(クソー!)へと至る
人生は 幻を追うが如し 空に覚りて寂静に生きる
今の世は 頭で解る者多かれど 心で解る者は少なし
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
大乗の文化と歴史は讃えども 仏法の教えの何と空なり
仏教の真理を欠きたり 法の華 世迷いし在家の新興末法・・・
仏道を 飯の種とぞ暮らしたる 寺の坊主の 葬祭や如何・・・
高野の聖を禁じたる徳川の世は今は昔
高野の聖も 今は昔か・・・。
実践するでなく検証したるでない説法講釈は垂れず寡黙であれ。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
如是我聞「木や土を捏ねて造った偶像など拝むな。星や太陽に願いを託しても何も願いなど叶えてはくれない。暦や占いにはまり込むな。幸運を与えてくれるのは唯、努力と精進と善行である。善の瓶が満ち、努力と精進が熟すとき、本当の福楽を得るのである。」
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
最近、またオーラだとか波動だとかチャクラ・クンダリ二ーだとか覚醒だとかをカルト集団が頻りに喧伝に使い、善良で無明な若者を騙しているようだが此等は一種の観念的なものであって別に神通を覚醒するものではなく集中を促す術なのである。若者は兎角神秘的なものに憧れ、偽善なるものに取り込まれ人生を台無しにする。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
人だ。人だというなかれ。人の道にも十二界あり。畜生界の近くより、破壊欲界・阿修羅界・瞋恚界・罰当界・恩不知界・世迷痴愚界・独善界・貪欲界・日和見界・精進界・慈悲界・菩薩界
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
この世をば.修行の場とぞ.心得るて.功徳を積みて.生きるが仏道
この世をば修行の場なりと定むれば、煩悩携え生まれしを合点
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
間違った見解に基き、物事を見、聞、言、行う者は、報われない。
間違った教えに基き、理法を学、習、修、行う者は、報われない。
只、無明と暗愚の中に生きて死するのみ。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
空界の内に彼岸あり。彼岸に三界あり。光(天界)と迷い(迷界)と闇(地獄)である。天界に三十三天あり。迷界に九明王あり。地獄に鬼あり。神は精霊にして、仏は空界に座す。人は光・迷・闇から来たりて光・迷・闇の何れかへと帰ってゆく。成道し大悟したる者は、輪廻より解脱し空へと戻る。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
意識界(色界)を制御したるは道半ば為りて、禅定であろうと瞑想であろうと観照であろうとも、無意識界(無色界)の浄化なくば、潜在意識の真我の出現なく天界に通づる「梵我一如」へは至らん。これを釈尊は「瞑想による合一こそが最上である。」と仰せになられた。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
煩悩少なくして、霊魂は其の軽ろき故にて迷界・天界・仏界へと昇ってゆく。煩悩多くして霊魂は其の重み故にて修羅界・畜生界・餓鬼界・地獄へと沈んでゆくーby如来梵・・・釈尊の御言葉「明知は上昇する者の内で最上の者である。無明は下降する者の内では優れたものではある。」
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
人がこの世に携えて来たものは「生命力と運」なのです。そして今がある事に、まず感謝すべきは「生命力の根源と運の根源」に対してなすべきなのです。そして家族・恩師・友人・環境・境遇・社会・人々と有りとあらゆるものへの感謝に満たされるなら、平安で幸せな人生を過ごせるでしょう
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
世の人は、喜捨の心を置去りに、慈悲だ慈悲だと言うけれど・・・・慈悲喜捨の心を「同情するなら金をくれ」としか受け止められない・・・・だから釈尊は世の多くの者は無明で暗愚だと仰るのです・・・・耶祖教が「天国の門は狭い」と言い、釈尊は「涅槃(天界)に至る者は少なし」と仰るのです。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
物事は心に基づき心を主とし心によって創りだされる・・・・・陽の波動を積み上げし者には、健康や財貨・運・縁・命などが付き従うが、陰の波動を積み上げし者には病や破財・不運・別離・寿命などが付き従う・・・・己が波動を知るには、神々の性質に共鳴するのか、悪魔の性質に共鳴するのかである。
万物に感謝せずには居られない。立てるに感謝、座れるに感謝、食べれるに感謝、歩けるに感謝、寝れるに感謝、生きてるに感謝、世間様に感謝、感謝、これ幸せと満足の法則なり。故に、感謝のない者の人生に大楽なく、愚痴と不満ばかりの中高年とも成りたる所以か。今の世は歳の功より亀の甲であるか・
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
