如来品正師 多々方路傍石 語録-3

 
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如来品正師 多々方路傍石語録
慈悲に優る功徳なく
平安に優る安堵なく
呼吸に優る快楽なく
智慧に優る涅槃なし
涅槃(ニルバーナ)とは、感覚を制御した平静な心の状態に無上な悦びを感じる感性を育成し、迷いや妄想やドゥッカ(不安定さ.不完全さ.弱さ.脆さ.苦悩.儚さ.空虚.哀しさ.恐怖.悔い.無明.惨めさ.実質のなさ.欲.執着など)が消滅した絶対的な安楽の境地である。
 
如来品正師 多々方路傍石 語録‏
「心、自縛より解き放ちたれば、軽安に依りて雲上の住するが如し…日々、托鉢に出ずるとき、正に雲上より下界へと降りるが如しなり…存在苦.無明苦.自我苦に焼き尽くされし人々を憐れみ辻に立つ」 想念を解き放ち思考を働かせず、心とは本質的には捕え所なきものである。表面の思考に、湖底より浮き上がる水泡の如く、潜在域より浮かんでは消え、消えては浮かぶ想念を、唯、浮かぶがままに消えるがままに眺めれば、取り留めなく想念を生み出す「白砂の海岸風景」であると眺めていれば突然「チャグチャグ馬っ子」であったり次の瞬間には「宇宙空間」であったりと何の関係性も必要性もなく浮かんでは消えてゆく、それを何の判断もせず唯、眺めるのである。次第に心は「身体という呪縛より解放されてゆく。」軽安である。(※但し、感情に主導されて妄想癖のある方には、お勧め出来ない。更に妄想を深めてゆくだけである。)
如来品正師 多々方路傍石 語録
一源な根源エネルギー(心的エネルギー)より授かるひとつの生命、皆その一粒である。☆根源的エネルギーが集まりて素粒子を形成する、素粒子が集まりて原子を形成する、原子が集まりて分子を形成する、分子が集まりて物質を形成する、自然法則なりて変化生滅の中にあり。昨日の私を造りし水は空に昇りて今はあの雲とぞ成らん、物質は野に帰り草木とぞならん。
心的エネルギーは連鎖し循環し継続を繰り返す

如来品正師 多々方路傍石 語録
「幸せとは、語るものではなく味わうものである。」
「歓びとは、語るものではなく味わうものである。」
「涅槃とは、語るものではなく味わうものである。」
苦も楽も一如なりて、感性次第で苦にも楽にも感じる物なのである
しかし幸せも喜びも快楽も、苦を前提条件として味わう縁起なり。
苦楽の中道において苦楽をともに楽しんでしまう楽々苦楽に生きてゆこう。

如来品正師 多々方路傍石 語録
☆身の内には既に幸せに生きる為に必要なものは具わっているのを識り、結果として「知足(足るを知る)」に覚醒する。☆足るを知り、必要最低限の持ち物の他は本質的には苦であり負担であるを識り、結果として「無一物」に覚醒する
☆全生命の関係性と一元性、全物質の関係性と一元性を識り、結果として「大海の水の一滴」「無上の無量心」に覚醒する。(我は雲なり、我は海なり、我は光なり、我は大宇宙なり、我は貴方なり)
 
如来品正師 多々方路傍石 語録
八正道に努め励み、五蓋と不善処を制御し、四念処により今に気付き、七覚支により検証してゆく。
五下分結を断ち、五上分結を断ち、四向四果に照らして悟りへと向かえ

如来品正師 多々方路傍石 語録
法悦の感覚それはお風呂でお湯に浸かった時に感じるホッと疲れが抜けてく様な開放感と温かいものに包まれ心の奥までもが癒される安堵感、同時に真夏に炎天下から冷風の室内に入った時の癒される安堵感にも似る、入湯や冷風による快楽は束の間なもの。涅槃も因縁に依るを覚りて捨離したるが解脱なり
如来品正師 多々方路傍石 語録
有難き生命に感謝し、今を内心で楽しめる調えられた感性こそが最上の宝なり。心の安定する者には宗教も神仏も必要としない。心が不安定で愚かな者が宗教や神や仏をお空の上に創りだす。嵌り込む事を信心と勘違いし自己制御(マインコントロール)出来ず簡単に洗脳(マインドコントロール)されてしまう
 
如来品正師 多々方路傍石 語録
世には能書きと空理空論を振りかざし人を誑かしたり神秘論で人を惑わしたり偏った見解や間違った見解をそれと解らないよう巧妙に配置した教えと称する物で溢れている。それらは不純物を植え付ける洗脳なのである。しかし唯一、真正な仏教は心の不純物を取り除き純度と質(クオリティ)を高める法の教えである
 
如来品正師 多々方路傍石 語録
輪廻の流転をもたらすものは不善処と愚心と執着なり、四つの理(正しい、戒律・精神統一・智慧・解脱)により制御・滅尽せよ。戒律と共に修養された内観は大いなる果報と功徳をもたらす。精神統一と共に修養された智慧は大いなる果報と功徳をもたらす。智慧と共に修養された心は諸々の汚れから解脱する。
