如来品正師 多々方路傍石 語録-4

イメージ 1

如来品正師 多々方路傍石語録】

苦は楽の種 楽は苦の種
苦を前提として楽は在り、
楽を前提として苦は在り、
苦楽を前提として不苦不楽は在り
不苦不楽を前提として苦楽は在り、
苦を前向きに受け止め捉えざる者…
楽に気付く事なく未だ苦中に在り…
苦楽とは味わうものであり、楽とは記憶の彼方へ逃げ去り、苦とは怖れとなり心に染み付くもの…
苦を怖れるものに楽なし.楽を制する者に苦なし…
苦行も難行も苦楽の物差しを具する行なりて、その内に悟りなく生きること即ち苦行なるを知らず
一切皆苦なればこそ楽は付き従う

如来品正師  多々方路傍石語録‏

一源なる生命(集合意志)より授かる一粒の生命、皆その一粒であり一如な存在であるのが各自の器に別れると自我や自分を錯覚し私は私、私はああだ、私はこうだと、ごちゃごちゃと自分と世界を分断してゆく一源な根源が集まりて素粒子を形成する、素粒子が集まりて原子を形成する、原子が集まりて分子を形成する、分子が集まりて物質を形成する、唯、意志なり。変化生滅の中にあり。昨日の私の水が空に昇りて今はあの雲とぞ成らん。

如来品正師 多々方路傍石語録

☆身の内には既に幸せに生きる為に必要なものは具わっているのを識り、結果として「知足(足るを知る)」に覚醒する。☆足るを知り、必要最低限の持ち物の他は本質的には苦であり負担であるを識り、結果として「無一物」に覚醒する。
☆全生命の関係性と一元性、全物質の関係性と一元性を識り、結果として「大海の水の一滴」「無上の無量心」に覚醒する。(我は雲なり、我は海なり、我は光なり、我は大宇宙なり、我は貴方なり)

如来品正師 多々方路傍石語録
八正道に努め励み、五蓋と不善処を制御し、四念処により今に気付き、七覚支により検証してゆく。
五下分結を断ち、五上分結を断ち、四向四果に照らして悟りへと向かえ。

如来品正師  多々方路傍石語録

法悦の感覚それはお風呂でお湯に浸かった時に感じるホッと疲れが抜けてく様な開放感と温かいものに包まれ心の奥までもが癒される安堵感、同時に真夏に炎天下から冷風の室内に入った時の癒される安堵感にも似る、入湯や冷風による快楽は束の間なもの。涅槃も因縁に依るを覚りて捨離したるが寂静なり

如来正師  多々方路傍石語録 

有難き生命に感謝し、今を内心で楽しめる調えられた感性こそが最上の宝なり。心の安定する者には信仰も神仏も必要としない唯、人として主体を成す宗(むね)となる教えを持たざれば人生を彷徨う事となる。心が不安定で愚かな者が信仰や神や仏をお空の上に創りだす。嵌り込む事を信心と勘違いし自己制御(マインコントロール)出来ず簡単に洗脳(マインドコントロール)されてしまう。

如来品正師  多々方路傍石語録

世には能書きと空理空論を振りかざし人を誑かしたり神秘論で人を惑わしたり偏った見解や間違った見解をそれと解らないよう巧妙に配置した教えと称する物で溢れている。それらは不純物を植え付ける染脳(洗脳)なのである。しかし唯一、真正な仏教は心の不純物を取り除き純度と人の質(クオリティ)を高める釈迦尊が解き明かした真理の法則である

如来品正師  多々方路傍石語録

輪廻と流転をもたらすものは不善処と愚心なり。四つの理(正しい、戒律・精神統一・智慧・解脱)により制御・滅尽せよ。戒律と共に修養された内観は大いなる果報と功徳をもたらす。精神統一と共に修養された智慧は大いなる果報と功徳をもたらす。智慧と共に修養された心は諸々の汚れから解脱する。

如来品正師  多々方路傍石語録

☆真正なる仏陀の教えに従い努め励め(真正仏教)☆真正なる仏陀の修行を以って努め励め(聖道跡)
☆真正なる仏陀の境地に至りて努め励め(等正覚)☆真正なる仏陀を説く法を知り努め励め(頂上仏教)「人の本質・生の本質・世界の本質・大宇宙の本質を極めし真正なる仏教・・頂上仏教なのである。」