「業」というものを、前世の行いによる現世での果報だとか人の意による行為であるとか言われるが、前世の行為、即ち業なのではなく、因縁というが如く因と縁とに依り形成されたものであり、人の意による行為というよりは善行悪行、慈悲無慈悲・宿業の影響を受けつつ積み重ね形成される因縁なのである。 善行とは想いに始まる行いである。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
人が苦を生み出すのは、幻想と現実の狭間において成される。理想を高くなどと言われたものだが、凡そ高すぎる理想は夢想とも妄想(申そう)。理想が朽ちて幻想となり苦想(クソー!)となる。足元を見つめ(立場・環境・状況・時勢)一歩一歩と努力と精進を重ねる者を神仏も助ける。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
子供の元気に勝る 生命力はなし
世界に 幸せは満ちているのに、欲呆けしたる者達は、気付く事なく味わう事なく 齷齪 不幸を拾ってる。
一息の内に、すべてあり
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
心身は一体ならずして.身体には身体の養生あり.心には心の養生あり
心身は一体ならずして.身体には身体の浄化あり.心には心の浄化あり
感謝するその第一は仏尊なれど 天地草木 吾に恩恵を齎す
万物に感謝せずには居られない
故に 感謝ない者の人生に大楽はなし
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
心の中を覗いてごらん。慈しみ(仏心)も居れば非情(鬼心)も居るし、欲求(悪魔)の誘惑もあれば自我(煩悩)もイッパイ、制御されない心の中は色んな餓鬼が走り回り色んな神が出入りする。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
うたかたの夢幻の如き今生に、理想に拘る者 苦想(クソー!)へと至る
人生は 幻を追うが如し 空に覚りて寂静に生きる
今の世は 頭で解る者多かれど 心で解る者は少なし
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
大乗の文化と歴史は讃えども 仏法の教えの何と空なり
仏教の真理を欠きたり 法の華 世迷いし在家の新興末法・・・
仏道を 飯の種とぞ暮らしたる 寺の坊主の 葬祭や如何・・・
高野の聖を禁じたる徳川の世は今は昔
高野の聖も 今は昔か・・・。
実践するでなく検証したるでない説法講釈は垂れず寡黙であれ。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
如是我聞「木や土を捏ねて造った偶像など拝むな。星や太陽に願いを託しても何も願いなど叶えてはくれない。暦や占いにはまり込むな。幸運を与えてくれるのは唯、努力と精進と善行である。善の瓶が満ち、努力と精進が熟すとき、本当の福楽を得るのである。」
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
最近、またオーラだとか波動だとかチャクラ・クンダリ二ーだとか覚醒だとかをカルト集団が頻りに喧伝に使い、善良で無明な若者を騙しているようだが此等は一種の観念的なものであって別に神通を覚醒するものではなく集中を促す術なのである。若者は兎角神秘的なものに憧れ、偽善なるものに取り込まれ人生を台無しにする。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
人だ。人だというなかれ。人の道にも十二界あり。畜生界の近くより、破壊欲界・阿修羅界・瞋恚界・罰当界・恩不知界・世迷痴愚界・独善界・貪欲界・日和見界・精進界・慈悲界・菩薩界
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
この世をば.修行の場とぞ.心得るて.功徳を積みて.生きるが仏道
この世をば修行の場なりと定むれば、煩悩携え生まれしを合点
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
間違った見解に基き、物事を見、聞、言、行う者は、報われない。
間違った教えに基き、理法を学、習、修、行う者は、報われない。
只、無明と暗愚の中に生きて死するのみ。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
空界の内に彼岸あり。彼岸に三界あり。光(天界)と迷い(迷界)と闇(地獄)である。天界に三十三天あり。迷界に九明王あり。地獄に鬼あり。神は精霊にして、仏は空界に座す。人は光・迷・闇から来たりて光・迷・闇の何れかへと帰ってゆく。成道し大悟したる者は、輪廻より解脱し空へと戻る。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
意識界(色界)を制御したるは道半ば為りて、禅定であろうと瞑想であろうと観照であろうとも、無意識界(無色界)の浄化なくば、潜在意識の真我の出現なく天界に通づる「梵我一如」へは至らん。これを釈尊は「瞑想による合一こそが最上である。」と仰せになられた。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
煩悩少なくして、霊魂は其の軽ろき故にて迷界・天界・仏界へと昇ってゆく。煩悩多くして霊魂は其の重み故にて修羅界・畜生界・餓鬼界・地獄へと沈んでゆくーby如来梵・・・釈尊の御言葉「明知は上昇する者の内で最上の者である。無明は下降する者の内では優れたものではある。」
