乞食坊主と物乞いシッダ―ルタ

釈迦尊という方がどう生活なされたのかを正しく認識して頂く為には先ず仏教というものを依り正しく認識して頂かなくてはならないと思う。まず大乗は紀元前・後期より、馬鳴(アシュバ・ゴーシャ)等が中心となり「大乗起生論」を軸に成立させ、後に龍樹(ナーガルジュナ)が体系化させたものであり、仏教部派の大衆部とは実は全くの別物であり大乗がいう処の系統と連綿性とは至って怪しくもある。大乗が現れた時代は釈迦尊入滅から4・5百年の時が経過していて、既に釈迦尊が実在の人物ではなく空想上の人物であったが如き風潮さえあり神格化され偶像化されていった時代でもあったのです。そんな釈迦尊の権威と名声とに肖り利用しようと、如是我聞(私は釈迦尊より此のように聞いた)と文頭に付ければ仏教経典として通用した時代でもあり良作・愚作・駄作が幾千幾万と作製されそれらを用いた新興宗教として成立したものが多く、大乗もそれらの内のものが多く、中にはそれら新興宗教の信者たちが作製した超有名な経典まである。(大乗経典の中には多くの仏教経典と言い難い箇所が在る。)という事実を踏まえ
真の仏道修行を歩まんとすれば、釈迦尊の歩まれた聖道跡を歩む事こそが真の仏道なのではなかろうか。
仏教経典から釈迦尊の教え(仏典)を学び、釈迦尊の歩まれた聖道跡を追い、釈迦尊の教え「経蔵」「律蔵」の修習と「瞑想(内観)」と「托鉢」が欠かせない仏道修行なのである。かといって釈迦尊在世当時の姿形に近いとはいえ部派仏教(上座部)各派も第六蓋に縛られ論蔵を参考と観ず経典の如く捉え、正統とはとても言い難い処がある。
仏教とは釈迦尊の説かれた経典を頼りに、自分の中に具する能力を頼りに(自燈明)、大宇宙(現象世界)の真理を頼りに(法燈明)修行するものであり、釈迦尊の未来を見通され遺された言葉なのではなかろうか。
「自らの進歩向上の妨げとなる蓋いを取り除き、忘筌に陥り理論に奔り、理解に努めない者は完成へ至ることはない。唯、他人の牛を数えているようなものである。」如来品大師
「我らは、剃髪し粗衣を身につけ托鉢で暮らしている。
このような貧しい生活を送るのは、生活苦や他に当てがない訳ではない。
我らの心身を蝕む苦悩や煩悩から解脱し、自由に為るためであり智慧による真理を覚り衆生に功徳を施さん為に此のような生活を送るのである。
とこしえの平安を得るために、とこしえの平安を伝えるために修行するのである。成功や名声のためでも、人の上に立つためでもなく、真理を覚り衆生に慈悲を施すために此のような生活が欠かせないのである。」
僧侶は比丘(ビクー)とも呼ばれるが、これは乞食の意味でもあり「忍耐と堪忍」とを養い「所有の次元から存在の次元へと転換する」ために比丘修行には欠かせないものが「托鉢」であり釈迦尊の御教えの実践的修行法そのものなのである。今日では釈迦尊を神格化する余りに語られないのだが、釈迦尊ご自身が成道後も托鉢(門付け・連行・辻立ち・遊行など)なされ涅槃経に描かれるように遊行の途上で入滅されてもいるし教団が繁栄してゆく過程においても弟子達に説話をなされるか瞑想(内観)をなされるか休息なされている時いがいは托鉢行をなされていた。(ジャイナ教の経典にある記録にも「仏教の精舎」に何時伺っても釈迦尊は不在であり舎利子(シャリプトラ)と摩訶迦葉マハーカッサパ)が尊師なのかと認識していたようである。) 釈迦尊もまた「托鉢行」の中に布施(施与の功徳)、自戒、忍辱、精進、禅定と智慧をもたらし「真理」「解脱」「大悟」へ至るための全てを皆具足した修行方法であることを見出されていらっしゃたのです。忍辱に於いては釈迦尊ご自身も心無い者達から「物乞いシッダ-ルタ」などと嘲られたりしたそうです。そんな時「良い修行である。ありがとう。」と意にも返されなかったのでしょう。