如来品正師  多々方路傍石語録

振り返って考えて見ると、釈尊の御教えの大半は初めから我が身中に持っていたようだ。永きに亘る修行は、その検証と実証とであった。故に数在る経典の内より釈尊が真に仰ったであろう御言葉と誤りって伝わりしものと釈尊が到底仰らないだろう御言葉を選別することは容易であった」「私は上座部仏教スマナサーラ師を敬愛している。あの方の仰ることは私の考えと多くの点で非常に一致する。ただ大きく違う処は、あの方はブッダゴーザ師の範疇を越えることが許されない立場という宗の蓋に捉われている。しかし自由にして無欲恬淡なる私なればこそ、釈迦尊の聖道跡を歩むことが出来る。」

如来正師  多々方路傍石語録 

甘露な歓び、甘露な安楽、甘露な平安、甘露な幸福、甘露は呼吸の内にあり。呼吸の内に甘露あり。それは調えられた感性によりもたらされる。甘露をもたらすものは金でも財でも環境でも地位でも名誉でもなく唯、調えられた感性の内にある。そして感性を高め調える法を指し示すのが真正な仏教なのである。

如来品正師  多々方路傍石語録

悪をなし欲に魅入られた迷える人々は私には帰依しない。その知識は妄念に奪われ、阿修羅な心の状態に止まる。四種の善行者が私を信愛(バクティ)する。即ち悩める人・苦しむ人・真理を求める人・真の利益を求める人・知識ある人である。彼らのうちで常に私に専心し直向きな信愛を抱く人が優れている。

如来品正師  多々方等路傍石語録 

人、その境地によりて地獄・餓鬼・畜生へと輪廻する者あれば、天界に解脱する者あり。彼岸の淵を彷徨う多くの者達は、生命の進化を再びなぞる・・捕食関係の下位(微生物類)から輪廻してゆく。遠い将来には再び「浮亀漂木」に喩えられるが如く御仏の大慈悲により人として生まれ出る事も出来よう。

如来品正師  多々方路傍石語録 

私を含め人というものを定義すれば、実に愚かで幾つになっても未熟で、つまらなく下らない存在である。不安定で空しく苦と不満のエネルギーを活力に生きる存在。どうでもいい物事に捉われ、つまらない問題に拘り、小事が想い通りにならずクヨクヨするような無明暗愚に気付かず生きて死ぬるは不憫なり。

如来品正師  多々方路傍石語録

楽なる時を物差しに生きる者は苦悩の日々を暮らし、苦なる時を物差しに生きる者は喜びに生涯を送る。不善処(貪瞋痴)に主導され幸福を求める者は必ず不幸になる。それは貪瞋痴を深める道であり依り愚かになる道である。四無量心に主導され万物の幸福を求める者は必ず幸福となる。人間万事、感性次第なのである。

如来品正師  多々方路傍石語録 

思考は無意識層の決定した概念を、なぞっているだけである。制御されない無意識層では貪瞋痴が主導しようとして理性を弱める。現代人は思考する事は得意だが、思考を止める事が苦手なようだ。敢えて言えば思考を1時間止められれば、1時間思考を制御できる。そして無意識層の貪瞋痴も制御して行ける


如来品正師  多々方路傍石語録

与えられし物に心から喜び感謝してゆく者は、与えられし生に心から喜び感謝してゆける。与えられし死に際しても心から喜び感謝できる。それは本質的に不安定で空しく苦と不満を流れる存在からの解放なのである。生死一如なりて梵我一如なり。愚者の流転は果てしなく、惑う者達は彼岸の淵を彷徨っている。
仏教とは、かび臭くて、説教じみて、厄介な作法とか、葬式をするものだ。みたいに考えられているが釈迦尊が説かれた真正な仏教は「苦や悩みを取り除き、真に幸せに生きる方法」を教えているのであり、世の中に溢れる宗教や教えの類は偶像礼拝や預言者や神や仏などを持ち出し、洗脳にも似た間違った観念や見解を植え付け誘導するものであったりカルトや神秘性で人を惑わすものも多い、真正な仏教とは真逆なもので、既に頭の中に積もり汚染させている苦悩の原因や、幸福へと至る道を阻んでいる原因を取り除き、人としての質(クオリティ)を貴め真に幸せな人生へと変える「心のメカニズム」である因果関係を説いている。言わば心理学のような「超心理学」なのです。
苦や悩みについての「こうであるから、」「こうなった。」という因果関係を、世の中では思考法とか考え方とか対処法などで変えるなどと浅薄に語る者や本で溢れてかえっていますが、現実には苦や悩みを深めている。
その原因は思考部分だけにあるのではなく、潜在域(無意識域)の意識(概念思考)やそして潜在基底層の気質にあるからなのです。心とは表面意識の「意」と無意識の概念意識の「気」より成り立つものであり、この「意」と「気」を調えてゆくことこそが超心理学であり、真正な仏教なのです。       
それ故に、ストレス・苦悩・不安・恐怖、心配などにより不幸に陥っている人々に真の幸福な道を指し示し、生き方さえも見失っている人々に真に正しい道を指し示し、真の人生の勝利者へと高め、真に幸福な人間として導く、人としての質(クオリティ)が低下しつつある現代社会が最も必要とする至高なる教え、無二なる師である釈迦尊が説かれた真正な仏教なのです。

