無常の劫火

世界は何処も堅固ではない…どの方向もすべて動揺している…私は自分が依るべき処を求めたが、既に死や苦しみなどに取り憑かれていない処を見つけられなかった…


これはスッタニパータに遺されたブッダの御言葉であり、自分の依るべき処(つまり帰依すべき真理を伝える教え)を求めたが、真に苦悩や心痛(ドゥッカ)から脱出させて平安と幸せへ導いてくれる処を見つけ出せなかった…という無常の劫火に苛まれたブッダご自身が、自ら悟りの道へと踏み出された所縁であり、ブッダの教えとは.つまりは生存苦.無明苦.欲望苦を種火とする無常の劫火に焼き尽くされている人間という存在にとっての唯一無二の脱出法(解き放たれ解放される道)なのです…恣意的な人や無明な人は.死によって解放されると錯覚しますがこの世界(時空)に繋ぎとめられた生命(人間を含む)は、輪廻の激流を転生し続けてゆくのですから…

しかし輪廻転生を死後の問題だと誤解してもいけません、皆んな今日の今も.一瞬一瞬、毎日毎日、輪廻転生し続けているのですから…
過去に捉われ悔いていても何にもならない…
将来に捉われ怖れていても何にもならない…
皆んな、今しか持ってないのだから…
この世界が何日で終わろうが.何百億年続こうが.この世界.この時空.この次元に繋ぎ止められている限り.この無常の劫火と輪廻の理法から逃れられずに流れ続けてゆくのです…そしてその流れからの脱出を成仏と呼ぶのです…

無常なるもの即ち苦(ドゥッカ)なり

それは無常の劫火に焼き付くされながらも懸命に生きてゆかねばならない人の身の中に.存在性の全てを映し出し、存在性の全てを見い出す時、存在苦は憐れみへと転じ.欲望から自ずと離れ.無明の闇は晴れ渡り.自分は脱落し、堅固なる平安.悦楽.歓喜.幸せは訪れるのです…