如来品正師 多々方路傍石 語録
☆真正なる仏陀の教えに従い努め励め(真正仏教)☆真正なる仏陀の修行を以って努め励め(聖道跡)
☆真正なる仏陀の境地に至りて努め励め(等正覚)☆真正なる仏陀を説く法を知り努め励め(頂乗仏教)「人の本質・生の本質・世界の本質・大宇宙の本質を極めし真聖なる仏教」
如来品正師 多々方路傍石 語録
甘露なる呼吸によりて智慧は生じ、
甘露なる呼吸によりて真理は顕現する。甘露なる呼吸によりて神通力は覚醒し、甘露なる呼吸によりて神々をも超越する。五品を見通す者こそが、真如より来たるが如し如来なり真なる仏陀(ブッダ)を継ぐ者である
如来品正師 多々方路傍石 語録 
頂乗仏教 
沙弥「①地蔵品・人の世の実相を見通す菩薩の境地」
預流果「②観自在品・世界を観自在に見通す菩薩の境地」
一来果「③虚空蔵品・世界を空なりと見通す菩薩の境地」
不還果「④普賢品・世界の真理と関係性を見通す菩薩の境地」
阿羅漢果「⑤弥勒品・此世と彼世とを大観し見通す菩薩の境地」
如来品正師 多々方路傍石 語録
甘露な歓び、甘露な安楽、甘露な平安、甘露な幸福、甘露は呼吸の内にあり。呼吸の内に甘露あり。それは調えられた感性によりもたらされる。甘露をもたらすものは金でも財でも環境でも地位でも名誉でもなく唯、調えられた感性の内にある。そして感性を高め調える法を指し示すのが真正な仏教なのである。
如来品正師 多々方路傍石 語録
悪をなし欲に魅入られた迷える人々は私には帰依しない。その知識は妄念に奪われ、阿修羅な心の状態に止まる。四種の善行者が私を信愛(バクティ)する。即ち悩める人・苦しむ人・真理を求める人・真の利益を求める人・知識ある人である。彼らのうちで常に私に専心し直向きな信愛を抱く人が優れている。
如来品正師 多々方路傍石 語録
人、その境地によりて地獄・餓鬼・畜生へと輪廻する者あれば、天界に解脱する者あり。彼岸の淵を彷徨う多くの者達は、生命の進化を再びなぞる・・捕食関係の下位(微生物類)から輪廻してゆく。遠い将来には再び「浮亀漂木」に喩えられるが如く御仏の大慈悲により人として生まれ出る事も出来よう。
如来品正師 多々方路傍石 語録
仏道修行は「アーサヴァーの滅尽」を目指すのであるが、このアーサヴァーを煩悩と捉えずに「漏れ出てくる物、漏れ込んでくる物」であり輪廻をもたらす原因は不善処だけではなく愚心なのである。①愚心に気付かず自惚れる②未熟を自覚できない③小事に捉われ感情的④どうでもいい下らない事に捉れ拘る心。
如来品正師 多々方路傍石 語録
私を含め人というものを定義すれば、実に愚かで幾つになっても未熟で、つまらなく下らない存在である。不安定で空しく苦と不満のエネルギーを活力に生きる存在。どうでもいい物事に捉われ、つまらない問題に拘り、小事が想い通りにならずクヨクヨするような無明暗愚に気付かず生きて死ぬるは不憫なり。
如来品正師 多々方路傍石 語録
楽なる時を物差しに生きる者は苦悩の日々を暮らし、苦なる時を物差しに生きる者は喜びに生涯を送る。不善処(貪瞋痴)に主導され幸福を求める者は必ず不幸になる。それは貪瞋痴を深める道であり依り愚かになる道である。四無量心に主導され万物の幸福を求める者は必ず幸福となる。人間万事、感性次第なのである。
如来品正師 多々方路傍石
 語録
思考は無意識層の決定した概念を、なぞっているだけである。制御されない無意識層では貪瞋痴が主導しようとして理性を弱める。現代人は思考する事は得意だが、思考を止める事が苦手なようだ。敢えて言えば思考を1時間止められれば、1時間思考を制御できる。そして無意識層の貪瞋痴も制御して行ける。
如来品正師 多々方路傍石 語録
与えられし物に心から喜び感謝してゆく者は、与えられし生に心から喜び感謝してゆける。与えられし死に際しても心から喜び感謝できる。それは本質的に不安定で空しく苦と不満を流れる存在からの解放なのである。生死一如なりて梵我一如なり。愚者の流転は果てしなく、惑う者達は彼岸の淵を彷徨っている。
如来品正師 多々方路傍石 語録
実は釈迦尊とは繋がって居ないにも係わらずして仏弟子を詐称していながら、戒名(法名)を授け、更には高額な金子で戒名(法名)を死者に授戒するという仏教にはない集金術を阿弥陀し、耶蘇教などに於いては自浄して廃した「免罪符」的要素から今だ脱することが出来ずに、徳を積むこと能わず大風呂敷を広げ能書きを垂れる事に終始する大乗が習俗と伝統に支えられ既得権益に胡坐を懸けるのも永くはないのでは無かろうか。