如来梵正師 多々方路傍石語録

☆身の内には既に幸せに生きる為に必要なものは具わっている事に気付き、結果として「知足(足るを知る)」に覚醒する。☆足るを知り、必要最低限の持ち物の他は本質的には苦であり負担であるを識り、結果として「無一物」に覚醒する。(但し、昨今流行の最小限主義(ミニマリスト)とは異なる根本は「有無同然」(有れば有ったで満足で、無ければ無いでも満足。)愚か者は(有ればあったで不満で、無ければ無いで不満)なのである。」
☆物事への執着こそが苦と不満とを造りだす。金財欲、物欲、権力欲、名誉欲、勢力欲、地位欲・存在欲(生存欲)など数え上げたら切りがない空虚な欲望の罠を見破り、執着に縛られずに生きる人は安楽と歓喜智慧の中に暮らす。
☆全生命の関係性と一元性、全物質の関係性と一元性を識り、結果として「大海の水の一滴」「無上の無量心」に覚醒する。(我は雲なり、我は海なり、我は光なり、我は大宇宙なり、我は貴方なり、全ては縁により私に向かって微笑む。
真理に至るには先ず正しく学び、正しく理解を得て、理解したものを正しく実践し検証し確認してゆけば、次第に集中と統一の能力も高まってゆく、集中し統一された精神がどれ程の愉悦を齎してくれるのかを知らぬ者は愚かなり。主観で物事を判断している内は「他人の牛を数えているようなもの。」と言われる如く、世間の見解に縁らず知識に騙されず、内なる智慧を頼りに真理に気付いてゆければ次第に感性も調ってゆく、そうして調えられた感性がどれ程の天上の法悦を齎すかを知らぬ者は憐れなり

如来梵正師 多々方路傍石語録

八正道に努め励み、五蓋と不善処を制御し、四念処により今に気付き、七覚支により検証してゆく。
五下分結を断ち、五上分結を断ち、四向四果に照らして悟りへと向かえ。

如来品正師 多々方路傍石語録

如来品正師 多々方路傍石 語録

法悦の感覚それはお風呂でお湯に浸かった時に感じるホッと疲れが抜けてく様な開放感と温かいものに包まれ心の奥までもが癒される安堵感、同時に真夏に炎天下から冷風の室内に入った時の癒される安堵感にも似る、入湯や冷風による快楽は束の間なもの。涅槃も因縁に依るを覚りて捨離したるが解脱なり

如来品正師  多々方路傍石語録 

有難き生命に感謝し、今を内心で楽しめる調えられた感性こそが最上の宝なり。心の安定する者には宗教も神仏も必要としない。心が不安定で愚かな者が宗教や神や仏をお空の上に創りだす。嵌り込む事を信心と勘違いし自己制御(マインコントロール)出来ず簡単に洗脳(マインドコントロール)されてしまう

如来品正師 多々方路傍石 語録 

世には能書きと空理空論を振りかざし人を誑かしたり神秘論で人を惑わしたり偏った見解や間違った見解をそれと解らないよう巧妙に配置した教えと称する物で溢れている。それらは不純物を植え付ける染脳(洗脳)なのである。しかし唯一、真正な釈迦尊の仏教は心の不純物を取り除き純度と質(クオリティ)を高める法の教えなのである。

如来品正師  多々方路傍石語録 

輪廻と流転をもたらすものは不善処と愚心なり。四つの理(正しい、戒律・精神統一・智慧・解脱)により制御・滅尽せよ。戒律と共に修養された内観は大いなる果報と功徳をもたらす。精神統一と共に修養された智慧は大いなる果報と功徳をもたらす。智慧と共に修養された心は諸々の汚れから解脱する。