釈迦尊は弟子や信者が増えても、鉢を持ち市中へと托鉢されたようで今日、主流の如く行われているような連行はなさらなかったようです。
遊行時には弟子の一人か二人を伴い遊行(行脚)されて居られ、涅槃経(マハパリ 二ルバーナスッタンダ)に語られるアーナンダを伴っての遊行の途上での入滅が托鉢行と遊行(旅)とが日常であった事を物語って居るのではないでしょうか。
現在、托鉢で生活する僧侶が減り「存在の次元」へと向かう僧侶が減りました。「所有の次元」で悠々自適に安易に暮らす道は僧侶の道ではありません。
托鉢で生活する者の中には偽者も確かに紛れ込んでいるのでしょうがその者達は聖なる道も覚らずに法喰を食むこともない哀れな者なのです。うしかし真に聖なる僧侶も乞食坊主の中に居るのです。大寺院を構え金襴な法衣を纏い奥の院で踏んぞ反り返って言行が一致しない能書きを垂れ空理空論を説いている者の中には聖者も高僧もいないのです。
釈迦尊の聖なる道の跡(聖道跡)を歩むことこそが真の修行者の仏道なのであり各派が行う1、2年間の研修は修行ではなく見習い修行にしか過ぎないのです。、僧侶とは修行の道に在るのが僧侶なのであり、在家社会の「所有の次元」を離れ出家者の「存在の次元」へと向かうのが僧侶なので聖道跡を歩まんとするは瞑想三昧も道ではなく、読経三昧も道ではなく、法要三昧も仏道ではないのです。三学の「戒律・禅定・智慧」もまた托鉢の中にあり、身をもっての説法も托鉢にあり、仏法が衆生の中にあるは托鉢に在るのではないでしょうか。
釈迦尊は仰った。
托鉢とは心を洗ってもらうための水桶である。
施与とは水を必要としない心の沐浴である。
乏しき中から分かち与える者は、法を実践することになるだろう。
百千の供犠をなす者の百千の供犠も、そのような施与を為す者の功徳の百分の一にも値しない。
施与するものには功徳が増し、果報が在る。この世の富は捨離してゆく物施与したる善行という財を持ちてゆくもの。賢者は福業を行ぜよかし。
それは死後にも伴ないゆく財宝なりせば。
「戸外経」
我らは住戸の外に、又は街の四辻に立ち、或いは各自の家にゆきて戸口に立つ。
托鉢によって自分の得たものを軽んじてはならない。
施しを得たのはよかった、得なかったのもよかったと思いなさい。
例え得たものが少なくとも修行者が軽んじる事なければ、怠る事なく、清く生きる修行者を神仏も賞賛する。
媚びる事なく、世間話をする事なく、当然として、平然に施与を受けよ。
策して施与を求めるな、人々と親しく交わるな、荒々しい言葉を以って敵対的に応えるな。
自ら知って己を制し、自ら知って多くを語らず、これ聖者の行なり。
罵られたとしても、敬礼されたとしても平然とした態度で臨め。
仏道を皆具したる修行は托鉢行と内観なり」 
釈迦尊は仰った。
「俗世の利得を目指すのも一つの道、涅槃を目指すのも一つの道。
だが如来を師とする仏弟子たちよ、汝らは俗世の利得を貪ってはならぬ。
貪欲のその道から遠去かれ。
寿命が永かろうと短かろうと我々は今、この時を生きるしかないのだ。
世界が如何に広大であろうと今、立っているこの場所に立つしかない。
世の中に幾筋の道があろうと目の前に延びるこの道を行くしかない。
過去、現在、未来を同時に生きる事も、此処と其処に同時に立つ事も出来ないのだから、ならば我々は一つしかない身体でどうして二つの道が歩めるだろう。ましてこの二つの道が向かう先は「正反対」なのだから。」
ひとつは「所有の次元への道」、「もうひとつは「存在の次元への道」