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
人がこの世に携えて来たものは「生命力と運」なのです。そして今がある事に、まず感謝すべきは「生命力の根源と運の根源」に対してなすべきなのです。そして家族・恩師・友人・環境・境遇・社会・人々と有りとあらゆるものへの感謝に満たされるなら、平安で幸せな人生を過ごせるでしょう
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
世の人は、喜捨の心を置去りに、慈悲だ慈悲だと言うけれど・・・・慈悲喜捨の心を「同情するなら金をくれ」としか受け止められない・・・・だから釈尊は世の多くの者は無明で暗愚だと仰るのです・・・・耶祖教が「天国の門は狭い」と言い、釈尊は「涅槃(天界)に至る者は少なし」と仰るのです。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
物事は心に基づき心を主とし心によって創りだされる・・・・・陽の波動を積み上げし者には、健康や財貨・運・縁・命などが付き従うが、陰の波動を積み上げし者には病や破財・不運・別離・寿命などが付き従う・・・・己が波動を知るには、神々の性質に共鳴するのか、悪魔の性質に共鳴するのかである。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
心の使い方次第で、健康も病も、運も財も、幸せも縁も、訪れたり去ったりしてるのです。自業自得と言いますが、正直に生きて、人に優しく生きて、精進努力して生きて、学び智慧を育んで生きて、恵まれない境遇など無いのです。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
懐疑から始まり疑を超え、苦悩を放れ安らぎ(ニルバーナ)を楽しみ、貪る執念を持たず、神仏と世間を声聞す
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
我、誓願せしは衆生とともに在りて修行を怠らず、功徳を積まんと望むものの、福田とならん。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
慈悲に勝る功徳なく、平安に勝る悦楽はなし。努力精進に勝る財はなく、離欲に勝る悟りなし。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
言葉や文字というものは曖昧なものであるという認識を忘れてはならない。例えば「愛」という言葉ひとつとっても愛欲・渇愛と慈愛とは全く別種な心なのです。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
気付きが、魔を忌避し消滅させる道なり。魔とは間に通じ、心の隙間に忍び込むものです。注意と努力精進と智慧こそが魔を遠避けて福を呼び込む道なのである。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
懐疑から始まり疑を超え、苦悩を放れ安らぎ(ニルバーナ)を楽しみ、貪る執念を持たず、神仏と世間を声聞す
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
我、誓願せしは衆生とともに在りて修行を怠らず、功徳を積まんと望むものの、福田とならん。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
慈悲に勝る功徳なく、平安に勝る悦楽はなし。努力精進に勝る財はなく、離欲に勝る悟りなし。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
言葉や文字というものは曖昧なものであるという認識を忘れてはならない。例えば「愛」という言葉ひとつとっても愛欲・渇愛と慈愛とは全く別種な心なのです。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
気付きが、魔を忌避し消滅させる道なり。魔とは間に通じ、心の隙間に忍び込むものです。注意と努力精進と智慧こそが魔を遠避けて福を呼び込む道なのである。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
自我(エゴ)とは、本能に宿る煩悩(存在欲)の化身なのであり、自我は所有の次元に魅入られ易く、感情(貪瞋痴)の判断に従う。一方、真我とは本能に宿る理性(客観的な理解能力・認識能力)の化身であり、真我は存在の次元に気付き智慧を顕現させ真理を発見する。
自我による自己中心的で自分勝手(エゴ)な観念を乗り越え、無私なる観念を獲得し、自我による物事(現象)に対する認識を乗り越え、無我なる認識を獲得するならば、存在欲から生ずる生死の軛を乗り越え解脱する。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
現象として存在する人間にとって、神仏は内在的存在であり、然も超越的存在でも実在的存在でもないのです。世界の実相を説き、精神世界を説き、心について説く仏法は、神仏は説かないのです。唯、あらゆる物事の象徴・具象としてご登場頂いているだけです。釈尊が説かれた事は、よく自分という存在を考えなさい。でも幾ら探しても本当の自分という実体は居ないのです。では今まで自分だと誤解していた自分を全部捨てちゃいなさい。そうすれば本当の自分という存在が何なのか見えて来ますよ。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