如来品大師  多々方路傍石語録

☆真正なる仏陀の教えに従い努め励め(真正仏教)☆真正なる仏陀の修行を以って努め励め(聖道跡)
☆真正なる仏陀の境地に至りて努め励め(等正覚)☆真正なる仏陀を説く法を知り努め励め(頂上仏教)「人の本質・生の本質・世界の本質・大宇宙の本質を極めし真正なる仏教・法乗仏教である。」

如来品正師  多々方路傍石語録

甘露なる呼吸によりて智慧は生じ、甘露なる呼吸によりて真理は顕現する。甘露なる呼吸によりて神通力は覚醒し、甘露なる呼吸によりて神々をも超越する。五品を見通す者こそが、真如より来たるが如し如来なり真なる仏陀でありブッダを継ぐ者である

如来品正師 多々方路傍石 語録

由緒正しき法乗仏教 釈迦尊派 
沙弥「①地蔵品・人の世の実相を見通す菩薩の境地」
預流果「②観自在品・世界を観自在に見通す菩薩の境地」
一来果「③虚空蔵品・世界を空なりと見通す菩薩の境地」
不還果「④普賢品・世界の真理と関係性を見通す菩薩の境地」
阿羅漢果「⑤弥勒品・此世と彼世とを大観し見通す菩薩の境地」
如来蔵「菩薩の境地を乗り越え、大梵天の勧請を賜わり至る境地」

如来品正師 多々方路傍石 語録
甘露な歓び、甘露な安楽、甘露な平安、甘露な幸福、甘露は呼吸の内にあり。呼吸の内に甘露あり。それは調えられた感性によりもたらされる。甘露をもたらすものは金でも財でも環境でも地位でも名誉でもなく唯、調えられた感性の内にある。そして感性を高め調える法を指し示すのが真正な仏教なのである。
如来品正師 多々方路傍石 語録
悪をなし欲に魅入られた迷える人々は私には帰依しない。その知識は妄念に奪われ、阿修羅な心の状態に止まる。四種の善行者が私を信愛(バクティ)する。即ち悩める人・苦しむ人・真理を求める人・真の利益を求める人・知識ある人である。彼らのうちで常に私に専心し直向きな信愛を抱く人が優れている。

如来品正師 多々方路傍石 語録
人、その境地によりて地獄・餓鬼・畜生へと輪廻する者あれば、天界に解脱する者あり。彼岸の淵を彷徨う多くの者達は、生命の進化を再びなぞる・・捕食関係の下位(微生物類)から輪廻してゆく。遠い将来には再び「浮亀漂木」に喩えられるが如く御仏の大慈悲により人として生まれ出る事も出来よう。

如来品正師 多々方路傍石 語録
仏道修行は「アーサヴァーの滅尽」を目指すのであるが、このアーサヴァーとは汚穢であり「漏れ出てくる汚穢、漏れ込んでくる汚穢」であり輪廻をもたらす原因は汚穢による自我への執着であり、地獄(自業苦)にも堕ちる苦しみの根源でもある。アーサバーという汚穢を積み上げ執着させるものは不善処だけではなく愚心なのである。①愚心に気付かず自惚れる②未熟を自覚できない③小事に捉われ感情的④どうでもいい下らない事に捉れ拘る心。

如来品正師  多々方路傍石語録

私を含め人というものを定義すれば、実に愚かで幾つになっても未熟で、つまらなく下らない存在である。不安定で空しく苦と不満のエネルギーを活力に生きる存在。どうでもいい物事に捉われ、つまらない問題に拘り、小事が想い通りにならずクヨクヨするような無明暗愚に気付かず生きて死ぬるは不憫なり。

如来品正師 多々方路傍石 語録

楽なる時を物差しに生きる者は苦悩の日々を暮らし、苦なる時を物差しに生きる者は喜びに生涯を送る。不善処(貪瞋痴)に主導され幸福を求める者は必ず不幸になる。それは貪瞋痴を深める道であり依り愚かになる道である。四無量心に主導され万物の幸福を求める者は必ず幸福となる。人間万事、感性次第なのである。

如来品正師  多々方路傍石語録 

思考は無意識層の決定した概念を、なぞっているだけである。制御されない無意識層では貪瞋痴が主導しようとして理性を弱める。現代人は思考する事は得意だが、思考を止める事が苦手なようだ。敢えて言えば思考を1時間止められれば、1時間思考を制御できる。そして無意識層の貪瞋痴も制御して行ける。