⬛ゆく川は絶えずして
ゆく川の流れは絶えずして.しかも元の水に在らず…とは鴨長明の随筆[方丈記]の一節ですが、仏教思想に触れた鴨長明が、人生というものを川の流れに擬えて捉えた名随筆だと言えますが、そこで問題は[流れ]とは何なのかという事であり.仏教では[物事が有る]という考えは間違っていると説き、また[有る]という事だけではなくて[無い]という事も間違いなのです。
物事が有る(存在する)という考えも、物事が無い(存在しない)という考えも真実ではなく、まして[無いから][有るから]という考え方も無明なのですから(有無同然)
一切の現象は、絶え間なく変化して流れているのです…有るという考えも.無いという考えも錯覚であり、偏見(偏った見解)なのです。
例えば、[川が有る]と一般的に認識しますが、よく見ると、地表の窪みの中を水が流れているだけの話です。では定義として窪みに水が流れるだけで川と言うのでしょうか?
これはただの見方の問題であって、真理のほんとうの姿を説明しているわけではなく状態を固定的に捉えて.そう認識しているだけなのです。
川であれ.地球であれ.太陽であれ.宇宙のその他の星々であれ、すべて止まることなく変化し続けているのです。如何なる現象も、独立して存在することはできません。
因果律(縁起)に従った様々な原因に支えられて、現れている現象なのです。
例えば太陽というのは、個体的.実体的な物質ではなく、水素が集まり.その水素が絶え間なく核融合して莫大なエネルギーを放出している状態なのです。やがて水素が全てヘリウムに変わり.その働きが止まったら、太陽という存在も終わるのです。ですからお釈迦様は「一切の現象は因縁によって現れて、その因縁が消えると滅するのだ」と説かれるのです。その真理をより分かりやすい言葉では[一切の現象は無常である]そして[一切は無常であり.苦であり.空である]と説かれたのです。
全ての物質は無常です。私たちの身体も無常です…心も無常です…感覚も無常です…感情も思考も無常です…我々の判断も無常です…
しかし存在しないものに、無常と言う必要はないのです。例えば[人間の尻尾は無常ですか?]というのは無意味な質問です…もう既に存在しないものです…
つまりは無いものには無常は成り立たないのですから、無貪.無欲.無我には無常は成り立たないのです…
⬛五つの流れを変える
お釈迦様が仰っているのは、心の流れのことです。思考の流れのことです。感情の流れのことです。
私達が世界だと認識している事からして五集合要素(五蘊)が造り出している妄想なのですから…
これを変えてゆくことは安易ではありませんが、努力しなくてはいけないのです。
渇愛の流れを変える
 tanhā sota 渇愛の流れ
眼耳鼻舌身意で色声香味触法を認識するたびに[渇愛]が生まれるのです。渇愛は三種類ですが、ここでは存在欲だけで言うと.六根で六種類の情報を感じる事、認識する事で[生きている]と思うのです。
しかし私達は何かを見て、満足して終了せずに見続けるのです。眼があるかぎり、見続けるのです。「生きていきたい」という渇愛があって、「見たい」という意欲も起こるのです。見たら、さらに見たくなるのです。この流れは止まらスないのです。眼は物質なので、その流れは切れません。眼に入る色.形という対象も物質なので、その流れも切れません。しかし努力をすれば、渇愛が生まれることを止める事も良い方向へと振り向ける事もできます。
私たちには、絶え間なく流れる[生きていきたい]という意欲があるのです。
存在欲があり.存在への渇望.執着により、この世に生まれたのです。その瞬間から渇愛が流れているのです。修行する人は一切の現象は無常であると発見します。生きるということも、固定的なものではなく、瞬間.瞬間の感覚の流れであると発見するのです。ですから、[自分が存在する]という言葉も[自分が存在しない]という言葉も、成り立たないのです。
その真理を発見すると、六根の認識機能があっても、渇愛の流れは無くなるのです。川の流れの例えでも理解できます。川の水が流れて海に注いだら、川が終わるはずです。しかし、川は消えないのです。その理由は、一滴の水が流れゆくと、新たな一滴の水がそちらに入るからです。川に外から水が入ることが無くなったら、川は消えてしまう。心のなかで、今まで絶え間なく渇愛の流れがあったのです。一つの渇愛が消えると、次の瞬間の認識から新たな渇愛が起こります。そこで、真理を発見した人は、新たな渇愛が生まれないようにするのです。智慧が顕れたら、新たな渇愛は生まれないのです。それが、渇愛の流れを切ったことになります。
②見解の流れを変える
ditthi sota 見解の流れ
ひとに無明がある限り、人の認識・判断は「見解」になるのです。見解とは、偏見のことです。ほんとうの姿を発見しない限りは、見解に達するしかないのです。例えば、科学世界を見てください。何かデータを発見したら、科学的な理論を作るのです。しかし、すべてのデータが分かったわけではないのです。新たなデータが入ると、前の理論を変更して、新たな理論を作るのです。新たなデータの立場から見ると、前の理論は偏見です。さらに新しいデータが入ったならば、いまの理論も偏見になります。我々はものごとを知り尽くしてないのです。それでも、知識をつくっているのです。従って、すべての知識は偏見になるのです。