釈尊在世中に於いても神仏や精霊などを崇拝する宗教が沢山あったのです。そんな神仏や精霊などに縋り願い拝む宗教というものに依存して努力を怠る者を戒める為に、「宗教を捨てよ」と仰いました。短い大切な人生をそんな物事に浪費し、困難から逃避し自分を欺く安心は一時しのぎにしか過ぎないのです。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
欲得に暮らす者は、何を得ようが何になろうが、やがては必ず慙愧し無常なる短い人生を知るだろう。最後の時に振り返り後悔し残念するだろう。裸で生まれ何も持ってゆけない彼の世に、唯、携えてゆくものが、功徳なのである。しかし其処に欲が詰まった者は、彼岸に至れず、彼岸の淵を彷徨っている。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
十の瞑想①徹底思惟の瞑想(禅)ジャーナ禅那禅⇒②集中の瞑想(定)サマディ⇒③気付きの瞑想ヴィッパサナー⇒④平安の瞑想⇒⑤開放の瞑想⇒⑥歓喜の瞑想⑦感謝の瞑想⇒⑧慈悲の瞑想⇒⑨無所有の瞑想⇒⑩明知の瞑想⇒無識の瞑想⇒内内観(ブラフマ瞑想)⇒梵我一如
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
「説」や「論」とは、単なる見解であり其の十中八九は過った見解であったり愚かな見解であったりするものである。単なる見解は幻想にも似て、何ら実証され得ずして真理の如く振る舞い、世に論争の種を造ってゆくだけの、不善なる所業でもある。世の何処に真理が説かれて居よう。唯、如来は道を示すだけ。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
世の中には「説」と証する様々な見解が在り真理とは言い難い代物が「我が説は真理であり、他の説は虚妄である。」と此の二つの事を説いている。人は見解により争い見解により汚れるのである。幻想と固執と偏見に支配され、その過った妄見を以って驕慢によって狂い己を完全なる者で神だ仏だと宣い、流転する生存の域を遁れられず地獄へと趣くだろう。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
瞑想は「心の浄化」と「心の平安」「心の安定」「心の健康」をもたらし、「身の浄化」と「身の平安」「身の安定」「身の健康」をもたらす。形に捉われ過ぎてはいけない。しかし姿勢を正した「自然体」で、呼吸を整え、立っているとき座っているとき横臥しているとき歩いているとき、雑念に奔らないよう集中して気をつけて、心に歓びを発生させるよう瞑想しよう。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
葬儀や読経によっては、何ら死者への救いは得られない。葬儀や読経により成仏するわけではなく、その人の行い(業)と心の徳性により、彼岸に趣くのである。葬儀とは世俗的な儀式なのであり、真摯な仏道を歩む僧は唯、死者をそれぞれの処へ送るのみであり安易な成仏を説く事はしない。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
世の本質は厭世的なものであり、無常なものである。それを直視せずに幸福を追求し永遠に続くものであるかのように錯覚してしまうから、必ず苦に行き当たるのである。この世は厭世的で無常な本質であるという真実を見極めた上で積極的に、生命を大切に、前向きに、誠実、自制、忍耐、施与を忘れず生きよ
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
似非なる新興宗教に取り込まれる者には幾つかの共通点が見出せる
☆神秘的なものへの憧憬が強い者。
☆我欲の深い者。 ☆頑迷不霊な者。
☆悩み苦しむ時、何かに縋ろうする者
☆寂しさ孤独を癒そうと嵌る者。
☆思考力と洞察力に劣り、安易に信じる者。
現象として存在する人間にとって、神仏は内在的存在であり、然も超越的存在でも実在的存在でもないのです。世界の実相を説き、精神世界を説き、心について説く仏法は、神仏は説かないのです。唯、あらゆる物事の象徴・具象としてご登場頂いているだけです。釈尊が説かれた事は、よく自分という存在を考えなさい。でも幾ら探しても本当の自分という実体は居ないのです。では今まで自分だと誤解していた自分を全部捨てちゃいなさい。そうすれば本当の自分という存在が何なのか見えて来ますよ。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
釈尊在世中に於いても神仏や精霊などを崇拝する宗教が沢山あったのです。そんな神仏や精霊などに縋り願い拝む宗教というものに依存して努力を怠る者を戒める為に、「宗教を捨てよ」と仰いました。短い大切な人生をそんな物事に浪費し、困難から逃避し自分を欺く安心は一時しのぎにしか過ぎないのです。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
欲得に暮らす者は、何を得ようが何になろうが、やがては必ず慙愧し無常なる短い人生を知るだろう。最後の時に振り返り後悔し残念するだろう。裸で生まれ何も持ってゆけない彼の世に、唯、携えてゆくものが、功徳なのである。しかし其処に欲が詰まった者は、彼岸に至れず、彼岸の淵を彷徨っている。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