大乗宗派の出所がそんなだから徳川政府の政策である檀家制度に今だに依存して墓を担保の人質作戦を命綱に命脈を辛うじて保って、葬儀会社を盟友に葬式仏教という新興宗教(信仰宗教)を広める事に余念がなく釈迦尊の教えや戒律や修行法を時代や環境、地域性により変化する必要は認めるが主要な方向性までもがぶれてしまい教祖が宣う論蔵を尊ぶならば最早、仏教ではなく馬鳴教を出発点に龍樹教を核にした中国伝来の大乗を基にした新興宗教を仏教と錯誤して釈迦尊の名のもとに経済活動を行っているに過ぎないのに「山はどの方向から登っても同じ頂上へと到達する」と嘯き然も到達出来ない迷路へと嵌まり込んでいる。釈迦尊は何故に目指す方向を指し示したのか、それは各自が具する真理へと至る道は一方向性なのものであり東西南北の如き欲や怒り貪り痴愚からは反対方向の執着{所有の次元}へと向かわせてしまうのである
釈迦尊が往時のバラモン教を嘆いた如く、吾もまた大乗の今を嘆かずには居れない。宗教改革とは言わないが大乗にも自浄作用が必要なのであり当然、そこには痛みや困難は伴うだろうが自らは困難や痛みから逃げ回りながら、人様を教え導こうと藻掻がけば人様からの信頼が離れてゆき、言行不一致な経済活動に余念がない世俗的な出家ばかりを排出してゆくのではあるまいか。
如来品正師 多々方路傍石 語録
所有の次元を彷徨うなかれ。其処には人に執着を起こさせる罠しかないのだから。知識、見解、主義主張、思想、哲学などに汚されることなかれ
人はただ善悪の判断と倫理・道徳(道理)さえ修めれば幸せはやってくる。
常識、固定観念、先入観などに惑わされる事なかれ。それらは往々にして偏った主観、間違った見解、頑迷な迷信に過ぎず真理ではないのだから。
「真理は真理なりて真理について争う処なし。虚仮は虚仮なりて、虚仮を真理と見誤れる者、争いから逃れる処なし。」
 
如来品正師 多々方路傍石 語録
「今を生き 今を喜ぶ 者となれ」
「情け無し 感謝持てずば 情け無し」
「自利願い 仏像拝みて 仏を拝まず」
「拘りに 生きる無明に 自爆(自縛)せり」
「無慚なる 恥を知らずや 自我の鬼」
「その身、地べたを這いつくばるが如しなりても、その心、天を駆け巡るが如く解き放て」
如来品正師 多々方路傍石 語録
外に自分というものを幾ら築いた処で空しく儚いものでしかなく、内に自分というものを築ければ自ずと人格も完成する。解っているようで全く解っていないものそれは真の自分というものである。内に自分の心を捜し求めれば逃げ回り誤魔化し騙し自惚れさせる。発見し観察してみれば愚かで未熟で空しく、詰まらない物事に拘り、どうでもいい物事に捉われる下らない存在でしかない事に気付く。人はそこから真に磨かれてゆくのである。
如来品正師 多々方路傍石 語録
☆世間の誰かに誉めらるを望まず、
自分で自分を誉めてあげる。
☆世間の誰かに認められるを欲さず、
自分で自分を認めてあげる。
☆世間の人の愚かを咎めず、
自分で自分の愚かを咎める。
☆世間の人の欲得を小楽と識り、
自分で自分の大楽を楽しむ。
☆世間の人の迷妄に縛られず、自分で自分の迷妄に陥らず。
☆世間の人の欲得に汚されず自分で自分の執着を断つ
如来品正師 多々方路傍石 語録
多くの人は不満の中を欲望の火焔に灼き尽くされながら流れてゆく・・この本質に気付かずに生きると心の中は不満が積もり塊りともなり心を修羅・畜生・餓鬼へと貶める。気付く者は生きるに感謝し食べるに感謝し息するに感謝しあらゆる物事に感謝でき慈悲を施し幸せを得る。不満のエネルギーこそが発展と成長の礎でもあり要は方向性なのである。
如来品正師 多々方路傍石 語録
「楽は苦の種、苦は楽の種。」
苦楽は一如なりて,楽とは苦がまだ新しく新鮮なうちだけの快楽であり、楽の古くなりたるを苦と感じているのである。楽(快楽)を追求するとは一時の快感と大きな苦を得る事を繰り返している事に他ならず、自我に縛られた心は自分に世間を合わせようと悩み苦しみ叶わない時は破壊か破滅へと道を違える。
如来品正師 多々方路傍石 語録
この世の、総ての現象は常ならざるものなりて変化生滅しない物は存在できない世界である(諸行無常)、総ての理と法則は我に随うに在らざる、理のままに法則のままに時空を形成している(諸法非我)、人間は不満の中を流れてゆく存在であり生存とは必ず苦に行き着く本質のものである(一切皆苦
如来品正師 多々方路傍石 語録
