死髄観

死というゴールへ向かって歩む.この道を、

笑って生きるも一生..泣いて生きるも..悩んで生きるも…怒って生きるも一生なれば…

楽しく生きた者の勝ち

人生…雨降る日あれば…天気の日もあり

風吹く日あれば…そよぐ日もあり…

雨に動ぜず…風にも動ぜず…

天気の日にもまた動ぜず…

ゴールへ向かって…一歩一歩を踏みしめて

        多々方 路傍石

人間、前世の記憶もなく信頼のおける経験者もいないから、必ず訪れる[死]というものを怖れ忌み嫌って目を背けようとするのですが[幽霊の正体見たり枯尾花]とも例えられるように、死というものを真正面から直視して理解すれば、その妄想的とも言える死の魔王(死の恐怖)に打ち勝つことが出来るのです…

また死という地点があるからこそ、生きる価値を見い出せ、前向きに.そして歓びに満ちて日々を送ることも出来るのであり、その為には死随観が必要なのでもあるのです…

死随感は[死生観]でもあり、人は死を怖れる余り.[死]を考える事から遠ざかり避け.自分には死など無関係だと錯覚し.大切な時間を詰まらない物事.下らない物事.どうでもいい物事に浪費したり、なんで生きるの?何で働くの?何で空しいの?と妄迷へと陥ったりする時、これこそが脳の働き(主観)であり、脳(思考)は死を認識する事が出来ず、感覚器官に何かしら刺激を与えていないと安定を失ってしまうのである。

生死は一如なり、

人は何のために生まれ、何のために生きるのかという素朴な疑問にすら答えることが出来ないままに無明(本質的な無知)の闇を抱えたまま盲目的に手探りで暗夜行路を行くが如く.賢明に.又は何気なく. 兎に角.生きているのだが、いつの間にか仕事や学業や異性や所有物に気をとられたり気を紛らわせたりしながら、その素朴で本質的な疑問は.何時の間にか心の片隅に追い遣ったり.封印したり忘れ去って.毎日を営々と自分のため.家族のためと.生涯を費やしているのだが、人生ふとした瞬間に自分の生き方や生きた末に何とも言えない不安や恐怖や疑問や衝動を覚えたりした時、改めて何のために生まれ何のために生きるのかと問う声が甦る...更に肉体的老化や罹患や生命力の衰えを実感するとき、本質的無知(無明)の闇の中を盲目的に生きていた事に慄然と気付いたり.人は死を身近に感じる時.死を直感的に感覚的に捉えるようになり生死を妄想的に心的投射し.苦悩しだすもの、己が歩んできた人生を振り返ったり思い出したり改めて何の為に生まれ何の為に生きるべきか問い直す時.悩み悔やみ死を恐怖する。

苦(ドゥッカ)は存在欲に起因し、人間の煩悩とは存在欲の化身である。煩悩を生存の素因として煩悩により生かされているのであり生きる意欲もまた煩悩なり、喜怒哀楽も又、煩悩(存在欲)であり生存にプラスだと感じるものを貪ろうと欲し、生存にマイナスだと感じるものに怒り、生存に寄与しない結果に痴愚してる不善処な感覚を自分だと錯覚しながら生きている。

詰まりは人間とは苦(ドゥッカ)と煩悩の欲に生かされている存在だとも言え、苦(ドゥッカ)と煩悩に幻惑され生だけを見つめ、生に囚われ、生に執着しながら生きて来た一生は、死という現実の前に己の人生の真価を問われる。

懸命に精一杯に生きて来た筈が、本当に生を悔いなく過ごしただろうかと、また一つの執着に絡め取られてゆく。

生の価値観とは、死を前提条件として成り立っている事に気付けなれば、生を奥深く味わい尽くす事など出来ず、もし死を片極に有さない生というものが存在するとしたら.その生の中に価値観を見い出す事など出来ず.死と両極を成さない生とは苦(ドゥッカ)そのものだろうしかし生死は一如なものであり、生死の両極により成り立つ。

八正道(中道)に随えば、[生は楽しい事もあるから死とは悲しいものだろう][存在を失うのは怖いから存在していたい]という極論を超越して.ヤジロベエの両極の生死という錘(おもり)の中道に生きるが最上であり、生死の中道に於いて平安.歓び.悦楽.静逸が得られるのである。