十の瞑想①徹底思惟の瞑想(禅)ジャーナ禅那禅⇒②集中の瞑想(定)サマディ⇒③気付きの瞑想ヴィッパサナー⇒④平安の瞑想⇒⑤開放の瞑想⇒⑥歓喜の瞑想⑦感謝の瞑想⇒⑧慈悲の瞑想⇒⑨無所有の瞑想⇒⑩明知の瞑想⇒無識の瞑想⇒内内観(ブラフマ瞑想)⇒梵我一如
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
「説」や「論」とは、単なる見解であり其の十中八九は過った見解であったり愚かな見解であったりするものである。単なる見解は幻想にも似て、何ら実証され得ずして真理の如く振る舞い、世に論争の種を造ってゆくだけの、不善なる所業でもある。世の何処に真理が説かれて居よう。唯、如来は道を示すだけ。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
世の中には「説」と証する様々な見解が在り真理とは言い難い代物が「我が説は真理であり、他の説は虚妄である。」と此の二つの事を説いている。人は見解により争い見解により汚れるのである。幻想と固執と偏見に支配され、その過った妄見を以って驕慢によって狂い己を完全なる者で神だ仏だと宣い、流転する生存の域を遁れられず地獄へと趣くだろう。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
瞑想は「心の浄化」と「心の平安」「心の安定」「心の健康」をもたらし、「身の浄化」と「身の平安」「身の安定」「身の健康」をもたらす。形に捉われ過ぎてはいけない。しかし姿勢を正した「自然体」で、呼吸を整え、立っているとき座っているとき横臥しているとき歩いているとき、雑念に奔らないよう集中して気をつけて、心に歓びを発生させるよう瞑想しよう。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
葬儀や読経によっては、何ら死者への救いは得られない。葬儀や読経により成仏するわけではなく、その人の行い(業)と心の徳性により、彼岸に趣くのである。葬儀とは世俗的な儀式なのであり、真摯な仏道を歩む僧は唯、死者をそれぞれの処へ送るのみであり安易な成仏を説く事はしない。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
世の本質は厭世的なものであり、無常なものである。それを直視せずに幸福を追求し永遠に続くものであるかのように錯覚してしまうから、必ず苦に行き当たるのである。この世は厭世的で無常な本質であるという真実を見極めた上で積極的に、生命を大切に、前向きに、誠実、自制、忍耐、施与を忘れず生きよ
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
似非なる新興宗教に取り込まれる者には幾つかの共通点が見出せる
☆神秘的なものへの憧憬が強い者。
☆我欲の深い者。 ☆頑迷不霊な者。
☆悩み苦しむ時、何かに縋ろうする者
☆寂しさ孤独を癒そうと嵌る者。
☆思考力と洞察力に劣り、安易に信じる者。
☆自身への自制を軽んじる者。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
己の見解に執着すれば、論争を引き起こすものである。常に気を付けて、自我に固執する見解を打ち破って、世界を空なりと感ずるが仏道、しかし慈悲の心忘れず、似非なる者達から善良なる衆生を救い導くのも仏道なりて、論争を避け難し時是れあり。世の中には「何ともしようのない者」が勢力を張る。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
痴(不満)だらけの浮世の中で、痴(不満)を持たず。瞋(病んだ)社会の中で、瞋(病む)ことなく、貪(貪欲)な世の中で、無欲恬淡に、楽しく(大楽)生きて行こう。 物に心を奪われず(欲界)、精神の悦楽を活力にして(色界)、光音天の神々のように、法喜食を食む者となろう(無色界)。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
六道の輪廻と転生を、教えもない語りもしない僧侶でさえも否定する始末、今の僧業者と教育と両親とが、わが国の至宝を劣化させ、品性と謙譲と美徳のない子供達を造ってゆく。果たしてこの国は大丈夫なのだろうか?とさえ思う時がある。別に神や仏を信じる必要などないが、道徳もなく宗教観さえ持たない者達の国は、滅びるのである。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
人は、勢力あるを尊び、真実を追おうとはせじ。世の中にはその名、その地位に値しない者が、勢力を得て蔓延る事、多々なり。其処に在りしは権謀術策と欺瞞なのであるが、真実を正観する能力に乏しい者達は、その美辞麗句に惑わされ騙され利用されるが世の常なりしか。憐れでもあり。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
人は千差万別なれど程度の差こそあれ大別すると三種類在り。「光輝く者」と「迷い惑う者」と「闇に覆われる者」であり、前世の因縁がその根源である。「光輝く者」も煩悩に輝きを失い「迷い惑う者」となるは易し、「光輝く者」が誠実・自制・忍耐・施与を怠りて「闇に覆われる者」となるは容易也。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