暗愚魯鈍なる世にありて、真理を悟るは有難き哉。法を知りても、心なく。知識ありても智慧がなく。智慧がありても実践が無くば、釈尊の御教えも、唯、興味と欲とを満たすだけ。真理を覚る智慧とは、迷妄なる要らざる思考を停止する事により生じ、精神統一と無念夢想と正念正智の調和により出現せり。
如来品正師 多々方路傍石 語録
私に私の道がある如く、人には人のそれぞれの道がある。その道に等勝劣の違いなく重軽の分別もなし。他人があれこれ計り比べるものではなく自分自身が踏みしめて歩むのみ。唯、戒むべきは人としての道を踏み外し、修羅心・畜生心・餓鬼心・地獄心に陥り、人の姿ながら邪道を歩かぬよう心を見張りなさい。
如来品正師 多々方路傍石 語録
「八正道により三宝印と四聖諦を明らかにし、不善処と五蓋を取り除き四念処により今の瞬間へ気付き内観を深め、七覚支により境地を検証し、四徳に努め励む中に智慧は覚醒する。」本質を疎かにして形式にはしるは愚の骨頂であり、形骸化したるものにしがみつき邪見を正見と見誤りたる者達は憐れなり。凡そ伝えられしものを鵜呑みにするが疑法蓋なり。
如来品正師 多々方路傍石 語録
怒りの毒素は人の心身を焼き尽くす。貪りの毒素は心身に拭えぬ穢れを蓄積させる。痴なる毒素は選択の道を誤らせる。悪作の毒素は選択の機会を誤らせる。多くの人々は自分が怒りと不満を積み上げながら生きている事に気付かない。苛々と物事が気に障って他人を羨み妬み慳貪で吝嗇な怒り通しで居ながらも。
如来品正師 多々方路傍石 語録
僧侶の中にも、医者の中にも優れた者もいれば劣った者も居るのである。権威があろうが肩書きがあろうが間違った偏見を持った愚なる者達が社会で幅を利かせている感さえある。病であれ悩みであれ物事すべて此れ心に基づき、心を主体・原因として、心により形成されて善悪の果報を得ているが理解できない
如来品正師 多々方等正覚 語録
「孤独感」を悲観的に捉える向きが多いようだが仏道では犀角独歩(犀の角の如く独り歩め)を最上の安楽と捉える。情緒に心を絡め捕られると悪作(後向き・後悔)孤独感に陥り易いが、肯定的に捉え楽しみ糧とする位の心の余裕を養って戴きたい。昔「我に七難八苦を与え賜え」と祈願した武将さえあり。
如来品正師 多々方等正覚 語録
[大海も水の一滴]とは社会という大海も一滴々々の人々の関係性により出来ている喩えであるが深読みすれば、心とは真水の如き性質の物だが、心に心処(善心処,不善処,雑心処)自我,三毒,悪作など色々な物が混ざり込む。海水も塩や色々な物が混むが如く、しょっぱい心がしょっぱい社会を創る。
如来品正師 多々方等正覚 語録
八正道を知らぬ迷妄な者は思い違い邪見へと陥り易い。これ人の持つ渇愛から生ずるものなり。世に在る権威、評価、価値などを鵜呑みにし妄信して生きるは安易なれど振り回され誑かされ騙されながら老い死んでゆくは憐れ。正観し正念正智したれば罣礙なく真なる世界が出現し大楽の甘露を味わいたるものを。
如来品正師 多々方等正覚 語録
天地と時空に兆しあらば、天地を統べ唯,時空に身を任せる。自業自得の理あるを知りても随いたる至徳の法あるを知らずや。善人でも時満たらざれば悪い事が起こる事あり、況や悪人でも時満たらざれば良い事が起こる事あり。これ人の因縁により生ずる至徳(忍耐)の試練にて。時,満ちたれば大果報を得る。
如来品正師 多々方等正覚 語録
人類も母なる地球でさえも、諸行無常なる本質の存在なのである。人類が仮に何万年栄えようが地球を労わり暮らしていても、やがては滅び消えて無くなる空なる存在なのである。人は大宇宙の変化生滅の一瞬の束の間を生きる身であり、地球が太陽を7,80回巡る間だけ与えられ生かされる命を楽しみ感謝する心を養う事こそが人の質(クオリティ)を貴める。
如来品正師 多々方等正覚 語録
人と人、人と物、人と世界、天と地と地中に蠢く微生物に至るまでもが、如何に深く関連し影響しあって存在している事か・・・この関係性を観ることを仏道において智慧という。この関係性が解らずに無常なる慈悲の心など判りはしないだろう。大海も水の一滴から成り、一滴の水が命に慈悲を施すのである。
如来品正師 多々方等正覚 語録
愛欲は執着を生じ、執着は渇愛を生ず、渇愛は貪欲を生じ、貪欲は愛欲を生ず、不善なる心処をぐるぐる廻りたるを無明という。人は不満を以って流れてゆく、その不満を制御する法を知らず、生じた不満に気付く事なく不満に捕らわれ苦を積もらせるを痴愚という。
如来品正師 多々方等正覚 語録