如来品正師 多々方路傍石 語録
与えられし物に心から喜び感謝してゆく者は、与えられし生に心から喜び感謝してゆける。与えられし死に際しても心から喜び感謝できる。それは本質的に不安定で空しく苦と不満を流れる存在からの解放なのである。生死一如なりて梵我一如なり。愚者の流転は果てしなく、惑う者達は彼岸の淵を彷徨っている。

如来品正師 多々方路傍石 語録
仏道は「八正道に始まり八正道に終わる」と言われる如く、正しく気付いてゆく事である。間違った考え方にしがみ付き浅薄な心境に終始していては真の平安と悦びを味わうことなど出来ないからである。八正道の「正思」とは妄想に終始する自分の心に気付き、先ず妄想を止めてゆく事から始まる。妄想とは感情に主導されて不善処に陥ることにより深まってゆくものである。

如来品正師 多々方路傍石 語録
自我による妄想により自縛され煩悩に誘導されて、物事を比べ計り主観(感情)による判断を繰り返す無明な者には、観察している心と観察されている心の両者の存在すら気付かない。観察している心とは理性であり、観察されている心とは感情であり、理性が感情(煩悩)を制御できて初めて人なのである。

如来品正師 多々方路傍石 語録
世の中には「考え方を変えて自分を改良する」的な浅薄なハウツー本や宗教本が氾濫しているが、それによって改良できた者など居ないのである。一時的に改良できたと錯誤しても実際には何も変わっていない。何故ならば物事は思考や主観が決めているのではなく潜在層の概念(無意識)が決めているのである

如来品正師 多々方路傍石 語録
「想像力は進歩をもたらし、妄想は業を深める。」多々方等正覚。人々は無限なる想像力と苦悩をもたらす妄想とを識別し気付くこともなく、唯、妄想を繰り返し流れてゆき不満と渇きを深めてゆく。まず思考を止めてみることが大事なのだが、世の中では雑念だらけで集中力がない者を思考停止と呼んでいる。

如来品正師 多々方路傍石 語録
人生が空なのではなく人の生が空なのである。人の存在とは空しく不安定で不満と苦の中に成るつまらない存在であり、決して執着するようなもので無く、いつ捨てても構わない代物である。活力は不満より生じる。生命とは唯の不満の流れなのである。大宇宙も世界も不完全で不安定で絶えず変化生滅してゆく。

如来品正師 多々方路傍石 語録
真の仏教は尊い教えである。何故尊いのか、総ての人々が求めてやまない生きる目的である真の幸福に至る道筋、何で生まれて来たのか、人とは?、死とは?・・・人間の心の世界を明確に指し示す唯一の教えなのである。しかし大乗は空に拘る余り仏教を厭世的で人生の空しさを説くが如く捉えてしまっている。

如来品正師 多々方路傍石 語録
貪瞋痴とは生物の本能的な生存欲に基づく根深い感情なのである。そして釈尊が仰った悪魔マーラの正体とは自身が積み上げてきた業と宿業とが造り出した五官を支配しようとする意識。その業に促され本能的な貪瞋痴・渇愛・苦が創りだす想念(無意識の概念)が表層の意識に於いて言葉により主観を形成する

如来品正師 多々方路傍石 語録
幸福感とは決して頭の中をお花畑状態にする事ではなく、汚物が沈殿せし湖底より絶えず湧き上がる泡の如き根源的な衝動と貪瞋痴に基づく主観(貪り・怒り・痴愚・怨み・嫉妬・吝嗇など)に気付き、それらに向き合い制御し、五蘊の識蘊という分別を制御し、在るがままに拘らず捉われず大観する処に生ずる。

如来品正師 多々方路傍石 語録
「人は自分の事を人だと思っている」当たり前な話であるが、六道に照らしてみれば実は阿修羅なのである。畜生と人との間に位置し、三面の阿修羅像の如く生存本能を根源とする貪瞋痴の衝動に支配され争い比べ計り渇愛の中を妄想を積み重ね生きているのである。人が真に人とならんが為に戒定慧の三学あり。
如来品正師 多々方路傍石 語録
世間の利得を求める道も道なれば出世間の真理を求める道もまた道なり。そして利得を求める道と真理を求める道は実は逆方向の道であり表と裏の関係性でもある。真理を求める道には裏に利得が潜み、利得を求める道の裏には真理が潜んでいる。どの道も心を制御し精進してこそ成し遂げられる道でなのである