仏教は屁理屈と御託や能書きの塊と思われているようである。しかし、釈尊が真に説いた教えは実に明快で実践的で有意義な教えでなのである。簡単に言えば①誠実な心(八正道)②自制の心(気付き)③忍耐の心(利他向)④施与の心(四無量心)4つの心を努め励み育てる者は幸せと平安と果報を得るのです。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
宗教団体と宗教とは別種な物であり宗教団体に加入してないから無宗教とは言えない。宗教団体とは商売であり集客と収益が優先されご利益とご加護を根拠なく説いている。皆、既に拝金教であったり強欲教であったり無気力教や吝嗇教やカルト教徒であったり、我儘教や勝手教や困った時だけ神頼教だったり。私は仏道者であり宗教嫌いでカルト否定派である。
如来品正師 多々方等正覚 語録
この世の森羅万象に宿り、あらゆる現象でもある精霊と諸神、娑婆世界の創造神である神聖にして清浄なる善である大梵天に感謝の心を忘れねば、助けを求める人々を救うであろう。この大宇宙は無を非物質なる空が覆い尽くす世界であり無色界の王、梵釈天にも感謝の心を忘れねば来世は良い処に生まれる。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
☆言葉で善をなし.心で善をなし.身で善をなし良き処へと至る者
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
己の見解に執着すれば、論争を引き起こすものである。常に気を付けて、自我に固執する見解を打ち破って、世界を空なりと感ずるが仏道、しかし慈悲の心忘れず、似非なる者達から善良なる衆生を救い導くのも仏道なりて、論争を避け難し時是れあり。世の中には「何ともしようのない者」が勢力を張る。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
痴(不満)だらけの浮世の中で、痴(不満)を持たず。瞋(病んだ)社会の中で、瞋(病む)ことなく、貪(貪欲)な世の中で、無欲恬淡に、楽しく(大楽)生きて行こう。 物に心を奪われず(欲界)、精神の悦楽を活力にして(色界)、光音天の神々のように、法喜食を食む者となろう(無色界)。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
六道の輪廻と転生を、教えもない語りもしない僧侶でさえも否定する始末、今の僧業者と教育と両親とが、わが国の至宝を劣化させ、品性と謙譲と美徳のない子供達を造ってゆく。果たしてこの国は大丈夫なのだろうか?とさえ思う時がある。別に神や仏を信じる必要などないが、道徳もなく宗教観さえ持たない者達の国は、滅びるのである。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
人は、勢力あるを尊び、真実を追おうとはせじ。世の中にはその名、その地位に値しない者が、勢力を得て蔓延る事、多々なり。其処に在りしは権謀術策と欺瞞なのであるが、真実を正観する能力に乏しい者達は、その美辞麗句に惑わされ騙され利用されるが世の常なりしか。憐れでもあり。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
人は千差万別なれど程度の差こそあれ大別すると三種類在り。「光輝く者」と「迷い惑う者」と「闇に覆われる者」であり、前世の因縁がその根源である。「光輝く者」も煩悩に輝きを失い「迷い惑う者」となるは易し、「光輝く者」が誠実・自制・忍耐・施与を怠りて「闇に覆われる者」となるは容易也。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
仏教は屁理屈と御託や能書きの塊と思われているようである。しかし、釈尊が真に説いた教えは実に明快で実践的で有意義な教えでなのである。簡単に言えば①誠実な心(八正道)②自制の心(気付き)③忍耐の心(利他向)④施与の心(四無量心)4つの心を努め励み育てる者は幸せと平安と果報を得るのです。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
宗教団体と宗教とは別種な物であり宗教団体に加入してないから無宗教とは言えない。宗教団体とは商売であり集客と収益が優先されご利益とご加護を根拠なく説いている。皆、既に拝金教であったり強欲教であったり無気力教や吝嗇教やカルト教徒であったり、我儘教や勝手教や困った時だけ神頼教だったり。私は仏道者であり宗教嫌いでカルト否定派である。
如来品正師 多々方等正覚 語録
この世の森羅万象に宿り、あらゆる現象でもある精霊と諸神、娑婆世界の創造神である神聖にして清浄なる善である大梵天に感謝の心を忘れねば、助けを求める人々を救うであろう。この大宇宙は無を非物質なる空が覆い尽くす世界であり無色界の王、梵釈天にも感謝の心を忘れねば来世は良い処に生まれる。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
☆言葉で善をなし.心で善をなし.身で善をなし良き処へと至る者
☆言葉で悪をなし.心で悪をなし.身で悪をなし悪しき処へと堕ちる者
☆彼の世の内に現世あり
☆彼の世の内に天地あり
☆彼の世をば誰も知らぬと言いたるが数多の聖者在りたると言う
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