暮し豊かにして 心貧しき者多かれど、暮し貧しくとも、心、貧しくなるなかれ。財貨失うとも、真義失うことなかれ。得たるもの少なくとも、感謝忘るる事なかれ。己の愚かを咎めたれ、人の愚かを咎むる事なかれ。不満の種は尽きまじて、不満を留むる事なかれ。今を生き、昨日と明日に執する事なかれ。
如来品正師 多々方等正覚 語録
人は自分に幸運やご利益を齎してくれそうな物には余念がない。そして愚かにも気休めの域を超えて「開運」「幸運」と名付けられた高額な石ころ・ガラス玉・紙切・木札等を身に付ける・・笑。
「幸運を呼び込むものは心掛け」であり、そんなカルトな迷妄を断ち切り不善処な心を制する事である。
如来品正師 多々方等正覚 語録
不善処な心とは、貪瞋痴・悪作といわれる心である。貪とは貪欲・邪見・高慢であり、瞋とは瞋恚(怒り)・嫉妬・慳(物惜しみ)であり、痴とは痴愚・無慚・無愧・掉挙であり、悪作とは後悔・後ろ向きな心、昏沈睡眠、進歩を止める疑いである。
如来品正師 多々方等正覚 語録
弱者や貧困に喘ぐ国の民を助けたり聖者へ施与する事は、感謝の行為であり功徳となるのです。例えば、年に十度も海外旅行する者がその内の一度分を行った積もりとなり、喜捨し廻し向け、功徳を積むのです。月に十度も外食する者は一度分、年に十着買う衣装の一着分を廻し向ける今の境遇への感謝なのです。
如来品正師 多々方等正覚 語録
日本人が減少してゆくのも国家として衰退してゆくのも源流は因縁深い人間が増えているからに他ならない。先ず功徳を廻向する事すら解らない無明な人が増え、死者へ廻し向ける功徳も積まず、生きている弱者に廻し向ける功徳もなければ善人でも因縁深い者は来世はそんな貧困な国や弱者に生まれるが定め
如来品正師 多々方等正覚 語録
真の心の主とは「私」という捉われから開放された命そのものなのです。心とは水にも似て何も溶け込まず不純物を含まない状態では安定していて何物をも許容できる性質の物です。仏教では善い不純物を善心処と言い悪い不純物を悪心処と言います。悪心処で満ちれば餓鬼・畜生で、善心処で満ちれば如来です。
如来品正師 多々方等正覚 語録
世の中の必要な人になるとは、人の為になる実践の延長上に在るものであり、自分を客観的に眺めれば、一人の人について観察する事になる。物事についてもモットこうであったならば、こんな物があったら人様に恩恵を与え人様の為にもなるという心が世の中を発展させてきた。欲得ばかりではないのです。
如来品正師 多々方等正覚 語録
「我に施与をせし人々よ幸福であらん」「我に施与をせぬ人々よ幸福であらん」「我を信じ従いし人々よ幸福であらん」「我を疑い仇なす人々よ幸福であらん」「我を敬愛する人々よ幸福であらん」「我を嫌悪する人々よ幸福であらん」「生きとし生ける物たちよ幸福であらん」「神仏と精霊達よ幸福であらん」
如来品正師 多々方等正覚 語録
カルトで神秘主義的な邪見と、形而上的な観念の罠に陥る事なく、世界と自分とをありのまま観察し、実践と瞑想熟考と瞑想止観により確証を得る術を教えるのが真の仏道である。それは清浄への道であり徳を修める道であり慈悲への道である。
如来品正師 多々方等正覚 語録
大宇宙は無なる処に空間という膨張を続ける非物質(無色界)が覆う世界である。非物質なる無色界(梵天界)を探知する術を人類は未だ獲得していないが確かに存在する。その非物質界より物質(素粒子)が生まれ、その素粒子の持つ6種の性質により宇宙の全物質が形成されている言わば全物質は同根である
如来品正師 多々方等正覚 語録
人は死して彼岸に携えるものは、その積み上げし業と真我(魂)に刻み込まれし性なのである。肉体から開放された真我は欲に塗れた現世での執着が如何に愚かな所業であるかを悟り、天界の淵、此岸と彼岸の間の迷界を彷徨うのである。地獄も天界も梵天界の内に在る無色界(非物質界)である。
如来品正師 多々方等正覚 語録
六諸仏と釈尊以来、なん人も至り得なかった大梵天界に至りて声聞を賜われし身なれば、大梵天界に渡る淵まで到達しながら大悟を得るを叶わず、潜在識部を末那識と真我との淵を阿頼耶識と呼びし無著・世親の兄弟を憐れむ、唯、開放されし心が大宇宙と一体なるを知らず、「梵我一如」なるを知らず
如来品正師 多々方等正覚 語録
無知の善は、短命で儚い善果を得る。
智慧ある者の善は、大いなる果報をもたらすだろう。
無知の木は大きいが、智慧の木より弱く、智慧の木が育つと無知の木は倒れ朽ちる。
施与を厭う者は、怒りの中に暮らす者なり。己ばかりに気をとられ不満を創りだしながら流れてゆく・・
如来品正師 多々方等正覚 語録