人間が日常使っている偏見は、それほど大きい問題は作りません。このご飯は美味しい、この花は美しい、などの知識も偏見です。しかし、それほど問題にはなりません。足枷になる偏見は、「私がいる、私が存在する、私という実体がある」という考えです。それは、ものごとの本当の姿を分かっていないから起こる偏見なのです。その偏見は危険です。無常なる現象について、執着を作るのです。無常なる現象に執着することは不可能です。なのに、我々には執着があるのです。それによって、輪廻転生して生き続けるのです。生きることは苦なので、喜んで苦を輪廻転生させているのです。この偏見に対して、反対の偏見もあります。「私はいない。私は存在しない、私とは皆無です」という考えです。この偏見に陥る人々は少ないのですが、これも危険です。私が存在しないならば、私は何もする必要がないのです。努力する必要も、真理を発見する必要も、心を清らかにする必要も無いのです。このような邪見に陥ったら、もともとの感情である存在欲のままで生き続けるのです。努力しないから心が成長することもないし、いまある煩悩が消えることもない。仏道を実践して智慧が顕れない限り、私たちの知識はすべて偏見の流れであると理解するべきです。
仏教徒は[悪を犯してはならない、善行為を行なうべきです、道徳を守るべきです]という考えを持っているのです。ブッダが説かれた言葉なので、その考えが間違っているわけではないのです。しかし一般人には、それさえも偏見になります。智慧が顕れたら、善悪という差別思考さえも無くなるのです。すべては無常ということに達するのです。
③煩悩の流れを変える
kilesa sota 煩悩の流れ
基本的な煩悩は、無明と渇愛という二つです。この二つは絶え間なく流れるものです。しかしこの煩悩に、仲間が顕れてくるのです。欲・怒り・嫉妬・憎しみ・落ち込み・慢・他を見下す気持ち・自分を過剰評価する気持ち、等々が顕れるのです。煩悩は千五百です。これも絶え間なく流れるのです。
④悪行為の流れを変える
duccarita sota 悪行為の流れ
悪い性格、悪い生き方、という意味です。悪行為をするようになったら、やめられないのです。悪循環になるのです。ひとつ嘘をついたら、次にその嘘がばれないよう、新しい嘘もつくはめになります。次にそれを隠すために、また新しい嘘をつくのです。ほかの悪行為の場合も、必ず悪循環が生まれてくるのです。ひとは悪行為を軽んじてはならないのです。
⑤無明の流れを変える
avijjā sota 無明の流れ
これが真犯人です。無明とは[真理を発見してない]という意味になりますので、誰にでも本来あるものです。無明があるから、生きることに執着するという存在欲が顕れるのです。無明があると渇愛がある。渇愛があるとは無明があるということです。他の煩悩の場合も同じ法則です。ひとが怒ったというなら、その人に無明があるのです。ひとが嘘をつくなどを犯したというならば、その人に無明があるのです。
無明とは真理を発見してないということなので、真理を発見する努力をしない限り、絶え間なく流れるのです。例えば人が、「数学は分かりません」と言う。そのままでいるならば、ある日突然、その人に数学ができるようにはなりません。数学が分からない状態が、絶え間なく流れるのです。ですから、無知・無明とは、いとも簡単に流れるものです。根本煩悩である渇愛にしても、新しい渇愛を作って流れを作るために、たとえ微妙でも努力しなくてはいけないのです。時々、私たちは、「どうでもいいや」という気分になります。
その時、存在欲が弱くなっているのです。しかし、無明の場合は立場が違うのです。必ず流れるのです。ですから、輪廻転生の真犯人は無明です。無明は、桁外れの努力をして智慧を開発した瞬間に消えるのです。
諸々の欲を離れる
お釈迦様は、この流れを変える事を推薦しているのです。「 諸々の欲を離れ、心を平安へと向かわせる」です。
それは存在欲の仲間のことを示しています。眼で何かを見ると、無意識のところで存在欲が顕れるのです。意識するところで、見えたものが美しい、さらに美しいものを見たい、という気持ちになるのです。この二次的に顕れる感情に[欲 kāma]と言うのです。では.見えたものが美しくない.気持ち悪い.怖いという感情が起きたら、どうなるのでしょうか?
それは欲ではなく怒りです。しかし、こんなものは見たくない、という欲が顕れているはずです。ですから、怒りも kāma の一部です。
修行する人は、最初から kāma が顕れないように精進するのです。一般の方々には難しいことかもしれませんが、修行する人にとっては kāma が顕れないように精進することはそれほど難しくありません。修行者は精進して、智慧が顕れるようにするのです。そうしないと「流れを変えてはいけません…
涅槃を体験する
智慧が顕れて無明と存在欲の流れを切るためには、欠かせない発見です。まず、「一切の現象は無常である」と発見する。無常とは、生じて滅する流れのことです。それから、現象の滅する姿に集中するのです。「一切は消えてゆくものである」という、さらに優れた智慧が顕れるのです。この智慧によって、すべての執着を断つことができるようになるのです。