世の人間に十種あり「光より来たりて、光へと帰る者・迷界へと帰る者・闇へと帰る者」「迷界より来たりて、光へと帰る者・迷界へと帰る者・闇へと帰る者」「闇より来たりて、光へと帰る者・迷界へと帰る者・闇へと帰る者」、 そして輪廻の流転から解脱して仏界に座して、この世に再び戻らない者
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
善を説く教え、正しい見解へ導く教え、人の浄化を説く教え、誠実と自制と忍耐と施与を説く教えは聖者の教えである。神や仏を持ち出して愛や慈悲を説くのは邪道であり、霊言や神託を説くのは如何様であり、妄信を強い、他教を誹謗する事を説き天罰と人を脅し自らを高めんとするものはカルトの類である。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
あの世とは有るかもしれないし、無いかもしれない代物である。喩えて言えば運転するドライバーが将来、事故を起こすかもしれないし起こさないかもしれない断定出来ない事柄である。無いに賭けて運転するような者は往々にして事故を起こすのである。万一に備え功徳の保険を積むが如く生きるは平安である。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
もし絶対神が御座すとしたら、我々、人間などは絶対神の体内の細胞の一つでしかない大宇宙の中の小さな惑星の上に蠢く微生物なのであり、人類など顧みることはなく唯、有難いのである。そしてこの世界を司っているものは理法そのものであり、諸行無常も然り、諸法非我も然り、自業自得も然り、縁起然り。
あえて言うならば絶対神とは、大宇宙の意思と理法そのものなのではなかろうか。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
世の人間に十種あり「光より来たりて、光へと帰る者・迷界へと帰る者・闇へと帰る者」「迷界より来たりて、光へと帰る者・迷界へと帰る者・闇へと帰る者」「闇より来たりて、光へと帰る者・迷界へと帰る者・闇へと帰る者」、 そして輪廻の流転から解脱して仏界に座して、この世に再び戻らない者
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
善を説く教え、正しい見解へ導く教え、人の浄化を説く教え、誠実と自制と忍耐と施与を説く教えは聖者の教えである。神や仏を持ち出して愛や慈悲を説くのは邪道であり、霊言や神託を説くのは如何様であり、妄信を強い、他教を誹謗する事を説き天罰と人を脅し自らを高めんとするものはカルトの類である。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
あの世とは有るかもしれないし、無いかもしれない代物である。喩えて言えば運転するドライバーが将来、事故を起こすかもしれないし起こさないかもしれない断定出来ない事柄である。無いに賭けて運転するような者は往々にして事故を起こすのである。万一に備え功徳の保険を積むが如く生きるは平安である。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
もし絶対神が御座すとしたら、我々、人間などは絶対神の体内の細胞の一つでしかない大宇宙の中の小さな惑星の上に蠢く微生物なのであり、人類など顧みることはなく唯、有難いのである。そしてこの世界を司っているものは理法そのものであり、諸行無常も然り、諸法非我も然り、自業自得も然り、縁起然り。
あえて言うならば絶対神とは、大宇宙の意思と理法そのものなのではなかろうか。
「人が微生物に心を砕くことなし、しかも微生物を含め全ての関係性の中に生かされていることを識らず、思い遣ること事もなし。」
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
神の愛だとか仏の慈悲だとかう連中に愛も慈悲もありはしない、偽善者か阿呆か詐欺師に他ならないのである。釈尊は、己を助くるものは己の努力だけである。と仰っている、当てに出来ない運だとか神頼みなどに現をぬかす暇があったら努力すべきであり、誠実・自制・忍耐・施与により果報を得るのです。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
「あの世は本当にあるのでしょうか?」とよく尋ねられるが、「在りますよ。」とお答えしている。そして何処にあり何処にゆくかは再三の説明の如くであり、自らの業に苦しむ者は自業苦(地獄)へゆき、業に苦しみ落ちる先は業苦落(極楽)である。自らを制し善行に励み功徳を積みし者のみが天界へとゆく。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
「神や仏は本当に居るのでしょうか?」とよく尋ねられるが、「絶対神も仏像のような仏も居ない。」とお答えしている。もし仮に在らせられたとしても我々人間の事など気にも掛けないだろう。我々が微生物など気にも掛けない如く。しかし確かな事は心の中には、神も仏も、悪魔も鬼さえもいらっしゃる。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
汝の隣あう者は、敵でもライバルでも無かろう。既に何処かでお世話になっている方かも知れず、又、これから先にお世話になる方かもしれない。一つの携帯電話でさえも、汝の手元に至る迄に何十万人のご苦労様のお陰なのである。世の中、人様のお陰様の上に成り立っている事に感謝せずにはいられない。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