これは明らかに自業自得であるに関わらず、現代人は解っていないと、つくづく想う。癌や腫瘍を罹災だと思っているのだろうか?被害者意識だけは強いのが現代人とも言えるのかもしれない。因は遺伝的要素と体質であり、縁は貪りと怒りと痴愚の心であり、果が罹患であり、結果が報いなのである。
如来品正師 多々方等正覚 語録
仏道は、束縛からの解放を目指すものである。それは執着という束縛からの解放であり、欲(物欲・金財欲・名誉欲・色欲・・・)、自我、身体、偏見、拘り、世評、悪癖などへの執着から開放され平安な心で忍耐を持ち、前向きで明るく落ち着いた誠実な心で生きる者は、此の世でも彼の世でも善果を得る。
如来品正師 多々方等正覚 語録
「瘦躯一つ 拘りもなく足るを知りて 四徳心 平安に生き 寂静に死す」 
「身一つで 拘りもなく足るを知りて 無一物彼の世に運ぶは 業と因縁」 
如来品正師 多々方等正覚 語録
愛などと言う耳触りは良いが、あやふやで掴み処のない言葉が溢れ、無私の愛だなどと造語され「それは慈悲だろう!」仏教では愛とは欲であり、渇きである渇愛、愛おしみの愛着、欲しい欲しいの愛欲と、本質は餓鬼心への端緒なのである。愛される事を切望しながら「愛すれど求めず」などとは片腹痛し。
如来品正師 多々方等正覚 語録
誠実は信頼の礎なり。自制は成長の礎なり。忍耐は智慧の礎なり。施与は果報の礎なり。これを四徳なり「失敗は成功の礎なり。負けるは勝利の礎なり。遅れるは先んずるの礎なり。苦は楽の礎なり。心は物事の礎なり。無欲は平安の礎なり。欲は執着の礎なり。執着は渇愛の礎なり。死は生の礎なり。」
如来品正師 多々方等正覚 語録
愚かな者は「~は、こうあるべきである」などという愚かな主観と間違った見解と無明な判断に陥る。世の悪意ある者達は、そんな処に付け込み、騙し、欺き、偽るのである。真の聖者は着飾らず、拘らず、縛らず、押し付けず、分別しないものである。
如来品正師 多々方等正覚語録
人生は幻影にして、友も親兄弟も幻影を残して去りぬ、その悲しみを知るは幻影を偲ぶ時なり。人生は幻影にして、築きしものもやがては滅ぶ、その悲しみを知るは旅たつ時なり。人生は幻影にして、残せし縁もやがては絶える、その悲しみを知るは理を知る時なり。人生は幻影にして、唯、生滅の過程なり。
如来品正師 多々方等正覚 語録
人にとって第一の宝は「命」であるが、その第二は「人柄」である。性格という自我を超越したものであり、此の世でも彼の世でも祝福されるものである。人は地位や名誉や経歴・生れ家柄・財産・金銭に価値観を措くが、そんな此の世に置いてゆく物に執着せず彼の世に携える業と人質(人柄)こそ霊格でもある。
如来品正師 多々方等正覚 語録
根源的な欲は、活力である。しかし人は刺激を欲しがる生き物で何時の間にか依り強い刺激を求め、割愛に陥る。もっともっとと畜生界へ至り、未だ満たされない未だ満たされないと餓鬼界へと陥る。正に苦界である。不満と恨みを増幅し自己破壊欲に至り地獄界へと至る。又、渇愛へと戻り負の輪廻を果てしなく繰り返す。
如来品大師 多々方等正覚 語録
自分も他人も犬猫も、甘やかされれば付けあがる。自分も他人も犬猫も甘やかして良い結果など無いのである。「鉄は熱い内に打て」と言われる如く、自分も他人も犬猫も早い内に対処するのが最良である。我慢と忍耐を学ばずに優しさなど育たない。現代は渇愛病で溢れている。強欲も自分勝手も肥満も鬱も
如来品正師 多々方等正覚 語録
四徳 (誠実・自制・忍耐・施与)
誠実<誠の心を以って実直に生きる者を咎める者なし。もし咎める者あれば、その者の心の内なる不満を徳行に投影しているが如し>自制<自ら煩悩に気付き制御し中道に生きるは徳行なり>忍耐<耐え忍ぶ事なくて平安はなし>施与<施し与える者に天は果報を与える>
如来品正師 多々方等正覚 語録
釈尊は何も説かなかった。唯、心の内に既にある真理に気付き制御する方法を教え指し示しているだけ。
<物事は心に基き、心を主とし、心により創り出される。人もし清き心を以って話し、行なうならば、福楽の彼に随う事、影が離れざるが如し>
如来品正師 多々方等正覚 語録
物色界(物質界)は無常なり、非物色界(無色界・天界)は無常ならざり。物色界は無情なり、非物色界(無色界・天界)は無情ならざり、物色界は理不尽なり、非物色界(無色界・天界)は理不尽ならざり、非物色界(無色界・天界)にして神仏に姿・形を求むるを愚の骨頂と言う。唯、善なる意志なり。
如来品正師 多々方等正覚 語録