そも一生とは幾許か、一生とは一息の中に在りて、一息の中に永遠を映しだす、前の一息、次の一息、何れも幻を追うに同じ。

あらゆる執着から解き放たれ「死随観」を得たれば生きるに最早、恐怖は無し。存在欲から生ずる「生死の軛」を乗り越えたれば、生きるは平安なりて死ぬるも又、平安なり。故に「楽土」なる彼の世へと逝けるのである。

「死ぬことが悲しいことではなく、幻想に翻弄され、無駄に生涯を費やしてしまう事が、悲しいことなのである。」

「死ぬことが惜しいことではなく、真の生きる意味も、命の甘露を味わうことなく逝くことが惜しいことなのである。」

「死ぬことが悲しいことではなく、他者の為に生きる事が出来ず、感謝される事なく逝くことが悲しいことなのである」

「朝(あした)に道を聞かば 夕べに死すとも悔いなく、

朝(あした)に生きたれば、夕べに死すとも悔いなく生きる」

人の生きる「生存の素因」に煩(わずら)わされず悩まされることもなくなりたるを「煩悩の滅尽」という。

「慎みなく自制することもなしに百年生きるより、徳を積み己を律して一日を生きるほうが尊い一生である」

今という瞬間瞬間に思いをこらし没入してしっかり生きてこそ身心は存在の歓びを味わい命の有難さに真に気付く。「命は素晴らしく生きている事自体が最高の快楽なのである。」「この身は泡沫(うたかた)の如くであり、陽炎(かげろう)のように儚い本性のものであると覚ったならば、悪魔の甘い誘惑を断ち切って死の恐怖によりもたらされる渇きや後悔や一切の妄執から解き放たれ、死への恐怖を乗り越える。」 本能が造りだす感情とは全て生存欲(存在欲)なのである。

永遠に生きてゆく上で肯定的な物事に対して引き寄せたいと貪りを生じ永遠に生きてゆく上で否定的な物事に対して遠ざけたいと怒りを生じ、生きてゆくのを阻害する物事に対して恐怖や不満を生じ、生きてゆく上で不安定な状態に痴愚を生じる。

感情(貪瞋痴)に主導されると欲深くなり、あらゆる物事に執着しないでは居られなくなってゆく。

それは決して満たされることがない一時的な喜びと大きな苦悩を所有することでもあり、決して満たされることのない存在への執着により恐怖と苦しみと不満の中を流れる。

「因縁により生じ因縁により変化し因縁により滅する」

この世界が諸行無常なる現象世界であることぐらい誰でも理解できるのだが、自分自身もまたこの現象世界の現象でしかないことが潜在識に理解させることが難しいのである。何故ならば、本能域からは常に「生きていたい、存在していたい」という衝動が潜在識にもたらされていて感情(貪瞋痴)により造り出された「自我」は自分を実存であると幻想していて現象でしかないことを中々実感したがらないのである。

しかし自分もまた現象でしかないので「因縁により生じ因縁により変化し因縁により消えてゆく」

妄想により肉体を実体化したがるが心というものも実存していると妄想しているが、心というものも生命エネルギーが物色エネルギーの蘊り(あつまり)に宿り、精神エネルギー(電気エネルギー)としての流れであり「生じては変化して消えてゆく」を絶えず繰り返しているだけなのである。

「心は万境に随って転じ、転処実に能く幽なり」(心とは人生の中で縁に従って転じているだけなのである)

今というこの瞬間は確かに生きている、そして意志によりこの命を維持してゆくことはできる。しかし一瞬先も遥か彼方も自分の意思により操作してゆくことなど出来ないのであり、これは「今は生かされている」に過ぎないのであり、生きるとは人知の及ばない存在に「生かされている」のであり、明日は命を召上げられるかもしれない儚い本性の存在でしかないことを覚れば、「今は生かされている」事実に感謝こそすれ、あたら疎かには生きられないのではなかろうか。

生存に依って頼って執着するものは何時までも生かされるが如く叶わぬ幻想を抱き、命を大事に味わおうとはしない、全ての物事そして生命・存在というものに依存し、頼り、しがみつき執着させる渇き(渇愛・まだ足りない、もっと欲しいもっと欲しいという心)に気付き抑制してゆく先に平安はもたらされる。

もっと得たいという貪りの心も、もっと無くなれという怒りの心も、現状に満足できない痴の心も心の渇き(渇愛)の衝動に翻弄されているに過ぎないのであり、渇愛を「因」に、五蘊により感受する刺激・情報を「縁」に生じている幻想に過ぎないことを見破れば渇愛から解き放たれ平安と快楽と歓喜に満たされるのである。