如来品正師 多々方路傍石 語録
世間の利得を求める道も道なれば出世間の真理を求める道もまた道なり。世間の利得を求める道において人は一時の喜び快楽と大きな悩み苦しみの中を流転する。人の本質は苦である故だが、苦とは苦と感じた瞬間からが苦なのであり苦と感じなければ苦ではなく、苦を恐れていては何も出来ない事に他ならない。

如来品正師 多々方路傍石 語録
仏道修行とは世人とは反対の事をしてみる事でありそして中道を定め住するのである。◆人は本能に動かされ動かずには居られない⇒動きを止めてみる◆思考は本能に考えさせられ考えずにはいられない(妄想)⇒思考をとめてみる◆本能の衝動で五官は外に向かって情報を漁る⇒五官を制御し内観に向かう。内観により集中力が養われてきた者は、内内観へとすすめ。

如来品正師 多々方路傍石 語録
☆人は外に知識を求めてやまない⇒知識は外から齎されるが智慧は内より生ずる。
☆人は自己中心に陥る⇒不安定な自我を安定させようと自惚れる(慢)
☆人は快楽を求めて執着する⇒一時の快楽の空しさを覚り厭離する
☆人は五官からの刺激(魔誘)に取り込まれたがる⇒五官を制御し防御する
☆人は苦手な物事を回避する⇒苦手な物事を直視する。(大した問題ではないことに気付く)
☆人は群れたがる⇒犀角独歩する。
☆人は本能(貪瞋痴)により物事を判断し比べ計りたがる⇒感情は主観的判断、理性は客観的判断。
☆人は本能により納得しないではいられない⇒放っておく(不放逸)
☆自分に拘らないではいられない⇒不拘不捉
☆人は主観的に考える⇒客観的に考える
☆人は苦から逃れようともがく⇒苦の本質に気付く

如来品正師 多々方路傍石 語録
命の実相を味わう。生きるのに必要なものは既に備わり、心が清浄なれば五官から得る情報は総て清浄なり。心の真の主となりて魔の罠を打ち破り、悪しきものを厭離し、平安で甘露な悦楽に梵住するを涅槃とぞ呼ばん。そして五官と梵住さえもを捨離し、大宇宙と同一する処に大悟は啓かれる。梵我一如なり。

如来品正師 多々方路傍石 語録
観自在の境地に至り菩提心に依り世の罠や痴愚、不浄を覚り平安に住する。虚空蔵の境地に至れば菩提心に依り世間の欲望や執着の根源を覚り法悦に住する。普賢の境地に至れば菩提心に依り自我に拘らず自利に捉われず一切衆生へ慈悲を施さん。弥勒の境地に至れば菩提心により天地の理法を覚り如来とならん。

如来品正師 多々方路傍石 語録
大悟とは大観(価値観・重要度・状況・存在観)ではなく、空観でもなく、縁起の明智でもなく、大悟とは「自己完結」であり「自己完成」なのである。喩えば絵描きの絵、物書きの文、職人の作品、それらが芸術たるは自己完結にあり、他人の評価などは世間の問題であり、達成したる境地こそ芸術なのである。

如来品正師 多々方路傍石 語録
神だ仏だという宗教は無くて構わない代物である。人は自分自身で心を制御・マインドコントロールするのが苦手なのである。だから例え邪教であろうと間違った教えであろうと、外からもたらされる情報に依存して洗脳・マインドコントロールされていたほうが楽だから変えようとは思わない怠け心なのである。

如来品正師 多々方路傍石 語録
世の中では「覚悟」「観念」そして「諦観」などを曲解して使っている。これらをあきらめるの意味で使うが「諦」は「あきらめる」ではなく(物事の本質を悟り見極めるた境地)なのであり覚悟・観念も同様なのである。土壇場でジタバタしないのは同じではあるが。天と地ほども異なる境地なのである。
如来品正師 多々方路傍石 語録
神だ仏だという宗教は無くて構わない代物である。しかし煩悩の中を生きる人は、自分に益や願望や真理をもたらしてくれそうな物を求めて止まず、そのようなもので不安定な自分を安定させよう縋りつくが、その実、益も願望も真理も得られず大切な時間と金を無駄にするが、認めたくないから続けるのであろう。

如来品正師 多々方路傍石 語録
何故、愚かな人は外からの間違った情報に容易に洗脳(マインドコントロール)されてしまうのか、それは至極当然なことであり、自分自身の「心の制御(マインドコントロール)」が出来ていないからに他ならない。制御されていない心とは感情に支配され貪瞋痴の煩悩の中を巡り流れてゆく渇いて欲する本能。

