不治の病

私は病気なのだろうか?病院へ行ったほうが良いのであろうか?脳内麻薬の多量分泌病なのだろうか?人は元来、感覚中毒患者であるが、それとは明らかに異質な軽安な悦楽に、心は解き放たれ、安定化した心は法悦と至福なる快楽を生ずる。
解き放たれ安定化した本能は、渇愛により潤いを生じ、感情(貪瞋痴)は満足と快楽と歓びを生ずる。これもまた煩悩(生存の素因)なり。
しかし不完全と不安定により成り立つこの現象世界においては絶対的な完全と絶対的な安定とは現象世界の消滅を意味するものであり成立しない。因縁により生起する心は水泡の如く捉えがたい、因たる心(意識)が縁たる現象に出会い思考を生じる時、理性が主体に在り感情を客体として留め抑制出来うるならば、縁たる現象との出会いに存在欲による重要度・価値観などの感覚や分別を生じることなく執着から離れるならば、因縁により生起した心は解き放たれ生命の達しうる安定化をえることが出来る。
その感性は総て快楽と歓喜の中に在り、釈迦尊の伝えられる記録以外には、まったく窺い知れぬ病状である。
その症状は、立っていても座っていても歩いていても、伏せていても、その一挙手一投足において生じる感性。
一呼吸一呼吸の中に悦びと快楽を感じ、歩を踏み出せば、その足下の跡に春の草花が萌立つが如き快楽を生じ、立ち留まれば絹布がそっと肌を撫でるが如き快感が我が身を包む。
電車に揺られ立ちて内観すれば法悦の中に痩躯の生命を感じ、内々観へと入りたれば其処は光満ち溢れてその眩しき輝きが体中の穴という穴から外へと漏れ出さんが如く感じ、万物に感謝せずには居られない。
涅槃の平安・安堵・法悦とは違い、至福の快感なる大楽の持続なのである。その感覚に執せず断滅を試みるも「私が快感そのものであり、快感が
「私そのものである」状態では断滅も捨離も叶わず至福の時を過ごす。
托鉢行で辻に立ち、無心へと向かいて在るがままに在る時、心は大宇宙と合一し、私が宇宙、宇宙が私であるが如き錯覚、街行く人々が我が体内を行き交うが如き同一感、我が分身を慈愛するが如くに愛おしき者達を眺める。
此れ人の本質たる「不安定・空・苦や不満」と悪感情を生じさせたる本能域を調伏したるが故なりや。
早く完治し捨離したいのだが「馬鹿に付ける薬」は無いと聞く、ではこれは「不治に病」なのであるのだろうか。
この愉悦で大楽なる快感なる感覚という煩悩に執着せず捨離し寂静へ戻りたるが「煩悩即菩提」なのであり、如来の梵住する処、涅槃の庵である。
今、大宇宙と全体意思とが、私と同化しつつある、大宇宙が私であり、私が大宇宙となり、全体意識が私であり、私が全体意識となるが如く。これ来たるが如しなる如来の境地なるや
しかし悦楽なる平安も因縁により生ずる性質のものであって、因縁が変われば消えてしまうものであると確かに識って、捨て去り(捨離し)寂静を得る。「よく調いし心身こそ仏なり。」