知識と常識に頼りすぎる者は智慧と閃きを失う。妙案とは非常識と閃きにより生起するものなり。
感情に主導されるものは主観的なる自我に拘る、理性によりて客観的に自我を制御するものは果報をうける。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
誠実であれ。自制せよ。耐え忍べ。施し与えよ。努め励め。これこそが幸せへ至る道なり。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
仏法とは、最低・最悪・最下層に身を置き、勤め励み、最高・最良・最上の人格を得る道である。金襴の袈裟に身を包み、踏ん反り返って、実践のない説法を説き、徳も積まずに読誦と経文とで彼岸に至りて仏となると説き、布施と称する報酬次第で階位が上がるなど仏陀の御教えに反する破僧伽な代物である。
釈迦尊の権威と名声に与りながら、釈迦尊の御教えを毀損する者達が栄え勢力を増すは愚かなり。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
中道とは、調和なりて、利他行と利自行の調和ある処が、最良なり。苦行と菩薩行の調和したる処に、安楽あり。忍辱は最大の苦行にして、涅槃は最上の安楽なり。瞑想は最高の学び舎なりて、頭陀行は最上の修行なり。施与は読誦の一万遍の功徳ありて修行僧の血肉となりて功徳を現す。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
神の愛だとか仏の慈悲だとかう連中に愛も慈悲もありはしない、偽善者か阿呆か詐欺師に他ならないのである。釈尊は、己を助くるものは己の努力だけである。と仰っている、当てに出来ない運だとか神頼みなどに現をぬかす暇があったら努力すべきであり、誠実・自制・忍耐・施与により果報を得るのです。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
「あの世は本当にあるのでしょうか?」とよく尋ねられるが、「在りますよ。」とお答えしている。そして何処にあり何処にゆくかは再三の説明の如くであり、自らの業に苦しむ者は自業苦(地獄)へゆき、業に苦しみ落ちる先は業苦落(極楽)である。自らを制し善行に励み功徳を積みし者のみが天界へとゆく。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
「神や仏は本当に居るのでしょうか?」とよく尋ねられるが、「絶対神も仏像のような仏も居ない。」とお答えしている。もし仮に在らせられたとしても我々人間の事など気にも掛けないだろう。我々が微生物など気にも掛けない如く。しかし確かな事は心の中には、神も仏も、悪魔も鬼さえもいらっしゃる。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
汝の隣あう者は、敵でもライバルでも無かろう。既に何処かでお世話になっている方かも知れず、又、これから先にお世話になる方かもしれない。一つの携帯電話でさえも、汝の手元に至る迄に何十万人のご苦労様のお陰なのである。世の中、人様のお陰様の上に成り立っている事に感謝せずにはいられない。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
知識と常識に頼りすぎる者は智慧と閃きを失う。妙案とは非常識と閃きにより生起するものなり。
感情に主導されるものは主観的なる自我に拘る、理性によりて客観的に自我を制御するものは果報をうける。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
誠実であれ。自制せよ。耐え忍べ。施し与えよ。努め励め。これこそが幸せへ至る道なり。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
仏法とは、最低・最悪・最下層に身を置き、勤め励み、最高・最良・最上の人格を得る道である。金襴の袈裟に身を包み、踏ん反り返って、実践のない説法を説き、徳も積まずに読誦と経文とで彼岸に至りて仏となると説き、布施と称する報酬次第で階位が上がるなど仏陀の御教えに反する破僧伽な代物である。
釈迦尊の権威と名声に与りながら、釈迦尊の御教えを毀損する者達が栄え勢力を増すは愚かなり。
◆如来品正師 多々方等正覚 語録
中道とは、調和なりて、利他行と利自行の調和ある処が、最良なり。苦行と菩薩行の調和したる処に、安楽あり。忍辱は最大の苦行にして、涅槃は最上の安楽なり。瞑想は最高の学び舎なりて、頭陀行は最上の修行なり。施与は読誦の一万遍の功徳ありて修行僧の血肉となりて功徳を現す。
独白録
仏門に帰依して修行道(聖道跡)に入り早十三年となり独白すれば、無一物と不放逸で平安と静逸の中に甘露なる安堵の呼吸を奥深く味わいたる歓びに勝る快楽とぞなし。振り返れば且って世俗の身に在りし時、事業が順調なのを幸いに胡座をかいて、日々享楽に耽り有り余る金財を湯水の如く散財し愚かな自我意識に翻弄され持ち物着る物に浪費し世界中を遊び歩き女性の股にも随分と吸われたものだが、それで心が満たされるものならそれはそれで良いのだろうが、結局は何をしても、何を所有しても、何処に在っても一時の快楽を貪るだけでしかない本質的な空しさを唯一時的に紛らわしているような心が真に満ち足りる事を知らず無明な日々を彷徨っていた。