如来品正師 多々方路傍石 語録
「真の悟りとは、捨離なり。」欲得を捨離し、執着を捨離し、認識を捨離し、渇愛を捨離し、貪瞋痴を捨離し、自縛を解き解し、愉悦の境地にて、悟りさえも捨離した境地にして垣間見えるものこそが、大悟である。まさに仏の境地に至るのである。
如来品正師 多々方路傍石 語録
喜びとか幸せとは外からもたらせる物事の多い少ないではなく、感性がどう感じるか次第であり大金持ちであろうが貧乏人であろうが喜びと幸せの質と量は、その実たいして変わらないのである。何故なら人は必ず苦(不満や飽きも含)に戻る本質の上に存在し一時の快楽を味わっているに過ぎないのである。
如来品正師 多々方路傍石 語録
空観も大悟ではなく、縁起の明智も大悟ではなく、大観さえも大悟ではない。2500年の時を経て多くの覚った者あれど大悟に至りし者なしは儚し。皆、大悟したと宣いて一宗一教一派を創り上げて来た。善良で愚かな衆生の求めて止まない功徳を齎すものは大悟したる正覚の恩寵なり。大悟を識らぬ者、必ず本覚(カルト)へと陥る。大悟を得しは釈尊と吾のみ哉。

如来品正師 多々方路傍石 語録
大観なく目先の現象に一喜一憂する者は妄想の中に我が身を安んじる。小楽を追い続け渇愛地獄に陥りし者の主は悪魔なり。大楽を知らず貪瞋痴の煩悩から生ずる感覚に頼り、五官の刺激に取付かれ平安の悦びを知らぬ者を無明・暗愚という。世の中では偽者や未熟者がこれが悟りだ。これが大悟だと嘯く。

如来品正師 多々方路傍石 語録
「心、盲目なる者は如来のまえに在りても、見目麗しき悪魔を崇拝する。」
「因縁深きものは、因縁深きものに魅入られる。これ宿業の浄化に努めはげむ事なく唯、怠惰に生きる業の賜物なり。」
如来品正師 多々方路傍石 語録
世の人は「普通」という曖昧な基準と偏見による概念により形造られた価値判断を重要視する傾向がある。それは自分で考えていると錯覚しながら実は他人が下した無責任な評価や偏った者の意見に誘導されたり気付かずに洗脳されていたりする場合さえある。そして愚か者は自分が間違っている事に気付かない。

如来品正師 多々方路傍石 語録
人間なんて所詮、馬鹿で阿呆で愚かで半端なのだから、大きな喜びや幸運を妄想せず小さい喜びや幸福をより多く積み重ねてゆく事を心がけて生きれば、苦を招くこともなく悩みを造り出すこともなく執着や渇愛も薄れ、感謝する心に気付き、いつの間にか一人の智者へと生まれ変わっているかも知れない・・
如来品正師 多々方路傍石 語録
ニースの海辺の高給レストランで食べる食事と普段は安弁当を食べている人が倍の千円クラスの弁当を食べた時の喜び満足感の質と量と持続時間の長短などは大して変わらないのである。まして味覚とは無常なる感覚という現象に過ぎず捉われ拘り執着するに値せず
一番のご馳走は空腹であり、味覚の目的は毒物の判定であり、食事は栄養補給なのだから、どこで何をしようが心がどう捉え心がどう味わうか次第であり、結局は苦に戻り付き次の小楽を求めて彷徨う愚人なのである。

如来品正師 多々方路傍石 語録
世に溢れる「詭弁・戯言・能書き・世迷言・都市伝説・迷信・先入観・誘引術・偽善・嘘・・・・・」社会には有りとあらゆる罠が張り巡らされているのです。安易に権威・評価・歴史・雰囲気・見栄え・美辞麗句などに誑かされぬよう心して掛からなければ大事な一生を台無しにしてしまう事さえある。

如来品正師 多々方路傍石 語録
宗教というものは或る意味、愚かな人間達を畏れさせる為のものでなければならない。人智を超えたものに対する畏怖、定めに対する畏怖、行いに対する畏怖などが人間を人間たらしめる。だが巷には貪欲な者達により捏造されたご利益や果報を謳い愚者が求めて止まない餌を撒き善良を誑かす宗教が溢れている。