人は社会に対し承認欲を求め自我を保っている。社会からの評価判断を過度に気に掛けると自縛を招き、苦を招く。気に掛けないと自分勝手で社会に害を及ぼす存在とも成りかねない自我を形成する。中道をもって心の安らぎを得る。人の本質は人を何人でも殺し排除したい程に愚かなのである、罰せられるから殺さないで我慢しているだけなのである。妄想を繰り返し性格の悪くなっている者達などは頭の中では既に何十人もの人様を殺している筈である。
如来品正師 多々方等正覚 語録
客観的に自分をよく観察して下さい。色々な欲の塊である自分に気付くでしょう。その色々な欲の塊が自分を苦しめているのです。無明から渇愛が生じ、渇愛から執着が生じ、執着から欲が生じ、限りない欲から苦が生じるのです。誠実に生き、自らを制して、耐え忍ぶ事を学び、施し与える心を育みましょう。
如来品正師 多々方等正覚 語録
常によく気を付け、自我に固執する見解を打ち破り、世界を空なりと観ぜよ。このように世界を観ずる者を死の恐怖を抱かせる悪魔が見る事はない。他への批判、中傷は自我への執着から生ずる。聖者は論争が起こってもそれに組せず不安な人々の内にあって安らけく泰然として執する事がない。(スッタニパータ)
如来品正師 多々方等正覚 語録
この世は移ろいゆく我と、移ろいゆく時空との暫定的な出会いとで成り立っているのだが、その根源原理が因縁起果報なのである。因縁果報と巷では言われるが、因と縁の生起か不生起に依りて果と報が天と地ほどの差となって現れてくる。(悪因・不善悪因・善因)(悪縁・不善悪縁・善縁)
如来品正師 多々方等正覚 語録
輪廻とは天なる存在が人なりと修羅・畜生・餓鬼・地獄へと巡り、天へと戻る輪廻する定めを説くが、人は赴くべき領域に赴き、成るべきものに成るのであり、地獄から天へ赴く者もいれば天から地獄へ赴く者もいる。因みに人を踏み躙り巨万を築いた或る悪人は、千回蟻に生まれ千回踏みつけられ地獄へ赴た。
如来品正師 多々方等正覚 語録
四徳成仏論を説かれた◆誠実に努め励み人徳を高めよ◆自制に努め励み人徳を高めよ◆忍耐に努め励み人徳を高めよ◆施与に努め励み人徳を高めよ◆是れ、成仏への道にして真なる心の安らいを得る第一の果報なり◆全ての欲(金・地位・名誉・快楽・健康・長寿・・)は一時の心の安らいであり苦の因でもある
如来品正師 多々方等正覚 語録
釈尊は真理など説かず真実を語っているのです。そして信じなさいとも仰っては居ないのです。真理とは言葉では語れない体現するものであり、盲信する事ではなく、ご自身の体現された大悟への道を指し示す聖道跡なのです。、それは苦行でも極端でもなく、心の中に求め、大楽と開放と大悟を得る道なのです。
如来品正師 多々方等正覚 語録
心を二元的に観ると心というものが観やすい。一つは主体的意識であり、二つは客体的意識である。(実は潜在的意識もあるが)、主体的意識とは気付き・感受・意志等であり、客体的意識とは、妄想・承認欲求・識別・表象等である。主体的意識は怠け物で油断をすると客体的意識が心を主導しているのである。
如来品正師 多々方等正覚 語録
身を制し、言葉を制し、心を制し、息を制し、調えるべし。自ら制し、自ら気付くが戒律なり。極端に奔らず中道を心掛け、あらゆる束縛より脱したる処を涅槃(ニルバーナ)と呼ぶ。大楽界である。
如来品正師 多々方等正覚 語録
法を知りても、心なく・・・知識が有りても、智慧がなく・・・名称有りても、実践なくば、御仏の有難い教えも、何んの役にも立たず。唯、興味と五蘊を満たすだけ。
如来品正師 多々方等正覚 語録
「全ては一息の内にあり」 一呼吸の内に、人は想いをのせているのです。喜怒哀楽や迷いや掉挙、暗い心、明るい心、苦しみ痛み、遊び心や怠け心、恨み心や媚び心、そんな心の状態に気付き、歓喜と平安の呼吸を心掛け、努め励む人は、悪魔(病気・不運)も避けて通るのです。
如来品正師 多々方等正覚 語録
外に自分というものを幾ら築いた処で空しく儚いもの。内に自分というものを築ければ自ずと人格も完成する。解っているようで全く解っていないものそれは真の自分というものではなかろうか。内に自分の心を捜し求めれば心は逃げ回り誤魔化し騙し自惚れさせる。真の心を発見し観察してみればそこには愚かで未熟で空しく、詰まらない物事に拘り、どうでもいい物事に捉われる下らない存在でしかない心に気付く。人はそこから真に磨かれてゆくのである。 
如来品正師 多々方等正覚 語録
「聖人の徳は積み上がらじ 遍く徳を施して廻向したる故なり」
「解脱して天上界に座するより、病んだ浮き世に舞戻り辻に立ちたい愚か者 聖と俗とは同じもの」
智慧有りて 智慧を使えば 無知を知り 浅智慧 悪智慧 智慧尽きて 全てを捨てるが 無知の智慧