しかし迷いの中を彷徨い、無明なまま流れ、無常なる物事に幻惑されて生きたならば、消えてゆく定めを覚るときには大きな失望と恐怖と後悔の中に苦悩するのである。

因縁により生じ因縁により変化してきた我が身、因縁により消えるその日まで、多いに生命の快楽を味わおう。

五十年後百年後はたまた明日かもしれない召上げられる日を恐怖して生きても詮無い事だから存在(生存)への執着から解き放たれ覚悟を定め達観し、人事を尽くして天命を待ち、朝(あした)に道を聞かば夕べに死すとも悔いなく、朝(あした)に生き.夕べに死すとも悔いのない日々を過ごすだけ。「智者は無心に観じ没入して時空に身をまかせるだけ」

「我が身には「我」など無いと観る者に、気付きと智慧が生じる。欲得から離れて世の中(五蘊)の何ものにも執着せずに住する。」

詰まり、人はその真理(無常)を理解し受け入れ、今という一瞬(一息)の中に自分という全存在、全宇宙、永遠を映して行くしか不安定で空虚な本質を安定化させる術はなく、そして流転の連鎖を断ち切る術は他にはないのです。

「死」と言うものを考える事を避けてみても何れは必ず訪れるものなのだから避けるばかりではなく逆に受け入れてしまい生きる事にしがみつく事から離れる方法をお教えすると「死んでしまいなさい。」「心の中で自分のお葬式を済ませてしまいなさい。」という突飛な方法である。

「我が身は此処で死に、肉体は既に朽ち果てたものと思い定めれば最早、心に罣礙(けいげ)するものなし。」

一度、死んだものと思い定め、残りの日々を余生だと思い定めれば残りの日々はおまけ(もうけもの)の人生として生命の有難さを味わって感謝して生きてゆければ拘りなく捉われなく与えられた命を楽しむ心で観る世界はきっと今までとは違った在りのままに光り輝く世界を眺められるでしょう。しかし執着から離れられない心境では、思考域でそう考えても潜在識はそう簡単には認識してはくれないのですが、思考で繰り返し心の葬式を済ませてゆくと潜在識も段々とそう認識して来るのです。そしてやがては潜在識の意識が本能域にも伝わってゆき「智慧」を生じ真理は顕現する。

何故、人は臨終に際し思い悩み苦しむのかと問えば.それは存在している. 存在していたい(生きていたい)と錯覚して.思い悩み苦しむのです。

世間でも「死んだ気になって・・・・・」と言いますが、そんな気には中々なれるものではありません。

だって心のお葬式が済んでいない上に.心に引導を渡してもいないのですから、潜在意識からの「もっと生きていたい」という衝動が意識を混乱させるだけなのです。しかし表面意識(感情ではなく理性・客観的な理解能力)で思いを定めてゆくと潜在識が理性(客観的な理解能力)からの判断を優先してゆくものなのです。

応用法として災いを転じて福と為すのは「智慧」であり、災害・事故・病気・・・災いに罹災されたときに「死んだ」と思い定めれば何を失なおうが何が壊れようが「生命が残った」という福に勝る福などない事に気付くだろう。

●臨終シュミレーション

引導を渡された最期をシュミレーションして見ると自分は大切な時間を如何に無駄に浪費したかとか、自分は本当は何をして過ごしたかったかとかが見えてくるだろう、未だ間に合うならば悔いが残らない生き方へと軌道修正して、限りある人生の一時一時、瞬間瞬間を奥深く味わう境地を得るは、覚りであり死随感(死生観)である。

死随感を得て生きる者には、きっと善い来世が訪れるもの。

 

今の世では、多くの衆生があの世など無いと宣うが、いったい誰があの世が無いと証明したるや。

そして自分の生きた価値観を認識する時、それは自分の葬式を仏壇から眺め友人やら知人やらの弔事を受ける場面を思い描く時、自分が何と表現されるかの中に在るのではないだろうか。

旅立つ身には最早脱ぎ捨ててゆく 「所有の次元」の事物(財力・地位・名誉・権威・勢力・・・)などを誉められ讃えられても嬉しくはないのではなかろうか(弔事で貶される事はなかろうし)、そこでは「存在の次元」としての人間性や人柄や行いなどを偲んでもらえたら本望なのではなかろうか。

もし生まれ変わるというこ事があるならば「きっと良い処へ逝き、きっと良い処に生まれ変わる事が叶うだろう。」と、そう思えるような生き方こそが自分の質(クオリティ)を高めてゆける道なのではないでしょうか。