如来品正師 多々方路傍石 語録
宗教には大別して一神教多神教とに分かれ、ユダヤ教キリスト教イスラム教の神は同一な一神であり、大自然と山地草木に至るまで八百萬の神が宿るとされる神道などは多神教である。しかし仏教は神や仏を崇めず、唯、人格を完成され正覚された釈尊を敬い、その聖なる道跡に続かんと聖道跡を修行する事である。
如来品正師 多々方路傍石 語録
順風は、兎角あらゆる罠が待ち受ける。そして逆風は宝である。歴史は逆風の基に培かわれるのである。忍辱は難業なれど、忍辱なければ平安はなく、智慧の伴なわない精進は覚束無く、誠実でなければ信頼はなく、施与する器量がなければ幸せは遠き幻。自己弁護と言い訳に終始し変化を恐れる者は不幸を招く。

如来品正師 多々方路傍石 語録
智慧の修行者は、五官(眼耳鼻舌身)の刺激を制御し、足ることを知っている。それ故、苦悩とは無縁なのである。幻想や妄想から生じる願望や執着が消えれば不満や苦悩も消える。これ縁起の法なりて、人生の痛みや葛藤の原因は絶えざる欲求や願望から生じている事に気付き、貪瞋痴を制御すれば平安を得る。

如来品正師 多々方路傍石 語録
智慧の修行者は、無心に観じすべてに没入し、時空に身を任せる。「在るがまま、成るがままに。」自分という意識を滅尽し自我から生ずる良悪・好嫌・楽不楽なく、俗世に在りながら胸を痛めることもなく、寿命の長短はあれど、今を生きるのみ。愚者は過去を悔い、未だ来ぬ未来を憂い、今を見ようとしない。

如来品正師 多々方路傍石 語録
「不拘・不捉・不貪・不瞋・不痴」捉われず、拘らず、貪らず、憤らず、痴愚ならず、五官の罠に気付き悪魔を誑かし上前をはねて楽しんで平安に生きるを「梵住」と呼ばん。渇愛を打ち破り、不善から離れ近寄らず、世間への執着を捨離し、観自在なる境地・虚空蔵なる境地・普賢なる境地を蔵する如来の境地。

如来品正師 多々方路傍石 語録
「心とは三元的なものであり、二元的に使い、一元的に働くものである。」
心を真に知る者には理解できるだろうが、解らぬ者には陳腐にも受け取られよう。

如来品正師 多々方路傍石 語録
私は自分を人生の勝利者だと自負している。弟子や信者こそ少ないが・笑。真の人生の勝利者とは、偉くなることでも、財産を築くことでも、大会社を造ることでも、立派な行跡を残すことでもなく、「平安に楽しく生きた者勝ち。」なのである。捉われず拘らず苦悩なく生きる伝法こそが真の仏教なのである。

如来品正師 多々方路傍石 語録
心を制御するその第一は、妄想を断滅することから始まる。暗愚な人は日々、常に、ろくでもない妄想を頭の中にめぐらし積み重ね病んでゆく。貪瞋痴の中を流れ、不満や怒りの中で生きてゆく。然もそれに気付かずに。五蘊の何んたるかを知る者少なし。故に色受想行識の識に間違った概念と偏見と判断を培う。

如来品正師 多々方路傍石 語録
「身一つで、この世に産れて生きて、身一つで去りゆくだけ」生きて老いて死する人生は、何だったのか?何をしたのか?何を残したのか?何の意味があったのか?人は無明暗愚に悔い戸惑う時が訪れる。この世の記憶も財貨も名利も成功も血縁も空なりと悟り、唯、清く正しく楽しく生きて天命に感謝して逝くだけ。

如来品正師 多々方路傍石 語録
潜在域は眩い光に満ち溢れ至福に包まれる大楽の処にて大宇宙の実相を顕現する。生命とカルマに促され想念を発生させる源である。沈潜する事七分方にて先方に見出すその光に向かい沈潜してゆくと真我域へと辿り着く。初めは沈潜というより潜り込む感に近いが慣れると心がエレベーターの如く運んでくれる。

如来品正師 多々方路傍石 語録
想念の発生源へと沈潜してゆく真なる瞑想により、真我・梵・阿頼耶識・潜在意識深部とも呼ばれる心処の源である。精神集中により心が波立ちのない湖面の如く在るのも正念正智により捉われのない境地に入るのも覚醒を顕現するのも一つの状態であり基点である。心の内観へと沈潜した潜在意識域に正覚する。