「世の人の心は見えぬものなりて、笑顔の裏に潜む欲得」
「自我強く 自分だけはと自惚れて 口は上品 やること下品」
「自我強く 自分こそはと自惚れて 他人に厳しく 自分に甘く」
「成功への道は失敗の中にあり達成への道もまた失敗の中にある」
「元来、人は失敗を繰り返し、繰り返し学ぶように出来ている。失敗は成功の母であり、成功は新たな成功の機会を失う事に他ならず、人はいつも失敗ばかりしているのだから。」
「神仏の想いに適う行いと,感謝を忘れ御利益を当てにするのは暗愚にて、御加護を願うは無明にて、奇跡を待つのは不遜なり」
「極楽も地獄もその身のうちに在り、極楽に近ずくは精進に依り、地獄に近ずくは怠惰に依る」
「呼び込んだ不動明王出て行かず 大梵天が立ち往生」
「この世をば修行の場なりと定むれば、煩悩携え生まるるを合点」 
「この世をば修行の場とぞ心得るて功徳を積みて 生きるが仏道
仏道を知ってか知らずか生臭が法は哲学なりと嘯くは恥ずかし」
「仏法を知ってか知らずか生臭が 一乗を尊ぶべしと嘯くは悲し」
「竜樹の如き詐欺坊主 菩薩様とは片腹痛し」
「真理を仰ぎ釈尊に近づきたれば口悪し剣をもつはこれ如何に」
「森羅万象 天の波動と共に在り 唯、人のみが 波動を乱せり」
目立たぬように乱さぬように そっと毒吐く 此れ浄化の道の一つなりせば
如来品正師 多々等正覚 語録
せわしなく日々を送る者は、せわしなく人生を織り成してゆき、
あくせくと日々を送る者は、あくせくと人生を織り成してゆく。
イライラと日々を送る者は、イライラと人生を織り成してゆき、
悠々と日々を送る者は、悠々と人生を織り成してゆく。
人生は山の彼方にあるのではなく、生きるとは今この瞬間だけを生きているのだから。「必死」とは「必ず死が訪れる」の意味であり「不死」の夢想から目覚めて唯一の今という瞬間を疎かにしてはならない。一寸先は判らない闇の生命なのに、明日があり一年先があり十年先もあると、愚かに未熟にお目出たく時間を浪費してしまう、必死に生きるとは「どう死にたいのか。」でもあり、死に臨むとき悔いなく生きたならば彼こそ人生の真の勝利者であり成功者なのであるのだが、人は何時もつまらない事に係わりあったり、どうでもいい事に捉われたり、下らない存在のままでは後悔する事にすら気付くことが出来ず、今の自分を「これが私である。」などと、単に存在欲の衝動でしかない自我が妄想した不安定で感情的な主観が自分であるが如く認識し偏った見解や間違った見解に幻惑されながらコロコロ変わってゆく自分を「これが自分である。」と自惚れている。(これを愚の骨頂という。)
自我の強い人は、感情(貪瞋痴)に主導され自分の利得しか考えられない人格(人の質・クオリティ)に陥り、妄想を深め益々と人格(人の質・クオリティ)を下げ、同時に性格が歪ん欲深くなってゆき、苦と不満を募らせ、不幸になってゆく(運命の逆スパイラル)。
何故ならば、得られる物事の多い少ないにより喜び・満足や苦・不満が生じるのではなく、貪欲な執着に魅入られるか、足るを識る事が出来るか次第なのであり、仏教では「有無同然」という。(貪欲な人は有ればあったで不満であり、無ければ無いで不満なのである。足るを識る人は有ればあったで満たされて、無ければないで満たされているのである。)   
如来品正師 多々方等正覚 語録
人に定め在り。生まれ出でて、死ぬるも定めなり。しかし命を運びたる「運命」に定めなく、身の丈、身の程、身の分を戒め、前向きに智慧と可能性を信じて進歩向上しながら、どう命を運んでゆくか次第である。
心とは真水の如きものなりて不純物(不善処・善処・見解・知識・・・)を含んで性格を現す。その性格さえも、ひねくれて生まれたり、わがままに生まれたりしてないのである。各自の資質と要素は在ろうが、その後の環境・教育・体験などにより形成されてきたものであり、心の使い方しだいで変わってゆけるものなのである。(諸行無常
しかも「これが私だ。」などという固定的な私など本当は何処にも居ない幻想でしかないのである。(諸法無我
生きるとは苦という本質により成り立つ。
息をするのも苦しいから呼吸して、腹がへって苦しいから食事をして後には腹が苦しいから排泄している。水分が不足してくると喉が渇き苦しいから水を飲み、じっとしていると苦しいから動き、何かを考えていなければ苦しいから妄想を始め、生活するのに物がなければ苦しいから物を得て、欲が生じ満たさなければ苦しいから満たそうとしているだけ。(一切皆苦
その本質は「生存の素因」である煩悩(存在欲)の衝動なのである